村上周防守頼勝 村上市
村上城 鳥居三十郎と戊辰戦争 村上頼勝 村上藩の戊辰戦争村上藩初代藩主 村上周防守義明(頼勝)信濃の猛将村上周防守義清は、武田信玄の侵略を受け、勢力を一時は回復したが持ちこたえられず、最後は嫡男の村上国清とともに上杉謙信の家臣となった。この時、国清の弟、義明を信玄と敵対する織田信長の重臣丹羽長秀の許に送ったといわれている。当時、義明は12歳だったといわれている。 また、義清は娘を豊臣秀吉の家来戸田勝隆に嫁がせたとされているが、定説はない。 丹羽長秀にその才覚をかわれ重用され、豊臣秀吉からもその実力を認められ小松城主となる。秀吉からは、父親の名乗りである周防守を名乗ることを認められ、以後、村上周防守頼勝と名乗った。 佐々氏討伐の際、不手際のあったことをとがめられ、丹羽氏が120万石の大大名から8万石の小領主になった時も、秀吉から小松領を安堵され、越前堀秀政の与力大名とされた。上杉景勝の会津移封の際、堀秀治が越後45万石をあてがわれたが、村上頼勝はその与力大名として越後村上城主9万石にあてられた。 会津藩上杉家と藩境を接し、戦いに備えるため、本庄城の要害の山城の整備を始めた。東側山頂の石垣の構築は古い積み方である乱積みの工法で造られた。 また、加賀国小松細工町から本蓮寺(後に本悟寺と改号)を移し、一寺建立し、地名を細工町とした。 領内には、上杉家時代から開発が行われた高根金山があったが、頼勝は、積極的に鉱山開発を行い、産出された金を徳川家に貢納しご機嫌を取っていた。 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは越後に在国。この時家康から「自其元、佐渡庄内へ働くの義、一切無用に候。会津へ働き、彼の表相済み候へば、入らざる儀に候間、其の意を得尤に候」との手紙が送られている。 堀秀治と同じ東軍に与して、国内で起こった西軍方の上杉旧臣による上杉遺民一揆の鎮定に努めた。 慶長15年(1610)閏2月2日、堀家は執政の堀直清と弟直竒が争い、藩主堀忠俊に藩を納める能力がないうことで改易となったが、村上頼勝は上杉遺民一揆への対応を賞されて領地を安堵された。 頼勝には男子がなく、はじめ堀秀政の三男義忠(秀治の弟)を養子として貰い受けたが、20歳過ぎに早世したため、父義清の娘と豊臣秀吉の家臣戸田氏繁の子の忠勝を養子に迎え、松平忠輝の家老花井吉成の娘を妻とした。花井吉成のもう一人の娘は佐渡奉行大久保長安の息子右京に嫁いでいる。 義忠の死亡については、時代が豊臣から徳川に移ったことから、先を見て忠勝を養子にするため、毒殺したのではないかといわれている。 こうして頼勝は、姻戚関係を積極的に結んでいくことによって、松平忠輝や大久保長安とも関係を深めていった。 苦労また苦労の中に成人した頼勝は、長秀に対しても、秀吉に対しても保身の才にたけ、また情勢を判断する能力にすぐれていた。 しかし、この積極的に姻戚関係を結んでいったことが、将来村上家改易の一因となった。 慶長17年(1612)1月5日、二代将軍秀忠は、江戸城に於いて、関東奥羽信濃越後の外様大名50名を招致して三ヵ条の誓書に署名させている。この時忠勝が署名していることから、頼勝はそれまでに死亡したものと思われる。 村上頼勝は口伝によると耕雲寺に葬られ墓碑が建立されたとされるが、現存していない。 二代目藩主村上周防守忠勝慶長4年(1599)〔生〕- 元和9年(1623)9月26日〔没〕慶長17年(1612)1月5日、二代将軍秀忠は、江戸城に於いて、関東奥羽信濃越後の外様大名50名を招致して三ヵ条の誓書に署名させている。この時忠勝が署名していることから、頼勝はそれまでに死亡し、家督を継いだ思われる。 当時、忠勝12歳で、まだ幼君であり、藩内を掌握するには実力不足であった。また家老の冨田次郎左衛門は、幼君を支えるほどの能力もなく、機転も利かない凡庸の家臣であった。 先代頼勝の時代に築いた大久保長安との関係や、松平忠輝との姻戚関係が災いした。大久保長安の邸に捜査が入った時、石櫃に入った連判状に頼勝の名前があったことなどから、幕府から監視対象とされた。 元和2年(1616)9月16日、幕府は幕臣片桐左衛門を郡奉行とし、秀忠直属の旗本河野権兵衛氏勝を村上城中に送り込み、藩政を監視させた。 河野権兵衛氏勝は、祖父の河野氏吉が織田家に奉公していたころ、人質となっていた竹千代(家康)を哀れんで世話をしたということで、氏勝の代になって旗本にとりたてられた人物である。 河野の何かにつけて幕府の直臣であることを鼻にかける所行は、村上藩の家臣の反発を招いた。藩内に、家老富田一派と河野一派の間で主導権争いが生まれるようになった。 そのような中、藩士魚住角兵衛が闇討ちにあって死亡するという事件が発生した。角兵衛の弟和右衛門は江戸に出て河野権兵衛が下手人であると直訴した。 村上周防忠勝は幕府の直参が下手人と名指しされたため、幕府に取り調べを願い出た。幕府で取り調べを行ったが、河野が下手人であるとする確証もなく無罪とし、一方で藩内を納めることが出来ない村上忠勝の責任を問うた。 結局、家中の内が収まらずの名目で、村上周防忠勝は除封という処分を受けた。元和4年(1618)4月4日、忠勝19歳のことである。高田松平忠輝が改易となって2年後のことである。 家督を継いでからこの方、若い藩主忠勝にとって荷の重い難問題に翻弄されて、何時幕府から呼び出しを受けるかわからず、おろおろするばかりで、最後は神仏に頼るしかなかった。 慶長8年(1613)、大久保長安一家が処刑された翌年の慶長9年(1614)に、乙宝寺に三重塔を寄進している。また慶長10年(1615)には、将軍秀忠の直臣3人を無礼討ちにした件で、忠勝の妻の父親である高田藩家老花井吉也に対し、幕府が取り調べ行っており、その際、羽黒神社に十石、耕雲寺に五石の寄進をしている。 忠勝は、丹後篠山の城主松平康重に預けられ元和9年(1623)9月26日、24歳の若さでその生涯を終わった。篠山での忠勝は村人に読み書きなどを教えていたと言われる。大きな難題の波にもまれたが、最後は心の平安を手に入れることができた人生であった。 いまも丹波多紀郡黒岡村法昌寺に位牌がある。法昌寺には自刻の忠勝木像も安置されている。 乙宝寺にある村上氏の墓は、近年の大正年間にもとの家臣の子孫が建てたものである。 ≪鳥居三十郎と戊辰戦争≫ |