小千谷縮 Ojiya chijimi 小千谷市
🔗堀将俊(小千谷の麻織物)小千谷における天然の苧麻(ちょま)から紡いだ細糸だけを使った麻織物の歴史は古く、縄文時代後期と思われる土器に布目のあとが残されている。農村地域で自給用の麻布が織られ、人々の日常の衣服として重要な役割を果たしてきた。この時期の麻布は雪深い魚沼農村の女子が自家栽培の麻から麻糸をとり、冬の副業として「いざり機」で織ったもので、それは「自給的農村手工業」の生産形態であった。 青苧の繊維を撚り合わせて細い糸を作り、これをいざり機で織る。いざり機は最も原始的な織機で、布軸を織女の腰に結び付けて張力に緩急を与える。この糸は摩擦度大きいため、この織機でないと織れない。 織りあがった布の雪晒しは、独特の工法で、水に浸し布を足で踏んで雪上に晒し、日光の作用で漂白する。2~3月の晴れた日で雪の表面が凍り、空気が澄みわたり、雪上に汚れがないという3つの条件がそろったときに実施される。この布には1200年の歴史があり、古代・中世では白布または越後布と呼ばれた。 (小千谷縮)縮布は越後上布も同一条件であって、両者は別物でない。縮布は緯糸(ぬきいと)織物のよこ糸のことに強撚がかかっていて、仕上がると布が縮み細かいしわを生ずるのでその名があり、越後上布にはしわが生じないので、一名「ひら」と呼ばれる。江戸時代前期に、播州明石から来たといわれている堀次郎将俊によって、夏の衣料向けの改良が考えられ、緯糸に強い撚(よ)りをかけることで、布に「しぼ(ちぢみ)」という小さなシワを作り出すことに成功した。堀次郎将俊(通称明石次郎)は小千谷縮の祖といわれている。 この布は強靭で数代の使用に耐え、原料も手近に生産されたので、庶民の日常衣料としても欠くべからざるものとなった。 (絣模様)小千谷で絣が織られたのは1720年ころからといわれ、1760年ごろになると絣模様を指定した注文書などもあらわれて、これを証明している。手績みの糸を手括りして染めた絣糸を、手くびりで絣模様をつけ、居坐機で織ったあと湯もみ、足踏みでシボを取る。その後、春の風物詩として知られる、色を白くするための雪晒しを行うという伝統的な技法は、技術者たちによって今もなお伝えられている。 (小千谷縮の最盛期)江戸中期には、目方が軽く吸湿性に富み、水分発散がよいという特徴は、夏季衣料としては匹敵するものがない優良品で、朝廷・幕府・諸大名・大寺院などで愛用され、夏衣料や礼服の正式生地として採用され、その需要は莫大なものとなった。明和8年(1771)には、江戸城本丸御召御用縮を用命され、諸大名は端午の節句に「 近世以降産地が著しく限定され魚沼郡を中心に、そのわずかな地域に集中した。それはあまりにも多くの労働時間を要し、換金生産としては引き合わなくなったからで、ただ豪雪地帯で他に仕事がない女たちの余暇利用としての生産に支えられていた。 18世紀後半がその最盛期で生産額は年間20万反にも達したが、毎戸生産、女はことごとくこれに従事するという人海作戦により達成されたものであった。 小千谷は幕府直轄領で、代官所があったことから、出来上がった縮の運搬は多くの役人があたった。諸大名からも毎年注文がきた。問屋と称する大商人がその流通を掌握していたので、その利益を独占し富裕化した半面、生産者には利益薄い仕事であった。 小千谷・十日町・堀之内の3町には毎年縮市が立ち全国から商人が運集した。個人で若干の縮布を買い求め自ら背負って江戸や京坂地方に出て販売する行商人も多かったが、江戸の十組問屋と訴訟事件が起きて厳しい株仲間が成立した。 小千谷町はその集積の中心地であったので、越後の縮麻布は『小千谷縮』と呼ばれるようになった。 (衰退)明治以降服制が改まり、織機の改良で大量生産となったので、縮布の生産は急速に衰退した。(現況)昔ながらの技術・技法で作られる小千谷縮は昭和30年(1955)に国の重要無形文化財に指定された。指定の条件は(1)すべて苧麻を手績みした糸を使用する。(2)絣模様は手くびりによる(3)湯もみ足踏みによる(4)いざり機で織る(5)雪晒しするとなっている。また平成21年(2009)ユネスコ無形文化遺産登録。 厳しい条件を満たしたものを「本製小千谷縮」 この「本製小千谷縮」は年に数反しか織られていない。 ・2019年10月、2020年東京五輪・パラリンピックの公式ライセンス商品が発売された。テーブルセンターで、大会をイメージした藍や桜色の小千谷縮の2種。小千谷織物同業協同組合や市などが大会で小千谷縮が活用されることを目指して活動を続けてきた。 🔙戻る
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元和6年1月16日(1620年2月19日)〔生〕 - 延宝7年9月2日(1679年10月6日)〔没〕 |
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