村上 義清(むらかみ よしきよ、旧暦文亀元年3月11日(新暦1501年3月29日)〔生〕 - 旧暦元亀4年1月1日(新暦1573年2月3日)〔没〕) 戦国時代、信濃は独立した国人たちが各々領国支配を展開していた。小笠原氏という守護は存在していたが、すでにその名は一領主としての意味しか持たなかった。小笠原氏に代わって村上氏はそのような国人たちのなかでも最大の勢力を誇る国人であった。国人とはいえ、清和源氏の流れをくむ名族である。村上氏は源頼義の弟、頼清の流れを組むとされている。頼清の孫の盛清は、長兄で白河上皇に仕えていた惟清の養子となっていたが、嘉保元年(1094)、惟清が罪を得て伊豆国に流されたときに、信濃国更級郡村上郷に配流されて、その子為国が地名をとって「村上」と称し、村上氏の祖となったという。 村上義清は勇猛で知られた信濃埴科郡葛尾城主で、その武勇を持って佐久・埴科・小県・水内・高井郡など北信濃の各地を支配下に治め、村上氏の最盛期を築き上げた。 天文10年(1541)、勢力拡大をもくろむ義清は、甲斐の武田信虎と同盟して、小県郡の海野棟綱と真田幸隆を挟み撃ちにし、これを上野に追放する。真田幸隆は、暴君信虎を追放し家督を継いだ武田晴信に接近し義清と敵対する。 晴信は信濃進出の機会を虎視眈々と狙っていた。天文17年(1548)2月、晴信と義清は佐久郡上田原(※地図 ※ストリートビュー)で激突する。義清は猪突する武田勢を負けと見せて誘い出し包囲しこれを殲滅。この戦で晴信を庇うため、板垣信方、甘利虎泰など武田方の有力武将が多く命を落とした。義清より20歳年下であった晴信は義清に翻弄されるがままであった。 2年後(1550)、態勢を立て直し小笠原家を駆逐し、再び勢いにのる晴信は北信濃の村上家へ侵攻する。晴信は砥石城(※地図 ※ストリートビュー)を包囲するが、義清は降将の一人として武田勢の中に紛れ込み、機を見て蜂起し武田勢を大混乱に陥れた。この戦いで晴信は、義清に再び大敗し、殿を務めた、横田高松、渡辺雲州といった重臣が討ち死にしたという。戦死者は千人を越えた。対して村上軍の死者は200人足らずで、信玄にとっては生涯で最も屈辱的な敗戦となった。この戦いは「戸石崩れ」として後世に語り継がれた。 わずか1年後、かつて義清が追った真田幸隆の調略により、本拠・葛尾城北の清野氏が武田方に走ったため、あっけなく砥石城が落城。機を同じくして、武田勢が進入。諸領主はことごとく武田に降り、間を置かずして葛尾城も落ちる。このため1553年、武田信玄の三度目の侵攻に耐えられなくなり、上杉謙信を頼って越後に落ち延びた。これが、川中島の戦いの原因のひとつとなったと言われている。 その後、義清は勢力を一時は回復したが持ちこたえられず、最後は嫡男の村上国清とともに上杉謙信の家臣となった。 この時、国清の弟、義明を信玄と敵対する織田信長の重臣丹羽長秀の許に送ったといわれている。当時、義明は12歳だったといわれている。 また、義清は娘を豊臣秀吉の家来戸田勝隆に嫁がせたとされているが、定説はない。 武田の謀略に屈したとはいえ、戦場での能力にかけては長けていた義清は、1561(永禄4)年の第4次川中島の戦いにおいて、信玄と名を変えた晴信と再びまみえ、名将と呼ばれた信玄の弟・武田信繁(のぶしげ)を討ち取ったとされている(異説もあり)。 義清は自ら先陣を切って敵に突撃するほど武勇に優れており、長槍戦術の創始者の1人ともいわれるほどの槍名人でもあった。 永禄8年(1565)、上杉謙信は義清を根知城主に任じた。 元亀4年(1573)、武田信が玄死亡する5ヶ月前、ついに信濃に帰れず、異郷の地越後根知城で病死した。 義清の死後、武田家の後継者となった勝頼は織田信長に敗れて1582(天正10)年に自害。武田家の滅亡をうけて、同年に義清の子国清(のち山浦景国)が海津城代に任じられたため、村上氏は旧領への復帰がかなっている。しかし、織田方と内通を疑われ、上杉景勝によって城を没収され、その後は景勝の家臣となったといわれるが、詳細は不明である。 弟の義明は、丹羽長秀にその才覚をかわれ重用され、豊臣秀吉からもその実力を認められ小松城主となる。上杉氏が会津へ移封されると大名となって村上藩を立藩、義清の名乗りである周防守を継いでいる。 しかし村上藩村上氏も2代目忠勝の時改易の憂き目を見たが、義明の築いた村上城と村上市に名前が残った。 義清の墓と称する五輪塔が根知城下の安福寺にある。義清建立の供養塔は上越市国府1丁目の光源寺にある。 🔶〔墓所〕
🔶〔資料館〕
🔶〔行事〕
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