![]() ![]() ![]() 🔗誕生~越後国統一 🔗天下平定 🔗合戦地図 (関東派兵、北条氏・武田氏との戦い)(初めての上洛と武田信玄による調略)天文21年(1552)謙信22歳、正月早々、上杉憲政が関東管領を嗣いで上野国平井城に拠って北条氏に抵抗していたが、とうとう支えきれずに謙信を頼って越後に逃げてきた。浪人から身を越した伊勢長氏(北条早雲)が小田原に入り関東を侵し、主家上杉氏の支配地が危険となったのである。謙信は府内に居館御館城※GOOGLE 画像 を建てて憲政を住まわせた。4月23日、朝廷より従五位下・弾正少弼に叙任される。 9月、謙信は従五位下弾正少弼に叙任された御礼を名目に、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。 11月16日には堺に立ち寄っている。鉄砲や玉薬(火薬)、南蛮渡来の珍品を買うためであった。大坂の本願寺、紀伊の高野山を参詣し、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九の下に参禅して受戒し、「宗心」の戒名を授けられた。 天文22年(1553)謙信23歳、2月10日には兄晴景が病死し、謙信は名実ともに越後の大名として、だれに気兼ねする必要もなくなった。 また、同年、武田信玄の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時、村上義清・高梨政頼らが越後に逃れてきた。当時武田信玄は駿河の今川義元・関東の北条氏康との三国同盟を成立させ、南側が安定したので北信濃に進出しようとしていた。謙信は武田軍の北上を止めるため、同年8月大量の軍を動員し、川中島(現長野市南部)に展開した(第一回の戦い)。この後、天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの12年間に、5回にわたって川中島に出陣し、信玄と激戦を展開した。 川中島川中島の戦いがあった地域は、川中島を含む善光寺平の一帯で、高井・水内・更級・埴科の四郡で「川中島四郡」と呼ばれる地域であった。この「川中島四郡」の帰属をめぐる争いが、川中島合戦であったといえる。川中島は景虎(謙信)が居城とする春日山城までわずか50キロほどしかなく、信玄による越後侵入を防ぐため、謙信にとっては押さえておきたい場所であった。 謙信は、葛尾城村上義清、鴨ヶ嶽城高梨政頼、井上城井上清政、須田城須田満親、長沼城島津規久といった「川中島四郡」の国衆らを支援した。 天文23年(1554)謙信24歳、刈羽郡の北条城※GOOGLE 画像 主北条高広が武田信玄と通じて謀反を起こす。12月5日、信玄の家臣甘利昌忠と高広とが、春日山城攻略の謀議を謀っている。 弘治元年(1555)謙信25歳の2月はじめ、謙信は自ら善根(柏崎市)に出陣し、北条城攻撃の陣頭指揮を執った。信玄の援軍は現れず、高広は、謙信の軍門に屈服した。次々と信玄の調略によって寝返る武将が相次ぐが、謙信は和睦を求められれば帰参を許した。 弘治2年(1556)6月上野家成と下平吉長との領地争いをきっかけに家中内の派閥対立が激化した。争いに嫌気がさした謙信は出家を志し、置手紙書を残して、高野山へ向かった。 8月、頸城郡箕冠城※GOOGLE 画像 主大熊朝秀が武田信玄に内通し反旗を翻す。関山権現※GOOGLE 画像 で祈祷中、朝秀謀反の報を受け取った謙信は、心機一転、出家を断念し、還俗して春日山城に戻った。大熊は駒帰の戦いに敗れたのち、甲府の信玄を頼っている。 (関東への出兵)謙信が自ら兵を率い、三国峠を越えて関東平野に足を踏み入れたのは、永禄3年(1560)であった。以後、49歳の生涯のうち、14回にわたって関東へ出陣し、うち8回、関東で新年を迎えた。上杉軍は破竹の勢いで関東平野を蹂躙し、関東の北条方諸城を攻略した。永禄4年(1561)3月13日謙信31歳、謙信は11万5千余名をもって関東に出兵し、北条氏の居城小田原城の総攻撃を開始したが、城を落とすことができず、大磯に退いて包囲作戦に移った。閏3月16日、鎌倉鶴岡八幡宮※GOOGLE 画像 で上杉憲政のたっての頼みで、上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けることになった。この後、謙信は名のりを上杉政虎と改めた。 謙信の小田原城攻撃のすきに乗じて武田信玄が信州に大軍を進めたことを聞き、急遽越後に引き返し、信玄との最終決戦を行うと決意した。 謙信は鎌倉の帰途、北条方の拠点武蔵の国松山城※GOOGLE 画像 を攻めた。城主上田朝直が城兵3000人余で城を死守していたがあっけなく落城してしまった。一族や家臣が城下の市の川に身を投じたと伝えられる。謙信は上杉憲勝を城将とし、守りを固めて越後へ引き揚げた。北条氏の勢力圏内で謙信の初めての拠点となった。しかし、後に北条軍の大軍に攻められ、落城している。 謙信が攻略したのは上野の国の和田城・石倉城・館林城・金山城、下野の国の唐沢山城・小山城、、武蔵国の騎西城、下総の国の臼井城、常陸の国の小田城などである。 恋愛景虎は永禄3年(1560)、三国峠を越えて関東平野へ出陣し、厩橋城※地図に入った。このとき平井城の城将千葉采女がその娘伊勢姫を人質として差し出した。景虎は伊勢姫を気に入り側に置こうとしたが、柿崎景家が敵方の女を側に置くことに反対したので考え直し、断念したという。生涯独身で不犯を通したといわれる謙信が好意を抱いた女性といわれる。(第四次 川中島の戦い)永禄4年(1561)8月謙信31歳、川中島で第四回の戦いを行った。これは「川中島の戦い」の中でも最大の決戦であった。8月14日、謙信は18,000の大軍を率いて春日山城を出発し、善光寺※GOOGLE 画像 に集結した。ここに大荷駄(輜重隊)と後詰として5千の兵を残した。1万3千の兵を率いて川中島南方の妻女山※GOOGLE 画像 に陣を張った。まさに電撃作戦であた。 謙信出陣の知らせを受けた信玄は8月18日、17000を率いて甲府を出発、信濃の軍3,000を合して2万の軍は、29日、海津城※GOOGLE 画像 に入城した。 両軍は動かずに対峙した。信玄は9月9日の夜半、本隊8000を八幡原に移し、高坂弾正正信を先導とした12,000の別動隊に妻女山背後から上杉軍を攻撃させるという世に有名な「啄木鳥の戦法」を実行した。 謙信は海津城から立ち上がる炊煙と、はためく武田軍旗の波が減少したことに気付き、信玄の啄木鳥の戦法を看破した。妻女山頂に大篝火をたき、旗幟をたて、上杉軍が陣取っているかのように偽装し、亥の刻(午後10時ころ)を待って妻女山を下った。千曲川の十二か瀬・狗ヶ瀬を渡って、八幡原へと軍を進めた。謙信は、妻女山から下ってくる武田別動隊に備えて、殿軍として猛将甘粕景持軍1,000を雨宮の渡し※GOOGLE 画像 に置き、12,000の兵を率いて八幡原に向かった。 この時謙信が取った戦法は「車懸りの陣」である。これは、越後に逃れてきた村上義清が、上田原の戦いで武田信玄を敗走させた戦法をもとに謙信が考案したものだった。 謙信軍は四陣に分かれて縦列隊で進軍した。謙信の本陣は二陣にあった。当日の朝、八幡原は濃霧が覆っていた。謙信軍は正面に、朝廷から授かった「紺地に日の丸の幟」、「刀八毘沙門の幟」や、「毘の幟」を多く押し立て、後続の部隊の様子を隠す様進軍した。「鶴翼の陣」で待ち構える武田軍8,000からは、幟が不気味に揺らいで見えただろう。 謙信軍が戦闘位置に達した午前8時、幟が左右に割れ、鉄砲隊300が武田軍に向かって一斉射撃をおこなった。野戦で鉄砲隊による一斉射撃が実行されたのはこれが最初で、謙信が考案したものといわれている。鉄砲の弾が尽きると、弓矢にによる一斉射撃が行われた。武田軍の守備は予想していなかった戦法での攻撃に慌てふためいた。 この中を騎馬隊が武田軍に向かって突撃し、武田軍を攪乱し、長槍隊が突入した。以後、第三陣、第四陣の縦隊が鶴翼の陣を敷く武田軍めがけてそれぞれ左右に分かれて波状攻撃をかけた。武田軍からは、次々と襲ってくる上杉軍の攻撃が、車が回るような攻撃と見えたのであろう。 謙信の本陣は、武田軍が混乱し、必死に守勢を維持するのに窮しているのを見て、「風林火山」の旗が立つ、武田軍本陣に向かって突撃した。狙うは、信玄の首一つであった。 八幡原は両軍の鬨の声、銃声の中に壮烈な白兵戦が展開され、瞬く間に修羅場と化した。上杉勢に3,400余、武田勢に4,600余の戦死者を出したが、武田軍では信玄の弟の武田信繁や山本勘助など有力武将が討ち死にしている。武田信玄自身も負傷し、一説では信玄と謙信(政虎)の一騎打ちがあったとされている。 武田別動隊12,000が妻女山に到着した時、八幡腹では、すでに両軍の激突が展開されていた。驚いた別動隊は、千曲川めがけて駆け下った。十二ヶ瀬を渡河しようとしたとき、上杉軍の殿甘粕近江守永重隊1000騎の猛攻撃を受けた。しかし甘糟隊が切り崩され、別働体の到着で、武田軍の士気が高揚し、戦況は一変した。 早朝から午前10時までは上杉軍が優勢であったが、妻女山にまわった武田軍別働隊が到着すると、形勢は逆転した。武田軍優勢のうちに上杉軍が後退し撤退することで合戦は終わった。 上杉軍が犀川を渡りかけたところ、高坂隊の激しい追撃をうけた。しかし甘粕近江守は少しも騒がず、殿として隊列を崩さず、整然と全軍を善光寺に退却させることに成功した。このときの近江守の殿ぶりは実に見事で、謙信と間違えたものが者が多かったという。 頼山陽がこの時の様子を 「鞭声粛々 夜河を過る 暁に見る 千兵の大牙を擁するを 遺恨なり十年一剣を磨く 流星光底長蛇を逸す」と吟じた。この詩碑は千曲川の雨宮の渡しに建っている。 また八幡原古戦場の付近には、ここで戦死した信玄の弟武田典厩信繁の菩提を弔うために建立された典厩寺※GOOGLE 画像 には信繁の墓が、近くには軍使山本勘助の墓、諸角豊後守の墓などがある。 一騎打ちの真相 ※GOOGLE 画像『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、萌黄の胴肩衣姿で月毛の馬に乗った武者が床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め、あわやと思われた時、駆け付けた中間頭原大隅守が槍で馬上の荒武者めがけて突き上げた。一瞬かわされ、馬の尻を刺した。馬は驚いて跳ね上がり、駆けだした。後で聞くと、この荒武者は謙信であった。というふうに両将一騎討ちや三太刀七太刀を記載していることから、一騎打ちが語られるようになった。実際は、越後荒川保の領主荒川長実が、本陣が崩れ逃げる信玄を千曲川の支流御幣川で捉え3太刀斬りつけ、2箇所に傷を負わせたが、討ち取ることが出来なかった。という話が実話のようである。 『甲陽軍鑑』の記載は、信玄が無名の武将によって負傷させられるなどあってはならないことから、苦しまぎれに記載したものと思われる。 八幡原古戦場に「三太刀七太刀之跡※GOOGLE 画像 」と書かれた石碑が建ち、政虎(謙信)と信玄の一騎討ちをしのばせている。 血染めの感状「血染めの感状」とは、謙信が永禄4年の川中島の合戦後、軍功の武将に与えた感状である。血で書かれたものではなく、この一通の感状が一族郎党の死傷者の代償であったことからこう呼ばれたのである。謙信から感状をもらったものは、色部修理進勝長・安田治郎少輔長秀・垂水孫二郎・本田右近允・中条越前守藤資・松本大学忠繁・岡田但馬の七名である。![]() ![]() ![]() ![]() (以後の武田軍との戦い)永禄7年(1564)、謙信・信玄が対峙した最後の戦いとなる第五回川中島の戦いが行われた。信玄が決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わったことから塩崎の対陣とも言う。このとき組討ちの勝負で川中島の領有権を決めようと決した。8月16日に、武田方から安馬彦六、上杉方から長谷川与五左衛門基連が選ばれ組討ちを行った。結果、長谷川与五左衛門基連が安馬彦六の首を取り、川中島は以後越後領となったという。 こののち、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、謙信(輝虎)は北陸や関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。 塩止め永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川家は衰退をよぎなくされた。永禄11年(1568年)、武田信玄は今川家を見限り、「甲相駿三国同盟」を破棄し、今川領である駿河を攻め自領としてしまった。これに怒った今川氏真は「塩止め」を実施する。この騒動を知った上杉謙信が、「戦いは兵力をもって行うもの。自分は塩で相手を屈服させるようなことはしない」と述べて、日本海の塩をすぐさま信玄に送った話は有名です。これに感謝して武田信玄から上杉謙信に対して、今に残る『塩留めの太刀』が贈られた。 苦しむ敵に救いの手を差し伸べることを意味する「敵に塩を送る」という言葉は、この故事から生まれた。 実際には越後の塩は以前から甲斐で販売されており、謙信が他の大名と同調するのをきらって、塩の販売を止めなかったのが真相のようである。 外に、信玄の死に際しては領内の歌舞音曲を禁止したという逸話が残るなど、謙信の人格を物語る事実は多い。 🔙戻る
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