村上城跡 Murakami Castle Ruins 村上市



鳥居三十郎と戊辰戦争 村上頼勝 村上藩の戊辰戦争

【本庄氏時代】

村上城は舞鶴城ともよばれ、標高135mの臥牛(がぎゅう)山山頂に築かれた。山容が牛の臥した姿に似ているところから命名されたといわれるが、土地の人は「お城山」と呼び親しんでいる。
秩父氏は源頼朝の治世の時代には、武蔵国秩父庄を統治した有力御家人であり、秩父行長は小泉荘の地頭職に任じられた。頼朝死後、北条氏の権勢が強まり、有力御家人が次々と排除される中、秩父氏は中央を離れ小泉荘本庄に土着した。以後地名をとって本庄氏と名乗る。
臥牛山に堅城を築城したのは、繁長の父房長の時代で、明応年間(1492年から1501)といわれる。
本庄氏はこの越後北部で掲北国人衆として勢力を拡大し、本庄繁長は上杉謙信に仕えて鬼神とまで称された勇将であった。弘治4年(1558)の川中島合戦、永禄9年(1566)の関東出陣に戦功があった。
永禄11年(1568)、謙信の命で高城城の長尾藤景を謀殺したが、その報償に不満をもち、武田信玄と諮って反旗をひるがえし、永禄11年(1568)4月反乱の兵を挙げ、堅城本庄城に篭城した。11月謙信自ら出陣したが、謙信に攻められても堅固な城は容易に落ちなかった。繁長が下るまで1年間を要し、永禄12年(1569)3月蘆名盛氏の仲介により降伏し帰参を許された。
天正6年(1578)に発生した御館の乱では景勝方について戦ったが、天正18年(1590)に発生した出羽一揆を扇動し豊臣政権に背いたと疑われ追放となり、本庄城は上杉景勝直轄の城となる。景勝直轄領時代には春日右衛門尉在番の城として「村上要害(ようがい)」といわれ、その偉容を誇った。本庄繁長はその後、文禄の役に参陣して赦免され、1万石を与えられて上杉家に帰参した。慶長3年(1598)、景勝が会津に転封されると、田村郡守山城代に任じられた。

【江戸時代】

村上氏 外様 9万石

慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、村上頼勝が加州小松から入府するとその居城となった。この時本荘から村上に地名が改められたといわれる。
上杉時代は主として山体に依存する山城的性格が強く、山麓には家臣団を中心とする根小屋集落があった。頼勝は先代の根小屋集落を中心に城郭を拡張し、堀を二重三重に掘り、平山城に改造した。
元和4年(1618)2代目忠勝が、家中の論争が多いとの理由で改易された。

堀氏 外様 10万石

元和4年(1618)、堀直竒が入府すると、城の積極的改修を行い、山上の本丸の地形の整備、石崖ならし、山上の本丸の天主や山下の二の丸の多聞櫓の作事、石垣や惣堀の構築を大幅に進めた。築城に使った石は海府柏尾山(※地図 ※ストリートビュー)より掘り出したもので、日本海・三面川を運んで山上に引き揚げた。今もその跡が残っているが、直竒は毎日その場に出かけて激励したといわれる。またこの築城の為に高根金山・沼金山・葡萄鉛山・早川銀山の開発に力を入れたという。
寛永19年(1642)3月22日、第3代目堀直定が7歳で死去した。嗣子がいるはずもなく、村上藩堀家は断絶した。(☛ 堀直竒)


この後、村上藩は一時幕府領となる。正保元年(1644)より享保5年(1720)までの76年間に、本多忠義・松平直矩・榊原・本多・松平・間部と六家が次々と交代していった。しかもこの交代が姫路との間にしばしば行われている。姫路藩主が幼君では豊臣系大名の多い関西での負担に耐えかねると幕府が考えたものといわれる。


本多氏 譜代 10万石

正保元年(1644)3月8日、本多忠勝の孫本多忠義が遠江掛川藩7万石から加増の上移封。
慶安2年(1649)6月9日、陸奥白河藩12万石へ加増移封された。

松平氏 譜代 15万石

松平大和守直矩は慶安元年(1648)8月17日、5歳で姫路藩の家督を相続したが、姫路は幕府にとって西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年(1649)6月9日に越後国村上藩に国替となる。
直矩の時代(慶安2年ー寛文7)の寛文元年(1661)から同5年にかけて、知行15万石にふさわしい修補と拡張が行われた。城郭の縄直しが行われ、大修増築が行われた。当時5年の歳月を費やし、臥牛山の地形を約1m切り下げて山上に天守閣をはじめ諸櫓や武具庫などを造営した。成人後の寛文7年(1667)8月19日、転封により姫路に復帰した。直矩はその後も移封を繰り返し「引越し大名」とあだ名された。

榊原氏 譜代 15万石

政倫は3歳で播磨姫路藩の家督を継いだが、姫路は西国を抑える要地ということで幼少の大名には不適と判断され、寛文7年(1667)越後村上藩に転封を命じられる。
しかし寛文7年(1667)10月18日の巳の刻(今の10時頃)、雷火により本丸天主と櫓が炎上、酉の下刻(7時頃)まで燃え続けて灰燼に帰してしまった。その後三層のこの天守閣は再建されることなく、今は頂上西南よりに4間半に6間の礎石を残すのみである。
榊原政邦が第2代藩主を継いだが、宝永元年(1704)播磨姫路に国替となる。

本多氏 譜代 15万石のち5万石に減封

本多忠孝は宝永元年(1704)に姫路藩の家督を相続する。しかし幼少を理由に忠孝は5月28日に越後村上藩に移封された。しかし12歳で無嗣のまま死去。
本多忠良が幕命で、本多氏を継ぐが10万石減封の上、村上藩から三河刈谷に転封となる。

松平氏 譜代 7万2千石

松平輝貞は徳川綱吉の側用人であったが、家宣が6代将軍となると、左遷され村上藩に転封となった。徳川吉宗が8代将軍になると享保2年(1717)、再び高崎に復帰。

間部氏 譜代 5万石

間部詮房は吉宗が8代将軍に就任すると失脚した。享保2年(1717)領地を関東枢要の地高崎から遠方の越後国村上に転封。享保3年(1718)5月26日に雷火のため鐘の丸櫓が焼失している。
間部詮言は享保5年(1720)9月12日、詮房の死去により家督を継ぐが、間もなく越後村上から越前鯖江に移封された。(☛ 間部詮房)

内藤氏 譜代 5万石

享保5年(1720)9月19日、内藤弌信が越後国岩船・蒲原・三島3郡、5万9千石に移されて村上城に住した。以後9代の間内藤氏の治世となった。内藤氏は譜代大名として、歴代老中、京都所司代などの要職についている。
村上藩は幕末まで20回以上も城主が入れ替わったが、内藤氏9代のとき、明治元(1868)年、戊辰戦争で官軍に追い詰められて、抗戦派の藩士達は羽越国境に向かい、恭順派が新政府軍を迎え入れ、無血開城となった。しかし混乱の中、村上藩兵自らが火を放ち城は焼失、その後残った建物もすべて取り壊された。


今では石垣と遺構が残るのみだが、現在、城の復元事業の取り組みが行なわれている。「お城山」と呼ばれる臥牛山からは城下町村上、三面川の清流、日本海に浮かぶ粟島や佐渡島を一望にできる。周辺は桜、紅葉が美しい。城跡の桜は大正4年(1915)に植栽されたものである。
平成5年(1993)6月8日 に 国の史跡に指定される。




≪現地案内看板≫
国指定史跡「村上城跡」(平成五年六月八日)

村上城跡

この城は、室町時代以来この地方の地頭本庄氏の根拠地でしたが、慶長三年(一五九八)国替えでこの地に入った村上頼勝が大改造を加え、その後、堀直奇、松平直矩によって本格的に築造され、三層の天守がその偉容を誇っていました。しかし天守は、寛文七年(一六六七)に落雷によって焼失し、以後、建立されませんでした。
現在は、臥牛山上の本城の諸部や門、天守、櫓の跡がよく原形をとどめ、特に三〇〇有余年の風雪に耐えた高石垣は当時の石工技術と力学の結晶であります。
別名、舞鶴城とも呼ばれていました。

臥牛山(お城山)

村上の市街地の東に標高135mの臥牛山(がぎゅうさん)に村上城が築かれたが、年代は定かではない。
お城山は独立した山で東西南北に四つの斜面がある。西斜面の日本海に面している10haにブナの自然林が生育している。本州では最も低地に自生する天然林として学界の注目を集めてきた。
お城山に村上城が築かれ、長い間樹木の伐採などが禁止されたことによって自然林が残されたといわれる。
山麓から山頂までは徒歩約20分で、小鳥のさえずりと豊かな緑に包まれた城跡は、訪れた人の憩いの場となっている。※ストリートビュー














≪鳥居三十郎と戊辰戦争≫













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こだわりの村上牛を使用♪ 駅から徒歩1分!
[住所]新潟県村上市田端町9-43
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