村上藩の戊辰戦争 村上市



村上城 鳥居三十郎 村上頼勝 村上藩の戊辰戦争

(戦争前夜 勅書到着)


下り藤紋
内藤信親改め信思 ( のぶもと )は元治元年(1864)4月に、家督を養子信民 ( のぶたみ )に譲って隠居し、藤翁と称した。この時、信民は14歳であった。幕政では重職を歴任した。隠居後も、幕府から何かと相談を受けていた。
藤翁公の考えは、徳川慶喜が恭順の意を表明し江戸城を退去しており、徳川宗家の存続のためには、村上藩も将軍の意志を尊重して、錦旗を掲げる新政府軍に抗戦することは愚としていた。この藤翁公の考えは、若い藩主信民にも引き継がれていた。

慶応3年(1867)6月22日長岡城下の町会所で、長岡をはじめ会津、村上、新発田、村松の各藩代表が集まり会談し非常の際には諸藩が一致協力して対応することを約した。
9月18日 会津、越後諸藩など14藩が新潟の料亭鳥清で会合し、領内の取締りについて協議した。

慶応3年(1867)10月14日、公武合体派の中心であった前土佐藩主山内容堂の建言によって慶喜は大政奉還を申し出た。大政奉還によって成立した新政府は、施政の具体的な準備がなかったので、列公会議にはかろうと全国の諸大名に上京を命じた。全国218藩のうち朝命に従って上京した諸侯は17藩のみで、他の多くの諸藩は変動する政局に、その動向を見極めかね、形勢を様子見していたのである。11月15日、村上藩も藩論の統一をみず、朝廷の召命を辞退している。

慶応4年(1868)1月3日、幕府及び会津、桑名両藩らの連合軍約1万5千人は、薩摩藩討伐を上奏する名目で兵を京都に進め、鳥羽・伏見で薩長両軍と交戦するに至った。しかし幕府軍はわずか5000名の薩長軍に敗れた。将軍徳川慶喜や会津藩松平容保は幕府軍の敗色が濃くなると、大坂城から船で江戸に逃げている。
戦いに勝利した新政府は、徳川慶喜を朝敵の筆頭に、次に会津藩松平容保を、そして第3位に桑名藩松平定敬を指名し1月18日、追討令を出した。

慶応4年(1868)1月9日、北陸鎮撫総督に高倉永祜、副総督に四条隆平が任命された。1月15日、北陸鎮撫総督府は北陸道諸藩に対して、各藩の向背を問う勅書を厳重な警戒の下に回送した。越後の諸藩へ2月上旬までに、勅書に対して勤王一途の請書の提出を命じたものである。

2月18日、北陸道総督府の勅書が警護兵と黒川藩兵168人に警護され、午後4時頃到着した。藩主信民が不在であったことから、家老の脇田茂人がかわって受け取り、3月4日勤王を誓った請書を提出した。

3月15日、1月20日に京都を出発した北陸道鎮撫総督府一行が高田に到着、翌16日越後11藩の重臣たちを呼び出し、藩主は上京し勤王を御請けすること、版籍を提出すること、旧幕領の租税納入状況を報告すること、さらに会津藩討伐に協力することを命じた。このとき村上藩からは近藤幸次郎が派遣されている。

(藩論統一のため、鳥居三十郎の江戸への出立と、藩主信民の帰城)

奥州諸藩では、会津藩に対する新政府の対応に反発し、支援する動きが広がった。村上藩に対しても会津藩や庄内藩からも同調するよう説得する圧力が強まった。
「慶喜公の恭順は心からではない。四囲の事情から止むなきによるものである。憎むべきは薩長である。彼らは錦旗を擁し、名を官軍にかりて、奥羽、東山、北陸諸藩を賊として、征討の途上にある。我々は天朝に対し奉り、何ら敵対行為をなすものではない。ただ薩長の奸臣を許せんとするものである。御当藩の祖は格別徳川家の縁故があったはずなのに、徳川家存亡の危機に際し、何を危惧しての愚図の方であるか、早々に決心して奥羽諸藩に味方するよう。もし不服とあらば、会米庄連合軍は御当城を踏み潰す。」と半ば脅迫され、藩内の帰順派の重役たちは対応に苦慮した。
村上藩では、若い武士の間で佐幕派で抗戦的主張をなすものが多かった。抗戦を主張した重臣は、家老の脇田蔵人と内藤鍠吉郎、それに杉浦宇右衛門や近藤幸次郎、浅井土左衛門らであった。そしてこれら抗戦派の代表が鳥居三十郎であった。
内藤家の江戸上屋敷は現在の皇居前広場に与えられていた。(※地図 ※ストリートビュー)徳川家康の血を引く内藤家は、長岡藩牧野家などと所領の多寡にかかわらず、徳川家の藩屏たるべき藩の一つとされ、ことあれば徳川を守るべき藩とされていた。三河にルーツを持つ藩士も多く、今こそ、徳川300年の御恩に酬いるべき時であると考えるものが多かった。三河武士としての矜持を持って薩長の暴虐に対して抗戦しようと主張した。
一方、重臣のうちでも家老の久永惣右衛門はじめ鳥居三左衛門や森田謙蔵、江坂与兵衛、五月女甚五右衛門、石田九蔵なども恭順論者であった。彼ら老臣は、藤翁公の考えに近く、朝廷軍に戦端を開くことには反対していた。
しかし、老臣たちには、抗戦的な藩士をまとめていくだけの力量がなく、両派による対立が継続していた。
どちらにしても藩士が一致団結して動くためには、江戸屋敷にいる藩主信民侯に帰城してもらい、藩としての集約した意志を表明してもらうしかないという結論に達した。使者役として家老、鳥居三十郎が選ばれた。

2月5日、鳥居三十郎は、早駕籠で村上を発った。江戸屋敷で藤翁公と信民を説得したが、2人とも帰城に同意しなかった。2週間が過ぎ、この間、京都より薩長を主力とする官軍が江戸に進軍していた。長岡藩主牧野忠訓や新発田藩主溝口直正は越後の領地に向かっていた。
鳥居は、藩主がこのまま江戸に残れば、争乱に巻き込まれ、身に危険が及ぶかもしれないので村上に向かうよう強く説得した。
3月1日未明、鳥居三十郎の説得が功を奏し、信民はようやく腰を上げる決心をした。数百人の藩士に守られながら、会津経由で、3月16日に初めてのお国入りとなった。

鳥居三十郎はこののちも、江戸に留まり、藤翁の近くで、中央の政治状況の把握に努めていた。
藤翁は、幕府から、主人のいない江戸城の留守居役の一人に任じられた。3月から4月にかけて幕府と新政府軍の間で交渉が続けられ、4月11日に徳川慶喜が江戸を離れ、4月21日に江戸城は無血開城された。
諸藩の藩主たちが、江戸市中での戦火に巻き込まれるのを避けるため、先を争うように領地に戻る中で、藤翁がようやく意を決して帰国の途につくのは4月24日である。一行は藤翁と妻 をはじめとする主従40~50名と思われる。しかし、この頃になると、越後国内では新政府軍と会津・桑名藩の同盟軍とで戦争がはじまっており、村上に帰国することが出来なかった。以降、10月に新政府軍に帰国釈明を命ぜられるまで、信民の実家である信州岩村田の内藤藩1万5千石の城下に滞在した。(岩村田藩は他の信州の諸藩と同様、新政府に帰順し、宇都宮の戦いや、長岡藩との戦いに新政府軍の一員として参加している。※地図 ※ストリートビュー)

(列藩同盟加盟と出兵)

閏4月12日に鳥居三十郎が江戸から帰国する。閏4月13日に、藩士は総登城を命じられ、会津藩に味方することが告げられた。新政府軍は官軍とはいうものの真の官軍ではない。薩長の私軍であり正当を欠いている。祖先以来300年の恩義ある徳川家が危急存亡のときである。当藩は会津と庄内藩に味方し、あくまで朝廷を尊奉し、無用な戦争を避け、人民を大切にしながら、皇国の護持に当たることを表明している。
これによって藩士は、ついに来るべき時が来たと感じたであろうが、これ以後、村上藩はずるずると泥沼にはまったように、抜き差しならない状態となる。
閏4月16日には江戸藩邸の家老江坂與兵衞も帰国している。

5月2日になると、村上藩では、居城前の桜馬場に藩士を集めて大調練が行われる。
5月3日、奥州25藩の代表は白石城に会し、正式に奥州列藩同盟を結成、薩長を敵として戦うべく盟約書を作成した。越後諸藩に対しても、会津や、米沢藩から同調するよう圧力が強まった。
この日、村上城大広間に全藩士を集め、藩主信民が群臣の意を受け、列藩同盟に加盟することを公表したので、藩論は抗戦に統一された。鳥居三十郎や抗戦派からの抗しがたい説得により、藩主信民にとっては、本心に反して新政府軍に抗戦するという苦しい決定であった。
5月4日に至って、長岡藩が小千谷会談の決裂をもって、留保していた同盟加盟に調印した。
5月6日には米沢藩から要請があって、新発田で下越諸藩の老臣会議が開かれ、村上、黒川、三根山、村松の四藩が同盟に加わった。また新発田藩は同盟不参加の態度をとり続けたが、最終的に加盟に同意した。ここに奥羽越33藩の同盟が成立したのである。

5月8日には柴田茂左衛門を隊長とする150名の藩士が飛び領地のある三条陣屋(※地図 ※ストリートビュー)に向け出陣した。5月17日になると、約160名の増援部隊が派遣され、三条に着陣した。

5月19日、長岡城が落城。(☛長岡城の戦い)
5月22日、同盟軍は加茂会議所において、同盟軍の兵力配置や兵糧の運送方法に関して軍議を開いた。村上藩からは、家老水谷孫平治が出席している。
同盟軍を三分し、米沢藩兵は中条豊前を総督として大面から見附へ進軍する。会津藩一ノ瀬要人は会津・桑名・村上・上ノ山等の兵を率いて与板を攻略する。河井継之助は鹿峠で長岡・村松兵の総督として黒水・長沢より見附へ進撃することを決定した。
5月27日に与板口で戦端は開かれ、村上藩は金ケ崎から本道を先鋒として進撃した。
村上藩は近代的兵制の改革が遅れていた。「村上兵は筒袖に義経袴、先込めの旧式銃を持ち、刀を背負って進んだ。しかも密集隊形だった」と記されるように、旧来の装備と戦術であった。「歴戦の長州兵はダンブクロの軽装で新鋭銃を装備し、訓練も良く行き届いていた。初めて西軍の砲火にさらされた村上兵は、その想定外の物凄さに、地に伏せたまま進むこともできなくなった」とある。藩士中根勘之丞が膝に銃創を受けたため、歩行が困難となり割腹して果てた。はじめての村上藩の戦死者となった。
5月28日、激戦となり、同盟軍は与板城陥落まで新政府軍を追い込んだが、新政府軍側が次々増援の兵を送ったので落城を免れた。此の日の戦闘で、村上藩では、小隊長の中嶋大蔵と柴田耕治が銃撃されて戦死した。以降、周辺の丘陵の各地でで戦闘が繰り返されたが、拮抗し膠着状態となり、決着がつかなかった。(☛与板の戦い)
6月19日午後5時頃、薩摩の軍艦乾行丸と長州の丁卯丸が来襲して、寺泊に停泊していた幕府の軍艦順動丸と砲戦になり、順動丸は大破撃沈されてしまう。続いて二艦は陸に対して猛烈な艦砲射撃を浴びせたので町は破壊しつくされてしまった。この時寺泊に駐屯中の会津・水戸・村上藩の大砲隊も応戦したが、村上藩の供番小田部重蔵が戦死し、弥彦方面へ撤退した。

6月に入ると、抗戦派の鳥居三十郎の一派が、庄内藩などの圧力もあって、藩政を主導するようになり、帰順派の老臣たちを排除していった。藩政の改革にあたってきた帰順派の実力者江坂与平衛も職を辞した。

7月15日夜半、藩主の内藤信民が城中で首吊り自殺を遂げてしまった。当時18歳であった。藤翁の養子となり、14歳で跡式を継ぎ、村上に来たのは18歳でしかなかった。藤翁から、抗戦すべきでないと強く意見されおり、実家の岩村田藩も新政府軍の一員として北越戦争に参加していた。情勢は自分の気持ちとはどんどんかけ離れ、泥沼にはまっていった。心を許して相談できる家来とて少なく、次第に孤立と困惑を深めどんどん追い詰められ、最後は神仏のみが頼みの綱であった。そこで毎日のように、藩祖信成を祭る藤基神社と、内藤家の菩提寺である光徳寺に参詣を続けるのであった。信民の死亡については、藩士たちの戦意に悪い影響があるとして、死因は秘匿された。
藩主信民の辞世の句が残されている。
  • 軍配分け 婦じの 御用を招きけり 信民禁書

    内藤家の家督を継いで、取り返しのきかない、一度きりの決定を下す事態を招いてしまったという意味であろうか。逃れられない重圧に押しつぶされた少年藩主の懊悩ぶりが伝わってくる。内藤家の家紋『下り藤』を軍配に見立て、婦じを不二にかけている。
7月25日、新政府軍は新潟上陸を果たしたのち、参謀の黒田が率いる本隊は新発田城に向かい、これを帰順開城させると、間を置かず各地に兵を派兵して征討をすすめた。村上藩に対しても7月28日を期限として態度表明を迫ったのである。
7月29日、長岡城が再落城し、同盟軍の中心であった河井継之助も負傷した。米沢藩が越後からの撤退を命令するなど、同盟軍が総崩れとなる。与板方面に展開していた村上藩兵は急ぎ三条を目指して撤退したが、新政府軍の追撃が急で、最早部隊の体をなしていなかった。
8月2日、三条の五十嵐川を挟んで戦闘が行われ、村上兵は庄内藩兵と共に戦い、激戦となるが敗走する。この戦闘で17歳の菅三子次郎が戦死している。(☛ 五十嵐川の戦い)
村上藩兵は庄内藩兵と共に、追撃の恐怖にかられつつ、八十里越の嶮路を会津に敗走した。村上藩兵は、会津から米沢を経て帰国しようと、小国までいったところ、村上落城の報に接ししたため、踵を返して最上川沿いに鶴岡へ向かった。

(中条の戦いと村上城放棄)

8月にはいると、新政府軍はいよいよ北進の構えをみせ新発田藩・芸州藩が先鋒となって中条大輪寺に宿陣した。
家老鳥居三十郎は全軍を指揮し、瀬波・岩船・浦田・里本庄・平林に砦を築き、藩兵を常時駐留させて決戦に備えた。庄内藩に対し、応援の兵の派兵を依頼した。
8月3日、庄内を発った庄内藩からの酒井正太郎隊(2個小隊)が到着。
8月4日、村上藩と庄内藩は米沢藩の本営のある下関村を訪れ、中条町の敵陣に夜襲をかける作戦をまとめた。米沢藩は中越地方の戦いの状況をまだ把握できていなかった。この戦いは、あくまで新政府軍に寝返った新発田藩を討伐するための戦いであった。
8月5日、下関の米沢藩本営より軍監小川源太郎率いる5個小隊が出撃し、8月6日、庄内藩中村隊と村上藩兵と合流し、新発田藩討伐の橋頭堡となる中条攻撃に向かう。
新政府軍の先鋒として進軍した芸州藩・新発田藩を中心とした一隊の本道軍は、中条町を経て胎内川左岸追分に着いた。
8月7日未明、同盟軍は攻撃を開始し。庄内藩兵と村上藩兵が前進し芸州藩兵と新発田藩兵に攻撃を開始し、一方で一部の兵が背後に回り中条の町に火を放つと、新発田藩兵が崩れ敗走。芸州藩兵は僅か半小隊でこの猛攻に耐え抗戦するが、最終的には陣地を捨て中条の町に後退する。芸州藩小隊長の川村常之進がこの時戦死する。
同盟軍はこの中条に後退した芸州藩兵と新発田藩藩兵を追って市街戦に突入し、新政府軍の宿営地となっていた大輪寺を奪取する。芸州藩兵と新発田藩藩兵は、多数の死傷者を出して三日市目指し敗走。
一方、同盟軍は死傷する犠牲者が出て、追撃するだけの余力がなかった為、中条に火を放ち退却した。村上藩兵や庄内藩兵は村上城に引き揚げた。
この戦闘で村上藩兵にも犠牲者が出た。新道多吉と加茂隆吉が銃弾に斃れたのである。
村上藩兵や庄内援軍が中条から戻って村上城内に入った。城中ではここに至ってもなお藩論は割れていた。圧倒的兵力で迫って来る新政府軍に抵抗して敗れるよりも、潔く降伏して朝命にふくすべきだという恭順派と、抗戦派は拮抗していた。
8月8日、新政府軍は新発田本営よりより芸州、高鍋の諸藩兵をおいおい増援派兵した。
8月10日、新政府軍は、攻撃態勢を整え本道中条口をはじめ各方面より総攻撃を開始した。荒川を渡ってまっ先に姿をみせたのは岩国と福知山の藩兵であった。渡河を終えた西軍は荒川口から葛篭山に退いて立て籠る村上藩兵に襲いかかった。
その日の7つ時(午後4時頃)になると、城下の町々に、即刻町外に避難するように命令が出た。これによって町人地はもとより武家地まで家財道具を運ぶ荷車で大騒動になった。藩士の中には運命もこれまでとあきらめ、すべての道具を放置する者もあった。
庄内藩酒井正太郎らは村上藩が藩論の不統一により、籠城する意志のないことを知ってか、村上藩を見限って、庄内藩境に向かって撤退した。
翌11日の朝、越前兵が荒川を渡って岩船の砦を攻撃した。村上兵は押しまくられて諸上寺山に登って戦うがここも破られた。
城下は避難者が右往左往し、大混乱であった。その一方、城はがら空きの状態であった。多くの帰順派の藩士らが、城外に退去したためである。それによって各城門などの警護には町人の内から徴発した、18歳から50歳までの男子を充てていた。本丸の最重要拠点である一文字門でさえ、一人の藩士もいなかった。わずか本丸の玄関に、鳥居三十郎や内藤鍠吉郎、それに平井、や近藤、柴田などの数名の藩士と足軽がいたにすぎなかった。
もとより村上城は、堀直竒が10万石の軍役を基準にした。否それ以上の縄張りで造った城郭であったから、防御線が長く三十郎配下の100名にも満たない寡少な兵力では守り切れるものではない。それなのに、まだ彼らは籠城するか、もしくは降参するか、あるいは庄内へ落ち行くかなどを論じ合い、行動を決しかねていた。三十郎自身にしても、岩船に出兵しながら一戦も交えず退却したのであるから、旺盛な戦意はなかったものと考えられる。
そうするうちに、砲声が響き、早鐘がなり城山から数名の藩士が駆け下ってくると、間もなく本丸に火の手があがった。すると誰からともなく、わらわらと下渡門を抜け、出羽街道を指して脱走し始めたのである。羽越国境を目指す藩士たちは妻子や一族郎党を引き連れていた。
指揮系統も何もなかった。それでも、おりよく猿沢に陣取る庄内藩兵に合流すると、庄内藩酒井正太郎は村上城奪還をめざして引き返すと主張したが、城は占拠されてしまっていた。この猿沢からは、村下城本丸から立ち上る炎が見えたという。
こうして村上城下は戦火を逃れたのであるが、それは戦うことを逡巡し城を放棄したからでもあった。

(恭順派による開城と抗戦派による羽越国境での戦い)

新政府軍の先鋒越前藩が入城するや、町中に軍令が出された。「村落へ逃亡した商人は帰町し、ただちに商売をせよ」と言うものであった。
8月12日になると、虎の威を借りる越前兵など新政府軍の軍兵は鉄砲を携え、我が物顔に町中を徘徊し略奪を行った。これを危惧した総督府からは「些細な品物でも盗んだ者は、斬罪に処す」という軍令が出された。
帰順派の老臣や藩士たちは続々投降した。藩士のみで130名くらいになったといわれる。(新発田藩の記録では8月15日から27日までに800人が降伏したという。)鳥居三十郎に蟄居を命じられていた久永惣右衛門が、投降した藩士とその家族の総取締役を命じられる。
投降藩士は各城門の守備を命じられたり、やがて新政府軍が北へ進攻を開始すると、先鋒隊に加えられたりした。

8月17日、新政府軍は村上城下を庄内進攻のための補給基地と定め、一部を城下の守備に残し、諸藩兵のほとんどを庄内藩の征伐に向けて進撃させる。その主力部隊は越前ほか8藩の730名で、山通りの出羽街道を北上させる。また、別動隊は備中足守藩ほか、4藩の200名で海通りの出羽道を北進させるという作戦で進撃した。
同盟軍は海岸から15キロにわたって鼠ケ関、高畑、堀切峠-小名部、雷-関川の四つの陣地を構築した。
8月26日、新政府軍は鼠ケ関、高畑、堀切峠-小名部に対して一斉攻撃をかけた。しかし、いずれも破れて退却している。
悲劇は堀切峠の交戦で起きている。
24日に庄内兵は小俣村と小名部村の中間地点の堀切峠に、村上兵はそこより小名部側によった中の峰に陣取っていた。
一方新政府軍は日本国山の中腹に塹壕を掘り、銃撃を開始した。攻撃は村上兵の陣地に集中した。村上藩士は同士討ちのようになり先鋒兵の牧大助と関菊太郎の両者が銃弾に倒れた。同盟側が、藩境の険しい地形を利用し守備したため、新政府軍は突破できず膠着した。その後戦場は山間地から海岸部に移っていった。
8月27日、同盟軍側は新政府軍の別動隊が海岸道路を北上すると予想し、鼠齧岩の陣地を強化した。ここに島田丹治を隊長とする約50名の村上藩兵が加わり、庄内藩は大砲5門を据え付けた。この頃、三条方面から撤退した村上藩兵150名がぞくぞく前線に加わり、同盟軍側の気勢は大いに盛り上がった。
8月28日になると、岩石村の付近に陣地を構築していた庄内兵と銃撃戦が行われた。新政府軍は、ここでも庄内兵の抵抗が激しく、退却を余儀なくされた。新政府軍は兵力こそ多かったが、西国の藩から徴用された兵や、後に新政府軍に加わった新発田藩兵などが主力で、寄せ集めの軍隊であったため、士気も高く無く、少数の同盟軍を攻略できず、戦傷者数は新政府軍に多く出た。
9月1日、越前、加賀、土佐の三藩は、府屋から中浜に進軍して、犠牲を少なくするために大砲隊を前面に出し、大砲10門が鼠齧岩に向けて猛烈に砲撃を加え、第二次総攻撃を開始した。しかし地の利を得た同盟軍側の防戦に、攻撃側の戦果は上がらなかった。この戦闘での犠牲者は、新政府軍側に多く出た。
新政府軍は薩摩・土佐・越前・新発田藩で死者10人、負傷者46人を出して退却した。島田丹治・青砥太郎らは鼠齧岩から飛び出して追い打ちをかけ、首二つを挙げて凱旋した。同盟軍側は庄内藩の死者2人、負傷者3人。村上藩は無傷だった。
9月11日になり、新政府軍が天然の要害鼠齧岩を前に二度も撃退されたため、山手からの作戦に変えて山熊田村から関川村(現鶴岡市関川)に侵攻するという情報に、村上藩の浅井土左衛門らは雷峠に守備陣を置いた。村上藩兵32人など同盟軍400人ほどが配備されていた
新政府軍は兵を分け、迂回隊が同盟軍の背後に回り、挟み撃ちにする作戦をとった。
村上藩隊は挟撃され、庄内藩と連携がとれず、たちまち撃破された。雷の山から血路をひらいて関川集落に下りる途中の村上藩隊長浅井土左衛門は敵に包囲され、捕らえられ、斬殺された。隊士の梅沢喜三郎は銃撃によって倒れた。
これにより勢いをえた攻撃側は関川村の庄内藩陣所(※地図 ※ストリートビュー)を襲い、激しく抵抗する守備兵を退け、新政府軍が庄内領に進攻できた唯一の場所となった。
翌9月12日、庄内と村上藩兵は関川村に逆襲を試みるが、多勢に無勢で敗れて退く。そこで兵力を立て直し9月16日に再び攻撃を敢行するが、攻略することはできなかった。村上藩士の佐藤文吾と八幡万里之助の二人が戦死した
9月27日になって庄内藩主酒井忠篤が降伏したことにより、羽越国境での戦いが終息し、村上藩兵の戦いもここで終わった。
9月29日、抗戦派の家老や奉行や兵士100余人は武装解除して帰藩し、村上町内のそれぞれの寺に謹慎した。
10月7日、鳥居三十郎は事後処理を終え、村上に帰り鷹匠町の善龍寺に入った。

(戦後処理)

前藩主内藤信思(藤翁)は10月に新政府軍に帰国釈明を命ぜられ、謹慎処分となった。
明治元年(1868)12月7日、新政府は奥羽越の朝敵諸藩に対して一斉処分を発令した。村上藩では、藤翁侯の謹慎と謝罪嘆願が認められ、村上藩5万90石は安堵。岸和田藩主の子、岡部三十郎が養子となり9代藩主信美として家督を相続した。一方で、村上藩反逆の首謀として鳥居三十郎が指名された。
明治2年(1869)6月25日、家老鳥居三十郎が戦争責任を負わされ死刑に処せられた。












≪村上城≫


















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