山本五十六 Isoroku Yamamoto 長岡市
1884年(明治17年)4月4日〔生〕 - 1943年(昭和18年)4月18日〔没〕 第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。 山本五十六は明治17年(1884)に長岡市玉蔵院町の旧長岡藩士族・高野貞吉の6男として生まれた。母は峯といい、父親の貞吉が56歳のときに生まれたことから五十六と名付けられた。峯は3人目の妻で、1人目と2人目の妻は峯の姉であった。貞吉は長岡藩では家禄100石で、計司(経理)を務めていた。 明治29年(1896)12歳、長岡本町高等小学校を卒業して、長岡中学へ進学。五十六の長岡中学時代は細面で病弱そうな容貌をしていた。この中学時代に、五十六は機械体操で身体を鍛えた。 当時の五十六の性格は、細かく人の心情にまで気づく人であったらしい。 戊辰戦争の傷跡が残る中で、長岡士族の多くは清貧の生活をしていたという。祖父貞通は戊辰戦争の際77歳で戦死し、父貞吉は会津若松で戦い負傷している。 五十六は、育英団体「長岡社」から給付を受ける貸費生であった。この団体は、戊辰戦争で敗れた長岡が、薩長政府に対抗するために人材を育てようと設立された団体であり、現在も設立の趣旨を受け継ぐ団体が長岡には存在する。 五十六は少年時代、私立長岡学校の英語教師をしていたアメリカン・ボードの宣教師ニューウェルの日曜学校に通っていた。広島県江田島の海軍兵学校には聖書を携えて入学し、以後も英文の欽定訳新約聖書を携行していた。現在、この英文聖書は山本の遺品として、長岡市にある「山本五十六記念館」に収蔵されている。 明治34年(1901)17歳、成績が優秀であった五十六は官費で修学できる海軍兵学校を選んだ。3年間広島県江田島の兵学校で教育を受ける。 明治38年(1905)21歳、少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり日露戦争に出陣、5月27日日本海海戦で重症を負い、左手の中指と薬指を失う。 明治42年(1909)25歳、アメリカに駐在。 明治44年(1911)27歳、海軍砲術学校と海軍経理学校の教官となる。 大正2年(1913)29歳、両親が死去。海軍大学校に入学。 大正4年(1915)31歳、旧長岡藩次席家老だった山本家に子が無く、廃家となっていたのを惜しんだ旧藩主牧野忠篤子爵の斡旋で家督を継ぐ。 大正5年(1916)32歳、12月、海軍大学校を卒業。 この後五十六は、海軍で主に軍政畑を歩き、2度の軍縮会議には随員、海軍予備交渉役となっている。 大正6年(1917)33歳、腸チフスにかかり生命の危険に陥る、7月、海軍省軍務局員。 大正7年(1918)34歳の時、旧会津藩士三橋康守の三女礼子(23歳)と結婚する。礼子との間には二男二女をもうけた。 大正8年(1919)35歳、アメリカに駐在、ハーバード大学に留学。 大正10年(1921)37歳、帰国後、軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる。 大正14年(1925)41歳、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭になり、部下の教育にあたる。 大正15年(1926)42歳、米国大使館付武官として2年間アメリカに駐在。 昭和3年(1928)44歳、帰国後、8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長。 昭和4年(1929)45歳11月、海軍少将に進級。 昭和5年(1930)46歳12月、海軍航空本部技術部長。 昭和8年(1933)49歳10月、第一航空戦隊司令官 昭和9年(1934)50際、9月20日、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表、12月、海軍航空本部長に任命。 昭和11年(1936)52歳、海軍次官となる。米内光政とともに米英に対抗する日独伊の三国同盟は無謀であると強く反対した。 昭和14年(1939)55歳、8月31日、連合艦隊司令長官に親補され、まもなく海軍大将となった。 昭和16年(1941)57歳、12月8日、米国との太平洋戦争突入の端緒となる真珠湾奇襲攻撃を指導する。五十六は海軍本部長時代、航空戦の軍備を飛躍的に向上させ近代化を行っていた。これは、軍備を増強し、奇襲攻撃を仕掛けることによって、圧倒的軍備に勝る米国を打ちのめし、譲歩を引き出す以外に勝つための戦略はないと考えたからだと思われる。戦争が長引けば勝ち目はなかった。この戦略は、小藩長岡藩の先人河井継之助が新政府軍にとった戦略と通じるものがある。 昭和18年(1943)59歳、4月18日、米軍機に、搭乗 機を撃墜され、ブーゲンビル島のジャングルに墜落、戦死する。※地図 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
昭和18年(1943)6月5日、日比谷公園で国葬がとりおこなわれる。五十六は、軍部によって、国民の戦意発揚のために利用され、軍神として祀られてしまった。 五十六の性格は人を思いやることができる、優しい人柄であったことを考えると、軍神とはかなりかけ離れた存在であったようにも思う。 また、五十六は生前、キリスト教を学んでいたことから、自分が神として祀られることにはおそらく納得しなかったのではないだろうか。 愛人 河合千代子大正7年(1918)、山本五十六は旧会津藩士の娘の三橋礼子と結婚する。五十六35歳、礼子23歳だった。山本は家庭的に恵まれておらず、礼子は質実剛健な女性で、家庭は冷え切っていた。昭和8年(1933)夏、山本は初めて「梅龍」の芸名を持った新橋芸者・河合千代子と知りあった。千代子は花柳界に30歳近くで入った薄幸の女であった。山本は冷めた心を埋める女性に巡り合え、相思相愛で愛情が深まり、愛人として囲うこととなった。昭和12年(1937)に千代子は芸者から足を洗い、料亭の女将となった。東京芝神谷町に家を構え、山本に負担をかけまいと、ここを逢瀬の場にした。 山本は多くの手紙を千代子に書き、また山本は司令長官室で千代子からの手紙を待ち焦がれていたという。 太平洋戦争開戦前の12月4日、五十六は薔薇の花束を千代子に渡し、翌日5日に千代子へ手紙を書いている。 「薔薇はもう咲きましたか。そのひとひらが散る頃は、嗚呼。どうかお大事に。みんなに宜敷。写真を早く送ってね。左様なら。」と、これから大事をなそうとする、およそ軍神にはふさわしからざる、人間味溢れる内容であった。軍部も千代子に焼却を命じたのもうなずける。 千代子と山本は互いの事を「お兄さん」「妹」と呼んでいたという。山本からの最後の手紙は昭和18年(1943)4月2日付である。ガダルカナルを撤退しラバウルへ出発する直前に書かれたもので、遺髪が同封されていた。短歌も小さい紙に書かれていた。「おほろかに吾し 思はばかくばかり 妹が夢のみ毎夜見むい」 山本国葬の前日、昭和16年以降の分が軍部へ没収され、残りの手紙は「全部焼却するように」との命令が下った。千代子は心に残る手紙はとどめ置き、あとは焼き捨てたという。 ✣ ✣ ✣ ✣ ✣ ✣ ✣ ✣ 昭和7年(1932)12月、28歳の時、新橋の野島家から芸者梅龍の名前で出ている。五十六とはちょうど20歳離れたいた。五十六は、翌昭和8年千代子と巡り合い、一目ぼれした。老いらくの恋であった。 五十六に愛人が存在したことが明るみに出たのは、昭和29年(1954)4月18日号の『週刊朝日』が千代子の談話と山本の手紙を証拠に報じた事からであった。 1989年(平成元)、85歳で亡くなっている。 🔶墓所
〔所在地〕 🔶記念碑 🔶ゆかりの地
🔶周辺の観光施設
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online-2016/09/18 最後に有名な山本五十六の指導方法を紹介したい。旧日本海軍連合艦隊司令長官として有名な山本五十六だが、彼の教育理念は現在でも様々な場面で活用されている。 「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」. 《山本五十六マップ》
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