長岡藩の戊辰戦争 八丁沖の戦い
八丁沖の戦い~長岡城奪還八丁沖渡河作戦―河井継之助が挑んだ長岡城奪還の奇策天然の要害「八丁沖」八丁沖とは、現在の長岡市東北部に広がっていた巨大な低湿地帯のことである。百束、大黒付近から南は富島、亀貝に至るまで、南北約5キロメートル、東西約3キロメートルに及ぶ広大な沼沢地であった。中央部は水深が深く、底なし沼とも恐れられる場所で、昔から大蛇や怪魚が棲むという伝説が残るほど、人を寄せ付けない場所であった。特に夏場には、人の背丈を超える葦が一面に繁茂し、昼間でも薄暗く感じられるほどであったという。 そのため、八丁沖は軍事的には「越えることのできない天然の要塞」と考えられていた。長岡城を守るうえで最大の防御施設ともいえる存在であり、敵軍がここを突破して攻め込むことは不可能と考えられていた。 八丁沖周辺の戦況と新政府軍の油断長岡城占領後、新政府軍は城の東北方面にある八丁沖を天然の防壁として利用し、この方面から長岡藩兵が攻撃してくる可能性は低いと考えていた。八丁沖北西端の大黒地区には、新政府軍が築いた防塁があり、現在ここには山本五十六中将の揮毫による「戊辰戦蹟記念碑」が建立されている。 この大黒保塁は、新政府軍にとって重要な防御拠点であった。同盟軍は6月14日、6月22日、さらに7月2日にも夜襲を試みたが、いずれも突破することはできなかった。 特に7月2日の八丁沖攻撃失敗によって、新政府軍は「この方面からの侵入は不可能」と判断し、次第に警戒を緩めていった。 一方、戦況は新政府軍にとって有利に進んでいた。6月21日には、新政府軍の軍艦5隻が柏崎港に入港し、越後方面の戦線を一気に制圧するための増援部隊を送り込んだ。この時期、新政府軍の兵力は約3万人に達していたともいわれる。長岡藩を取り巻く状況は極めて厳しいものとなっていた。 河井継之助、最後の大作戦を決意河井継之助は、新政府軍の総攻撃が近いことを察知していた。長岡城下には密偵として渋木成三郎を送り込んでおり、渋木から「政府軍の総攻撃が迫っている」との情報を得ていた。このまま防戦を続ければ、兵力で圧倒する新政府軍によって長岡藩は壊滅する。継之助は決断した。「敵が大軍を集結させる前に、こちらから奇襲を仕掛け、長岡城を奪還する」 そのために考え出されたのが、誰もが不可能と考えていた八丁沖の突破であった。 河井継之助は、わずか500人余りの長岡藩兵を率いて八丁沖の泥沼を突破し、長岡城を取り戻すという決死の作戦を立案した。 また、長岡藩兵の進撃に合わせて、会津藩・桑名藩など同盟軍諸藩にも各方面から攻撃を開始するよう要請した。 攻撃方面は、*中之島口 *大口口 *押切口 *福井口 *田井口 *小貫口の六方面であり、八丁沖渡河作戦と連動して新政府軍を混乱させる計画であった。 作戦決定と八丁沖攻略路の準備7月17日夜、栃尾に置かれていた長岡藩仮本営に、大隊長や軍事掛、会津・桑名藩の諸将が集められた。河井継之助はこの席で、7月20日夜に八丁沖を渡り、長岡城を奪還する作戦を正式に発表した。しかし、7月19日には激しい暴風雨となった。長岡藩兵は敵に気づかれないよう、栃尾方面から見附南方へ密かに移動した。しかし翌20日、連日の大雨によって八丁沖一帯はさらに水が増し、まるで巨大な湖のようになっていた。この状態では兵を進めることは不可能だった。河井継之助は慎重に判断し、決行日を7月24日夜へ延期した。 鬼頭熊次郎による八丁沖渡河路の建設この4日間に熊次郎は、漁業仲間など数名の協力を得て、敵に悟られないよう夜間を中心に作業を行った。昼間に活動すれば、新政府軍の監視兵に発見される危険があったためである。深い泥の中に入り、水深を確かめながら進路を測り、危険な場所には板を渡した。足場の悪い場所には竹や木材を利用して補強し、兵士が一列になって進める通路を少しずつ築いていった。熊次郎たちは、北側の百束付近から南側の富島方面へ向かう約4キロメートルに及ぶ進撃路を完成させた。 7月24日夜の八丁沖突入―長岡藩存亡をかけた決死の進軍出撃前夜、最後の決意を固める長岡藩兵7月24日午後4時頃、見附南方に置かれた長岡藩本陣前には、作戦に参加する兵士たちが集結した。参加兵力は17小隊、兵員約690名とされるが、実際に八丁沖を渡る主力部隊は約600名余りであった。出発に際し、兵士一人につき弾薬150発、青竹1本、そして携行食として「勝餅」と呼ばれる切餅21個が配られた。青竹は、深い泥沼を進む際の杖として使用するためのものであった。 河井継之助の訓示「死中に生あり」出陣を前に、河井継之助は諸隊長や兵士たちに最後の訓示を与えた。長岡藩は250年続いた牧野家の居城を失ってから、すでに2か月が過ぎていた。継之助は、目前にある長岡城を指しながら、「我が藩250年来の居城を失い、今これを眼前に見る。すでに二か月。今夜一挙に回復せんとす。しかし敵は多勢、我は僅かに500人足らず。死地に入りて活路なし。たとえ城墟の露と消えるとも本望である」という趣旨の言葉を述べたと伝えられている。そして、「死中生あり、生中死あり」と語り、兵士たちに覚悟を求めた。長岡藩兵は決死の覚悟であった。たとえこの奇襲作戦が失敗し、戦死することがあっても、父祖の地の長岡城で死ぬことができれば本望であった。 八丁沖へ向かう長岡藩兵午後7時頃、長岡藩兵は四隊に分かれ、前哨兵10名を先頭にして出発した。夜間の奇襲であるため、行軍には徹底した静粛が求められた。合言葉は、「誰と問えば雲」であった。兵士たちは、市屋(市谷)の船橋を渡り、刈谷田川を越え、熱田新町から四ツ屋、漆山を経て百束方面へ進んだ。 この間、敵に気づかれないよう、足音や武器の音を極力抑えながら進軍した。百束付近で一時休息を取り、さらに夜が深まるのを待った。そして午後10時頃、長岡藩兵はついに八丁沖へ足を踏み入れた。 闇夜の泥沼を進む決死の渡河八丁沖の夜は、想像を絶するほど困難なものであった。周囲には視界を遮る葦が生い茂り、月明かりも届かない暗闇の中であった。兵士たちは互いの姿を確認することも難しく、わずかな音でも敵に察知される危険があった。しかし、鬼頭熊次郎が事前に築いた渡河路が、兵士たちを導いた。約2キロメートルに及ぶ長大な兵列が、音もなく八丁沖を横断していった。八丁沖北西部の大黒保塁には、新政府軍の監視兵が配置されていた。本来ならば、この方面から敵が来ることはあり得ないと考えられていたため、警戒は十分ではなかった。長岡藩兵は、その隙を突いた。新政府軍は、八丁沖の突破など不可能と考え、そこから攻撃されるとは予想していなかったのである。こうして長岡藩兵は、敵の目をかいくぐりながら南下を続けた。 富島上陸戦―八丁沖突破後の激戦夜明け前、長岡藩兵が富島方面へ上陸7月25日午前4時頃、約600名の長岡藩兵は八丁沖南端の宮下村(現在の長岡市宮下)付近へ到達した。長岡藩兵の進軍路の先には、長岡城東北方面を守る新政府軍の前線陣地が存在していた。その周辺には富島村、亀貝村などの集落があり、新政府軍はこれらの地域を防衛拠点としていた。八丁沖から突然現れた長岡藩兵は、新政府軍にとって完全な不意打ちであった。八丁沖から上陸した長岡藩兵の前に立ちはだかったのは、薩摩藩十三番隊であった。薩摩藩兵は、戊辰戦争において新政府軍の主力を担った精鋭部隊であり、各地の戦場で豊富な実戦経験を積んでいた。彼らは富島村周辺に陣地を構え、長岡城東北方面の防衛を担当していた。 先頭には鬼頭熊次郎率いる10名の前哨隊が抜刀して新政府軍の堡塁に近づいて行った。薩摩藩の哨兵は、暗闇の中に動く人影を発見した。「敵襲!」その叫び声とともに銃声が響き渡った。発射された銃弾は、先頭にいた鬼頭熊次郎を直撃した。熊次郎の負傷・戦死をきっかけに、長岡藩兵は一斉に攻撃へ移った。大川市左衛門隊、千本木林吉隊を中心とする第一陣は、敵陣へ向かって突撃した。長時間の泥沼行軍による疲労をものともせず、兵士たちは「死ねや死ねや」と叫びながら薩摩藩陣地へ殺到したと伝えられている。斬りあう喚声と銃声が交錯した。近くの農家に火が放たれた。各地にのろしがあがり、これを合図に各地で同盟軍諸藩兵が新政府軍に攻撃をかけた。 激しい戦闘の末、薩摩藩十三番隊は防戦したが、長岡藩兵と白兵戦となりさすがの薩摩藩兵も敗走した。長岡藩兵は富島方面の新政府軍前線基地を占領した。長岡藩兵は一様に「死ねや死ねや」と叫んで突撃し、逃走する新政府軍兵を追走して長岡城下に向かったという。 奇襲成功、長岡城への進撃開始富島方面の陣地を突破したことで、八丁沖渡河作戦は第一段階の成功を収めた。さらに、長岡藩兵の上陸を合図として、同盟軍諸隊も各方面から攻撃を開始した。富島での突破口確保に成功した長岡藩兵は、勢いを止めることなく長岡城下へ進撃を開始した。第一陣の山本帯刀隊は富島方面から城下へ向かい、第二陣は蔵王方面、第三陣は亀貝方面から進撃した。こうして八丁沖渡河作戦は、単なる奇襲ではなく、長岡城を奪還する大攻勢へと発展していった。 長岡城奪還戦―八丁沖奇襲による故城回復各方面から開始された同盟軍の総攻撃八丁沖を突破した長岡藩兵の進撃に合わせ、同盟軍諸隊も事前の計画通り各方面から攻撃を開始した。攻撃は、*中之島口 *大口口 *押切口 *福井口 *田井口 *小貫口の六方面で展開された。八丁沖方面から長岡藩兵が迫り、同時に各方面から攻撃を受けたことで、新政府軍の防御態勢は大きく崩れた。特に、これまで安全と思われていた城の東北方面から敵が侵入したことは、新政府軍にとって予想外の事態であった。蔵王・石内方面での戦闘長岡藩第二陣は、三間市之進の指揮する稲垣林四郎隊を中心として蔵王方面へ進撃した。蔵王地区には、新政府軍兵士が退避していたため、長岡藩兵は追撃を開始した。この戦闘の中で、長岡藩兵は安禅寺に火を放ち、新政府軍の拠点を攻撃した。また、篠原伊左衛門率いる一隊は、松代藩兵が守備していた石内村極楽寺方面へ攻撃を仕掛けた。松代藩兵は新政府軍側として動員された部隊であったが、長岡藩兵の猛烈な突撃を受けて這う這うの体で逃げ去った。敗走する新政府軍兵士の中には、戦わずして、着の身着のままで逃げ、追い詰められ信濃川に逃れ、溺れ死んだ者が多数いたという。 第三陣、亀貝方面から城下へ進撃第三陣は花輪求馬が指揮し、渡辺進隊・望月忠之丞隊が中心となった。この部隊は八丁沖南端の亀貝村(現在の長岡市亀貝町付近)へ上陸した後、永田村を経由し、栖吉川沿いに進んだ。その後、東神田方面から長岡城下へ突入した。城下では、長州藩兵を中心とする新政府軍が反撃を試みた。長岡城を守る新政府軍には、長州藩・加賀藩・松代藩などの兵が配置されており、決して弱い部隊ではなかった。しかし、突然の奇襲によって指揮系統が乱れており、組織的な防御を行うことができなかった。長岡藩兵は城下各所に防御の陣地を築いていった。長岡藩兵は銃撃を加えながら前進し、各所で激しい戦闘を繰り広げた。勢いに乗った長岡藩兵を止めることはできず、新政府軍は次第に城下から押し出されていった。 長岡城内での攻防と新政府軍の敗走長岡城下を守備していた新政府軍には、長州藩兵を中心として、加賀藩、松代藩などの兵が配置されていた。これらの部隊は、戊辰戦争各地で戦闘経験を積んだ兵士も多く、本来は決して弱い軍勢ではなかった。しかし、今回の戦闘では状況が大きく異なった。敵が来るはずのない八丁沖方面から長岡藩兵が現れたことで、兵士たちは突然の攻撃に対応できなかった。長岡藩兵は「ここで長岡城を取り戻せなければ藩の存続そのものが危うい」という覚悟で戦場に臨んでいた。 一方、新政府軍側は奇襲によって心理的動揺が広がり、次第に防衛線を維持できなくなっていった。特に富島・亀貝方面から城下へ進入した長岡藩兵の勢いは激しく、新政府軍は各所で後退を余儀なくされた。この夜の奇襲攻撃で、不意を衝かれた新政府軍の様子は、周章狼狽し醜態の限りであった。長州藩滋野隊や加賀藩、松代藩の兵士など、信濃川に飛び込んで溺れる者が続出する一方で、逃げ遅れて自害する者もいたという。 長岡城下では、各地で銃声が響き、激しい戦闘が続いた。新政府軍は必死に抵抗したが、午前中から昼にかけて戦局は明らかに長岡藩側へ傾いていった。昼過ぎには新政府軍の敗北は決定的となり、長岡城は再び長岡藩の手に戻った。 新政府軍首脳の敗走この時、長岡城下の神田町には、新政府軍の鎮撫総督である西園寺公望が仮宿営していた。西園寺は、八丁沖方面から響く銃声によって異変を察知した。当初、新政府軍首脳部は戦闘が城下に及ぶとは考えていなかった。しかし、銃声が次第に近づき、長岡城そのものが攻撃されていることを知ると、状況は一変した。西園寺公望は、軍の配置を記した帳面や重要書類を残したまま、身一つで小舟に乗り、信濃川を渡って関原方面へ退却したと伝えられている。 新政府軍の最高指揮官が戦場を離脱したことは、兵士たちの動揺をさらに大きくした。 新政府軍の実戦指揮を担当していた山県有朋も、長岡城の危機に直面した。 本人の回想では、西園寺公望と錦旗を関原の本営に送り、長州千城隊の隊長前原一誠から戦況を確認し退却を促した後、自分も逃げたとなっている。しかしこの回想は山縣が功成り名遂げたのちに、自分の都合の悪い部分は背後に隠して記載したものである。実際の戦場では、八丁沖方面からの奇襲によって完全に不意を突かれ、十分な防御態勢を整える時間はなかったとされる。 山県は当初、銃声を今町方面の戦闘によるものと考えていたが、実際には長岡城下まで長岡藩兵が迫っていた。事態を把握した時には、すでに城下での防戦は困難になっていた。山県は兵士に撤退を命じ、自身も素足同然の姿で逃走したという逸話が残る。榎峠方面へ向かい、舟で信濃川を渡って小千谷方面へ退却した。 この混乱した撤退のため、新政府軍は武器や弾薬を十分に処分することができなかった。 長岡藩兵が城内に入ると、そこには攻撃準備のため集積されていた大砲、小銃、弾薬など大量の軍需品が残されていた。これらは長岡藩にとって大きな戦利品となった。 河井継之助、長岡城へ入る7月25日昼過ぎ、長岡城奪還の勝利は決定的となった。八丁沖を突破した部隊、各方面から攻撃した同盟軍諸隊は、それぞれの目標を達成し、新政府軍は長岡城から撤退した。河井継之助も本隊を率いて長岡城へ入った。しかし、そこで目にしたのは、かつての美しい城の姿ではなかった。 5月19日の落城以来、戦闘によって城郭は大きく破壊され、城内には戦火の跡が残されていた。 河井は、ようやく取り戻した故城を前にして涙を流したと伝えられている。 長岡藩にとって長岡城は単なる軍事拠点ではなく、250年にわたり藩の象徴であり続けた場所であった。その城を取り戻した喜びと、戦争によって失われたものへの悲しみが入り混じる瞬間であった。 河井継之助の負傷しかし、この長岡城奪還の勝利の裏で、河井継之助自身も大きな犠牲を負っていた。戦闘中、継之助は左膝に銃弾を受けた。八丁沖渡河作戦では、総督でありながら後方にいるのではなく、前線に近い場所で指揮を執っていたためである。河井は負傷後も指揮を続け、長岡藩兵の動きを統率した。しかし、この傷は後の戦局に大きな影響を与えることになる。 銃創は深刻で、歩行にも支障をきたすようになった。さらに当時の医療技術では十分な治療を行うことが難しく、後に破傷風などによって病状は悪化していく。 八丁沖渡河作戦によって長岡藩は奇跡的な勝利を得たが、その中心人物である河井継之助は、自らの身体を犠牲にしていたのである。 勝利の先に待っていた苦難長岡城奪還は、北越戦争における長岡藩最大の勝利であった。しかし、この勝利によって戦争が終わったわけではなかった。新政府軍は小千谷方面で兵力を再編し、再び長岡攻略を目指して反撃を開始した。 長岡藩は一時的に故城を取り戻したものの、河井継之助の負傷、優秀な兵士の損耗、物資の不足などにより、戦力は大きく低下していた。 八丁沖渡河作戦は軍事史上まれに見る大胆な奇襲成功例となったが、それは同時に長岡藩最後の輝きでもあった。 河井継之助が負った傷は、長岡藩の運命とともに、その後の北越戦争の行方を大きく左右することになる。
なお、この日の戦闘で両軍の受けた人的損害は次の通りである。(見附市史より)
🔶八丁古戦場パーク ※GOOGLE 画像
「八丁沖古戦場」の石碑・解説碑、「手洗鉢」がある。
🔶富島集落の日光社 ※GOOGLE 画像 鬼頭熊次郎顕彰碑がある。 🔶金峯神社 ※GOOGLE 画像 信州松代藩士14名を弔うために明治元年(1868)10月に建てられた「松代藩士の墓」がある。 ☛ 北越戦争長岡口の戦い |
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八丁沖古戦場パーク
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