(若林氏について)若林氏は奥州棚倉藩内藤氏の分家の家臣であったが、無嗣子断絶のため、本家に200石から150石で再仕官した。内藤氏の村上移封にともない、享保6年(1721)村上に移ってきた。村上藩で物頭役150石で中級上位の家柄に属し、第6代佐市郎の代に明治維新を迎えるまで大目付、長柄奉行、普請奉行、町奉行、三条奉行などの要職を歴任している。 (若林家住宅)住宅は、城郭内で家老屋敷もある三の丸に位置し、天明年間(1781-1789)の建築と推定される。寄棟造り萱葺平屋建で主屋の部分は170㎡、柱は割に細く鍵の手にめぐらした廊下は3尺幅で、妻入の居室部に座敷部を突出させている。 明治に入って、勝手の部分を改造しているが、部屋割りが細かく、土間が狭いなど、間取に典型的な中級武家住宅の質素なつくりの特色を伝えている。 敷地は50aほどあり、庭は古松と老梅を中心につつじを配している。 ![]() 全国的にも中級侍の邸宅は残っておらず、昭和52年(1977)1月28日、国指定重要文化財に指定された。 1964年(昭和39)の新潟地震で壁の落ちた部分を修復した程度で、ほとんど手を加えていなかったが、建物本体は経年による破損が甚だしく、主要な軸部に傾斜・弛緩・腐朽・虫害がみられたため、昭和61年(1986)から63年(1988)にかけて一旦全部解体して保存修理工事を行った。 大正14年(1925)に7代当主若林安静が亡くなってからは若林家の直系が住むことはなく、親戚知人が何度か入れ替わり、1977年(昭和52)に国の重要文化財に指定されるまでは、稲葉修元法務大臣(稲葉の母親は若林安静の娘)が住居として使用していた。 2012年(平成24)4月1日から、若林家住宅は指定管理者「公益財団法人イヨボヤの里開発公社」が管理運営を行っている。 若林 賚蔵(わかばやし らいぞう)1866年1月14日(慶応元年11月28日)〔生〕 - 1941年(昭和16)11月27日〔没〕若林家第8代当主。村上藩士若林安静の長男として村上藩三ノ町(現在・村上市村上)若林家住宅で生まれる。1893年に帝国大学法科大学を卒業後、官選府県知事(島根県、奈良県、山梨県、佐賀県、香川県、愛媛県、広島県、京都府の各府県知事)、貴族院議員、錦鶏間祗候を歴任する。 若林家住宅 ![]() ![]() |