福島城を築いた堀秀治 Hideharu Hori built Fukushima Castle 上越市



🔗越後福島騒動と堀家改易 🔗福島城 🔗上杉遺民一揆

☆ 堀 秀治 ☆

堀 秀治(ほり ひではる、天正4年(1576年) ~ 慶長11年5月26日(1606年7月1日))は北ノ庄城主(※地図)堀秀政天文22年(1553)- 天正18年5月27日(1590年6月28日)斎藤道三の家臣である堀秀重の長男として美濃国厚見郡茜部で生まれる。豊臣秀吉の家臣として天正13年(1585)越前国北ノ庄に18万石を与えられた。の嫡男。
堀氏は美濃の小領主の出。父秀政の代に信長、秀吉に仕え、戦功により北庄18万石を与えられた。
1590年(天正18)、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父が37歳で、陣中で病死してしまう。この時秀治は14歳であり、秀吉によって領地を召し上げられそうになるが、家老直政の進言によって、祖父の堀秀重天文元年(1532)- 慶長11年11月28日(1606年12月27日)秀政の父。はじめ斎藤道三、次いで織田信長に仕える。を後見役として家督を継ぐこととなった。しかし父と違って、あまり才覚に秀でた人物では なかったという。越前国東郷郡の領主長谷川秀一の一人娘を妻とする。
1592年(天正20)、文禄の役では肥前国名護屋城(※地図 ※ストリートビュー)に参陣する。1593年(文禄2)には伏見城工事に貢献した。これらの功績から、豊臣秀吉の死の直前の1598年(慶長3)、越前国北庄18万石か ら越後国春日山30万石(与力大名分を除く直轄領)へ加増移封された。

慶長3年(1598)3月、上杉景勝が会津へ移り、代わって越前北庄城(福井市)から30万石の大名として春日山城に入った。秀吉は江戸城の徳川家康をけん制するため、信頼の置ける秀治を越後に封じたのである。 秀治は春日山城に入ると、配下の与力大名・一門・重臣を国内の諸城に配置して領内を 固めた。村上城に村上頼勝、新発田城に溝口秀勝、三条城に家老の堀直政、蔵王堂城(長岡)に弟の堀親長、渡部城(分水)に柴田勝全、栃尾城に神子田政友、下倉山城(堀之内)に小倉政熈、坂戸城(六日町)に直政の子堀直竒、根知城(糸魚川)に堀左門助を配した。

越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が年貢米を全て持ち去ったので返還を求めたが、上杉氏はこれを拒否した。大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく事が秀吉の命であった。直江兼続と石田三成の謀議があったといわれる。堀家はやむなく、佐渡の上杉家代官河村彦右衛門上杉家が佐渡を平定した際、宰相直江兼続の配下で与板衆の河村彦左衛門尉吉久を代官として派遣したから2千俵の米を借りた。兼続は借米証を入手して、秀吉の死後さかんに返済を督促したという。

秀治は執政堀直政に命じ、春日山城の矢倉や堀の普請をした。その時の遺構として、城下の大豆から中屋敷に掛け「監物堀 」「監物土居」と呼ばれる堀が現在も残っている。
また秀治は慶長4年(1599)2月21日、越後一の宮居多神社に社領13石を寄進した。居多神社は天正6年(1578)御館の乱の際 、上杉景虎に味方したため、神官の花ヶ前盛貞・家盛父子は能登・越中へ逃亡していたが、景勝の会津移封で、晴れて帰国したのである。

1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いが起こると、家康は秀治に対して「津川口から会津へ攻め入るべし」との書状を送った。一方、石田三成からも西軍に参戦し秀吉公のご恩に報いるようにとの書状が届いていた。堀家では談合の結果、執政直政の考えで東軍に組することに決した。しかし、直江兼続の謀略で発生した上杉景勝旧臣の一揆(上杉遺民一揆)鎮圧のため、国境を越えて会津へ攻め入る事は出来なかった。しかし一揆勢を鎮圧したことで、徳川家康から功績を認められ、堀家は所領を安堵された。
秀治は直江兼続に年貢を持ち出されて財政が困窮していたため、財政強化のために堀検地を実施して厳しい年貢の取り立てを行ったため、領民に不満が高まり、一揆勢に参加する者が増えたといわれる。 また一揆勢に僧侶が含まれていたのは、国内の真言宗弾圧を強めた結果と言われている。

一揆を鎮圧した秀治は、交通の要衝であった今町に福島城(上越市港町)の築城をはじめた。鉄砲の使用により山城の優位性が失われ、国政の中心としての適地に大規模な城郭をつくる必要が生じたからである。
築城が始められたのは、慶長5年(1600)以降まもなくであろうとされる。城の完成しな い慶長11年(1606)5月26日、31歳の若さで春日山城で没した。秀治のあとは嫡男の忠俊(当時10歳)が継いだ。
この年、後見役を勤めた祖父の秀重も亡くなっている。また、秀治は慶長3年(1598)、越後に移封された際、父秀政の墓を春日山城の山麓にある林泉寺に移している。林泉寺には秀治(※ストリートビュー)だけでなく祖父秀重(※ストリートビュー)、父秀政(※ストリートビュー)と堀家3代の墓がある。




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越後福島騒動と堀家改易

慶長11年(1606)、秀治が31歳で死去し、11歳の嫡男忠俊が家督を相続することとなった。藩政は家老の堀直政(三条藩主)が幼君忠俊を補佐しておこなった。家老堀直政は徳川家と縁戚を結び堀家の存続を図ろうと家康に願い出た。家康は姫路城主本多忠政の娘国姫を徳川秀忠の養女とし、忠俊に嫁がせた。また忠俊の名は秀忠から偏諱を受けたものである。
慶長12年(1607)、忠俊は春日山城を廃して福島城に移り、福島藩の2代目藩主となった。
しかし堀家3代にわたって忠勤を尽くした直政は慶長13年(1608)2月に死亡する。

その後、嫡男の堀直清が執政として幼君忠俊を補佐することとなった。しかし、兄直清の藩政を牛耳じる手法に危機感を持った直竒とが争う形となった。
直竒は小さいころから豊臣秀吉の小姓となるなど、執政者の振る舞いについて、間近に見てきており、徳川家内にも知己が多かった。一方の直清は他国の情勢に疎く、内向きな藩政となり、専横な権力の行使が目立った。
直清は浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせ、敗れた浄土宗の僧侶10名を処刑したため、浄土宗門徒が直清のやり方を非難して一揆を起こしかねない状況となった。
慶長15年(1610)に入ると、2人の対立は決定的となり、直竒は越後から追放されたのち、駿府の徳川家康に対して直清の専横と横暴を訴え出た。
慶長15年(1610)閏2月2日、駿府城本丸に徳川秀忠をはじめとする幕府首脳陣が陪席する中で家康は、堀一族の忠俊、そして直清、直竒、親族の利重らを召集して論戦を行なわせた。
家康の菩提寺が浄土宗であったことから、直清が浄土宗の僧侶を斬ったことも問題視された。
このとき、忠俊は直清をかばうような弁明書を家康に差し出しこれが逆に家康の怒りを買ったという。

外様大名排除の一環として、越後から豊臣恩顧の堀家を除こうと考えていた家康に、堀家除封の口実を与えてしまった。家康は「家中取締不十分」とし、忠俊から所領を没収し、越後堀家30万石は改易となった。与力大名として越前から従ってきた村上義明(9万石)と溝口秀勝(6万1000石)は上杉移民一揆の際の功績などから存続が許された。

≪関連人物のその後≫

🔹堀直政
天文16年(1547)- 慶長13年2月26日(1608年4月11日)
堀秀政の死後、子の秀治が跡継ぎにはまだ早すぎると判断した豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った直政は次男の直竒を秀吉に使いに出し、訴えたため、秀吉は秀治の襲封を許した。越後に移封された後は、幼少の秀治を支え越後の支配を行った。
秀吉によって、直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)とともに天下の三陪臣の一人として挙げられている。

🔹堀忠俊
慶長元(1596年)- 元和7年2月2日(1622年12月22日)
改易後は陸奥磐城平藩主鳥居忠政へ預けられる。26歳で没する。墓所は福島県いわき市平字胡摩沢の曹洞宗淵室山長源寺。

🔹堀親良
天正8年(1580)- 寛永14年5月13日(1637年7月5日)
慶長7年(1602)頃、執政堀直政と対立し、病と称し京都伏見にあった亡父の屋敷に隠遁した。このとき、家督を養嗣子の鶴千代に譲っている。
その後、徳川秀忠の家臣となり大坂の陣で活躍し、寛永4年(1627)下野国烏山に2万5,000石を拝領した。堀氏烏山藩初代藩主となる。

🔹堀鶴千代
慶長3年(1598)? - 慶長11年(1606)
慶長11年(1606)に9歳で夭折し、領地は堀直竒の坂戸藩に編入されていた。

🔹堀直清
天正元年(1573)- 寛永18年9月29日(1641年11月2日)
所領没収、出羽山形藩最上義光のもとへ配流となった。

🔹堀直竒
天正5年(1577)- 寛永16年6月29日(1639年7月29日)
直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、その後越後蔵王堂城主、村上城主となる。

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☆ 福島城 ☆

上越市港町2丁目の上越市立古城小学校付近が本丸跡と考えられている。北は日本海、東は当時の保倉川、南には堀(現在の保倉川)、西は関川をはさんで中世以来の都市府中と向き合う場所に立地し、当時の築城形式を示す典型的な大城郭であった。
福島城跡は昭和42年(1967)から部分的に発掘調査が行われ、全体像や建造物については判明していないが、わずかに、本丸跡東南隅土塁と隅櫓礎石、土塁の腰巻石が出土している。

上杉遺民一揆を鎮圧した秀治は、福島築城(上越市港町)をはじめた。鉄砲の使用により山城の機能が失われ、国政の中心 としての適地に大規模な城郭をつくる必要が生じたからである。
築城が始められたのは、慶長5年(1600)以降まもなくであろうとされる。秀治は城の完成しな い慶長11年(1606)5月26日、31歳の若さで春日山城で没した。跡を継いだ堀忠俊の代に城は完成し、慶長12年(1607)に春日山城を廃して福島城へ移った。

慶長15年(1610)堀忠俊の改易後に越後の領地を継承した松平忠輝が福島城主となると、忠輝は慶長19年(1614)、関川を遡った内陸部に高田城を築城。これにより福島城は廃城となった。
福島城はわずか7年間で、その生命を終えた。現在は、本丸の一郭にあたる古城小学校内に資料室があるほか、石碑と福島城史跡保存会による説明看板が設置されている。

≪現地案内看板≫
福島城の沿革

福島城は、慶長十二年(一六〇七)に完成され、同十九年に廃城となった。
わずか七年間の存在でしかなかったが、室町時代から江戸時代に移る当時の築城形式をしめす典型的な大城郭である。その間に城主は堀忠俊・松平忠輝の二台にわたったが、いずれも一国一城の越後太守であった。
慶長八年、徳川家康が江戸幕府を開いてから、天下の諸城は春日山城のような山城の必要がなくなり、堀氏も福島城へ移ったのである。
慶長十五年、堀氏が改易となり、徳川家康がわが子、松平忠輝を信用、川中島から七十五万石の福島城主とした。しかし、忠輝も四年後、福島城を廃し高田へ新城を築いて移ってしまった。城を移した理由は明らかでないが、毎年、雨期になれば関川・保倉川が氾濫するからだというまことに短命な城であったが、図によって日本海、関川・保倉川の二河の地理を考えたその規模の大きさを、かつての野面積の石を用いた左の碑壇の石垣を見ることによって、豪壮な城であったことを知ってほしい。

〈昭和五十四年再建 福島城史跡保存会〉

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上杉遺民一揆

1598年(慶長3)堀秀治は越後に入封すると、即座に領内総検地を実施し、作物にこれまでよりりも多くの年貢をかけ、また上杉時代は無税であった商品作物などにも課税を行い、農民に不満を与えた。しかしこれは上杉氏が会津国替えにあたり、当年の年貢米を全部持参したため、新領主の堀氏の財政には大きな打撃となっていたのである。豊臣秀吉の定めた領地替えの規定では、新領主のために年貢は半分残さねばならなかったが、直江兼続はこれを無視した。石田三成との間で、内々の了解がなされれていたともいわれる。結果、堀氏の領民に対する年貢徴集が厳しいものとなっていたのである。

1600年(慶長5)関が原の合戦に先行し、徳川家康は上杉討伐の兵を挙げ会津に向かった。
6月2日に上杉討伐の出陣を命じられた諸大名の内、越後の津川口から会津へ侵攻する担当とされたのは、加賀の前田利長、越後の堀秀治と堀家の与力大名である溝口秀勝・村上義明らであった。こうして堀・上杉両軍は対立するに至った。
会津の知将直江兼続は、これに対し堀氏の統治に不満を持つ地侍や土着の豪族を誘って各地で一揆をおこさせ、軍事行動を行うことで妨害を行うこととした。
越後には当時、会津転封に従わずに越後に残留した、在地武士(国人)や独立的な諸勢力が多く残っており、新しく入った堀・溝口・村上らはそれら在地勢力の扱いには悩まされてきた。

(下倉山城の戦い)

8月1日、会津上杉氏は越後に侵入し、上杉遺民一揆を扇動する。この中でも一番熾烈を極めたのが下倉の戦いであった。
下倉山城※地図は春日山の堀秀治の家臣小倉政煕が城代として入城し8000石を領していた。
一揆勢7000人によって城は包囲され、城将小倉政熙は討って出たが、討ち死にし、城は一揆勢の手に落ちた。この時、長岡高山城堀秀治が越後に入封した際、堀将監が居城とした(※地図 ※ストリートビュー)から救援のため駆け付けた堀将監が討ち死にしている。
堀直竒は坂戸城から援軍に駆けつけ、8月2日には城を奪還し、逃げる上杉勢を広神金ヶ沢まで追撃し300余りを討ちとっている。

(三条城の戦い)

一揆勢は堀直政の居城三条城(嫡男の堀直清が守備)を取り囲み、8月4日に三条城は一揆勢の攻撃を受ける。しかし、城代堀直清によって一揆勢は一旦撃退される。加茂山に砦※地図を構え、上杉軍3000余人、一揆勢8000人が、9月8日、大崎(現三条市)※地図 へ出陣するが、直清は三条城より討って出て、新発田城城主溝口秀勝の来援を得て危機を脱した。一揆勢3000人余が新発田方面に向かうと、溝口秀勝は法正橋付近(現新発田市)※地図で一揆勢を迎撃し激戦となったが戦勝した。敗退した一揆軍は津川城まで撤退した。

その後も魚沼地方、小千谷、柿崎など、越後各所で一揆勢は戦闘を繰り返した。一揆勢は新規に砦を構築したり、古城を修築して拠るなどした。一揆勢の活動は、主導する総大将的な存在も不確かなものであり、どうしても散発的なものになりがちであったため、これらは個別に追討されていった。小千谷では薭生城※地図に五智院の僧、海龍が遺民3800人の首領となって立籠もったとが、これも追討された。
五泉では橋田、丸田氏などの豪族が一揆勢に加わり決起したといわれている。護摩堂山城に立て籠って戦ったが敗れて追われ、その後菩提寺山の修験場「法華寺」に移って戦ったが、この地で討たれ法華寺も焼き払われたという。

9月8日、蔵王堂城主堀親良は下田に向かい、首300余りを獲えた。同日、堀直竒は父の堀直政、兄の堀直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直竒は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。

(一揆鎮圧後)

戦いは両軍互角の状況であったが関ヶ原における徳川方の大勝とともに、上杉軍は越後から引き揚げて、平成に帰した。越後では堀家を中心とした残党の掃討戦が行われ、一揆は自然消滅していった。
この一揆を機会に、武器を持った農村内部の土豪勢力が滅び、越後における兵農分離が進展し、統治がし易くなることとなった意義は大きい。

また、堀直竒や溝口秀勝はこの働きに対して戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。これによって、豊臣恩顧の外様大名である溝口家は、徳川家康によって領地を安堵され、存続がその後も許される事となった。また堀直竒は主家がお家断絶した後も、大名として生き残ることが約束された。

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