鳥居三十郎 村上市
村上城 鳥居三十郎 村上頼勝村上藩の戊辰戦争≪鳥居三十郎と戊辰戦争≫天保12年(1841)10月〔生〕 - 明治2年6月25日〔没〕鳥居三十郎は代々村上藩の家老職についた鳥居家の嫡男として、村上城下三の丸にて誕生した。父は村上藩家老の鳥居内蔵助和利。弟は新潟亘家を創設した和順。慶応元年(1865年)9月、25歳で筆頭家老久永惣右衛門の娘じゅんと結婚。翌年には一人娘の光(てる)が誕生している。 〔藩論の対立〕内藤家は藩祖信成が松平広忠の子といわれ、家康の異母弟とされている。こうした系譜から、小藩ながら藩主が老中など幕府の要職に就いている。もともと佐幕色の風潮が強い藩であった。先の藩主信思は、文久2(1862)年の隠居後も幕政とかかわり、鳥羽伏見戦で江戸城留守居に任ぜられた。村上藩主父子はこれを理由に江戸にとどまっていた。 新政府の鎮撫使が慶応4年(1868)2月越後に入国、その使者が村上に来訪、村上藩は家老脇田蔵人の名で恭順を誓う書状を提出していた。しかし村上藩は東を会津藩と米沢藩、北を庄内藩に接し、藩の決定には常に大藩からの圧力を受けていたことから、1868年(慶応4)5月6日、奥羽越列藩同盟に加盟し、戊辰戦争に参戦することとなった。 5月9日、150人の藩兵が三条の警備に派遣されたのをきっかけに、長岡・会津・米沢藩などとともに、越後各地で戦闘に参加した。 5月22日、桑名領加茂町市川邸において、奥羽越列藩同盟により、新政府軍に対抗するための加茂軍議が開かれた。村上藩は列藩同盟の一員として、藩兵150名は会津藩佐川官兵衛総指揮下で与板方面の攻撃に向かった。5月27日、28日には金ケ崎で同盟軍先鋒として与板藩と闘っている。 しかし藩内では、帰順派と抗戦派が藩論を二分していた。帰順派には先代の藩主内藤信思の側用人として藩政改革や兵制改革を実行した実力者江坂与兵衛がいて強い影響力を持っていた。三十郎の妻の父である筆頭家老久永惣右衛門も帰順派であった。 一方、若い藩士の中に、強硬な抗戦派が多く、対立は複雑であった。 藩の意志を統一するため、家老鳥居三十郎が江戸に派遣され、藩主父子を説得、藩主信民を帰国させた。しかし対立は一向におさまらなかった。6月末には佐幕派が帰順派家老久永惣右衛門を蟄居謹慎に追い込んでいる。 第8代藩主内藤信民は藩内における方針対立に苦しみ、慶応4年(1868)7月16日に首を吊って自殺(享年19)し、藩主不在の状態となった。藩政のかじとりが鳥居三十郎らにゆだねられた。 7月29日、長岡城・新潟港が陥落、新発田藩が帰順したことから、村上藩も一旦、兵を藩に引き上げたが藩論は抗戦か帰順か統一できずにいた。こうした中、村上藩に助力するとして庄内藩兵が城内に入り込んできて圧力をかけた。 8月10日、新政府軍が村上に接近してきたが、帰順派と佐幕派の間の紛糾は収拾を見なかった.。庄内藩から乗り込んできた藩兵たちは、国境を固め、新政府軍に対峙すると村上藩から撤退していった。 〔三十郎の戦いと死〕8月11日午前7時、新政府軍は新発田・越前藩兵を先鋒に村上城の攻撃を開始した。民家に火を放って進軍を始めたことから、市中は混乱した。最後の評定が、城内下渡門の内側にある桜馬場と呼ばれる広場に、藩士を集め行われた。この席で帰順派の代表側用人江坂与兵衛を抗戦派の若い藩士が斬ろうとしたとき、家老鳥居三十郎がこれを制止して、自ら指揮し、村上城での決戦を避けて戦場を羽越国境に求めると表明した。それは藩主不在で、その同意も得られない中、自分たちの信念を通して、城と城下を戦火に巻き込むことはかえって忠義に反するのではないか。庄内藩に与力して戦ったほうが、僅かな兵で独力で新政府軍と戦うよりも、効果的に抗戦できるのではないかと考えたと思われる。 鳥居と抗戦派の藩士らは籠城をあきらめ、約100名とその家族たちを率いて村上を脱出し、北の庄内藩を目指した。 当時村上藩全体で、下級武士を含めて700名の藩士がいたという。そのうちには、三条方面で、まだ、戦い続けている村上藩士もいた。 この時の鳥居の判断が、結果として村上町を戦火から救い、鳥居三十郎は村上町人の恩人となった。しかし、この際の混乱の中で村上城本丸・居館は全焼した。 城に残った江坂与兵衛ら帰順派が協力を申し出たので、新政府軍は抵抗を受けず村上城を開城させ、村上町を占領することができた。村上に侵攻した新政府軍の兵士の中には、新発田の本営が出した略奪禁止令をにもかかわらず、勝手に民家に押し入り、略奪を始めた者もいた。 鳥居ら一隊は8月12日午前10時過ぎ中継村(村上市中継)を通過、翌13日ようやく小鍋村(山形県鶴岡市小名部)へたどり着いた。 8月16日、抗戦派村上藩部隊は小鍋村の農兵30人、庄内藩「新徴組幕府によって組織された浪士隊で、元治元年(1864)には庄内藩預りとなり、江戸市中の取り締まりを行った。戊辰戦争では、新徴組隊士は庄内藩士と同格に扱われ、家族を連れて庄内入りした。」230余人と小鍋口の警備の配置についた。 抗戦派村上藩部隊の編成は鳥居三十郎を総大将とし、 (軍監) ・中根堪右衛門 ・杉浦新之助 (隊長) ・島田丹治 隊員23人 ・青砥鋓太郎 隊員23人 ・鳥居外守 永田庄兵衛 隊員40人の編成となった。 鳥居三十郎は鼠ヶ関の庄屋佐藤長右衛門の邸宅(※地図)を宿営にして村上藩士の総指揮をとった。 8月17日、新政府軍は村上を補給基地にし、本隊は主力の越前藩ほか8藩で構成され、山通りの出羽街道を北上した。別働隊の備中足守藩ほか4藩は海通りの出羽道を北進し鼠ヶ関口に向かった。帰順派の村上藩士に対しては、庄内藩攻撃の道先案内を兼ね越前藩の先導が申し付けられ、本隊の山通り隊に同行した。 本隊山通り隊は雷村(村上市雷)経由で関川村(鶴岡市関川)を突く関川口部隊、小俣村(村上市小俣)から小鍋(鶴岡市小名部)へ攻め入る小鍋口部隊に別れ、新政府軍は合わせて三戦線となった。 8月18日、小鍋口で庄内兵200名と村上兵100余名は堀切峠付近に塹壕を掘り、胸壁を築き新政府軍本隊の攻撃に備えた。また鼠ヶ関口、関川口でも守備隊が陣容を整えた。 8月23日午前2時、庄内軍が夜襲を敢行、浜手隊は岩崎村(村上市岩崎)に陣取る新政府軍を撃退し、同村と府屋町(村上市府屋)へ火をかける。また、大谷沢・堀ノ内・温手・塔の下(いずれも村上市旧山北町)の村々を焼き払い、午前7時頃鼠ヶ関へ引き揚げた。 8月26日午前8時頃、小鍋口の攻撃を牽制するため庄内兵が、海通りの越前の別働隊と土佐、小松藩兵に奇襲攻撃をかけ、岩石村が焼かれる。午後9時には庄内軍が中浜村に火を放つ。 羽越国境小鍋口では、午前11時に新政府軍と抗戦派村上藩士の間で初めて戦闘が行われる。新政府軍が小俣村から進撃、日暮れまで必死の攻防戦となり、堀切峠での戦闘では、村上藩士同士で戦い、帰順派の牧大助と関菊太郎が銃弾に倒れた。この戦闘で小俣村は灰燼に帰した。また、関川口山熊田では、薩摩と高鍋兵が守備する庄内兵と村上兵を攻撃するが、多くの死傷者を出し退却する。 8月27日、庄内兵は、新政府軍本隊が本営を置いた中継村を攻撃し、全村を焼き尽くした。またこの日同盟軍に参加し三条で戦い、会津藩から米沢藩経由で引き揚げてきた抗戦派藩士が多数村上兵に加わった。庄内藩は海通りの鼠喰岩に大砲5門を据え付け陣地を強化した。 8月30日夕方、抗戦派村上藩士らが、大代村(村上市大代)に来て、新政府軍の陣地となるのをおそれ、村民に命じ住居を焼き払わせている。 9月1日、新政府軍は海岸通りの隘路鼠喰岩で、大砲10門を前面に立て第2次総攻撃を開始し、火力で切り開く作戦に出た。村上藩兵と庄内藩兵もここに集中し、およそ450名が守る鼠喰岩などで激しい戦闘が行われた。新政府軍は、薩摩藩の軍艦春日丸から陸揚げした大砲を中浜に据え、砲身が焼けるほど砲撃をおこなったが戦果はなかった。※ストリートビュー この戦闘で、薩摩・土佐・越前・新発田藩は死者10人、負傷者46人を出して退却した。村上藩島田丹治、青砥鋓太郎らは退却する新政府軍に突撃をかけ大きな戦果をあげた。しかし、圧倒的兵数の新政府軍を前にして、村上兵は引き揚げざるをえず、膠着状態となった。 9月10日、この夜悪天候の中、新政府軍奇襲隊は羽越国境の最東部、山あいの関川口、雷峠~関川に迂回隊による奇襲攻撃をかけ、9月11日、挟み撃ちとなった村上藩兵と庄内藩兵は敗走した。この戦いで村上藩浅井土左衛門が捕虜となり、降伏を拒否し、斬首された。また重傷を負った梅沢吉三郎は自決した。※ストリートビュー この後、村上・庄内藩兵は関川で奪還作戦を実行するが、成果はなく、以後、こう着状態が続いた。 9月4日には米沢藩が降伏、15日には仙台藩も降伏している。9月16日には庄内藩酒井忠発藩主の決断で謝罪降伏が決定し、新政府軍との交渉が行われていた。これは、前線にいた兵には伝えられず、激しい戦いが続けられていた。 9月17日夜には、庄内軍の兵士4人と農民たちの手によりふたたび岩石村に火がかけられた。 9月22日会津藩は1か月の籠城戦の末、遂に鶴ヶ城が落城。25日には庄内藩にもその情報が入り、鳥居三十郎たちも庄内藩が、謝罪嘆願書を提出するということを知った。後ろ盾となる友藩が次々落城し、鳥居ら抗戦派村上藩兵は戦いを継続する意味が無くなったことを理解した。 9月27日に庄内藩酒井忠篤が降伏を申し入れ、新政府軍が鶴岡城に入城した。 この1か月以上にわたる羽越国境での戦闘で、主戦場となったのは越後側の村々であった。村上市の旧山北町や関川村では地区全体が焼け野原となるなど甚大な被害を被った。家を焼かれ住む場所を失った住民たちは、村の再建に大変苦労したという。 9月29日、鳥居三十郎とともに戦った抗戦派の家老や奉行や兵士100余人は、武装解除し村上に帰り、寺に分宿し謹慎した。鳥居三十郎は残務を行い、村上に帰ったのは10月7日であった。このとき、陣屋として利用した佐藤家に、三十郎が着用した赤い陣羽織が残され、今に伝えられている。三十郎は鷹匠町の善龍寺に着き、家老嶋田直枝に降状を届け出た。 他方村上の町では帰順派の久永惣右衛門らが、藤翁侯(元藩主内藤信親)の復位によって藩の存続を図ろうと画策していた。こうした中で、抗戦派の鳥居三十郎らは障害以外の何物でもなかった。 10月25日、新政府より、戦争犯罪人として鳥居三十郎ら首謀者16人の取り調べが命じられる。新発田の総督府参謀から村上藩叛逆の首謀者として鳥居三十郎が指名された。 明治2年(1869)2月2日、藤翁侯の謹慎と謝罪嘆願が認められ、村上藩5万石は安堵、岸和田藩主の子、岡部三十郎(内藤信美)が養子となって新しい藩主と決まった。 明治2年(1869)3月23日、全藩の責任を一身に負い、鳥居三十郎は東京へ呼び出されて、渋谷の藩邸に入り謹慎した。 取調べの後に明治2年(1869)5月14日、斬首による死罪が言い渡された。処刑は村上藩で行うこととなった。 その後、処刑のために身柄は村上に送られ、6月3日に村上に着き、そのまま安泰寺に幽閉され21日が処刑と決まった。村上町民の同情が三十郎に集まった。処刑前の6月20日、三十郎を陥れたとして江坂与兵衛(48歳)が抗戦派藩士島田鉄弥らに暗殺されるという事件が起きた。このため三十郎の処刑は6月25日に延期された。 明治2年(1869)6月25日夕刻、村上藩は斬首という政府の命令を無視して、安泰寺において、三十郎は切腹した。妻じゅんは、娘光をともなって寺を訪れたが、面会は認められなかったという。抗戦派藩士として三十郎とともに戦った山口生四郎が介錯をつとめた。 三十郎は、「淡雪と共に我が身は消ゆるとも千代萬代に名をぞ残さん」の辞世の歌を残して従容として切腹。29歳の人生を終わった。遺体は翌日、市内の宝光寺に埋葬された。 鳥居家は家名断絶となるが、明治16年(1883)に家名は再興された。子の光が江坂二郎を婿養子に迎え鳥居家を再興した。 ☯2019年8月31日、東京都に住む鳥居三十郎の子孫が、村上市郷土資料館を訪れ、これまで所蔵してきた鳥居家に伝わる品々約50点を寄付。中には、三十郎が切腹の儀式を前に煎茶を服した「煎茶茶碗」や扇面に記された三十郎直筆の辞世がある。 🔶鼠喰岩(ねずみかじりいわ)海岸沿いの岩にネズミがかじったような穴があいた様子からついた地名といわれている。現在は国道工事の結果、ほとんど姿が変わって、戦いが行われた当時の面影はない。穴の開いた岩が浜辺沿いに見られる。また記念碑も特にないが、新政府軍の戦死者の霊を弔った「十三仏」が国道沿いにある。 ≪村上城≫ |