福島城を築いた堀秀治 Hideharu Hori built Fukushima Castle 上越市
🔗越後福島騒動と堀家改易 🔗福島城 🔗上杉遺民一揆☆ 堀 秀治 ☆天正4年(1576)〔生〕- 慶長11年(1606)5月26日〔没〕堀秀治 ― 春日山城最後の城主と越後支配への挑戦美濃の小領主から大名へ成長した堀氏堀秀治は天正4年(1576)、織田・豊臣政権下で武功を重ねた名将・堀秀政の嫡男として生まれた。堀氏は美濃国出身の武士で、もとは地方の小領主に過ぎなかったが、秀政の代に急速に勢力を伸ばした一族だった。父・秀政は織田信長に仕え、小牧・長久手の戦いや各地の合戦で活躍した。信長没後は豊臣秀吉に従い、九州征伐などでも功績を挙げたことで越前国北ノ庄十八万石を与えられ、一国を支配する大名となった。 秀治はそんな父のもとで武家の嫡男として育てられ、幼い頃から武芸や政務を学んだ。当時の戦国大名の子としては比較的恵まれた環境だったが、その人生は十四歳で大きく変わることになる。 小田原征伐と父秀政の急死天正18年(1590)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして北条氏を討つ小田原征伐を開始した。秀治も父秀政に従って出陣し、初めて本格的な軍陣を経験する。ところが戦陣で父秀政が病に倒れ、三十七歳という若さで死去した。戦場での急死は堀家にとって最大の危機となった。当時の秀治はわずか十四歳であり、豊臣政権では若年の当主に対して領地を没収する例も少なくなかった。そのため北ノ庄十八万石は召し上げられる可能性が高かった。この危機を救ったのが家老・堀直政だった。直政は豊臣秀吉へ働きかけ、祖父・堀秀重を後見役として秀治に家督を継がせるよう願い出た。その結果、堀家は領地を維持し、秀治は若くして一国の主となった。 祖父秀重は経験豊かな武将であり、父の代から堀家を支えてきた人物だった。さらに直政も政務・軍事の両面で補佐にあたり、秀治は二人の支えを受けながら大名として歩み始める。 一方で、後世の記録では秀治は父秀政ほど卓越した才覚を持つ人物ではなかったとも伝えられる。しかし若年で家督を継いだことを考えれば、経験不足は当然だったともいえる。 文禄・慶長の役と豊臣政権への奉仕天正20年(1592)、豊臣秀吉は朝鮮出兵である文禄の役を開始した。秀治は肥前国名護屋城へ参陣し、諸大名とともに出兵体制を支えた。当時の名護屋城は全国の大名が集まる巨大な軍事拠点であり、ここで豊臣政権への忠誠を示すことは極めて重要だった。文禄2年(1593)には伏見城普請にも参加する。伏見城は秀吉晩年の政権中枢となる城であり、その建設は豊臣政権最大級の国家事業だった。秀治も普請奉行の指揮のもとで労役や資材供出を担い、着実に政権への貢献を重ねていった。 この時期、越前国東郷郡領主・長谷川秀一の一人娘を正室に迎え、一族の結びつきも強めている。 越後三十万石への大抜擢上杉景勝に代わる春日山城主慶長3年(1598)、豊臣秀吉は大規模な国替えを実施した。最大の変更は上杉景勝を越後から会津百二十万石へ移封したことである。その後任として選ばれたのが堀秀治だった。越前北ノ庄十八万石から越後春日山三十万石への加増移封は、堀家にとって飛躍的な出世だった。 越後は日本海交通の要衝であり、北陸と関東を結ぶ重要地域だった。さらに東には徳川家康の勢力圏が広がっており、秀吉にとって越後支配は政治的・軍事的に極めて重要だった。秀治が選ばれた背景には、父秀政以来の忠誠と堀家への信頼があったと考えられている。 慶長3年3月、秀治は春日山城へ入城した。 春日山城最後の城主春日山城は上杉謙信以来、日本有数の巨大山城だった。しかし秀治にとって、この城は単なる名城ではなく、新たな統治の拠点でもあった。越後には上杉家時代の家臣や国衆が数多く残っており、新領主への反発も予想された。そこで秀治は配下の与力大名や重臣を各地へ配置して支配体制を固めた。 主な配置は以下の通りだった。 *村上城 村上頼勝 *新発田城 溝口秀勝 *三条城 堀直政 *蔵王堂城 堀親長 *渡部城 柴田勝全 *栃尾城 神子田政友 *下倉山城 小倉政熈 *坂戸城 堀直竒 *根知城 堀左門助 この配置は上杉家旧臣の勢力を抑えつつ、日本海沿岸から山間部まで支配網を築く目的があった。 上杉家との年貢米問題越後支配の開始直後、堀家は深刻な財政問題に直面する。上杉家が会津へ移封される際、領内の年貢米が大量に持ち出されたためだった。豊臣政権では国替えの際、翌年の行政運営に支障が出ないよう一定量の年貢米を残す慣例があったとされる。しかし堀家は十分な引き継ぎを受けられず、財政運営は極めて困難になった。このため佐渡にいた上杉家代官・河村彦右衛門から二千俵の米を借り受けたという。後世には直江兼続と石田三成が関与したとの説も伝わるが、これを裏付ける確実な史料は確認されていない。 それでも、この借米が堀家財政を圧迫したことは事実であり、後の政策にも影響を与えることになる。 春日山城の整備と居多神社への寄進秀治は執政・堀直政に命じて春日山城の防備強化を進めた。矢倉や堀の普請が行われ、その際に築かれたとされる「監物堀」「監物土居」は現在も上越市内に遺構として残っている。また慶長4年(1599)2月21日には越後一宮・居多神社へ十三石の社領を寄進した。居多神社は御館の乱で上杉景虎方についたため神官が国外へ逃れていたが、景勝移封後に帰国を果たした。秀治による寄進は、新領主として宗教勢力との関係を築く意味も持っていた。 関ヶ原前夜の決断慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原合戦が始まる。徳川家康は秀治へ津川口から会津へ攻め込むよう命じた。一方で石田三成からは豊臣家への恩義に報いるよう参戦を求める書状が届く。堀家では重臣による談合が行われた。最終的に執政・堀直政の判断により東軍参加を決断する。これは単なる徳川支持ではなく、堀家存続を優先した現実的判断でもあった。しかし会津攻めは実現しなかった。 上杉遺民一揆との激戦東軍参加を決めた堀家の前に立ちはだかったのが上杉遺民一揆だった。これは景勝移封後も越後へ残った旧臣や国衆らが起こした反乱である。一揆は魚沼・頸城など各地へ広がり、堀家は国内鎮圧に追われた。会津へ兵を進める余裕は完全に失われる。さらに財政難から実施した「堀検地」によって年貢負担が増え、農民の不満も高まった。厳しい徴税が一揆参加者を増やしたともいわれる。 また国内で真言宗への統制強化が進められたことから、一揆勢には僧侶も参加したと伝えられる。激しい戦いの末、堀家は一揆鎮圧に成功した。家康はその功績を認め、三十万石をそのまま安堵した。この結果、堀家は関ヶ原後も越後支配を続けることが許された。 福島城築城と平城への転換一揆鎮圧後、秀治は交通の要衝であった今町に福島城の築城を開始した。鉄砲の普及によって山城である春日山城の不便さが目立つようになり、港や街道を押さえる平城への転換を図ったのである。しかし秀治は慶長11年(1606)、31歳で没し、自ら完成を見ることはなかった。翌慶長12年(1607)、嫡男・堀忠俊の代に福島城は完成し、春日山城から居城が移された。福島城は越後初の本格的な近世平城として機能したが、堀氏改易後に入封した松平忠輝が高田城を築いたため、完成からわずか7年で廃城となった。林泉寺と堀家三代秀治は越後移封の際、父秀政の墓を林泉寺へ移した。林泉寺は上杉謙信ゆかりの寺として知られるが、新たに堀家菩提寺としての役割も担うことになる。後に祖父秀重、秀治自身もここへ葬られ、堀家三代の墓所となった。これは越後に根を下ろす意思を示す象徴的な出来事だった。三十一歳で迎えた最期慶長11年(1606)5月26日、秀治は春日山城で死去した。享年三十一。死因は病死と考えられている。福島城は未完成のままであり、越後統治も道半ばだった。跡を継いだのは十歳の嫡男・堀忠俊だった。同じ年には後見役として堀家を支え続けた祖父秀重も亡くなり、堀家は新たな時代へ入る。堀秀治の人物像と歴史的評価秀治は戦国屈指の名将だった父秀政ほど華々しい武功を残した人物ではない。しかし十四歳で家督を継ぎ、十八万石から三十万石へ加増され、越後支配という極めて難しい任務を担った大名だった。彼が直面した課題はどれも容易ではない。上杉家旧臣への対応、財政難、年貢問題、一揆鎮圧、関ヶ原への対応、新城築城など、短い治世の間に次々と難題へ向き合わなければならなかった。 その統治は必ずしも成功だけではなかった。堀検地による重税は領民の反発を招き、一揆拡大の一因ともなった。一方で春日山城整備や福島城築城、宗教勢力との関係構築など、近世大名として新しい支配体制を築こうとする姿勢も見られる。 関ヶ原では東軍を選択しながら国内鎮圧に専念した判断も、結果として堀家存続につながった。 秀治の死後、堀家は忠俊の代に家中対立を深め、慶長15年(1610)の「堀騒動」によって越後領を失うことになる。結果として秀治が築こうとした越後支配はわずか十二年で幕を閉じた。それでも秀治は春日山城最後の城主として、戦国から近世へ移り変わる激動期に越後を治めた重要人物である。謙信の居城だった春日山城を受け継ぎ、山城から平城への転換を進めたその足跡は、近世越後史における大きな転換点として今も評価されている。
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越後福島騒動と堀家改易慶長11年(1606)、秀治が31歳で死去し、11歳の嫡男忠俊が家督を相続することとなった。藩政は家老の堀直政(三条藩主)が幼君忠俊を補佐しておこなった。家老堀直政は徳川家と縁戚を結び堀家の存続を図ろうと家康に願い出た。家康は姫路城主本多忠政の娘国姫を徳川秀忠の養女とし、忠俊に嫁がせた。また忠俊の名は秀忠から偏諱を受けたものである。慶長12年(1607)、忠俊は春日山城を廃して福島城に移り、福島藩の2代目藩主となった。 しかし堀家3代にわたって忠勤を尽くした直政は慶長13年(1608)2月に死亡する。 その後、嫡男の堀直清が執政として幼君忠俊を補佐することとなった。しかし、兄直清の藩政を牛耳じる手法に危機感を持った直竒とが争う形となった。 直竒は小さいころから豊臣秀吉の小姓となるなど、執政者の振る舞いについて、間近に見てきており、徳川家内にも知己が多かった。一方の直清は他国の情勢に疎く、内向きな藩政となり、専横な権力の行使が目立った。 直清は浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせ、敗れた浄土宗の僧侶10名を処刑したため、浄土宗門徒が直清のやり方を非難して一揆を起こしかねない状況となった。 慶長15年(1610)に入ると、2人の対立は決定的となり、直竒は越後から追放されたのち、駿府の徳川家康に対して直清の専横と横暴を訴え出た。 慶長15年(1610)閏2月2日、駿府城本丸に徳川秀忠をはじめとする幕府首脳陣が陪席する中で家康は、堀一族の忠俊、そして直清、直竒、親族の利重らを召集して論戦を行なわせた。 家康の菩提寺が浄土宗であったことから、直清が浄土宗の僧侶を斬ったことも問題視された。 このとき、忠俊は直清をかばうような弁明書を家康に差し出しこれが逆に家康の怒りを買ったという。 外様大名排除の一環として、越後から豊臣恩顧の堀家を除こうと考えていた家康に、堀家除封の口実を与えてしまった。家康は「家中取締不十分」とし、忠俊から所領を没収し、越後堀家30万石は改易となった。与力大名として越前から従ってきた村上義明(9万石)と溝口秀勝(6万1000石)は上杉移民一揆の際の功績などから存続が許された。 ≪関連人物のその後≫🔹堀直政天文16年(1547)- 慶長13年2月26日(1608年4月11日) 堀秀政の死後、子の秀治が跡継ぎにはまだ早すぎると判断した豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った直政は次男の直竒を秀吉に使いに出し、訴えたため、秀吉は秀治の襲封を許した。越後に移封された後は、幼少の秀治を支え越後の支配を行った。 秀吉によって、直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)とともに天下の三陪臣の一人として挙げられている。 🔹堀忠俊 慶長元(1596年)- 元和7年2月2日(1622年12月22日) 改易後は陸奥磐城平藩主鳥居忠政へ預けられる。26歳で没する。墓所は福島県いわき市平字胡摩沢の曹洞宗淵室山長源寺。 🔹堀親良 天正8年(1580)- 寛永14年5月13日(1637年7月5日) 慶長7年(1602)頃、執政堀直政と対立し、病と称し京都伏見にあった亡父の屋敷に隠遁した。このとき、家督を養嗣子の鶴千代に譲っている。 その後、徳川秀忠の家臣となり大坂の陣で活躍し、寛永4年(1627)下野国烏山に2万5,000石を拝領した。堀氏烏山藩初代藩主となる。 🔹堀鶴千代 慶長3年(1598)? - 慶長11年(1606) 慶長11年(1606)に9歳で夭折し、領地は堀直竒の坂戸藩に編入されていた。 🔹堀直清 天正元年(1573)- 寛永18年9月29日(1641年11月2日) 所領没収、出羽山形藩最上義光のもとへ配流となった。 🔹堀直竒 天正5年(1577)- 寛永16年6月29日(1639年7月29日) 直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、その後越後蔵王堂城主、村上城主となる。 🔙戻る
☆ 福島城 ☆上越市港町2丁目の上越市立古城小学校付近が本丸跡と考えられている。北は日本海、東は当時の保倉川、南には堀(現在の保倉川)、西は関川をはさんで中世以来の都市府中と向き合う場所に立地し、当時の築城形式を示す典型的な大城郭であった。福島城跡は昭和42年(1967)から部分的に発掘調査が行われ、全体像や建造物については判明していないが、わずかに、本丸跡東南隅土塁と隅櫓礎石、土塁の腰巻石が出土している。 上杉遺民一揆を鎮圧した秀治は、福島築城(上越市港町)をはじめた。鉄砲の使用により山城の機能が失われ、国政の中心 としての適地に大規模な城郭をつくる必要が生じたからである。 築城が始められたのは、慶長5年(1600)以降まもなくであろうとされる。秀治は城の完成しな い慶長11年(1606)5月26日、31歳の若さで春日山城で没した。跡を継いだ堀忠俊の代に城は完成し、慶長12年(1607)に春日山城を廃して福島城へ移った。 慶長15年(1610)堀忠俊の改易後に越後の領地を継承した松平忠輝が福島城主となると、忠輝は慶長19年(1614)、関川を遡った内陸部に高田城を築城。これにより福島城は廃城となった。 福島城はわずか7年間で、その生命を終えた。現在は、本丸の一郭にあたる古城小学校内に資料室があるほか、石碑と福島城史跡保存会による説明看板が設置されている。 ≪現地案内看板≫
福島城の沿革福島城は、慶長十二年(一六〇七)に完成され、同十九年に廃城となった。 わずか七年間の存在でしかなかったが、室町時代から江戸時代に移る当時の築城形式をしめす典型的な大城郭である。その間に城主は堀忠俊・松平忠輝の二台にわたったが、いずれも一国一城の越後太守であった。 慶長八年、徳川家康が江戸幕府を開いてから、天下の諸城は春日山城のような山城の必要がなくなり、堀氏も福島城へ移ったのである。 慶長十五年、堀氏が改易となり、徳川家康がわが子、松平忠輝を信用、川中島から七十五万石の福島城主とした。しかし、忠輝も四年後、福島城を廃し高田へ新城を築いて移ってしまった。城を移した理由は明らかでないが、毎年、雨期になれば関川・保倉川が氾濫するからだというまことに短命な城であったが、図によって日本海、関川・保倉川の二河の地理を考えたその規模の大きさを、かつての野面積の石を用いた左の碑壇の石垣を見ることによって、豪壮な城であったことを知ってほしい。 〈昭和五十四年再建 福島城史跡保存会〉 🔙戻る
上杉遺民一揆1598年(慶長3)堀秀治は越後に入封すると、即座に領内総検地を実施し、作物にこれまでよりりも多くの年貢をかけ、また上杉時代は無税であった商品作物などにも課税を行い、農民に不満を与えた。しかしこれは上杉氏が会津国替えにあたり、当年の年貢米を全部持参したため、新領主の堀氏の財政には大きな打撃となっていたのである。豊臣秀吉の定めた領地替えの規定では、新領主のために年貢は半分残さねばならなかったが、直江兼続はこれを無視した。石田三成との間で、内々の了解がなされれていたともいわれる。結果、堀氏の領民に対する年貢徴集が厳しいものとなっていたのである。1600年(慶長5)関が原の合戦に先行し、徳川家康は上杉討伐の兵を挙げ会津に向かった。 6月2日に上杉討伐の出陣を命じられた諸大名の内、越後の津川口から会津へ侵攻する担当とされたのは、加賀の前田利長、越後の堀秀治と堀家の与力大名である溝口秀勝・村上義明らであった。こうして堀・上杉両軍は対立するに至った。 会津の知将直江兼続は、これに対し堀氏の統治に不満を持つ地侍や土着の豪族を誘って各地で一揆をおこさせ、軍事行動を行うことで妨害を行うこととした。 越後には当時、会津転封に従わずに越後に残留した、在地武士(国人)や独立的な諸勢力が多く残っており、新しく入った堀・溝口・村上らはそれら在地勢力の扱いには悩まされてきた。 (下倉山城の戦い)8月1日、会津上杉氏は越後に侵入し、上杉遺民一揆を扇動する。この中でも一番熾烈を極めたのが下倉の戦いであった。下倉山城※GOOGLE 画像は春日山の堀秀治の家臣小倉政煕が城代として入城し8000石を領していた。 一揆勢7000人によって城は包囲され、城将小倉政熙は討って出たが、討ち死にし、城は一揆勢の手に落ちた。この時、長岡高山城堀秀治が越後に入封した際、堀将監が居城とした(※地図 ※ストリートビュー)から救援のため駆け付けた堀将監が討ち死にしている。 堀直竒は坂戸城から援軍に駆けつけ、8月2日には城を奪還し、逃げる上杉勢を広神金ヶ沢まで追撃し300余りを討ちとっている。 (三条城の戦い)一揆勢は堀直政の居城三条城(嫡男の堀直清が守備)を取り囲み、8月4日に三条城は一揆勢の攻撃を受ける。しかし、城代堀直清によって一揆勢は一旦撃退される。加茂山に砦※地図を構え、上杉軍3000余人、一揆勢8000人が、9月8日、大崎(現三条市)※地図 へ出陣するが、直清は三条城より討って出て、新発田城城主溝口秀勝の来援を得て危機を脱した。一揆勢3000人余が新発田方面に向かうと、溝口秀勝は法正橋付近(現新発田市)※地図で一揆勢を迎撃し激戦となったが戦勝した。敗退した一揆軍は津川城まで撤退した。その後も魚沼地方、小千谷、柿崎など、越後各所で一揆勢は戦闘を繰り返した。一揆勢は新規に砦を構築したり、古城を修築して拠るなどした。一揆勢の活動は、主導する総大将的な存在も不確かなものであり、どうしても散発的なものになりがちであったため、これらは個別に追討されていった。小千谷では薭生城※地図に五智院の僧、海龍が遺民3800人の首領となって立籠もったとが、これも追討された。 五泉では橋田、丸田氏などの豪族が一揆勢に加わり決起したといわれている。護摩堂山城に立て籠って戦ったが敗れて追われ、その後菩提寺山の修験場「法華寺」に移って戦ったが、この地で討たれ法華寺も焼き払われたという。 9月8日、蔵王堂城主堀親良は下田に向かい、首300余りを獲えた。同日、堀直竒は父の堀直政、兄の堀直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直竒は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。 (一揆鎮圧後)戦いは両軍互角の状況であったが関ヶ原における徳川方の大勝とともに、上杉軍は越後から引き揚げて、平成に帰した。越後では堀家を中心とした残党の掃討戦が行われ、一揆は自然消滅していった。この一揆を機会に、武器を持った農村内部の土豪勢力が滅び、越後における兵農分離が進展し、統治がし易くなることとなった意義は大きい。 また、堀直竒や溝口秀勝はこの働きに対して戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。これによって、豊臣恩顧の外様大名である溝口家は、徳川家康によって領地を安堵され、存続がその後も許される事となった。また堀直竒は主家がお家断絶した後も、大名として生き残ることが約束された。 🔙戻る
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福島城跡
林泉寺
春日山城跡 
福島城の沿革