八丁沖古戦場 Hatcho-oki ancient battlefield 長岡市



長岡藩の戊辰戦争 八丁沖の戦い

八丁沖の戦い~長岡城奪還

この年5月8日(新暦6月27日)に発生した信濃川の大洪水で甚大な被害がでた。 春以来雨天続きでこの日から越後平野一帯は大洪水に見舞われた。被害状況は次の通り。堤上2.3尺(0.6m~0.9m)余りの越水に破堤・水冠おびただしく、新発田藩領被害高72,000石と近世越後水災史上最大。 加茂新田・尾崎・長呂・猪子場新田・田崎・井戸巻・田嶋・金巻・大河津・大野・山崎興野・下塩俵および上大郷の神社前が破堤し、上大郷の御神体は犬帰まで流れた。この破堤延長1,057間。(信濃川大河津資料館より)
八丁沖は長岡の東北郊外、百束(ヒャクソク)、大黒(ダイコク)あたりから、南は富島(トミジマ)、 亀貝(カメガイ)にいたる南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地で中央部が底なし沼となっており、大蛇や怪魚が住み、最も薄暗くなるほどの背丈の葦が繁茂する沼であった。普段から人が寄り付かない沼であったのである。長岡城を攻める上で、攻略が不可能とされる天然の要塞とされた。
圧倒的な兵力の差により、長岡城は新政府軍の手に落ちたが、野戦に転じた長岡軍は、今町の戦いで大勝し、八丁沖から長岡城に迫った。
八丁沖の北西の角に大黒古戦場跡があり、山本五十六中将揮毫の「戊辰戦蹟記念碑」が立っている。征討軍が保塁を築いていた場所で、同盟軍は6月14日、22日、7月2日と夜襲をかけたが、突破できなかった。

6月21日には、柏崎に新政府軍の軍艦が5艘入港し、総督府は膠着した越後の戦線に攻勢をかけようと追加の援兵を送り込んできた。この頃には、新政府軍の兵力は3万人にも達していたという。
河井継之助は部下の渋木成三郎を密偵として長岡城下に派遣していたがその渋木から「政府軍の総攻撃近きにあり」との情報を得ていた。河井は大軍が押し寄せてくるまでに、長岡に進撃することを決意し奇襲作戦を練った。
長岡占領後の新政府軍は天然の要害と安心して、この方面の警備を疎かにしていた。
継之助は500人余りの長岡藩兵だけで、長岡城の自然の要害となっている八丁沖の泥中を突破し、決死の覚悟で新政府軍に挑み、長岡城を恢復するという計画を立てた。これが河井継之助の最後の奇策「八丁沖」の強行突破である。その際、諸藩には長岡藩兵の進撃に合わせて各地で攻勢をかけることを要請していた。

7月17日の夜、長岡藩総督河井継之助は栃尾の長岡藩仮本営に配下の大隊長・軍事掛・会津・桑名藩の諸将を集め、作戦会議を開いた。その席で河井は「来る7月20日の夜をもって八町沖を強行渡河し、長岡城を奪還する」作戦を発表した。
19日は暴風雨となった。栃尾方面に陣をしいていた長岡藩兵は敵に気づかれることなく見附南方に移動する陣替えをおこなった。翌20日は見附南方から八丁沖をにかけて大湖ができていて、とても渡河できる状況ではなかった。そこで河継之助は作戦を24日夜に延期することを決断した。
7月24日午後6時、見附の長岡藩本陣前に、長岡藩17小隊、約690名が集合整列し、夜半、八丁沖の北端、四ツ谷村に到着した。
「我が藩250年来の居城を失い、今眼前に之を見る。既に2か月。今夜一挙に回復せんとす。しかも敵は多勢、我は僅かに500人足らず。死地に入りて活路無し。乃ち城墟(城跡)の露と消えるもまた本望である」、「死中生あり、生中死あり」と継之助は諸隊長に訓示した。長岡藩兵は決死の覚悟であった。たとえこの奇襲作戦が失敗し、戦死することがあっても、父祖の地の長岡城で死ぬことができれば本望であった。
また同盟軍諸隊は、長岡へ軍の渡沼に合わせて中之島口・大口口・押切口・福井口・田井口・小貫口の六方面で攻撃をかける手はずとなっていた。
7月24日午後4時、各隊一人ごとに弾薬150発、青竹1本、糧食として勝餅という切餅21ヶが渡された。
午後7時17小隊(兵員612人)が四梯子隊に分かれて前哨兵10名の案内人を先頭にして出発した。合詞は「誰と問えば雲」と答う。市屋(市谷)の船橋を渡り(刈谷田川)熱田新町から四ツ屋漆山を経て百束に出て休息。これより音なく静粛に10時頃八丁沖にかかった。
深夜、大黒保塁からの監視の目をかすめ、長岡軍が泥の中をはうように2キロにもわたる長蛇の軍列で、八丁沖を横切っていった。

7月25日午前4時、六百人の奇襲部隊が宮下村(長岡市宮下)に上陸した。付近の富島村は、薩摩藩十三番隊の一隊が守備していた。先頭を進む前哨兵の鬼頭熊次郎を含む10名の一隊は、抜刀して新政府軍の堡塁に近づいて行った。その後を山本帯刀率いる第一陣の大川市左衛門隊・千本木林吉隊が一団となって追走した。
薩摩藩の哨戒兵が長岡藩兵士を見つけ、絶叫して発砲した。その弾は熊次郎に命中した。
鬼頭熊次郎
八丁沖渡渉作戦で、その先頭を進んだのは、下級藩士鬼頭平四郎の弟、熊次郎だった。彼は家族の多い鬼頭家のために、山仕事や八丁沖での漁労に従事する日々を過ごしていた。この時42歳。独身。長年の重労働で、彼の足は内側に曲がっていたという。
だれもが不可能と思っていた八丁沖横断作戦を立てた河井継之助は、漁で沼を熟知していた熊次郎に望みを託した。熊次郎は、魚捕りの仲間と四夜をかけて、沼の深い場所には板橋を渡すなどして、八丁沖の真中を北から南へ貫く、4キロの攻撃路を構築した。
この場所は現在、「八丁沖古戦場公園」になっていて、見渡すばかりの水田を背に記念碑が立っている。また、富島集落の日光社境内には大正5年建立の「鬼頭熊次郎顕彰碑」がある。敵陣に斬り込んだ熊次郎は、銃撃に倒れたのだった。その遺体は翌日、兄嫁が、曲がった足によって確認したという。
その発砲を機に、先鋒の大川、千本木林吉の両隊は一斉に突進した。斬りあう喚声と銃声が交錯した。近くの農家に火が放たれた。各地にのろしがあがり、これを合図に各地で同盟軍諸藩兵が新政府軍に攻撃をかけた。
上陸地点の富島村の堡塁を守っていたのは薩摩藩十三番隊は防戦したが、長岡藩兵と白兵戦となりさすがの薩摩藩兵も敗走した。大川隊は、大激戦のすえ新政府軍前線基地を占領した。以前7月2日に、一度八丁沖渡河を同盟軍が試み、失敗したことから、新政府軍側では油断があったと思われる。長岡藩兵は一様に「死ねや死ねや」と叫んで突撃し、逃走する新政府軍兵を追走して長岡城下に向かったという。
三間市之進率いる第二陣の稲垣林四郎隊は、蔵王へ向かった。蔵王に逃げ込んだ新政府軍兵士を追撃し、安禅寺に火を放った。隊長篠原伊左衛門の率いる一隊は、松代藩兵の籠る石内村極楽寺に攻撃をかけた。すさまじい白兵戦となったが、徴兵で戦争に参加している松代藩兵は決死の長岡藩兵の敵ではなく、這う這うの体で逃げ去った。また戦わずして、着の身着のままで逃げ、追い詰められ信濃川に逃れ、溺れ死んだ者が多数いたという。
第三陣の花輪求馬が指揮した渡辺進・望月忠之丞の両隊は、亀貝村(富島村の隣村)に上陸したのち、永田村を経て、栖吉川を遡上し、東神田から長岡城に向かった。
城下に入ると、長州兵が猛反撃してきたが、勢いに乗る長岡兵が銃撃により応酬したため、長州兵は撤退した。長岡藩兵は城下各所に防御の陣地を築いていった。
新政府軍は、城下各所で必死に抗戦したが昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功した。この夜の奇襲攻撃で、不意を衝かれた新政府軍の様子は、周章狼狽し醜態の限りであった。長州藩滋野隊や加賀藩、松代藩の兵士など、信濃川に飛び込んで溺れる者が続出する一方で、逃げ遅れて自害する者もいたという。
本陣の河井継之助らの一隊も長岡城に入った。新政府軍はすでに撤退した後だった。河井は変わり果てた姿の城中の様子を見て、涙を流したと伝えられる。

前線神田町に仮宿営していた鎮撫総督の西園寺公望は、宮下方面から砲声や銃声が聞こえると、兵の配置を著した帳面や重要な書類もそのままに身一つで小舟に乗り、信濃川を渡って関原まで逃れたと回想している。
城下に宿陣していた山形有朋は、本人の回想では、西園寺公望と錦旗を関原の本営に送り、長州千城隊の隊長前原一誠天保5年(1834)3月20日〔生〕長州藩参謀として活躍。明治9年(1876)12月3日萩の乱の首謀者として処刑される。〔墓所〕弘法寺(山口県萩市土原)から戦況を確認し退却を促した後、自分も逃げたとなっている。しかしこの回想は山縣が功成り名遂げたのちに、自分の都合の悪い部分は背後に隠して記載したものである。
実際は、前線に近くあった西園寺は八丁沖方面で銃声がすると、山縣が状況を把握する前にすでに逃げていた。
山縣は当初、銃声は今町方面で挙がったと思ったが、実際には城下まで迫っていた。不意を突かれ、前線の状況を完全に把握する間もなく、長岡城下での防御が不可能と知ると、新政府軍兵士に撤退を命じ、自らは帯ひろ裸で素足のまま、命からがら、榎峠まで行き、舟で信濃川を渡り、小千谷本陣まで逃げたという。軍を立て直す余裕などなく、弾薬に火をかける間もなかったのである。新政府軍が逃げ去った後には、攻勢をかけるため補充されていた、大量の大砲や小銃、弾薬が残されており、同盟軍の手に落ちたのである。

継之助のこの八丁沖渡河作戦は、この方面の防備が手薄なのを察知し、巧みにその虚をついた作戦として、現在でも高く評価されている。


🔶八丁古戦場パーク
「八丁沖古戦場」の石碑・解説碑、「手洗鉢」がある。
🔶大黒古戦場パーク
新政府軍側が築いた保塁で、見附方面から攻めてくる同盟軍と幾度となく激戦を繰り広げた地で、山本五十六中将揮毫の「戊辰戦蹟記念碑」が建っている。

🔶富島集落の日光社
鬼頭熊次郎顕彰碑がある。

🔶金峯神社
信州松代藩士14名を弔うために明治元年(1868)10月に建てられた「松代藩士の墓」がある。



☛ 北越戦争長岡口の戦い



















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