川浦代官陣屋 上越市



🔗竹垣三右衛門直照 🔗頸城質地騒動

江戸幕府はかつて全国400万石余の幕府領(天領)を代官(旗本)に支配させた。
川浦代官陣屋跡は、上越市三和区川浦に位置する。えちごトキめき鉄道高田駅前よりバスに乗り、番町で下車、徒歩5分。今は稲荷神社と「川浦代官所跡」の石碑などが往時を物語っている。
陣屋跡は、稲荷神社境内一帯の6500㎡(6反5畝)に広がる。周囲に幅2m、高さ1.5mの土塁と、その外側に幅約1.5mの堀があったという。稲荷神社は陣屋の守護神として1788(天明8)年、代官竹垣三右衛門直照(竹垣庄蔵直照の養子)のときに建立された。
陣屋内には代官の邸宅「御陣屋」(本陣)と役人の住居長屋と馬屋が、陣屋の入り口に勘定所と評定所があった。
代官所には、代官1人と手付、手代、書記などの属吏(役人)十数人がいた。支配地の村々の租税徴収、民政、勧農、警察、裁判などの事務を司った。

天和元年(1681)、高田城主松平光長が越後騒動で改易となると、幕府領となった所領を支配するために川浦に御用場が設けられた。
寛保3年(1743)、御用場は川浦代官所(陣屋)となった。川浦陣屋は近郷79ヵ村、6万石を支配、初代代官は荻原籐七郎であった。以後幕末最後の代官大草太郎左衛門まで36代、116年間続いた。
延享4年(1747)、陣屋機能は高野陣屋(上越市板倉区高野)に統合される。宝暦4年(1754)本陣の業務が再開され、長屋の増設がおこなわれたが、延享11年(1754)には落雷により建物は多くが焼失した。
安永年間(1772~1780)には代官竹垣庄蔵直照が頚城郡内8万9千石余と信州水内郡内1万5千石を管轄する天領陣屋となった。文化9年(1812)にはまたもや本陣が焼失している。
文政3年(1820)、川浦が高田藩に編入されると陣屋は廃止されるが、天保2年(1831)川浦陣屋は脇野町陣屋の出張として復活し、文政14年(1831)から慶応元年(1865)までは本陣屋であった。

慶応元年(1865)から出雲崎の出張となっていたが、慶応4年(1868)2月1日、旧幕府は頸城郡内にある川浦代官所が支配していた村々37,000石を高田藩の預かり地にするよう命じた。同年(1868)4月、戊辰戦争で信州飯山で敗れて逃げてきた衝鉾隊が陣屋に駐屯したが、4月26日、新政府軍についた高田藩の攻撃を受けて陣屋は炎上した。
遺構としては、代官所の第二門は三和区野の善巧寺の山門となった。建物の一部は四辻町の浄雲寺や末野の蓮華寺に移されたといわれている。

✦川浦代官所(川浦陣屋)跡
〔所在地〕新潟県上越市三和区番町1349

(遺構)

✦善巧寺
代官所の第二門を山門に利用
〔所在地〕新潟県上越市三和区野3237
≪現地案内板≫
川浦陣屋の沿革
川浦陣屋(代官所)は天領(将軍直轄の領地)の支配として寛保2年(1742)4月創設され、明治元年(1868)に廃陣となった。途中文政4年(1821)6月から天保2年(1831)10月まで約10年間、脇野町(三島郡)代官の支配になり川浦陣屋は取潰された。
初代代官萩原藤七郎より大草太郎佐衛門代官に至るまで36代に渡り116年問天領を支配した。代官は旗本がなり天領の租税を徴収しその支配内での軽い事件の裁判も行いその仕事は勘定所、評定所で行った。創設当時は6万石、村数79ヶ村、里五十公野村では川浦、野村が天領の支配下に納められた。4年後の延享3年に代官所管内で争いが起り3万石に縮少されてしまった。安永4年には8万3千石、寛政7年に7万石を支配した。稲荷社は陣屋の鎮守の為に天明8年2月竹垣三左衛門の願いにより建立したものである。頚城郡では数多くの代官所が設けられているが地理的に恵まれていたせいか、最後まで形が整っていたので有名である。広い屋数、それをとりまく堀、御門はその当時の代官に威力があったことを示している。また農民に重税を課したことも再々あったし色々な争いも少なくなかった。捕えられたものは裁判にかけられ牢屋に入れられた。罪重きものは刑場で処刑された。此の刑場は天領の刑場として知られる。

🔙戻る

竹垣三右衛門直照

寛保元年12月21日(1742年2月1日)〔生〕-文化11年11月8日(1814年12月19日)〔没〕

明和4年(1767)に竹垣家の養子に入り、天明6年(1786)に養父庄蔵の隠居により家督を継ぐ。同年越後国頸城郡の川浦代官(新潟県上越市)となり、5万石を支配した。支配地の年貢納入の実績が良く、安定した支配を行ったことが評価され、寛政1(1789)年摂津,播磨,河内の内7万400石支配に移る。
寛政5年(1793)より関東郡代付代官として下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国の6万石を支配した。真岡陣屋(栃木県真岡市)と上郷陣屋(茨城県つくば市)を設置、竹垣自身が半月ごとに陣屋を往復して民政の刷新を図った。勧農策を積極的に進め、農村人口の減少した北関東に、旧支配地の越後に住む貧しい浄土真宗門徒を呼び寄せ、土地や農具を与えて開墾をさせ、寛政6年(1794)から竹垣没後の文化13年(1816)までに約300戸が越後から移住した。募集は川浦代官領内からで、永く土地に根付いてもらうために、妻子持ちの百姓を優先して移住させた。北関東に、越後川浦領出身者による村々が生まれた。
また寛政6年(1794)、越後国高田の本誓寺より下野国芳賀郡八条村へ一宇建立し本誓寺(※地図 ※ストリートビュー)と称した。


🔙戻る

頸城質地騒動


江戸幕府8代将軍吉宗が享保3年(1718)と同6年(1721)に各3条からなる流地禁止令を発布した。流地禁止令は、質に入れた田地が流れてしまえば永代売買同様になるから、田地の質流れを防ぎ、自作農の維持を目的とするもので、その要点は(1)質置人(田畑を質に入れたもの)が質取人(金主)へ借入金の1割5分ずつを年賦償還すれば流地にならない。(2)1721年から5年前すなわち享保2年(1717)までの間に流地になったものでも訴え出れば無効にして(1)の項目を適用する。というものであった。
流地禁止令の御触れが頸城郡内の天領にも届くが村役人たちは、同法令が引き起こす混乱を恐れこれを百姓たちに読み聞かせなかった。
川浦領内の百姓たちは、流地禁止令の御触れを独自に入手し、これを拡大解釈して十数年以前の流地も小作年貢を差し引いて無償還付になるとし、さらに1割5分の年賦償還もまず質地を質置人が取り戻し、それを耕作しながら1割5分の償還金を出せばよいと自分たちに有利になるように法令を解釈して、質地を取り返すべく代官所に訴え出たが受け入れられなかった。

要求を拒絶された新屋敷村の金右衛門ら20名は、享保7年(1722)10月24日鶴町村・中村の金主の家を襲って土蔵を破り、米を強奪した。代官所側はこれに対し、説得に努める一方で、同時に事件の首謀者を捕えて黒井(上越市)の牢へ投獄した。騒動は質取人・質置人双方が江戸の評定所に出向いて訴訟合戦をする事態へと発展した。その後、130日目に入牢者の全員を釈放したことで事件は一旦は落着した。

しかし、享保8年(1723)3月15日に騒ぎは再燃し、150ヵ村の約2000名の農民が集い、吉岡村(上越市)の市兵衛や馬屋村源五左衛門ら数人が首謀者となって質地奪回のため、質取人の田に入って鍬を入れたり略奪したり、さらに代官所を襲うなど騒動はいっそう激化した。代官所の役人も質取人(金主)たちもこの一揆勢を止めることはできず、隣接する高田藩に逃げ込み、役人は江戸に救援を要請した。当時高田藩では18歳の若い松平定輝が藩主で、解決に並々ならぬ意欲を示したという。高田藩側では、この騒動が自領にも波及することをおそれ、自分たちで取り締まりをする旨、代官所役人と幕府に伝えた。

幕府は享保9年(1724)3月11日、頸城郡の天領を高田藩・会津藩・長岡藩・館林藩・新発田藩の5つの藩へと分散して預け地とした上で、これらの藩に騒動の鎮圧を命じた。

(高田藩による処罰)

高田藩主の松平定輝は、家老の服部半蔵・久松十郎右衛門を御用掛とし、各村々を巡回し、農民の主要人物を捕縛する。他の関係諸藩も強行措置に出て、享保9年(1924)6月30日までに関係者全員が捕え、高田府古町裏(現上越市大町1丁目西光寺付近と思われる)の牢屋その他におしこめた。
享保10年(1725)3月11日に下された判決では、質置人惣代の吉岡村市兵衛ら以下7人が磔刑・獄門11人・死罪12人・遠島20人・所払い19人・過料28人となり、赦免されたのは9人であった。付加刑として闕所・家財没収となった者は63人で、没収されたのは総石高は97石7斗余、土蔵1棟、馬屋17棟、持仏堂1棟、馬1頭におよんだ。
同じ死刑でも、死罪ー獄門ー磔の順で刑が重くなり、死罪と獄門は牢屋で首を斬り、獄門の首はさらに今泉河原に運び、獄門台にのせて3日間晒された。磔の罪人は、今泉河原で標柱に縛り付け、左右から交互に槍で突き刺し、後で首を斬り取って獄門同様晒し首にされた。
磔刑や獄門は、矢代川今泉川原の左岸(現瀬渡橋脇で下流七カ所橋側)の刑場で行われた。刑場は竹で作った柵が設けられ、越後史上例のない処刑は見せしめのため、衆人環視の中で行われた。
今泉河原で首を晒されたのは、磔と獄門の計18人であった。
判決時には、101人中55人が既に牢内で自白を強要され、受けた拷問で死亡するという越後では例を見ない虐殺が行われた。処刑の判決を受けた者のうち存命者のうち実際に磔刑に処せられたのは梨窪村百姓・藤助と青柳村百姓・甚五左衛門のみであったという。
また見せしめのため刑場に捨札が建てられた。これは罪人の名前や罪状を記した高札で、ふつうは30日間建てた。
越後国頚城郡吉岡村
百姓 市兵衛(外四名略)
右五人の者共、質地の儀につき頭取いたし、村々廻文等を以て大勢の百姓をすすめ騒動いたさせ、役所よりの申付をそむき、立かたき事共強訴いたし、あまつさへ公儀よりの申付と偽り、金主より質地を奪取候重科に付磔に行う者也、
これら処罰を受けた者たちのほとんどが、4石(4反)以下の零細農家であったという。越後史上例のない処刑が行われた。2年7ヵ月に及ぶ騒動は鎮圧された。数々の問題を引き起こした法令は、享保8年(1723)8月28日に騒動の解決前に廃止されている。また、この苛烈な鎮圧を実行した松平定輝は処刑が行われた享保10年(1725)の10月に、21歳で亡くなっている。

高田藩主の松平家は、鎮圧の功績が幕府に認められたとして、寛保元年(1741)に松平定賢の代になって陸奥国白河藩へ転封となった(松平家のもともとの領地が桑名であったことから、高田より更に北方の白河への転封は、左遷であるとの見方もある)。

✦今泉河原処刑場跡
高田藩の御仕置場ははじめ七カ所橋脇にあったが、住民からの嘆願で、人家の少ない瀬渡橋脇に移され、その後明治初めまで使用され、多くの罪人がここで処刑された。今では処刑場であった痕跡は何もないが、河原に立つと、冷気が感じられる場所である。
〔所在地〕新潟県上越市大和1丁目地内 ✦今泉河原処刑場 延命地蔵

🔙戻る