船岡山慈眼寺 Funaokayama Jiganji temple 小千谷市
🔗岩村精一郎 船岡山慈眼寺は、小千谷市でも指折の古いお寺で、小千谷市平成2丁目280番地(旧寺町)にある。船岡山のふもとの、スギ木立に囲まれた静かな境内には、山門、船岡観音堂、慈眼寺本堂、庫裡、小千谷幼稚園などの建物と岩村軍監、河井総督会見談判所(本堂内)、同上記念碑の戊辰史蹟などがある。 新義真言宗智山派、船岡山慈眼寺は、寺伝によれば、天武天皇の白鳳年間薩明大徳によって、国家鎮護の道場として創建されたといわれている。また船岡観音堂の本尊、聖観世音御菩薩※ストリートビューは、大同年中たまたま教えを弘めにこの地にやってこられた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられている。 (小千谷談判)慶応4年(1868)5月2日、長岡藩家老上席で、軍務総督ときに41才の働き盛りの名宰相河井継之助と土佐藩士で北越追討山道軍軍監、当時23才の青年将校であった岩村精一郎との会見・談判が、本堂に向かって右側の上段の間でおこなわれた。一口に談判といっても、長岡側としては、家老の河井継之助自らが、藩主牧野駿河守の嘆願書を携えて官軍の軍門に出頭し、礼を厚くし辞を低くして、ひたすら陳情嘆願したものであった。とくに、継之助は、この会見には、長岡藩の和戦向背、そのいずれかの運命を賭け、決死の覚悟で臨んだ。 いざに備え江戸藩邸の財宝の類をすべて金に換え、プロシャ商人スネルを通じてガトリング速射砲など最新式の兵器を購入するなど、臨戦体制を整えていた。しかし、なんとしても政府軍との戦いは避けたかった。 これに対して、岩村軍監は、長岡藩が、戦備のための時を稼ぐ謀略と考えて、これまで、国力相応の出兵や3万両献金の朝命にも応じなかった不都合な態度や、洋式兵器を大量に買入れ、日夜練兵に励んでいる不審な行動などを、いちいち数え上げて、激しく責立て降伏をせまった。 もともと、官軍は、京都を進発するときから、すでに長岡城と会津城とを攻撃目標に定めていた。それゆえ、いかに継之助から情理を尽くして説かれても、めったなことでは、長岡攻めを放棄するわけにはいかなかった。最後には、「藩主の心事は、くわしくこの書状に書いてありますから、せめて、これを・・・・」と、継之助のさし出す嘆願書などには目もくれず、岩村軍監は、「従来、一度も朝命に従わなかった長岡藩の言訳が、いまさら、立つはずもない。願いの趣はきっぱりお断り申す。この上は、ただ兵馬の間に相見えるばかりだ」と、いい捨てて退席してしまったという、まことに、継之助の痛恨は、いまからでも察せられる。 このため、長岡藩は徹底抗戦を決意、世に言われる北越戊辰戦争の発端となった。以後、榎峠・朝日山の激戦と長岡城攻略戦等、3ヶ月に及ぶ戦闘が新潟県中部や北部各地で展開され、河井継之助は長岡の戦いで重症を負い、8月16日会津領塩沢において42歳の生涯を閉じた。 この談判のもつ意義は、重要で、しかも、微妙な運命的な陰影を、戊辰史の上に投げかけているように思われる。もし、継之助の願いどおりに、事が運び、西郷、勝の江戸城明渡し談判のように、談笑のうちに成功していたらこの後の維新史は、もっと少ない流血と犠牲で済み、明るい、感動的なページに書換えられていたことであろう。 岩村河井会見記念碑※ストリートビューは、前記のように、慶応4年(1868)5月2日、この寺で、両者が会見し談判した史実を記念して、昭和14年(1939)、当山先代住職船岡芳快の発願によって建てられたものである。碑文は徳富蘇峰の撰、篆額と書は、小千谷市出身の島田博の筆である。 なお、同寺所蔵の戊辰資料の主なるものを挙げれば、岩村軍監越後出向太政官辞令、同上叙位辞令、同上自伝草稿、同書幅、同佩刀、河井総督写真、山縣、黒田の書簡、小千谷附近の合戦図、分捕品大鍋など。 ☯2018年(平成30)5月2日、北越戊辰戦争のきっかけとなった新政府軍と長岡藩の「小千谷談判」を再現する劇が慈眼寺で行われた。交渉の主役となった河井継之助と岩村精一郎の子孫ら5人が観劇した。 岩村精一郎
|