福島城を築いた堀秀治 上越市



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☆ 福島城を築いた堀秀治 ☆
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慶長3年(1598)3月、上杉景勝が会津へ移り、代わって豊臣秀吉の功臣堀秀治が 越前北庄城(福井市)から45万石の大名として春日山城に入った。秀吉は江戸城の 徳川家康をけん制するため、信頼の置ける秀治を越後に封じたのである。 秀治は春日山城に入ると、配下の与力大名・一門・重臣を国内の諸城に配置して領内を 固めた。村上城に村上頼勝、新発田城に溝口秀勝、三条城に家老の堀直政、蔵王堂城(長岡)に弟の堀親長、渡部城(分水)に柴田勝全、栃尾城に神子田政友、下倉山城(堀之内)に小倉政熈、坂戸城(六日町)に直政の子堀直竒、根知城(糸魚川)に堀左門助を配した。
秀治は堀監物直政に命じ、春日山城を補強した。城下の大豆から中屋敷に掛け「監物堀 」「監物土居」と呼ばれる堀が残っている。また秀治は慶長4年2月21日、越後一の 宮居多神社に社領13万石を寄進した。居多神社は天正6年(1578)御館の乱の際 、上杉影虎に味方したため、能登・越中へ逃亡していたが、景勝の会津移封で、はれて 帰国したのである。
慶長5年5月、上杉景勝が豊臣方の石田三成と連携して、徳川家康方となった秀治を討 つため越後に侵攻してきた。
関が原の合戦の前哨戦とも言われる、上杉遺民一揆である。これを鎮圧した秀治は、福島築城(上越市港町)をはじめた。鉄砲の使用により山城の機能が失われ、国政の中心 としての適地に大規模な城郭をつくる必要が生じたからである。ところが城の完成しな い慶長11年5月26日、31歳の若さで春日山城で没した。墓は林泉寺にある。父秀政、祖父秀重の墓もある。翌年嗣子忠俊が福島城に入った。
堀家が福島築城および越後支配に難渋していたころ、中央では徳川家康と豊臣家の反目 が激しさを増していた。
家康はすでに慶長8年、征夷大将軍に任じられて、江戸幕府を開いていた。しかし大阪 城では秀吉の子秀頼が健在で、不穏な空気が漂っていた。かつての豊臣家の功臣堀家は 、関が原の合戦で徳川方に味方したとはいえ、徳川政権樹立上、障害となる。家康は、 機 会があれば堀家を廃絶しようと考えていた。そのうえ、加賀の前田家、出羽の上杉家を けん制するためにも、越後を徳川一族で固めておく必要があった。
慶長15年(1610年)2月2日、家康は「忠俊は幼年で大国を支配する器量がない」として、福島城を没収し、忠俊を磐城の平城主鳥居忠政に預けた。代わりに六男松平忠輝を福島城 に入れた。忠輝が慶長19年、高田城に移ったため、福島城はわずか7年間で、その生 命を終えた。現在は、本丸の一郭にあたる古城小学校内に資料室があるほか、石碑と福島城史跡保存会による説明看板が設置されている。

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☆ 堀 秀治 ☆
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堀 秀治(ほり ひではる、天正4年(1576年) ~ 慶長11年5月26日(1 606年7月1日))は堀秀政の嫡男。
堀氏は美濃の小領主の出。父の代に信長、秀吉に仕え、戦功により北庄18万石を与えられた。
1590年、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父がそのときに陣中にて病死 したため、家督を継ぐこととなった。しかし父と違って、あまり才覚に秀でた人物では なかったという。
1592年、文禄の役では肥前国名護屋城に参陣する。1593年には伏見城工事に貢 献した。これらの功績から、豊臣秀吉の死の直前の1598年、越前国北庄18万石か ら越後国春日山30万石へ加増移封された。
1600年、関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、越後国内で発生した上杉景勝旧臣の 一揆を鎮圧した。戦後、その功により徳川家康から所領を安堵されたという。
その後、慶長11年(1606年)5月に31歳で死去し、跡を嫡男の忠俊(当時10歳)が継いだ。


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☆ 福島城 ☆
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上越市港町二丁目の上越市立古城小学校付近が本丸跡と考えられている。北は日本海、東は当時の保倉川、南には堀(現在の保倉川)、西は関川をはさんで中世以来の都市府中と向き合う場所に立地し、当時の築城形式を示す典型的な大城郭であった。
福島城跡は昭和42年(1967年)から部分的に発掘調査が行われ、全体像や建造物については判明していないが、わずかに、本丸跡東南隅土塁と隅櫓礎石、土塁の腰巻石が出土している。
築城が始められたのは、慶長5年(1600年)以降まもなくであろうとされる。秀治の死後堀忠俊の代に完成し、慶長12年(1607年)に春日山城を廃して福島城へ移った。
慶長15年(1610年)堀忠俊の改易後に越後の領地を継承した松平忠輝が福島城主となると、忠輝は慶長19年(1614年)、関川を遡った内陸部に高田城を築城。これにより福島城は廃城となった。
古城小学校の校庭には「福島城址」と刻まれた石碑がある。


福島城跡
〔所在地〕新潟県上越市港町2丁目 上越市立古城小学校付近
〔アクセス〕
  • 電車…JR直江津駅から県道488号線 経由 2.2 km 車で8 分

墓所
〔所在地〕林泉寺 新潟県上越市中門前1-1-1


〔交通情報〕

現地案内看板
福島城の沿革

福島城は、慶長十二年(一六〇七)に完成され、同十九年に廃城となった。
わずか七年間の存在でしかなかったが、室町時代から江戸時代に移る当時の築城形式をしめす典型的な大城郭である。その間に城主は堀忠俊・松平忠輝の二台にわたったが、いずれも一国一城の越後太守であった。
慶長八年、徳川家康が江戸幕府を開いてから、天下の諸城は春日山城のような山城の必要がなくなり、堀氏も福島城へ移ったのである。
慶長十五年、堀氏が改易となり、徳川家康がわが子、松平忠輝を信用、川中島から七十五万石の福島城主とした。しかし、忠輝も四年後、福島城を廃し高田へ新城を築いて移ってしまった。城を移した理由は明らかでないが、毎年、雨期になれば関川・保倉川が氾濫するからだというまことに短命な城であったが、図によって日本海、関川・保倉川の二河の地理を考えたその規模の大きさを、かつての野面積の石を用いた左の碑壇の石垣を見ることによって、豪壮な城であったことを知ってほしい。

〈昭和五十四年再建 福島城史跡保存会〉


地図 ストリートビュー(福島城跡)











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情報掲載日:2015年4月25日


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