長岡口の戦い 長岡市



6月2日の今町占領は同盟軍の希望というより、河井総督の長岡城奪還への執念の第一段階であった。この攻略戦で勝利を収めた同盟軍にはその勢いで進撃して長尾城の奪還をと言った者も多かったが、河井継之助は断固その意見を制止し、会津の佐川隊・砲兵隊・長岡勢の半小隊を今町に留めて警備にあたらせ、他は全員坂井・安田両方面に引き揚げさせた。
今町戦争で敗北した政府軍は、今町・中之島を失って、見附や赤坂・杉沢・栃尾方面だけが同盟軍の占領地に突き出した形となっており、孤立の危険があり撤退した。撤退後は刈谷田川左岸の漆山ー鹿熊ー押切の線を守備線としたが、ほどなく川辺ー大黒ー福島ー浦瀬ー半蔵金を結ぶ線を前線とし、要所に堡塁を築いて同盟軍と対峙するようになった。新政府軍は、当座の戦略を長岡城の守りに方針を変更していた。
6月3日、河井総督は会津隊将佐川官兵衛らと三条へ引き上げたが、予想した通り見附を守った政府軍は押切方面に退き、同盟軍は戦わずして占領することができた。
同盟軍はゆうゆう攻勢に出て本営を見附に進めた。中央部(長岡城正面)にあっては品の木、中興野、百束、田井から山地へかかる荷頃等に、戦線を進めた。
6月4日、米沢・会津・村上・山形などの諸藩兵が見附に入った。また長岡藩の主力部隊は、牧野頼母・三島億次郎指揮のもとに、自領栃尾に復帰した。
同盟軍の米沢藩兵並びに長岡藩の大川・本富・山本・小島・篠原の諸隊及び大砲隊は片桐から傍所に進み刈谷田川を挟んで猛烈な砲撃戦を展開した。
此の時、政府軍はこの防戦中に福井・大黒・大面に堡塁を築く突貫工事を進めるための時間を稼ぐため奮戦をした。同盟軍の、長岡の大川・九鬼隊は米沢藩と共に夜半潜に刈谷田川を渡って敵営を衝いた。
また長沢を守備していた米沢藩は長岡藩の森・稲垣二隊と杉沢から栃尾に前進し、徐々に長岡城に迫る状況となった。
6月6日、同盟軍では、米沢の六小隊、村松兵二小隊、長岡藩の数隊で前進し、長岡の北から北東に及ぶ、二里ほどの近さに布陣した。このあたり、押切、大曲戸、五百刈、品ノ木、百束などの村落がある。
6月7日、大口で激戦があり、米沢が打ち破られた。米沢隊は三十匁和銃隊は、新式舶載のライフルの新政府軍の猛攻の前には、敵ではなかった。米沢藩は主力として戦うが老兵、少年兵が多く、しかも甲冑、火縄銃を携帯するという部隊が多かった。敵の堡塁に肉薄し、斬り込めば、犠牲者も多く出た。
正午ごろ会津朱雀四番士中隊と砲兵隊が救援に向かった。焼け跡の土塀や掘割を楯とした新政府軍と交戦した。
長岡藩隊は苦戦し、五百刈に退却、押切口にあった諸隊も苦戦に陥っていた。米沢兵も長岡兵も勇を鼓して奮戦した。実に、この戦闘は3時間に及んでいる。
5・6・7日と同盟軍は、連続の攻勢で傍所口の戦いから押切口の戦いを進め、福井・大黒の塁から押切・大曲戸・五百刈・品ノ木・百束まで占領することができた。
これを長岡を中心に中越の全線を見れば、政府軍の左翼は出雲崎から魚沼の大白川に至る迄15里(60㎞)、その守線は越後全域を折半した感がする。この膨大な戦線の防御に兵力の寡少なることを山縣参謀も苦慮した。
6月8日の払暁、、杤尾に陣営した同盟軍は継之助の命令によって、森立峠に奇襲攻撃を掛けることとなった。長岡藩四隊、会津藩二隊、村松藩二隊で峠の三方面からの攻撃であった。峠は長州、加州、飯田の三藩兵が固めていた。戦闘は激戦を極め、同盟軍側で、弾丸が切れて撤退となった。両軍ともに、かなりの死傷者を出した戦いとなった。
6月11日、この日までに、新政府軍の陣地は塁壁を急いで築いて、堅固ものとなっていた。衝鋒隊、米沢藩、会津藩、村松藩は部隊の編制替えを行い、大口周辺で激戦を繰り返した。両軍兵士とも、泥濘の中での戦闘であった。
6月13日、同盟軍各藩の諸将があつまり、その会議が見附本陣で開かれた。この席で、米沢藩千坂太郎左衛門が同盟軍総督に就任することが決められた。
負傷兵の手当てや次の攻撃準備のための配置換えをおこなうとともに。同盟軍は時日の経るほど、政府軍の戦力増強と同盟軍の消耗を憂え、即戦即決という決戦計画を立てた。
6月14日、この日は朝から雨模様となったが、長岡城恢復のための最大の激戦となった。
衝鋒隊、長岡兵、米沢兵、村松兵、会津第二遊撃隊は森立峠と浦瀬を結ぶ西軍の守備を突破するべく、森立峠を東西南北から包囲するように配置し攻撃した。
長岡、米沢の一隊は、栃窪の一時峠の新政府軍陣地を奪った。此の塁を守っていた大垣兵は急襲を受けて遁走した。
会津四番士中隊他会津隊と、長岡兵は大黒方面猿橋口の新政府軍陣地を急襲した。この塁を守っていた新政府軍兵は敗走した。
衝鋒隊は、十二潟、高見方面で新政府軍を敗走させている。
この日の激闘で、新政府軍は大敗し、その死傷者両軍で200を数えたと記録にある。一方長岡藩では隊長らの死傷が出て敗北感があった。新政府軍では内部での責任の追及が行われた。
高田兵の半隊は大黒の東側を守っていたが、同盟軍の佐川官兵衛率いる会津藩朱雀四番士中隊など精鋭部隊の攻撃を受けると戦わないで、遁走した。救援のため筒場村から進撃した薩兵の死傷者が多く出て、隊長、半隊長ともに戦死したが、長州の八番隊の救援で何とか持ちこたえている。
参謀の山縣有朋は高田兵に対して処分を決めている。高田兵半隊の司令は前田門之丞である。翌日、本営に呼びつけて、藩からの処分があるまで謹慎を申しつけている。山縣はこの処分の内容を諸藩に送って公表している。
報せを受けた高田藩は驚愕した。隊長の前田門之丞を一銃卒にする処分をするとともに、名誉挽回の為、改めて忠勤に励むと謝罪した。
14日の戦いでは、森立峠方面の栃窪を守備していた大垣藩兵が、濃霧の中から突然現れた同盟軍に狼狽して塁を棄てて撤退している。しかし、このことは山縣の耳に入らなかったのか、特にお咎めはなかった。
大垣藩は、東山道軍に従軍して先鋒として戦功をあげていたが、越後口が手薄ということで、転進してきていた。
高田、加賀(富山)や信州諸藩兵は攻撃を受けると堡塁から逃げ出す者が多く、新政府軍は驕悍の薩摩、長州藩兵を近くに配置するような戦術をとった。戦争が長引くことによって、徴兵された藩兵の中には、薩長に強制され戦っているだけで、自藩にとっては大義なき戦いを強いられているという厭戦気分が広まっていた。戦場で手柄を立て、新政府で出世できるのは薩長の兵士だけで、徴兵された兵士にできることは無駄死にしないことだけである。戦場で戦うのは自分の命を守るためであった。
また新政府軍の司令部内で薩長が対立していたことは、薩長間での権力争いのように映り、朝廷のために戦うという大義に疑いが生じ、新政府の求心力も薄れ、戦線にいる兵士たちの意識にも影響を及ぼしていた。
6月16日、同盟軍側では新発田藩兵200名が到着し、米沢藩兵の督戦をうけながら、灰島村、大曲戸村、中興屋、田井村、耳取村等に分散して警備についた。
6月22日、四ツ屋を仮本陣の河井継之助は夜襲を敢行した。その進路を八丁沖に取り、時刻は暁闇に決めた。八丁沖は折からの洪水に際し、水を満々とたたえ、村際まで水が迫っていた。暗闇の攻撃であるので、同盟軍は各部隊ごとに詳細に役割分担を決めた総攻撃であった。
長岡兵4小隊200人は、福島村を守っていた富山藩兵を攻撃した。富山兵は支えることができず、多くの戦死者を出し、おびただしい武器弾薬を遺棄して撤退している。長岡兵が大黒の堡塁に向かうと、薩長の部隊が救援に駆け付けて同盟軍を攻撃した。激戦であったが夜明けの8時頃には同盟軍の敗色が濃くなった。その後長岡兵は撤収している。
河井継之助は、自身の作戦の誤りを認めた。この作戦は後の八丁沖作戦の前哨戦となった。6月23日、25日には相手の堡塁に大砲を撃ちこむなど小戦闘が行われた。
6月27日になって、会津藩に転陣の命令があり、与板方面に展開していた萱野右兵衛が水原に戻ることとなり、佐川官兵衛の朱雀四番士中隊など一隊が交代の為、与板方面に移動を開始した。
7月2日、福井、百束に布陣する米沢兵は大黒の敵陣を攻撃する計画を立て、長岡藩二小隊の協力を得て、暁闇に紛れて攻撃をおこなった。
大黒を守備した高田・富山藩兵は守勢となり、後退したが薩長の援兵が到着し激戦となった。米沢兵の死傷60人を数えるという被害が出て、同盟軍は撤退した。
7月3日、見附に赴いた継之助は、百束、福井、押切、四ツ屋等の守備を米沢兵にゆだね、長岡城恢復の策を決行するために長岡勢を栃尾に引き揚げさせた。杤尾には、富川家に仮本営を置き、長岡城奪回作戦の本部とした。
この後、同盟軍は積極的な攻勢をかけていない。河井継之助は、杤尾において次の八丁沖の作戦を検討して、時期を見計らって実効に移す戦略を練っていた。一方の新政府軍も、西国諸藩から続々兵が到着し、兵力が充実し、今後の越後征討の戦略の検討を進め、新潟町制圧の準備も進められた。


🔶大黒古戦場パーク
新政府軍側が築いた保塁で、見附方面から攻めてくる同盟軍と幾度となく激戦を繰り広げた地で、山本五十六中将揮毫の「戊辰戦蹟記念碑」が建っている。

🔶北越戊辰戦争伝承館
激戦地であった地域の住民から見た北越戊辰戦争の様子や地域に伝わる当時の資料や逸話、地元の偉人や農村文化を紹介しています。
  • 〔所在地〕新潟県長岡市大黒町39-2 大黒公園内
  • 〔問い合わせ先〕☎0258-21-2688
  • 〔料金〕 無料
  • 〔休刊日〕月曜日・金曜日(国民の祝日の場合は翌日) ・12月1日から翌年3月31日まで




















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  • 作者:渡辺れい
  • 出版社:新潟日報メディアネット
  • 発売日: 2018年03月01日頃

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