枡形山城跡 Masugatayama Castle Ruins 長岡市



🔗甘糟長重(景持) 🔗三条城

桝形城は、長岡市飯塚に位置し、信濃川左岸に連なる八石丘陵の半独立峰である標高299m桝形山の山頂部に築かれている。
城山は「桝形山自然公園」として整備されており、山頂部の本丸からは眼下に越後平野、弥彦山などが眺望できる景勝の地である。

桝形城は甘糟氏が築城したといわれているが、その年代は不明である。甘糟氏は上野国の豪族で南北朝の動乱時代、新田義貞に従軍した。のち上杉憲顕に仕え、越後に入ったと伝えられている。

山頂部に本丸を置き、本丸跡は東西15m、南北80mと広く、ここに枡形山神社(石祠)と枡形城址保存会の石碑が立つ。
本丸南側の横堀を隔てて二の丸・現在の駐車場辺りが三の丸で、南東の尾根筋が大手となっている。
二の丸下方の殿様清水は、枡形城の水源で現在も滾々と湧き出している。




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甘糟長重(景持)

?〔生〕- 慶長9年(1604)6月26日〔没〕

上杉家を支えた名将

甘糟長重(あまかす ながしげ)は、のちに上杉景虎から偏諱を受けて景持(かげもち)と改名した上杉氏屈指の武将である。生年や出生地は史料に残っておらず、その出自には不明な点が多い。しかし、上杉謙信・景勝の二代に仕え、数々の戦場で武功を重ねたことで、その名は戦国武将の中でも高く評価されている。
とりわけ永禄4年(1561)の第四回川中島の戦いでは、上杉軍の殿軍を務めて全軍を救った勇将として知られる。敵方である武田氏の記録『甲陽軍鑑』にも「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」と記されるほどであり、その武勇は敵からも認められていた。

謙信に仕えた若き武将

長重が歴史上に姿を現す頃には、すでに上杉家の有力武将となっていた。春日山城を本拠とする上杉謙信は、関東・北信濃・越中へ勢力を広げる一方、武田信玄と激しい抗争を繰り返していた。
長重は近江守を名乗り、侍大将として軍勢を率いた。戦場では先陣を切るだけでなく、軍全体を統率する指揮官としても重責を担い、謙信から厚い信頼を受けていた。

川中島の戦いで見せた殿軍の奮戦

長重最大の武功となったのが、永禄4年9月10日の第四回川中島の戦いである。武田軍は妻女山の上杉軍を挟撃する「啄木鳥戦法」を計画したが、謙信はその意図を見抜き、夜陰に乗じて軍勢を移動させた。夜のうちに妻女山を下った上杉軍は千曲川を渡り、八幡原で武田本隊の目前に姿を現した。
午前8時頃、柿崎景家を先鋒とする上杉軍は車懸りの戦法で武田軍へ猛烈な攻撃を仕掛けた。不意を突かれた武田軍は防戦を強いられ、戦場は激しい白兵戦となる。しかし武田本陣を完全に崩すまでには至らなかった。
午前10時頃になると、高坂昌信・馬場信房らが率いる武田軍別働隊約一万二千が八幡原へ到着し、戦局は一変する。挟撃される危険を察した謙信は善光寺への撤退を決断した。
ここで長重は殿軍を任され、千曲川付近に隊列を築いて武田軍別働隊を迎え撃った。圧倒的な兵力差にもかかわらず激しく抵抗し、追撃を食い止めたことで、上杉軍本隊は秩序を失うことなく犀川を渡り、善光寺まで無事に退却することができた。
長重の奮戦ぶりは武田軍にも強烈な印象を与え、多くの兵が「謙信自身が殿軍を務めている」と思い違いしたという。この逸話は長重の勇猛さを象徴するものとして後世まで語り継がれている。

謙信没後も景勝を支える

川中島以後も長重は謙信の有力武将として各地を転戦し、越後・北信濃・越中をめぐる戦いで上杉軍の中核を担い続けた。天正6年(1578)、謙信が急死すると、上杉家では御館の乱が勃発する。景勝と景虎による家督争いは家中を二分する大事件となったが、長重は最終的に景勝に従い、その後も重臣として仕え続けた。景虎から偏諱を受けて景持と改名した経緯を持ちながらも、乱後は景勝政権の重要な武将として引き続き活躍した。

新発田重家の乱で兵站を守る

天正10年(1582)、新発田重家が織田信長と結んで景勝に反旗を翻すと、越後北部は長期戦の舞台となった。長重は景勝から三条城将を命じられ、木場城の支援や新潟城・沼垂城攻略を支える兵站基地の守備という重要な任務を担った。三条城は兵糧や武器を前線へ送り出す拠点であり、その防衛は戦局を左右する責務だった。
派手な武勇だけではなく、大軍を維持するための補給や拠点管理まで任されていたことは、景勝から寄せられた信頼の深さを物語っている。

鉄砲大将として戦功を挙げる

天正14年(1586)の新発田征伐では第二陣に加わり、鉄砲大将として出陣した。8月18日の戦いでは鉄砲隊を率いて敵将を討ち取る戦功を挙げ、その働きを景勝から高く評価された。同年10月29日には感状を授けられ、功績が正式に認められている。
この頃の長重は、若き日の豪勇だけでなく、経験豊富な指揮官として軍全体を率いる存在となっていた。

会津から米沢へ

豊臣秀吉による天下統一が進むと、上杉家も豊臣政権の有力大名となる。慶長3年(1598)、景勝は会津百二十万石へ移封となり、長重もこれに従って会津へ移住した。この移封によって、長年拠点となっていた枡形城は役目を終え、廃城となった。
しかし、その後の関ヶ原の戦いによって上杉家は三十万石へ減封され、米沢へ移ることとなる。長重も景勝とともに米沢へ移り、新たな領国経営に携わった。

最後まで貫いた忠義

慶長9年6月26日(1604年7月22日)、長重は米沢で死去した。享年は不明だが、戦国時代前半から江戸時代初頭までを生き抜き、謙信・景勝という二代の当主を支え続けた武将としてその生涯を閉じた。
甘粕氏歴代の墓所は山形県米沢市の栄松寺にあり、現在も一族の歴史を伝えている。また、春日山城跡には「甘糟近江守址」の碑が建てられ、長重の旗指物は米沢市上杉博物館に所蔵されている。
長重の生涯は、華々しい一騎討ちだけではなく、軍全体を支える働きによって築かれたものだった。川中島では殿軍として上杉軍を救い、新発田重家の乱では兵站基地を守り、鉄砲大将として戦功を挙げた。その武勇は敵味方を超えて称賛され、『甲陽軍鑑』にまで名を刻まれた。上杉家の存亡を左右する数々の戦いで重要な役割を果たし続けた甘糟長重(景持)は、戦国時代を代表する忠勇の武将の一人として高く評価されている。

  • 没後 年が経過しました。

  • 甘糟長重〔景持〕の墓所
    〔所在地〕 山形県米沢市城西2丁目4-61 栄松寺


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三条城

最初に城が築かれた時期は不明だが、平安時代に三条左衛門が築いたといわれ、前九年の役の後、越後に逃れた黒鳥兵衛によって攻め落とされたという。
南北朝時代には南朝方の池氏が拠点とした。戦国時代は代々山吉氏の居城となっていたが、木場城に移されたのち神余親綱が入った。神余親綱は御館の乱で景虎方につき敗れて自刃した。
新発田重家の乱が起ると、上杉景勝は甘糟近江守を三条城城主として、これに備えた。
慶長3年(1598) 上杉景勝の会津移封後は堀秀治の家老堀直政が城主となったが、慶長15年(1610)に堀家が改易になると三条城は廃城となった。
現在、石碑があるのみで、遺構は何も残っていない。
元和2年(1616)、市橋長勝が転封され在城した三条城は、信濃川の対岸東側にあらたに築城したものである。

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