鳥居三十郎 村上市
村上城 鳥居三十郎 村上頼勝 村上藩の戊辰戦争≪鳥居三十郎と戊辰戦争≫天保12年(1841)10月〔生〕 - 明治2年6月25日〔没〕鳥居三十郎の生い立ち鳥居三十郎は、天保12年(1841)10月、村上城下三の丸に生まれた。父は村上藩家老を務めた鳥居内蔵助和利で、鳥居家は代々村上藩の家老職を担ってきた家柄であった。藩主を補佐して藩政を運営する上級家臣の家に生まれた三十郎は、幼少期から藩政や武士としての務めを身近に感じながら成長したと考えられる。弟には、のちに新潟亘家を創設した和順がいる。幕末になると、幕府の権威が次第に揺らぎ、全国の諸藩が政治的な対応を迫られるようになった。村上藩も例外ではなく、藩主内藤家と重臣たちは幕府との関係を重視しながら、国内の情勢変化に対応する必要に迫られていた。鳥居家は藩政の中枢に位置していたため、三十郎も成長するにつれて、単なる一藩士ではなく、藩の将来を左右する立場へ進むことになった。 慶応元年(1865)9月、三十郎は25歳で、筆頭家老久永惣右衛門の娘じゅんと結婚した。久永家も村上藩の重臣であり、この婚姻は家臣団の中でも有力な家同士の結びつきを意味していた。翌慶応2年(1866)には一人娘の光(てる)が誕生し、三十郎は若い家老として藩政を担う一方、家庭では妻と幼い娘を持つ父親となった。 しかし、平穏な家庭生活は長く続かなかった。慶応3年(1867)から翌4年(1868)にかけて、徳川幕府の崩壊と新政府の成立によって政治情勢は急激に変化した。戊辰戦争が始まると、村上藩内でも新政府に従う「帰順派」と、旧幕府側に立って戦う「抗戦派」の対立が深刻化した。しかも、三十郎の義父久永惣右衛門は帰順派の重臣であり、三十郎自身とは立場を異にすることになった。 こうした複雑な政治的・家族的関係の中で、三十郎は藩の進むべき道を決断しなければならなくなった。やがて藩主や重臣の意向を調整する役割を担い、戊辰戦争の渦中では抗戦派の中心人物となっていく。その後の三十郎は、村上藩の運命だけでなく、家臣や領民の生死を左右する重大な判断を迫られることになる。 村上藩を取り巻く幕末の情勢幕末の村上藩は、徳川幕府との結びつきが強く、もともと佐幕的な性格を持つ藩であった。藩主内藤家は、藩祖信成が徳川家康の異母弟ともいわれる松平広忠の子であるという系譜を持っており、徳川家との関係を強く意識していた。また、5万石余という比較的小規模な藩でありながら、歴代藩主の中には幕府の老中などの要職に就く者もいた。そのため藩内では、幕府を政治的な基盤と考え、旧幕府体制を守ろうとする意識が根強く残っていた。第7代藩主内藤信思も幕府との関係が深い人物であった。信思は文久2年(1862)に隠居した後も幕政に関わり続け、幕府から重要な役割を与えられていた。慶応4年(1868)に戊辰戦争が始まると、信思は江戸城の留守居を命じられ、村上藩主父子は江戸にとどまることとなった。そのため、藩主が不在の村上では、家老などの重臣が藩政を担うことになり、幕府に従うのか、新たに成立した新政府に従うのかという難しい問題に直面した。 慶応4年(1868)2月、村上藩には新政府からの勅書が到着した。これを受けて藩では対応を協議し、家老脇田蔵人の名で新政府への恭順を誓う書状を提出した。当初、村上藩は新政府に従う姿勢を示していたが、藩内には依然として旧幕府への忠誠を重視する佐幕派も多く、藩論は容易にまとまらなかった。村上藩を取り巻く地理的な情勢は複雑であった。藩の東には会津藩と米沢藩、北には庄内藩があり、いずれも軍事力と政治的影響力を持つ有力藩であった。村上藩は小藩であるため、単独で進退を決定することは容易ではなく、周辺の大藩から強い圧力を受ける状況にあった。 こうした中、村上藩内では新政府への帰順を主張する勢力と、旧幕府側に立って抗戦を続けようとする勢力の対立が次第に激しくなった。そして慶応4年5月4日、村上藩は会津・米沢・庄内などが結成した奥羽越列藩同盟に加わることを決定した。これによって村上藩は新政府軍と戦う側に立ち、戊辰戦争の戦火へ本格的に巻き込まれていくことになった。 奥羽越列藩同盟への参加と出兵慶応4年(1868)5月、村上藩は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍に対抗する方針を明確にした。5月8日、村上藩は柴田茂左衛門を隊長として150人の藩兵を三条方面へ派遣した。これが本格的な出兵の始まりとなり、村上藩兵は以後、会津・米沢・長岡などの諸藩兵と行動をともにしながら、越後各地の戦闘に参加することになる。5月22日には、桑名藩領加茂町の市川邸で、奥羽越列藩同盟の諸藩による「加茂軍議」が開かれ、新政府軍への対抗策が協議された。村上藩からは(家老)水谷孫平次・稲毛源五右衛門・前田又七・林弘助兵らが出席し、決定された進軍手配に従って同盟軍の作戦に加わり、藩兵150人は会津藩の一ノ瀬要人の指揮下に入って与板方面への攻撃に向かった。5月27、28日には金ケ崎付近で与板藩兵と交戦し、村上藩兵は同盟軍の先鋒として戦った。 このように村上藩は、5月には新政府軍と戦う抗戦側として明確に軍事行動へ入った。しかし、その一方で藩内には新政府への帰順を主張する勢力も存在し、藩論は必ずしも統一されていなかった。とりわけ江坂与兵衛や久永惣右衛門ら帰順派と、鳥居三十郎をはじめとする抗戦派との対立は次第に深まり、村上藩は戦場で新政府軍と戦いながら、内部では藩の進むべき道をめぐる激しい対立を抱えることとなった。 藩論を二分した帰順派と抗戦派帰順派の勢力村上藩では、戊辰戦争への対応をめぐり、藩内で「帰順派」と「抗戦派」の対立が次第に激しくなっていった。帰順派は、新政府との戦闘を避け、恭順・帰順によって藩と領民の存続を図ろうとする勢力であり、その中心人物の一人が江坂与兵衛であった。江坂は先代藩主内藤信思の側用人として仕え、藩政改革や兵制改革を推進した実力者で、幕末の村上藩政に大きな影響力を持っていた。戊辰戦争が始まると、藩の置かれた状況を考慮して新政府への帰順を主張し、抗戦を続けることに反対した。また、筆頭家老の久永惣右衛門も帰順派に属していた。久永は鳥居三十郎の妻じゅんの父であり、三十郎にとって義父にあたる人物である。このため三十郎は、政治的には抗戦派の立場を取りながら、家庭的には帰順派の重臣と深く結びついていた。村上藩の藩論対立は単なる派閥争いではなく、家臣同士の人間関係や親族関係にも複雑に絡み合っていた。こうした対立は、やがて鳥居三十郎が藩の進路を決断し、村上城を離れて庄内方面へ向かう際にも大きな影響を及ぼすこととなった。 若い藩士を中心とする抗戦派これに対して、村上藩の若い藩士を中心に、新政府への徹底抗戦を主張する勢力が形成された。彼らは、旧幕府側に立って戦うことを単なる佐幕思想としてではなく、これまで仕えてきた主君や藩の名誉を守るための行動と考えていた。また、すでに奥羽越列藩同盟に加わり、会津・米沢・庄内などの諸藩とともに戦っている以上、途中で新政府へ帰順することは同盟諸藩への裏切りになるとの意識も強かった。特に庄内藩は村上藩にとって重要な隣接藩であり、抗戦派は庄内藩などの同盟勢力と連携して戦いを続けることを望んだ。一方、帰順派は新政府との戦闘によって城下や領民が被害を受けることを避け、藩の存続を優先しようとした。このため村上藩では、単に戦うか降伏するかという問題を超え、藩の将来と領民の安全をどう守るかをめぐる深刻な対立が生じた。鳥居三十郎、藩主を説得する村上藩では、戊辰戦争への対応をめぐって帰順派と抗戦派の対立が深まり、藩論を統一することが急務となっていた。当時、藩主内藤信民と前藩主内藤信思は江戸にとどまっており、国元の藩士たちの間では、藩主自身が帰国して藩内の混乱を収めることを求める声が強まっていた。そこで家老の鳥居三十郎が江戸へ派遣され、藩主父子の説得にあたった。三十郎の説得によって信民は帰国を決意し、慶応4年(1868)3月16日、会津を経由して村上へ帰国した。一方、前藩主信思はすぐには帰国せず、後に村上へ向かったものの、戦況の悪化によって国境を越えることができなかった。しかし、信民の帰国によって藩内の対立が解消されたわけではなかった。帰順派と抗戦派はそれぞれの主張を譲らず、6月末には帰順派の中心人物で、三十郎の妻じゅんの父でもある筆頭家老久永惣右衛門が蟄居謹慎を命じられた。抗戦派の勢力が藩政を握る中、信民は藩の進むべき道をめぐって深く苦悩することとなった。 そして慶応4年(1868)7月16日、内藤信民は19歳の若さで死去した。死因については自殺とする説が広く知られる一方、史料には病死とする記述もあり、慎重な扱いが必要である。 藩主を失った村上藩は藩主不在という異常な状態に陥り、以後の藩政と戦争への対応は、若い家老鳥居三十郎らの判断に大きく委ねられることとなった。 村上城をめぐる最後の決断慶応4年(1868)7月29日、長岡城と新潟港が相次いで新政府軍の手に落ち、さらに新発田藩も新政府側への帰順を決めた。これによって越後における奥羽越列藩同盟側の戦況は急速に悪化し、村上藩も各地へ派遣していた藩兵をいったん村上へ引き上げさせた。しかし、藩内ではなお帰順派と抗戦派の対立が続き、新政府軍に降伏するのか、それとも庄内藩などと連携して戦いを続けるのか、藩としての方針を決定できない状態にあった。こうした中、村上藩を支援するため庄内藩兵が村上城内へ入り、抗戦を求める圧力を強めた。8月10日、新政府軍が村上へ迫ると、城内では緊張が一段と高まった。しかし庄内藩兵は村上城に籠城するのではなく、羽越国境を固めて新政府軍を迎え撃つ態勢を整えた後、村上から撤退した。これによって、村上藩は自ら城を守るのか、降伏するのか、あるいは庄内へ退いて抗戦を続けるのか、最終的な決断を迫られることとなった。村上城下を戦火から救う決断8月11日の村上城慶応4年(1868)8月11日午前7時、新政府軍は新発田藩兵と越前藩兵を先鋒として、村上城への攻撃を開始した。新政府軍は進軍に際して城下の民家に火を放ったため、村上町はたちまち混乱と恐怖に包まれた。城内では、下渡門の内側にある桜馬場に藩士たちが集められ、今後の対応を決める最後の評定が開かれた。この席で、帰順派の中心人物である側用人江坂与兵衛に対し、抗戦派の若い藩士が斬りかかろうとする事件が起きた。しかし、鳥居三十郎はこれを制止し、藩士同士が争って血を流すことを防いだ。そのうえで三十郎は、自ら抗戦派を率いて戦うことを決断した。ただし、村上城に籠城すれば新政府軍との戦闘によって城と城下町が大きな被害を受けると判断し、城内での決戦を避け、戦場を庄内藩と連携できる羽越国境へ移す方針を示した。この決断が、後の村上城開城と三十郎ら抗戦派の庄内方面への退去につながった。村上城を捨てて北へ鳥居三十郎は、藩主内藤信民がすでに亡くなり、その同意を得ることもできない状況で、村上城を戦場にすれば城下町まで戦火に包まれ、多くの領民を犠牲にすることになると判断したと考えられる。城を守ることよりも、城下と領民を戦火から守ることを優先したのである。また、庄内藩と連携して羽越国境で戦えば、少数の村上藩兵だけで圧倒的な兵力を持つ新政府軍と戦うよりも、抗戦を続けられるとの判断もあったとみられる。三十郎は抗戦派の藩士らとともに籠城を断念し、約100人の藩士とその家族を率いて北方の庄内藩領を目指して村上を脱出した。当時、村上藩には下級武士を含め約700人の藩士がいたとされ、三条方面などでなお戦闘を続けていた藩士もいた。三十郎の決断によって村上城下での大規模な市街戦は避けられ、結果として町を戦火から守った人物として後世に語り継がれた。ただし、村上城本丸と藩主居館はこの混乱の中で焼失した。村上城の開城鳥居三十郎ら抗戦派が村上を脱出した後、城内に残った江坂与兵衛ら帰順派は、新政府軍に対して協力する姿勢を示した。そのため、新政府軍は城内から大きな抵抗を受けることなく村上城を接収し、村上町を占領することができた。村上城下では、本格的な籠城戦や市街戦が行われる事態は避けられたが、戦乱による被害を免れたわけではなかった。新政府軍の進軍に伴って民家が焼かれ、村上城本丸や藩主居館も焼失した。また、新政府軍の中には、新発田の本営から出されていた略奪禁止の命令に従わず、住民の家に勝手に入り込んで金品を奪う者もいたとされる。城下の住民にとっては、戦闘による直接的な被害だけでなく、火災や略奪によって生活の基盤を失うことも大きな打撃となった。こうして村上城は新政府軍の手に渡り、村上藩の戦いは主戦場を北方の庄内国境へ移していくこととなった。庄内領へ向かう鳥居隊鳥居三十郎ら抗戦派の一隊は、8月11日に村上を脱出した後、庄内藩の支援を求めて北へ向かった。8月12日午前10時過ぎには中継村(現在の村上市中継)を通過し、翌13日には羽越国境を越えて庄内藩領の小鍋村(現在の山形県鶴岡市小名部)へ到着した。ここで庄内藩兵と合流し、新政府軍の進攻に備えて国境の守備にあたることとなった。8月16日には、小鍋口の守備隊が編成され、庄内藩兵のほか、小鍋村の農兵約30人、庄内藩の新徴組約230人が配置された。これに抗戦派の村上藩兵も加わり、鳥居三十郎を総大将として戦闘部隊が整えられた。軍監には中根堪右衛門と杉浦新之助、隊長には島田丹治、青砥鋓太郎、鳥居外守、永田庄兵衛らが置かれ、各隊20~40人ほどで編成された。鳥居は鼠ヶ関の庄屋佐藤長右衛門の邸宅を宿営地とし、村上藩士を総指揮して羽越国境での戦闘に備えた。こうして鳥居らは庄内藩と連携し、新政府軍を迎え撃つ態勢を整えた。 羽越国境で始まる激戦新政府軍の三方面からの進撃慶応4年(1868)8月17日、新政府軍は村上を庄内藩攻撃のための補給基地とし、羽越国境へ向けた本格的な進軍を開始した。新政府軍は複数の部隊に分かれ、山間部と海岸部の双方から庄内藩領を目指した。主力となる山通り隊は、越前藩兵をはじめとする8藩の兵で構成され、出羽街道を北上した。一方、備中足守藩兵など4藩からなる別働隊は海岸沿いの出羽道を進み、鼠ヶ関口を目指した。また、新政府側に帰順した村上藩士には、庄内藩領への道案内を兼ねて越前藩兵に同行することが命じられた。山通りの主力部隊はさらに二手に分かれ、雷村を経て関川を攻撃する関川口部隊と、小俣村から小鍋方面へ進む小鍋口部隊が編成された。これに海岸側から進む鼠ヶ関口部隊を加え、羽越国境では関川口・小鍋口・鼠ヶ関口の三方面で新政府軍と庄内・村上両藩兵が対峙することとなった。小鍋口の防衛慶応4年(1868)8月18日、羽越国境の小鍋口では、新政府軍の進攻に備えて庄内藩と村上藩の守備体制が整えられた。庄内藩兵約200人に加え、鳥居三十郎率いる村上藩兵約100人が配置され、堀切峠付近に塹壕を掘り、土を盛って胸壁を築くなど、本格的な防御陣地を構築した。小鍋口は越後側から庄内藩領へ通じる重要な進路であり、新政府軍が小俣方面から進撃してくることが予想されたため、守備側にとって重要な拠点となった。また、小鍋口だけでなく、海岸側の鼠ヶ関口や山間部の関川口にも庄内・村上両藩の守備隊が配置され、羽越国境一帯で新政府軍を迎え撃つ態勢が整えられた。こうして8月中旬には、小鍋口・鼠ヶ関口・関川口を中心として戦線が形成され、村上藩の抗戦派は庄内藩と行動をともにしながら、本格的な国境防衛戦に入ることとなった。8月23日、庄内軍の夜襲慶応4年(1868)8月23日午前2時、庄内軍は羽越国境の新政府軍に対して夜襲を敢行した。浜手方面の部隊は、岩崎村に陣を構えていた新政府軍を攻撃してこれを撃退し、その後、岩崎村と府屋町に火を放った。さらに、大谷沢、堀ノ内、温手、塔の下など、現在の村上市旧山北町にあたる周辺の集落にも火が広がり、多くの家屋が焼失した。庄内軍は攻撃を終えると、午前7時ごろには鼠ヶ関方面へ引き揚げた。この時期の羽越国境では、敵軍の進撃路を遮断し、兵站や宿営地として利用されることを防ぐため、集落を焼き払う戦術がたびたび用いられた。こうした戦闘は単に兵士同士が戦うだけではなく、村落や農地、住居など住民の生活基盤そのものを破壊する結果をもたらした。羽越国境の戦いが長期化するにつれ、越後側の村々は大きな犠牲を強いられることとなった。8月26日、小鍋口で初めての本格的戦闘慶応4年(1868)8月26日、羽越国境の各地で戦闘が激化した。庄内軍は小鍋口への新政府軍の進攻を牽制するため、海岸側から進んでいた越前藩などの別働隊に奇襲を仕掛け、敵軍の注意をそらす作戦に出た。一方、小鍋口では午前11時ごろ、新政府軍が小俣村方面から進撃し、庄内藩と鳥居三十郎率いる抗戦派村上藩兵との間で本格的な戦闘が始まった。両軍は堀切峠付近で激しく交戦し、戦闘は日没まで続いた。この戦いでは、村上藩内の帰順派と抗戦派が敵味方に分かれて戦うという悲劇も起き、帰順派の牧大助と関菊太郎が銃弾に倒れた。また、新政府軍の攻撃によって小俣村は大きな被害を受け、集落は焼失して住民の生活基盤も失われた。さらに関川口の山熊田でも薩摩・高鍋藩兵が庄内・村上藩兵を攻撃したが、双方に多数の死傷者を出し、新政府軍側は退却した。この日を境に羽越国境の戦闘はさらに激しくなっていった。8月27日以降の戦闘慶応4年(1868)8月27日、庄内軍は新政府軍が本営を置いていた中継村を攻撃した。新政府軍の拠点として利用されることを防ぐため、庄内軍は村内の家屋に火を放ち、中継村は大きな被害を受けた。同じ日、奥羽越列藩同盟に加わって三条方面で戦っていた村上藩士の一団が、会津藩から米沢藩を経由して羽越国境へ戻り、鳥居三十郎率いる抗戦派部隊に合流した。これによって村上藩兵の戦力が増強され、国境での抗戦態勢がさらに強化された。また庄内藩は、新政府軍の海岸方面からの進撃に備え、鼠喰岩に大砲5門を据え付けて陣地を強化した。8月30日夕方には、抗戦派の村上藩士が大代村へ進出し、新政府軍に利用されることを防ぐため、村民に住居を焼き払わせる出来事も起きた。こうして戦線が広がるにつれ、越後側の村々では敵軍の進出を阻止するための焼き払いが相次ぎ、戦争による住民の被害は一段と深刻になっていった。9月1日、鼠喰岩の激戦慶応4年(1868)9月1日、新政府軍は海岸沿いの要衝である鼠喰岩に対して第2次総攻撃を開始した。新政府軍は大砲10門を前面に配置し、圧倒的な火力で庄内・村上両藩兵の防衛線を突破しようとした。これに対し、庄内藩兵と鳥居三十郎率いる村上藩兵も鼠喰岩周辺に兵力を集中させ、約450人で陣地を固めて迎え撃った。新政府軍は薩摩藩の軍艦「春日丸」から陸揚げした大砲を中浜に据え、砲身が焼けるほど激しい砲撃を加えたが、防衛線を突破することはできなかった。この戦闘で薩摩・土佐・越前・新発田藩兵は死者10人、負傷者46人を出して退却した。村上藩の島田丹治や青砥鋓太郎らは退却する新政府軍を追撃して突撃を敢行し、大きな戦果を挙げた。しかし、新政府軍の圧倒的な兵力を前に村上藩兵も次第に後退を余儀なくされ、戦線は膠着状態となった。9月10~11日、関川口の戦い慶応4年(1868)9月10日夜、悪天候を突いて新政府軍の奇襲隊が羽越国境東端の山間部へ進出し、雷峠から関川方面へ迂回して庄内・村上両藩兵の側面を突く攻撃を仕掛けた。翌11日、新政府軍は関川口の守備隊に対して攻撃を強め、村上・庄内両藩兵は正面と側面から挟撃される形となった。守備隊は激しく抵抗したものの戦線を維持できず、各部隊は敗走を余儀なくされた。この戦闘では村上藩士の浅井土左衛門が新政府軍の捕虜となったが、降伏を拒んだため斬首された。また、重傷を負った村上藩士の梅沢吉三郎は敵の手に落ちることを避け、自決した。その後、村上・庄内両藩兵は関川方面で失った陣地を奪還するため反撃を試みたが、戦線を回復することはできなかった。以後、羽越国境では両軍が対峙する状態が続き、戦況は大きく動かないまま膠着状態となった。同盟諸藩の降伏と庄内藩の決断慶応4年(1868)9月に入ると、奥羽越列藩同盟を支えていた諸藩が相次いで降伏し、庄内・村上側の戦況は急速に厳しくなった。9月4日には米沢藩が新政府軍に降伏し、9月15日には仙台藩も降伏した。さらに9月16日、庄内藩主酒井忠発は、新政府に対して謝罪して降伏する方針を決定した。しかし、この決定は羽越国境の前線にいた兵士たちには直ちに伝わらず、戦闘はその後もしばらく続いた。9月17日夜には、庄内軍の兵士4人と農民らによって岩石村に再び火が放たれ、戦火による被害が続いた。9月22日、会津藩は約1か月にわたる籠城戦の末、鶴ヶ城を落城させた。この知らせは9月25日には庄内側にも伝わり、鳥居三十郎ら村上藩の抗戦派も、庄内藩が新政府軍に対して謝罪嘆願書を提出する方針を知ることとなった。米沢、仙台、会津など、これまで抗戦を支えてきた諸藩が次々と降伏し、最後の大きな支援勢力であった庄内藩まで降伏を決めたことで、鳥居らも戦いを継続することが困難になったと判断した。9月27日、庄内藩は正式に降伏を申し入れ、新政府軍は鶴岡城へ入城した。これによって羽越国境で続いた戦闘も終結へ向かうこととなった。 羽越国境の戦争が残した被害慶応4年(1868)8月から9月にかけて、羽越国境では新政府軍と庄内・村上両藩兵による激しい戦闘が1か月以上にわたって続いた。その主な戦場となったのは、現在の村上市旧山北町一帯や関川村など、越後側の集落であった。岩崎、府屋、大谷沢、堀ノ内、温手、塔の下、小俣、中継、岩石、山熊田などでは、戦闘や敵軍の進出を防ぐための放火によって家屋が焼失し、集落そのものが大きな被害を受けた。住民は住居だけでなく、農具や生活用品、場合によっては収穫前の農作物なども失い、生活の基盤を奪われた。戦争が終結した後も、家を失った住民たちは仮住まいを確保し、焼失した家屋や田畑を再建するなど、生活を立て直すため長い苦労を強いられた。羽越国境の戦いは、鳥居三十郎ら村上藩士と新政府軍との軍事的対立にとどまらず、越後北部の農村や町の住民を直接戦火に巻き込み、地域社会に深い傷跡を残す戦争となった。村上への帰還と謹慎慶応4年(1868)9月27日に庄内藩が降伏すると、羽越国境で戦っていた村上藩の抗戦派も戦闘を終結させ、村上への帰還を進めることとなった。9月29日、鳥居三十郎とともに戦った抗戦派の家老・奉行・藩士ら100余人は武装を解除し、村上へ戻った。帰還した藩士たちは、それぞれ寺院に分かれて収容され、謹慎生活を送ることになった。一方、鳥居三十郎は庄内藩領に残り、戦後の残務処理などにあたったため、村上へ戻ったのは10月7日であった。庄内で鳥居が陣屋として使用した鼠ヶ関の庄屋佐藤長右衛門家には、三十郎が着用した赤い陣羽織が残され、現在まで伝えられている。村上へ戻った三十郎は鷹匠町の善龍寺に入り、そこで家老嶋田直枝に降状を提出した。こうして三十郎は戦争の責任を負う立場として謹慎生活に入り、その後、新政府による取り調べを受けることとなった。鳥居三十郎をめぐる政治的対立戊辰戦争終結後の村上では、藩の再建と存続をめぐって帰順派と抗戦派の対立がなお続いていた。帰順派の久永惣右衛門らは、旧藩主内藤信思(藤翁侯)の復位を実現し、村上藩の存続を図ろうと動いていた。これに対して、庄内藩とともに最後まで新政府軍への抗戦を続けた鳥居三十郎らは、帰順派から見れば藩の再建を進めるうえで障害となる存在となった。こうした政治的対立の中、10月25日、新政府は戊辰戦争における「戦争犯罪人」として、鳥居三十郎ら首謀者16人の取り調べを命じた。さらに新発田の総督府参謀からも、村上藩の「叛逆」の首謀者として三十郎が名指しされた。藩主内藤信民の死によって藩主不在となった村上藩を指導し、庄内藩と連携して抗戦を続けた三十郎は、その責任を一身に負う立場となり、やがて処罰の対象として厳しい取り調べを受けることとなった。村上藩の存続と三十郎への処罰明治2年(1869)2月2日、旧藩主内藤信思(藤翁侯)に対する謹慎と謝罪嘆願が認められ、村上藩5万石は存続を許された。藩主家の存続が決まる一方、新たな藩主として岸和田藩主の子である岡部三十郎(後の内藤信美)を養子に迎えることも決定した。これによって村上藩は取り潰しを免れたが、戊辰戦争で新政府に抗戦した責任を問われる人物を定める必要が生じた。その責任を一身に引き受ける立場となったのが、抗戦派を率いた家老鳥居三十郎であった。明治2年(1869)3月23日、鳥居三十郎は東京へ呼び出され、渋谷の村上藩邸で謹慎した。その後、新政府による取り調べが行われ、戊辰戦争において村上藩を率いて庄内藩とともに抗戦した責任を問われた。取り調べの結果、5月14日に斬首による死罪が言い渡され、処刑は村上で行うことと決定された。村上藩の存続と引き換えに、三十郎が藩の抗戦責任を背負う形となった。 村上での最期明治2年(1869)5月14日に死罪の判決を受けた鳥居三十郎は、処刑のため身柄を村上へ移され、6月3日に到着した。そのまま安泰寺に幽閉され、6月21日に処刑される予定となった。しかし、村上町民の間では、戊辰戦争中に城下での市街戦を避け、領民への被害を抑えようとした三十郎の行動に対する同情が次第に広がっていった。そのような中、処刑予定日の前日にあたる6月20日、帰順派の中心人物であった江坂与兵衛が、抗戦派藩士の島田鉄弥らによって暗殺される事件が起きた。江坂は村上藩の帰順を主張し、戊辰戦争後には藩の再建を進める上で重要な立場にあった人物である。この暗殺事件によって村上の情勢はさらに緊迫し、三十郎の処刑にも影響を及ぼした。政府の命令に基づく処刑であったが、事件後の混乱を考慮して処刑日は延期され、当初予定されていた6月21日から6月25日へ変更された。三十郎は安泰寺で最期の日を待つこととなった。 斬首を免れ、切腹した鳥居三十郎明治2年(1869)6月25日夕刻、安泰寺に幽閉されていた鳥居三十郎は、最期の時を迎えた。政府からは斬首による死刑が命じられていたが、村上藩はこれをそのまま執行せず、三十郎に切腹させるという形をとった。戊辰戦争で抗戦派を率いた三十郎に対し、武士としての最期を遂げさせる措置であったと考えられる。処刑の日、妻のじゅんは幼い娘の光(てる)を伴って安泰寺を訪れた。しかし、三十郎との最後の面会は許されなかったという。介錯を務めたのは、戊辰戦争で三十郎とともに庄内藩領で戦った抗戦派藩士の山口生四郎であった。 三十郎は最期に「淡雪と共に我が身は消ゆるとも 千代萬代に名をぞ残さん」との辞世を残し、従容として切腹した。29歳という若さで、その生涯を閉じたことになる。翌6月26日、遺体は村上市内の宝光寺に埋葬された。村上藩の抗戦責任を一身に背負った三十郎の死は、後世まで村上の戊辰戦争を象徴する出来事として伝えられることとなった。 鳥居家の再興と三十郎の遺したもの鳥居三十郎の死後、鳥居家は家名断絶となったが、明治16年(1883)に再興が認められた。三十郎の一人娘・光(てる)が江坂二郎を婿養子に迎え、鳥居家の家名を継いだ。こうして、三十郎の死によって途絶えた家系は、娘の光を通じて再び存続することとなった。鳥居三十郎は、戊辰戦争において村上藩の抗戦派を率いた家老として知られる一方、村上城下を戦火から守るため、籠城を避けて羽越国境へ戦場を移した人物として後世に伝えられている。慶応4年(1868)8月11日、村上城での最後の評定において三十郎が下した「城下を戦場にしない」という判断は、その人物像を考えるうえで重要な意味を持つ。抗戦を放棄したのではなく、庄内藩と連携して羽越国境で戦うことで、村上の町を大規模な市街戦から守ろうとしたのである。 しかし、その後の戦闘では旧山北町や関川村などの集落が戦火に巻き込まれ、多くの家屋が焼失した。村上城下を守った一方で、三十郎らが戦った地域にも甚大な被害が生じたことは見落とせない。29歳で処刑された三十郎は、戊辰戦争における村上藩の抗戦責任を一身に背負った存在となった。その一方、領民への被害を抑えようとした行動は村上町民の記憶に残り、同情と敬意を集めた。辞世の歌とともに、その生涯は現在まで語り継がれている。 ☯2019年8月31日、東京都に住む鳥居三十郎の子孫が、村上市郷土資料館を訪れ、これまで所蔵してきた鳥居家に伝わる品々約50点を寄付。中には、三十郎が切腹の儀式を前に煎茶を服した「煎茶茶碗」や扇面に記された三十郎直筆の辞世がある。
🔶鼠喰岩(ねずみかじりいわ)海岸沿いの岩にネズミがかじったような穴があいた様子からついた地名といわれている。現在は国道工事の結果、ほとんど姿が変わって、戦いが行われた当時の面影はない。穴の開いた岩が浜辺沿いに見られる。また記念碑も特にないが、新政府軍の戦死者の霊を弔った「十三仏」が国道沿いにある。 ≪村上城≫ |

鳥居三十郎 

