岩村精一郎 Seiichiro Iwamura



弘化2年(1845)11月10日〔生〕 - 明治39年(1906)1月4日〔没〕

弘化2年(1845)11月10日、土佐国幡多郡宿毛現住所 高知県宿毛市桜町8−5(宿毛小学校)に岩村兄弟生誕の碑がある(※地図 ※ストリートビュー)に生まれる。初名は精一郎。のち高俊と改名。藩主山内家家老で宿毛領主伊賀氏の陪臣岩村英俊の三男だった。家禄は1600石。
慶応3年(1867)9月に長兄の岩村通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。11月に上京し、中岡慎太郎の亡き後の陸援隊に入隊した。
12月7日、天満屋事件で、中岡慎太郎の暗殺者と噂された紀伊藩三浦休太郎を陸奥陽之助らと共に襲撃する。
12月8日、鷲尾隆聚が志士を集めて高野山で挙兵した「高野山出兵」に参加する。

戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。
慶応4年(1868)1月、東山道先鋒総督兼鎮撫使総督岩倉具定に従い江戸に向かう。
2月19日、東山道先鋒軍監察に任命される。
4月25日、東山道先鋒軍軍監に任命される。軍監岩村率いる東山道総督府大監軍は信州飯山の戦いで衝鋒隊(古屋隊)を駆逐する。衝鋒隊は総崩れになり、500余人が高田藩領新井に逃げ込んだ。 4月26日、高田藩主榊原政敬は衝鋒隊を幕領の川浦番所(上越市三和)に駐屯することを認めた。衝鋒隊の後を追って新政府軍の尾張・松代などの藩兵が高田に入り、高田藩の優柔不断を非難したので、高田藩は衝鋒隊に攻撃を開始した。

(高田藩との交渉)

閏4月6日、東山道総督府大監軍は新井宿総軍本部に到着すると、軍監岩村は衝鋒隊(古屋隊)の領内通過を許し、敗走してきた古屋隊を領内に留めおくなど、旗幟を鮮明にしない高田藩の態度について詳細に調査した。
閏4月8日、高田藩の執政竹田勘太郎らを召喚して、岩村自らが直接尋問した。岩村は尾張藩や松代藩など新政府軍各藩の代表者を集めて協議を行い、高田藩が謝罪しない場合は武力討伐することを伝えた。
高田藩重臣らは、新政府軍へ恭順の意志を示す一方で、朝廷に対して徳川家の存続を願い、将軍慶喜に対して朝廷に謝罪するよう斡旋することによって、戦争回避するという自藩の立場を説明し、申しひらきをおこなった。岩村は、新政府か旧幕府かどちらに立つかはっきりするよう踏み絵を迫った。どちらを選んでも戦争は回避できず、新政府軍と戦うか、逆賊と戦うかどちらか選ぶよう求めた。
閏4月9日、再び高田藩の幹部を招致して、再度審問する。
閏4月11日、高田藩の幹部も官軍側の決意を察し、ついに謝罪、新政府へ嘆願の申し出を行いその態度を改めた。この時に取った官軍に対する傲岸な態度により、高田藩は東山道総督府大監軍の印象を極めて悪くした。この影響があったのか、高田藩はこの後、北越戦の戦闘では常に先鋒を務めることとなる。また戊辰戦後、会津藩士を預ることにもつながった。

岩村は、自分を若輩とあなどり審問に応じる高田藩の執政たちの無礼な態度が頭にあって、長岡藩の家老河井継之助との会談に対応したのではないかと思われる。

(山道軍軍監)

閏4月17日、北陸道先鋒総督の高倉永吉は参謀の黒田了介(薩摩)と山縣狂介(長州)を引きつれ高田に入り、東山道軍軍監岩村精一郎が指揮する信州の諸藩兵を北陸道軍に吸収し、山道軍1500人・海道軍2500人の二軍に分け、長岡城を挟撃し越後を攻略するという戦術をとった。岩村精一郎は軍監として山道軍を率いて小千谷方面へむかった。
閏4月26日、岩村が指揮する山道軍は松之山街道を進み、魚沼郡千手(現十日町市)で雪峠方面に向かう隊と、小出島に向かう隊に二分。岩村は、雪峠に向かう隊を指揮し、衝鋒隊隊長古屋が指揮する会津藩兵と衝鋒隊隊士からなる部隊と戦った。(☛雪峠の戦い)
閏4月27日、岩村が指揮する山道軍は小千谷に進撃し、会津藩小千谷陣屋を占領する。

(小千谷会談)

北越戦争では山道軍を軍監として率いて、旧会津藩領における小千谷雪峠の戦いで、会津藩兵や旧幕府軍を駆逐し、長岡に迫り、会津藩小千谷陣屋に本陣をおき、諸藩会議所とした。
慶応4年(1868)5月2日、恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で、小千谷の慈眼寺に長岡藩軍事総督河井継之助を呼び会談した。
岩村の介添として、薩摩の淵辺直右衛門、長州の杉山荘一、白井小助の三人が同席した。いずれも、兵士としては有能な人物あったが、交渉事には不向きな人材で、岩村を補佐するほどの力量はなかった。長州の白井や薩摩の淵辺は激しやすく、感情に左右される性格で知られた人物であったという。
河井は官軍と会津・桑名の内戦を直ちにやめて、日本国民が一和協力すべきであると説いた。中立の立場で両藩の間を斡旋する和平交渉すべく長岡藩の立場を説明したが、新政府軍に従属か抗戦かを迫る東山道軍監岩村精一郎との真っ向の対決となった。
継之助41歳、これに対して岩村は23歳の若輩であった。継之助の舌鋒は鋭く、嘆願の態度でなかったことが、岩村の怒りをかったとも言われる。
岩村はすでに総督府から長岡進撃の命を受けており、長岡藩の内情についても探知していたので、継之助の言に従えば新政府に敵対するための戦備を整えるための時間を与えることとなり、言下にこれを拒絶した。官軍は朝敵を討伐しにきたのであって議論しにきたのではないと、岩村にはこれ以上談判を続ける意志がなく、「官軍に参加するか献金するか、ただちに朝命を奉ぜよ、さもなくば申し出は受けられぬ」と裾をおさえる河井の手を振り払い、河井の嘆願書を受け取らなかった。会談は30分で終わった。

岩村精一郎の人物評価は毀誉褒貶である。岩村の高慢な態度が会談を決裂させた、もし相手が黒田や山縣であれば河井継之助も開戦を決意するまで追い込まれなかったのではないかといわれることがある。
岩村は戊辰戦争が始まって、実戦経験も乏しいまま、土佐の有力者出身であるということだけで、官軍の中で、地位役職を得た人間であった。軍隊を統率したり、戦術を策定する能力はなく、単なるネゴシエーターに過ぎなかった。
長岡に到達するまでは、信州松代や高田藩では、官軍に対して恭順するか否か、「是か非」を求める単純な交渉で、相手が最後はへりくだってきたので、長岡藩に対しても同じ態度で接した。
豊富な実務経験や各地を視察してきた知識をもとに、国家論を展開する河井の話は、経験の乏しい岩村には到底理解できなかったのではないか。
岩村の単純な性格は、上役にとって使いやすかったと思われるが、相手の意見を聞き、腹に飲み込むだけの度量がなかった。

一方、岩村精一郎の立場を擁護するわけではないが、岩村は土佐から自藩の手兵を連れず、軍監として派遣されていた。軍議などでは、薩長をはばかって、兵を直接動かすような指示を出せないでいた。自分が動かせる兵は、東山道軍に属した尾張藩・松代藩・飯山藩・高田藩などであった。これらの藩に対して強硬に帰順を迫った手前、相手の立場に理解を示し譲歩するような交渉では理解を得られないという短絡的な考えで、から威張りにも見える態度で交渉に臨んでいたのではないか。
本来河井との交渉は、薩長のしかるべき人物が当たるべきであったが、薩長間で征討の進め方に食い違いがあり、調整が難しかったかもしれないが。

北陸道軍は薩摩藩の黒田了介と長州藩の山縣狂介が参謀として指揮し、この時は柏崎にあった。薩摩藩と長州藩の間で征討を進めるうえで考えが一致せず、薩長均衡の建前からことごとく対立していた。薩摩藩黒田は、西郷隆盛の方針が平和裏に交渉を進めることであったことから、和平の糸口を探るため手紙をしたためた。この手紙は手違いで河井の手に届かなかった。一方、長州の山縣は、西郷の考えは承知していたが、自藩の実力者である大村益次郎の方針が、「敵対する者に対しては譲歩することなく武力で討伐せよ」であったことから主戦論を採っていた。山縣は柏崎から小千谷の本営に移動中に、河井が小千谷にくると聞いて、引き留めておくようにという指令を出したが、間に合わなかったと回想している。
山縣は、一説では河井を拘束し、長岡城を開城させようとしたといわれている。山縣は、自分の到着を待たず会談を終わらせ、河井を帰してしまった岩村を、キョロマ(長州弁)と呼んだという。
5月1日、長岡藩家老河井継之助が小千谷へ談判にゆくという情報が、与板藩領に滞陣していた会津藩佐川官兵衛のもとに入った。佐川は長岡藩を奥羽列藩同盟に引き込むため、正規軍400名を引き連れて山道軍の本陣を攻撃しようと小千谷に向かった。会津藩兵が小千谷に向かったという情報はいち早く新政府軍側に伝わっていた。
岩村が河井と会談したときには、岩村はこれをしっており、影響で河井に対する態度も強硬なものになっていたといわれる。
会津藩兵は2日夜半に、片貝小粟田に堡塁をつくり、山道軍とここで戦おうと陣を敷いた。3日朝、軍監岩村は高田・尾張・松代・飯田の諸藩兵400~500名のみをつれて、会津藩兵と交戦した。戦況は一進一退で決着がつかず、多くの死傷者が出た。岩村は本陣の薩長兵に応援依頼し、薩長兵が到着すると、会津藩兵は敗退し撤退した。(☛片貝の戦い)


(長岡藩開戦)

5月10日、小千谷に本営をおいた岩村率いる山道軍は、三国街道の要衝で守備していた榎峠を、開戦を決意した長岡藩ほかの同盟軍に奪われる。
5月10日夜、参謀の山縣狂介が長州奇兵隊仮参謀時山直八をともなって、小千谷の本陣を訪れた。この時、同盟軍との間で銃撃戦が交わされていたが、軍監の岩村は、榎峠を奪われた事の重要性に思い至らず、危機感もなく山道軍幹部らと酒を飲んでいたという。山縣は怒って岩村の膳を蹴飛ばし、山道軍の指揮権を岩村から取り上げ、自ら掌握した。山縣は後の回想で、要衝榎峠の守備を岩村に任せた自分の判断の誤りを認めている。時山と相談の上、5月13日を期して総攻撃をかける作戦を決定した。
13日早朝から朝日山での攻防がおこなわれるが、桑名藩の立見の活躍などで、敗退する。榎峠・朝日山の戦いは、新政府軍にとって初めての敗戦となった。(☛榎峠・朝日山の戦い)

岩村はこの件で軍監から降格され、新政府軍の中で直接指揮権をふるう場面はなくなった。この後は主に参謀山縣の近くにいて、山縣の指令を諸藩の部隊に伝え調整する役割を担っていた。

長州藩軍監三好軍太郎が立案した、信濃川を渡河して長岡城を奇襲する作戦に対し、薩摩藩は失敗すれば大きな犠牲をもたらす計画で、無謀であると同意していなかった。参謀山縣は、病気で柏崎の本営に戻っていた参謀黒田を訪ね、奇襲作戦を説明し了解を求めた。この時、岩村精一郎は山縣に同行している。黒田は急遽小千谷の本陣に向かい、5月19日に奇襲作戦が実行され、長岡城は落城した。

5月22日、桑名領加茂町市川邸において、奥羽越列藩同盟により、新政府軍に対抗するための加茂軍議が開かれた。5月25日、軍議で決定した事項に従い、会津・桑名・村上・水戸諸生党、衝鋒隊、それに観音寺久左衛門指揮の博徒隊らが三条を出発し信濃川左岸から上流の与板に向かった。5月27日から金ケ崎で戦いが始まり、28日には桑名藩雷神隊の働きで、新政府軍は押し込まれ、与板陣屋は落城寸前となった。参謀山縣は岩村精一郎を派遣し、須坂・飯山・尾張藩などの増援部隊を続々投入した。これによって、与板陣屋は落城を免れた。

(新潟町征圧作戦)

岩村は越後の戦況が膠着して進まない原因を作った張本人として重要な任務を与えられず、不遇をかこっていた。特に山縣有朋は、岩村は一軍の部隊を指揮する能力に欠けると考えていたようである。しかし、一方で岩村が軍監を降格されたとき、山縣は岩村を擁護し参謀辞任を申出る騒ぎとなった(薩長間でのさや当てから、自分の考えとは別に行きがかりで辞任を申し出たともいわれる)。この時、黒田も岩村は朝廷の権威を笠に着て空威張りしているだけの人間と責めている。

総督府は膠着状態を打破するため、長州藩士の山田市之丞が起案した新潟町征圧の作戦を決定した。柏崎から新政府軍艦船に兵員を乗せ、新潟に上陸させる作戦であった。当時新潟港は同盟軍側の物資供給の基地となっていた。
7月21日、総指揮を薩摩藩の黒田清隆にゆだね、山田市之丞は参謀となった。岩村はこの時、会津征討越後口軍の軍監に任じられ、黒田の度量の広さに救われ、漸く働き場所を与えられた。岩村は「軍艦に乗り込み、海路新潟に赴き、新発田藩の手引きで征圧する」と指令を受け、柏崎近郊にいた新政府軍兵士を急ぎ乗船させる指揮をおこなった。7月23日、柏崎を出港した。
7月25日、新政府軍は新発田藩領太夫浜上陸を山田市之丞の指揮で敢行した。参謀の黒田は、太夫浜から新政府軍の本隊を引きつれ新発田城に向かい開城させている。岩村は、新潟町攻撃に向かわず、黒田に同行し新発田城に向かった。
7月28日、同盟軍に参加し、その後新政府軍に転じた新発田藩藩主溝口直正(当時13歳)は家老らを同行し領内の島見浜から船に乗り柏崎に向かい、翌29日、会津征討越後口軍総督仁和寺宮(当時22歳)に拝謁し帰順の旨を伝えた。この時岩村は案内のため同行している。

(新発田総督府)

米沢藩は奥羽越列藩同盟の盟主として3か月間にわたって越後国内で戦ったが、下関村が陥落し、榎峠の戦いで敗れると、新政府軍に対し藩境での防衛に重点を移した。一方新政府軍は藩主の正室貞姫が土佐藩藩主山内豊資の三女であったことから、土佐藩が主導した東山道先鋒総督府は藩主宛に恭順を勧める書状をしたため恭順工作を進めた。米沢藩では恭順に藩論を決し、新発田の総督府に藩主の謝罪嘆願書を家老たちに持たせ派遣した。岩村精一郎は、9月2日下関まで出向き、家老たちを新発田総督府まで先導している。

(戊辰戦争以降)

岩村は、信越、奥羽に転戦。明治2(1869)年には戊辰戦争の功で永世禄高200石を得た。
岩村は明治政府の中で、地方行政官として実績を重ねたが、そのスタートは新潟から始まり、その後も各地で権令や知事をそつなく務め、それなりの評価を受けている。
戊辰戦争では、小千谷談判で、自分の対応の未熟さから長岡の執政河井継之助を開戦に踏み切らせ、北越戦争を引き起こし、新政府軍に戊辰戦争でも最悪の犠牲をもたらした。これにより軍監から降格され、窓際に追いやられるなど辛酸をなめたことが、その後の行動に影響を与えていたのではないか。
明治2年(1869)2月22日、新潟府は新潟県(第1次)と改称され、管轄地を新潟町に限定し、その町政と開港場における外交のみを管掌するものとされた。
県知事として楠田英世(肥前藩士・戊辰戦争時会津征討越後口総督府副参謀、当時37歳)が任命された。岩村精一郎は、楠田の求めに応じ外国事務を司り、新潟港の通商事務を担当した。積極的に新潟開港を推進し、特産品を求め、加茂町にまで出かけている。またこの年7月27日に、新潟県(第1次)は水原県に併合されるが、岩村は積極的に統合を進めたことで功績があった。これは彼が先の戦争の中で、越後の地理を良く知っていたからできた功績であった。

その後宇都宮、神奈川県各権参事などをつとめ、明治7年(1874)2月に佐賀県権令となり、内務卿・大久保利通の内意を受けて江藤新平を盟主とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。
このときも岩村の高慢な性格が災いし、札幌開拓の礎を築き、郷里佐賀に戻っていた島義勇の面前で佐賀藩士を侮辱し、島を反乱軍へ追い立てた失策がある。
(精一郎は岩村三兄弟の末弟であるが、長男通俊は、明治4年(1871)北海道開拓使の首席判官であった島義勇が解任されると、開拓判官として札幌の開発継続を命じられている。通俊は島の政策に対し反対の意見を具申していた。島は何かと岩村兄弟とは因縁がある。)
しかし、大久保利通が佐賀の乱を起こさせる為に、わざと傲慢な岩村を権令に配置したと、木戸孝允はこのときのことを回想している。
佐賀の乱を収拾すると内務省に移り、この年9月岩村は大久保利通に随行し、日清会談に参画した。

以降、行政官として愛媛・石川・愛知・鹿児島の各県令、広島県知事などを歴任。愛媛県では積極的に旧藩士を登用し「民権県令・平民長官」などと呼ばれ、一定の評価がある。
明治22年(1889)農商務大臣に任ぜられ、翌明治23年(1890)には貴族院議員に列し、明治29年(1896)には男爵を授けられた。明治39年(1906)1月4日死去。享年60歳。墓は京都の東大谷廟所武家墓域にある。
後年、精一郎は自伝として『岩村高俊自傳草稿』を著している。

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