上杉謙信 謙信は大酒豪 春日山城 🔗誕生~越後国統一 🔗天下平定 🔗合戦地図 (関東派兵、北条氏・武田氏との戦い)、天文21年(1552)謙信22歳、上杉憲政が関東管領を嗣いで上野国平井城に拠って北条氏に抵抗していたがとうとう支えきれずに謙信(景虎)を頼って越後に逃げてきた。浪人から身を越した伊勢長氏(北条早雲)が小田原に入り関東を侵し、主家上杉氏の支配地が危険となったのである。謙信は府内に居館御館城※ストリートビューを建てて憲政を住まわせた。また、同年、武田信玄の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。 天文22年(1553)謙信23歳、信濃の村上義清・高梨政頼らが甲斐の武田晴信(信玄)に領地を奪われ越後に逃れてきた。当時武田は駿河の今川義元・関東の北条氏康との三国同盟を成立させ、南側が安定したので北信濃に進出しようとしていた。謙信(景虎)は武田軍の北上を止めるため、同年8月大量の軍を動員し、川中島(現長野市南部)に展開した(第一回の戦い)。 川中島川中島の戦いがあった地域は、川中島を含む善光寺平の一帯で、高井・水内・更級・埴科の四郡で「川中島四郡」と呼ばれる地域であった。この「川中島四郡」の帰属をめぐる争いが、川中島合戦であったといえる。川中島は景虎(謙信)が居城とする春日山城までわずか50キロほどしかなく、信玄による越後侵入を防ぐため、景虎(謙信)にとっては押さえておきたい場所であった。 景虎(謙信)は、葛尾城村上義清、鴨ヶ嶽城高梨政頼、井上城井上清政、須田城須田満親、長沼城島津規久といった「川中島四郡」の国衆らを支援した。 天文23年(1554)謙信24歳、刈羽郡の北条城主北条高広が武田信玄と通じて謀反を起こす。弘治元年(1555)に降伏する。次々と信玄の調略によって寝返る武将が相次ぐが、謙信は和睦を求められれば帰参を許している。 弘治2年(1556)美濃国の大名斎藤義龍、長良川の戦いにて父の斎藤道三を討ち取る。(道三崩れ)謙信26歳、頸城郡箕冠城※地図主大熊朝秀が武田信玄に内通し反旗を翻す。大熊は駒帰の戦いに敗れたのち、甲府の信玄を頼っている。 永禄4年(1561)3月13日謙信31歳、謙信は11万5千余名をもって関東に出兵し、北条氏の居城小田原城の総攻撃を攻撃を開始したが、城を落とすことができず、大磯に退いて包囲作戦に移った。閏3月16日、鎌倉鶴岡八幡宮で上杉憲政のたっての頼みで、上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けることになった。この後、謙信(景虎)は名のりを上杉謙信(政虎)と改めた。 謙信の小田原城攻撃のすきに乗じて信州に大軍を進めたことを聞き、急遽越後に引き返し、信玄との最終決戦を行うと決意した。 恋愛景虎は永禄3年(1560)、三国峠を越えて関東平野へ出陣し、厩橋城※地図に入った。このとき平井城の城将千葉采女がその娘伊勢姫を人質として差し出した。景虎は伊勢姫を気に入り側に置こうとしたが、柿崎景家が敵方の女を側に置くことに反対したので考え直し、断念したという。生涯独身で不犯を通したといわれる謙信が好意を抱いた女性といわれる。(第四次 川中島の戦い)永禄4年(1561)8月謙信31歳、川中島で第四回の戦いを行った。これは「川中島の戦い」の中でも最大の決戦であった。8月14日謙信(政虎)(謙信)は1万3千の兵を率いてをひきいて春日山城を発し、川中島南方の妻女山に陣を張ると、信玄の軍2万(うち3000は信濃の軍)は、茶臼山に陣どった。両軍は動かずに対峙した。信玄は、本隊を八幡原に移し、別動隊が妻女山背後から攻める「啄木の戦法」を採用した。一方謙信(政虎)(謙信)は海津城から立ち上る炊煙に異常を感じ、信玄の奇襲作戦を察知したという。9月9日の夜半、謙信(政虎)(謙信)はひそかに妻女山を下り、千曲川の雨宮の渡しを渡って武田本隊の陣取る八幡原に侵入した。 翌10日午前8時の朝まだき八幡原を包んだ濃霧が晴れはじめたとき、決戦の火ぶたが切って落とされた。上杉軍の「毘」「龍」の軍旗や、武田軍の「風林火山」「諏訪法性」の軍旗が入り乱れた。 上杉謙信(政虎)(謙信)は「車懸りの陣」をもって「鶴翼の陣」を布いた武田信玄の軍勢に猛攻をかけたとされている。八幡原は両軍の鬨の声、銃声の中に壮烈な白兵戦が展開され、瞬く間に修羅場と化した。上杉勢に3400余、武田勢に4600余の戦死者を出したが、武田軍では信玄の弟の武田信繁や山本勘助など有力武将が討ち死にしている。武田信玄自身も負傷し、一説では信玄と謙信(政虎)の一騎打ちがあったとされている。 早朝から午前10時までは上杉軍が優勢であったが、妻女山にまわった武田軍別働隊が到着すると、形勢は逆転した。武田軍優勢のうちに上杉軍が後退し撤退することで合戦は終わった。 頼山陽がこの時の様子を 「鞭声粛々 夜河を過る 暁に見る 千兵の大牙を擁するを 遺恨なり十年一剣を磨く 流星光底長蛇を逸す」と吟じた。この詩碑は千曲川の雨宮の渡しに建っている。 一騎打ちの真相『甲陽軍鑑』で政虎(謙信)と信玄、両将一騎討ちや三太刀七太刀を記載していることから、一騎打ちが語られるようになった。越後荒川保の領主荒川長実が、本陣が崩れ逃げる信玄を千曲川の支流御幣川で捉え3太刀斬りつけ、2箇所に傷を負わせたが討ち取ることが出来なかったという話が実話のようである。『甲陽軍鑑』の記載は、信玄が無名の武将によって負傷させられるなどあってはならないことから、苦しまぎれに記載したものと思われる。 八幡原古戦場に「三太刀七太刀之跡」と書かれた石碑が建ち、政虎(謙信)と信玄の一騎討ちをしのばせている。 永禄7年(1564)、謙信・信玄が対峙した最後の戦いとなる第五回川中島の戦いが行われた。信玄が決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わったことから塩崎の対陣とも言う。 このとき組討ちの勝負で川中島の領有権を決めようと決した。8月16日に、武田方から安馬彦六、上杉方から長谷川与五左衛門基連が選ばれ組討ちを行った。結果、長谷川与五左衛門基連が安馬彦六の首を取り、川中島は以後越後領となったという。 こののち、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、謙信(輝虎)は北陸や関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。 塩止め永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川家は衰退をよぎなくされた。永禄11年(1568年)、武田信玄は今川家を見限り、「甲相駿三国同盟」を破棄し、今川領である駿河を攻め自領としてしまった。これに怒った今川氏真は「塩止め」を実施する。この騒動を知った上杉謙信が、「戦いは兵力をもって行うもの。自分は塩で相手を屈服させるようなことはしない」と述べて、日本海の塩をすぐさま信玄に送った話は有名です。これに感謝して武田信玄から上杉謙信に対して、今に残る『塩留めの太刀』が贈られた。 苦しむ敵に救いの手を差し伸べることを意味する「敵に塩を送る」という言葉は、この故事から生まれた。 実際には越後の塩は以前から甲斐で販売されており、謙信が他の大名と同調するのをきらって、塩の販売を止めなかったのが真相のようである。 外に、信玄の死に際しては領内の歌舞音曲を禁止したという逸話が残るなど、謙信の人格を物語る事実は多い。 🔙戻る
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