上杉謙信 謙信は大酒豪 春日山城🔗誕生~越後国統一 🔗天下平定 🔗合戦地図 (関東派兵、北条氏・武田氏との戦い)春日山城へ帰還した若き当主(1548~1553)雪の春日山城へ帰る天文17年(1548)12月晦日、19歳の長尾景虎は雪深い春日山城へ入城した。栃尾城で数々の戦功を挙げた若武者は、兄・長尾晴景に代わって長尾家の家督と越後守護代の地位を継ぐことになった。この継承は兄弟が武力で決着をつけた結果ではない。越後守護・上杉定実が内乱による国の崩壊を恐れ、晴景を説得して隠居させ、景虎を養子として迎えることで成立したものである。しかし、それで越後が一つにまとまったわけではなかった。各地の国人たちは強大な勢力を持ち、若い当主の力量を見極めようとしていた。 春日山城は父・長尾為景が大改修を施した巨大な山城である。標高約180メートルの春日山全体を城郭化し、尾根ごとに曲輪を築き、本丸の周囲には直江氏や柿崎氏など重臣の屋敷が配置されていた。戦となれば山全体が一つの要塞となり、平時には城下町を見渡す政治の中心でもあった。 『北越軍談』には、入城の日、雪の城門前で家臣たちが槍を立てて迎え、景虎は静かに馬を進めたと伝えられる。また「龍のような雲が春日山の空を覆っていた」と語る伝承も残る。史実ではないとしても、人々が若き当主へ寄せた期待の大きさを物語る話である。 義兄・長尾政景との対立景虎の前へ最初に立ちはだかった大きな壁が、坂戸城主・長尾政景だった。政景は上田長尾氏の当主であり、景虎の姉・仙桃院の夫でもある。義兄にあたる人物だったが、長尾家の家督が若い景虎へ渡ったことに強い不満を抱いていた。天文19年(1550)、政景は坂戸城へ籠もって反旗を翻す。坂戸城は魚沼盆地を見下ろす坂戸山全体を利用した天然の要害である。景虎は軍を率いて包囲するが、無理な総攻撃は避けた。『北越軍談』には、この時景虎が兵へ向かって「城を落とすより、人の心を落とせ」と命じたと伝えられる。実際にその言葉があったかは定かではないが、力押しよりも和睦を重視した景虎の姿勢を象徴する逸話となっている。 翌天文20年(1551)、政景は起請文を提出して降伏した。景虎は政景を討たず、その後も重臣として遇する。そして政景の子・喜平次、後の上杉景勝を春日山で養育することになる。この時は誰も知らなかったが、この少年が後に上杉家を継ぐことになるのである。 守護家断絶と越後国主天文19年(1550)2月26日、越後守護・上杉定実が後継者を残さず死去した。室町時代以来続いた越後守護上杉家はここで断絶する。これによって景虎の立場は大きく変わった。将軍足利義輝は白傘袋や毛氈鞍覆の使用を許し、景虎を事実上の越後国主として認めたのである。将軍から正式に権威を与えられたことで、景虎は一地方の武将ではなく、幕府を支える有力大名として扱われるようになった。この頃の景虎は家臣団の整備にも力を入れた。直江実綱を政務の要とし、柿崎景家には軍事を任せ、宇佐美定満ら歴戦の武将も重用した。評定では年長の重臣たちの意見を聞きながらも、最後は自ら判断を下したという。若殿と呼ばれていた景虎は、この頃から家臣たちに「殿」と呼ばれるようになったとも伝えられる。 春日山城での暮らし景虎は豪華な生活を好まなかった。食事は粟飯や味噌汁程度で済ませることが多く、兵と同じものを食べたという話が残る。衣服も質素で、絹より麻を好み、贅沢な装飾を嫌ったと伝えられる。また、毎朝早く起きて政務を執り、夜になると読書や写経を行ったという。『北越軍談』には、ある冬の日、家臣が火鉢を勧めると「兵が寒さに耐えているなら、我だけ暖を取るわけにはいかぬ」と断ったという逸話がある。史実かどうかは不明だが、「主君自ら兵と苦楽を共にした」という謙信像をよく表す話として語り継がれている。 一方で、武芸の鍛錬も欠かさなかった。馬術や剣術を日課とし、春日山の急な坂道を馬で駆け上がる姿を見た家臣が「まるで山の龍が舞うようだ」と語ったという伝説も残る。 毘沙門堂の祈り景虎を語るうえで欠かせないのが毘沙門天信仰である。林泉寺で育まれた信仰は春日山城でも変わることはなく、城内の毘沙門堂へたびたび籠もったという。重大な戦や決断の前には、一人で堂へ入り、長時間祈り続けたと伝えられる。家臣たちはその間、決して堂へ近づかなかった。「殿は毘沙門天と軍議をしておられる。」そう語り合ったという言い伝えが残る。ある時、若い家臣が堂の様子を見ようと近づいたところ、不思議な光が堂内から漏れているのを見て恐れおののき、そのまま引き返したという伝説もある。もちろん史実とは言えない話だが、人々が景虎を単なる武将ではなく、軍神の加護を受けた人物として見始めていたことを物語っている。 後に「毘」の旗を本陣へ掲げ、「龍」の旗を総攻撃の合図に用いるようになる精神的な原点は、この春日山での祈りの日々にあったのである。 初めての上洛天文21年(1552)、景虎は朝廷から従五位下・弾正少弼に叙任される。その御礼を名目として、9月に初めて京都へ上洛した。都では後奈良天皇に拝謁し、将軍足利義輝とも対面した。伝承では、この時天皇から御剣と天盃を賜り、「天下の乱を鎮めよ」と勅命を受けたとされる。上洛の途中には堺へ立ち寄り、鉄砲や火薬、南蛮渡来の品々を見聞した。さらに本願寺や高野山を参詣し、大徳寺の徹岫宗九から戒を受け、「宗心」の戒名を授かったという。 この旅は景虎に大きな影響を与えた。荒廃した京都を目の当たりにし、「乱れた天下を正すには朝廷と幕府を支えねばならぬ」と決意を深めたと伝えられる。その志は、後の関東管領就任や北陸遠征、そして上洛を目指す生涯へとつながっていく。 こうして春日山城へ帰還した若き長尾景虎は、わずか数年で越後をまとめ、中央政界とも結び付きを築いた。そしてその視線は、すでに越後一国ではなく、川中島、関東、そして天下そのものへ向けられていたのである。 川中島への道(1553~1560)信濃から届いた救援の願い天文22年(1553)、長尾景虎のもとへ一人、また一人と敗れた武将たちが越後へ姿を現した。最初に助けを求めたのは、信濃守護・小笠原長時である。続いて葛尾城主・村上義清、高梨政頼、井上清政ら北信濃の国衆も越後へ逃れてきた。彼らを追い詰めたのは甲斐の武田信玄だった。信玄は今川義元、北条氏康と甲相駿三国同盟を結び、南の憂いを断つと、一気に北信濃へ兵を進めたのである。景虎にとって信濃は他国の争いではなかった。川中島四郡を武田に支配されれば、春日山城まで約五十キロしかない越後南部が直接脅かされる。信濃は越後を守る盾であり、善光寺を中心とする宗教・交通の要地でもあった。 村上義清はかつて上田原の戦いで武田信玄を敗走させた名将である。その義清が「越後殿なくして信濃は守れぬ」と景虎へ頭を下げたと伝えられる。この出来事が、十二年間に及ぶ川中島の戦いの幕を開けた。 第一次川中島の戦い同年八月、景虎は大軍を率いて善光寺平へ進軍した。これが第一次川中島合戦である。両軍は布施・八幡・青柳付近で対峙したが、本格的な決戦には至らなかった。互いに地形を探り合い、補給路を確保しながら機会をうかがったのである。景虎は善光寺を戦火から守るため、寺宝の一部を越後へ移したと伝えられる。現在も上越市には善光寺堂が残り、この伝承を今に伝えている。『北越軍談』には、景虎が善光寺本尊へ戦勝を祈願し、「仏法を守る戦である」と語ったという話が残る。史実として確認できるものではないが、景虎の信仰心を象徴する逸話として知られている。にらみ合いが続いた第二・第三次合戦弘治元年(1555)の第二次川中島では、武田方の海津城をめぐって両軍が対峙した。信玄は海津城を北信濃支配の拠点として整備し、景虎は妻女山へ陣を置いて機会を待った。数か月に及ぶ緊張状態が続いたものの、両軍とも決定的な勝負を避け、そのまま兵を引いている。この時、川を挟んで敵味方の兵が同じ場所で水を汲み、互いに弓を向けることなく一時休息したという話が『北越軍談』に残る。真偽は定かではないが、「戦場にも一瞬の静けさがあった」と語る印象深い逸話である。 弘治3年(1557)の第三次合戦でも状況は似ていた。景虎は妻女山、信玄は海津城という構図は変わらず、大規模な衝突は起こらなかった。 後世には五度の川中島すべてが激戦だったように語られることが多い。しかし実際には、第二次と第三次は互いに機をうかがう持久戦だったのである。 信玄の調略と北条高広の謀反武田信玄は正面から戦うだけではなかった。越後内部への調略を巧みに進めたのである。天文23年(1554)、刈羽郡北条城主・北条高広が信玄と通じて反旗を翻した。信玄の家臣・甘利昌忠は高広と密かに連絡を取り、春日山城攻略まで話し合っていたという。 翌弘治元年(1555)、景虎は自ら善根(現在の柏崎市付近)へ出陣し、北条城攻めを指揮した。信玄の援軍は現れず、高広は降伏する。ここで景虎は高広を許し、帰参を認めた。実は景虎は、降伏した武将を必要以上に処刑しなかった。敵であっても能力があれば家臣として取り立てる姿勢は、この頃から一貫していたのである。 出家を決意した若き当主弘治2年(1556)、景虎の人生でも最も劇的な出来事が起こる。家臣・上野家成と下平吉長の所領争いをきっかけに、家中の派閥対立が激化したのである。相次ぐ内紛に疲れた景虎は、突然出家を決意する。置き手紙を残し、誰にも告げず高野山へ向かったという。「戦より仏門に入りたい。」そう考えたとも伝えられる。ところが、その途中で頸城郡箕冠城主・大熊朝秀が武田方へ寝返ったとの知らせが届く。景虎は関山権現で祈祷をしていた最中だったという。「今、自分が去れば越後は乱れる。」そう悟った景虎は出家を断念し、春日山城へ引き返した。その後、大熊朝秀は駒帰の戦いで敗れ、甲斐へ逃れて信玄を頼ることになる。この出家騒動は史実としても確認される出来事であり、景虎が武将である前に、一人の求道者でもあったことを物語っている。「敵に塩を送る」の背景景虎を語るうえで欠かせないのが、「敵に塩を送る」という逸話である。永禄年間、今川氏と北条氏が武田領への塩の流通を止め、信玄を経済的に追い詰めようとしたと伝えられる。その話を聞いた景虎は、「武士は弓矢で勝負すべきであり、塩で苦しめるべきではない。」と言って越後から塩を送ることを許したという。現在では、この話を裏付ける同時代史料は確認されておらず、後世の軍記による脚色と考えられている。しかし、越後の塩が信濃へ流通していたこと自体は事実であり、「義を重んじる武将」という景虎像を象徴する逸話として広く知られている。 関東管領・上杉憲政との絆景虎が信濃で戦い続けられた背景には、関東管領・上杉憲政との深い関係があった。憲政は北条氏康に敗れて越後へ逃れ、景虎は春日山城下の御館へ住まわせて保護した。憲政は景虎を実の子のように信頼し、「いずれ関東を託せるのは景虎しかいない」と考えるようになる。景虎もまた、憲政を単なる亡命者として扱わず、関東管領という室町幕府の権威を守る存在として遇した。この絆は後に、永禄4年(1561)鎌倉・鶴岡八幡宮で関東管領職を譲り受けるという歴史的な出来事へつながっていく。 こうして天文22年から永禄3年までの景虎は、信濃で武田信玄と対峙しながら、越後では謀反を鎮め、関東では上杉憲政を支え続けた。そして次なる舞台は、三国峠を越えた広大な関東平野となる。若き長尾景虎は、やがて「上杉政虎」として十一万とも伝わる大軍を率い、小田原城を目指して進軍するのである。 関東出兵と第四次川中島(1560~1561)三国峠を越えた大遠征永禄3年(1560)、31歳となった長尾景虎は、ついに関東へ大軍を率いて出陣した。これが景虎にとって初めての本格的な関東遠征であり、その後十四回にも及ぶ関東出兵の始まりとなる。越後から関東へ向かうには、険しい三国峠を越えなければならない。春でも残雪が深く、人馬が通るには過酷な道だった。それでも景虎は軍勢を整然と進ませたという。『北越軍談』には、「山道を進む白旗の列は雪渓を流れる大河のようだった」と記される。実際の描写には誇張もあるが、越後軍の規律の良さを物語る話として語り継がれている。景虎が関東へ兵を進めた理由は、単なる領土拡張ではない。越後へ亡命していた関東管領・上杉憲政を助け、北条氏康によって失われた上杉家の権威を回復するためだった。景虎にとって関東遠征は、「義」を果たす戦でもあったのである。 北条方諸城を攻略する上杉軍は関東平野へ入ると、破竹の勢いで北条方の諸城を攻略していった。上野では和田城、石倉城、館林城、金山城を押さえ、下野では唐沢山城や小山城へ進軍する。さらに武蔵、下総、常陸へも兵を動かし、各地の豪族が次々と景虎へ従った。関東では「越後の龍が来る」という噂が広まり、城を捨てて逃げる武将もいたという伝承が残る。一方で、景虎は降伏した武将をむやみに処刑せず、従う者には旧領を安堵することも多かった。このため、北条氏に不満を抱く国衆が景虎へ味方する例も少なくなかった。十一万五千と伝わる小田原攻め永禄4年(1561)3月、景虎は関東諸将を従え、小田原城へ向かった。『北越軍談』には総勢十一万五千の大軍と記されるが、この数字は誇張と考えられている。それでも、戦国時代屈指の大軍だったことは間違いない。北条氏康は堅固な小田原城へ籠城した。小田原城は幾重もの堀と土塁に囲まれた難攻不落の城である。景虎は総攻撃を試みるが、城はびくともしなかった。やがて景虎は無理な攻撃をやめ、大磯方面へ兵を移して包囲戦へ切り替える。『北越軍談』には、この時景虎が「兵を犬死にさせるために来たのではない」と語ったと記される。史実かどうかは定かではないが、兵を大切にする景虎の人物像を象徴する逸話として知られる。一方、北条氏康も城内から容易に打って出ず、両軍は緊張した対峙を続けた。鶴岡八幡宮で関東管領となる![]() 上杉氏家紋 竹に飛雀(上杉笹) 伊勢姫伝説関東遠征には、謙信の恋物語として語られる有名な伝説も残っている。厩橋城(現在の前橋城)へ入った際、平井城の城将・千葉采女が娘の伊勢姫を人質として差し出したという。『北越軍談』によれば、景虎はその気品ある姿に心を惹かれ、側へ置こうと考えた。しかし重臣・柿崎景家が「敵方の娘を近くに置けば家中の疑いを招く」と諫めたため、景虎は思い直し、伊勢姫を丁重に送り返したとされる。史実として確認できる話ではないが、生涯妻を娶らなかった謙信の数少ない恋愛譚として、現在も語り継がれている。松山城の悲劇関東での戦果を広げる中、景虎は武蔵国の松山城を攻めた。松山城は北条方の重要拠点であり、城主・上田朝直は約三千の兵で籠城した。激しい攻防の末、城は落城する。伝承では、一族や家臣の中には城下を流れる市野川へ身を投じて果てた者も多かったという。景虎は城将として上杉憲勝を置き、防備を固めた。北条氏の勢力圏内で築いた貴重な拠点だったが、その後北条軍の反撃によって奪い返されている。関東遠征は華々しい戦果を挙げながらも、広大な土地を維持し続ける難しさを景虎へ教える戦いでもあった。 武田信玄、再び動く景虎が関東で戦っている隙を、武田信玄は見逃さなかった。信玄は信濃へ大軍を進め、海津城を中心に勢力を固め始める。景虎は関東での戦果を残しつつも、「越後の盾」である川中島を失うわけにはいかなかった。急ぎ春日山城へ帰還すると、すぐさま信濃出兵の準備を始める。永禄4年8月、景虎は約一万八千の兵を率いて春日山城を出発し、善光寺へ集結した。そこで兵糧隊や後詰の兵を残し、自らは一万三千を率いて妻女山へ陣を敷く。一方、武田信玄も約二万の兵を率いて海津城へ入り、両軍は再び川中島で向かい合った。秋の霧が千曲川を覆い、夜ごと篝火が山々を照らす。互いに相手の動きを探る緊張の日々が続く中、信玄は「啄木鳥の戦法」を企て、景虎はその策を見破ろうとしていた。 こうして戦国史上最大の名勝負といわれる第四次川中島合戦、八幡原の決戦が、刻一刻と近づいていたのである。 八幡原の決戦(1561~1564)啄木鳥と車懸り、運命の激突永禄4年(1561)、景虎31歳。川中島で五度行われた戦いの中でも最大の決戦となる第四次川中島合戦が始まる。8月14日、景虎は約1万8千の兵を率いて春日山城を出発し、善光寺へ進軍した。善光寺には兵糧を運ぶ荷駄隊と後詰約5千を残し、自らは精鋭約1万3千を率いて妻女山へ陣を敷いた。一方、武田信玄は甲府から約2万の兵を率いて海津城へ入り、両軍は千曲川を挟んで静かににらみ合った。 数日にわたる沈黙の裏で、信玄は大胆な作戦を練っていた。夜半、高坂昌信率いる約1万2千の別働隊を妻女山へ回し、本隊約8千は八幡原で待ち構える。山をつつく啄木鳥が虫を追い出すように、上杉軍を山から追い立て、本隊で討つという「啄木鳥の戦法」である。 ところが景虎は異変を見抜いたという。海津城から立ち上る炊煙が減り、武田軍旗の数も少なくなっていた。敵が兵を動かしたことを察知した景虎は、妻女山の頂に篝火を焚き、旗を残して大軍がそのままいるように見せかける。そして亥の刻(午後10時頃)、全軍を率いて密かに山を下り、千曲川を渡って八幡原へ向かった。信玄の策を逆手に取る見事な機動だった。 頼山陽は後にこの場面を、
車懸りの陣9月10日早朝、濃霧に包まれた八幡原で両軍は激突する。景虎が採った戦法は「車懸りの陣」と呼ばれる波状攻撃だった。先頭部隊が敵へ突撃し、疲れれば後続と入れ替わりながら絶え間なく攻め続ける。車輪が回るように兵を循環させることから、その名が付いたとされる。『北越軍談』では、この戦法は村上義清が上田原の戦いで用いた戦い方を景虎がさらに発展させたものと伝えられている。実際にどこまで組織的だったかは議論があるものの、上杉軍が次々と攻撃を繰り返して武田軍を圧迫したことは、多くの史料からうかがえる。上杉軍は「毘」「刀八毘沙門」「日の丸」の旗を正面へ押し立て、霧の中から姿を現した。武田軍は「風林火山」の旗の下で鶴翼の陣を敷き迎え撃つ。戦場は一瞬で鬨の声と槍、太刀、矢が入り乱れる修羅場となった。 鉄砲隊をめぐる逸話第四次川中島には「景虎が日本初の鉄砲一斉射撃を行った」という話が伝わる。軍記物では、約300丁の鉄砲が霧の中で一斉に火を吹き、その後に弓隊、騎馬隊、槍隊が続いて車懸りの攻撃を完成させたと描かれている。しかし、この話を裏付ける同時代史料は確認されていない。火縄銃自体は1543年の種子島伝来以後、各地で使用されており、川中島で上杉軍が鉄砲を用いた可能性はあるものの、「日本初の一斉射撃」と断定することはできない。 それでも軍記がこの場面を強調したのは、景虎の戦いが「機動力」と「勢い」を象徴するものだったからだろう。武田軍から見れば、霧の向こうから次々と押し寄せる上杉軍は、まさに止めようのない波のように映ったはずである。 信玄との一騎討ち伝説川中島最大の伝説が、一騎討ちである。『甲陽軍鑑』によれば、白頭巾を巻いた景虎は月毛の馬へまたがり、武田本陣へ単騎で突入した。そして床几に座る信玄へ太刀を振り下ろし、信玄はとっさに軍配で受け止めたという。そこへ原大隅守が槍を突き出したため、景虎は馬を返して戦場を離れたと伝えられる。この場面は屏風や浮世絵にも数多く描かれ、戦国史を代表する名場面となった。しかし史実としては疑問視する見方も強い。別の伝承では、信玄へ斬りかかったのは越後荒川保の領主・荒川長実であり、信玄へ傷を負わせたものの討ち取れなかったともいう。真相は分からない。それでも八幡原に「三太刀七太刀之跡」の碑が建ち、人々が何百年もこの物語を語り継いできたこと自体が、川中島という戦いの特別さを物語っている。 甘粕近江守の殿軍戦いの前半は上杉軍が優勢だった。しかし妻女山へ向かった武田別働隊が千曲川を渡って戦場へ到着すると、形勢は逆転する。景虎は全軍へ退却を命じた。ここで奮戦したのが甘粕近江守(長重・永重とも伝わる)率いる殿軍である。約千騎を率いて雨宮の渡しを守り、追撃する武田軍を食い止めた。その働きは見事で、多くの武田兵が「景虎本人が最後まで残って戦っている」と見誤ったという逸話が残る。また八幡原周辺には武田信繁や山本勘助ら戦死者の墓が残り、川中島が両軍にとっていかに大きな犠牲を伴う戦だったかを今へ伝えている。 第五次川中島と宿敵の絆永禄7年(1564)、景虎は再び川中島へ出陣する。これが第五次川中島合戦である。しかし第四次のような大決戦にはならなかった。両軍は陣を構えて互いを警戒し続けた末、大きな戦闘を行わず兵を引いている。こうして十二年間にわたる川中島の戦いは幕を閉じた。景虎と信玄は最後まで決着をつけられなかった。しかし、その対決は互いへの敬意を生み出したとも伝えられる。 「敵に塩を送る」の逸話は史実としては慎重に見る必要があるものの、敵でありながら相手の器量を認める物語として広く知られている。信玄は景虎を「越後の龍」と恐れ、景虎もまた信玄を最大の好敵手と見ていた。 五度の川中島は勝敗以上に、二人の名を戦国史へ刻み込んだ戦いだった。そして景虎の戦いは信濃を離れ、越中、能登、そして織田信長との対決へ向かっていくのである。
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