岩村精一郎 Seiichiro Iwamura
弘化2年(1845)11月10日〔生〕 - 明治39年(1906)1月2日〔没〕(宿毛藩士岩村家と青年時代)![]() 宿毛領は土佐藩主山内家の一門である伊賀家が治めた支藩的性格を持つ領地であり、その家臣団は土佐藩本藩とは異なる独自の政治・軍事機構を備えていた。岩村家は代々伊賀家に仕え、家老職を務める重臣として領政を支えた名門である。このような家柄に生まれた精一郎は、幼少より藩政や軍事に触れる環境の中で育ち、藩士としての責務と公的な職務への意識を自然と身につけたと考えられる。 岩村家は維新期に多くの人材を輩出したことでも知られる。長兄の岩村通俊は、戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀として活躍し、維新後は北海道開拓使長官として札幌建設を推進した。また次兄の岩村林有も新政府に出仕し、兄弟はいずれも明治国家建設に深く関わった。精一郎もこうした家庭環境の影響を受け、若くして勤王運動へ身を投じることになる。 幕末の土佐藩では、武市半平太らの土佐勤王党が活動した一方、藩政改革や公武合体をめぐる藩論の対立が続いていた。文久年間以降は藩政も次第に尊王倒幕へ傾き、多くの若手藩士が京都や長崎で見聞を広めるようになる。精一郎もまた時代の大きな変革の中で成長した一人であり、慶応3年(1867)9月には長兄通俊の洋式銃購入に随行して長崎へ赴いた。当時の長崎は外国文化や最新兵器が流入する日本最大の国際都市であり、この経験は精一郎に近代的軍事や国内外の情勢を知る貴重な機会を与えたものと思われる。 同年11月、精一郎は上京し、中岡慎太郎の死後に再編された陸援隊へ加わった。陸援隊は坂本龍馬が組織した海援隊と並ぶ土佐志士の軍事組織であり、隊士たちは王政復古を目前に控えた京都の政局に深く関与していた。精一郎もその一員として倒幕運動に身を投じ、12月には中岡慎太郎暗殺の嫌疑を受けた紀伊藩士三浦休太郎を襲撃した天満屋事件に参加した。さらに鷲尾隆聚らが計画した高野山挙兵にも加わり、新政府樹立を目指す志士として行動している。 これらの活動は実戦経験というより政治的・軍事的行動としての色彩が濃く、精一郎が後年、新政府軍において軍監や交渉役として登用される素地となったと考えられる。幕末における精一郎は、軍略家や剣客というよりも、藩の名門出身者として指導的立場を期待された若き志士であった。その経歴は、やがて戊辰戦争において東山道軍軍監という重責を担うことへとつながっていく。 (戊辰戦争と東山道軍監)慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いによって戊辰戦争が始まると、岩村精一郎は新政府軍東山道先鋒総督府に属し、軍監・監察として東山道方面の作戦に従事した。軍監は諸藩兵を監督し、総督府の命令を徹底させる役目であり、軍を直接指揮する将ではなく、軍令の伝達、諸藩との折衝、軍紀の維持などを担う重要な職であった。岩村は慶応4年2月19日に東山道先鋒軍監察に任命され、4月25日には軍監へ昇格した。当時まだ23歳であり、実戦経験にも乏しかったが、土佐藩の名門岩村家の出身であり、長兄通俊が東山道先鋒総督府参謀として重きをなしていたこともあって、総督府内で一定の信任を得ていたと考えられる。 東山道軍は甲府・信濃を経て北上し、飯山方面では衝鋒隊と交戦した。衝鋒隊は旧幕府歩兵隊を母体として結成された部隊で、古屋佐久左衛門(古屋作左衛門とも)らが率いていた。4月25日の飯山方面での戦闘では東山道軍が優勢となり、衝鋒隊は総崩れとなって高田藩領新井へ敗走した。 しかし、この敗残兵に対する高田藩の対応が、新政府軍の大きな問題となる。高田藩は衝鋒隊の領内通過を認め、さらに幕領川浦番所への駐屯も容認したため、新政府軍諸藩から「帰順の意思が曖昧である」と厳しく批判されたのである。 閏4月6日、東山道総督府大監軍が新井宿へ到着すると、岩村は高田藩の対応について詳細な調査を開始した。翌々日の閏4月8日には執政竹田勘太郎ら藩首脳を召喚し、尾張・松代など各藩代表の立会いのもと事情を尋問した。 高田藩は、徳川家への恩義と朝廷への忠節の双方を重んじ、戦争そのものを回避したいという立場を説明した。将軍徳川慶喜に朝廷への謝罪を促し、新政府と旧幕府の間を仲介することによって内戦を避けようとしたのである。しかし岩村は、このような中立的態度を認めず、新政府に帰順するのか、それとも旧幕府方として戦うのか、いずれかを明確にするよう迫った。 閏4月9日にも再度の審問が行われたが、高田藩はなお明確な回答を避けた。これに対し岩村は、尾張藩・松代藩など諸藩代表と協議し、謝罪がなければ高田藩を武力討伐する方針まで示した。総督府の強硬な姿勢を前に、高田藩首脳も態度を改め、閏4月11日、正式に謝罪して新政府への帰順を誓うこととなった。 この一連の交渉は、高田藩を新政府側へ完全に組み込む契機となった。以後、高田藩は北越戦争で各地の先鋒を務め、戦後には多数の会津藩士を預かることとなる。これらが閏4月の交渉の直接的な結果であるとは断定できないものの、総督府に対して忠誠を示す必要に迫られたことは、その後の藩政に少なからぬ影響を与えたと考えられている。 この高田藩との交渉は、後に長岡藩家老河井継之助との小千谷談判を考える上でも重要な意味を持つ。高田藩は最終的に謝罪し帰順したため、岩村にとって「新政府の権威を示せば相手は屈する」という成功体験となった可能性がある。一方で、高田藩側から見れば、武力を背景にした一方的な帰順要求であり、政治的な妥協の余地はほとんど残されていなかった。 もっとも、岩村個人の判断だけでこうした交渉が行われたわけではない。東山道軍軍監としての岩村は、あくまでも東山道先鋒総督府の方針を諸藩へ伝達・執行する立場にあり、その背後には岩倉具定を総督とする総督府の意思が存在していた。軍監には独自の外交権や講和権はなく、朝命を遵守させることが第一の任務であった。この点を踏まえるならば、高田藩への強硬姿勢も、岩村個人の性格だけで説明することはできず、新政府軍全体の政策を反映したものであったと理解すべきであろう。 閏4月17日、北陸道先鋒総督高倉永祜が高田へ到着すると、参謀黒田了介(のち清隆)・山縣狂介(のち有朋)のもとで東山道軍と北陸道軍の作戦が統合された。長岡城攻略のため、北陸道軍(海道軍)と東山道軍(山道軍)による挟撃作戦が採用され、岩村は山道軍約1,500人の軍監として小千谷方面への進撃を命じられる。 こうして岩村は、北越戦争最大の政治的・軍事的転換点となる小千谷談判へ向かうことになる。高田藩との交渉で示した強硬な姿勢は、そのまま長岡藩との対決にも持ち込まれ、結果として歴史に大きな影響を及ぼすこととなった。 (小千谷談判と北越戦争)閏4月17日(1868年6月7日)、北陸道先鋒総督高倉永祜が高田に到着すると、参謀黒田了介(のち清隆)・山縣狂介(のち有朋)は、東山道軍と北陸道軍の兵力を再編し、長岡藩攻略のための新たな作戦を立案した。北陸方面から進む海道軍約2,500人と、松之山街道から進む山道軍約1,500人が呼応し、長岡城を挟撃するという構想である。岩村精一郎は軍監として山道軍に属し、尾張・松代・飯山・高田など諸藩兵を率いて小千谷方面への進軍を命じられた。閏4月26日、山道軍は魚沼郡千手(現在の十日町市)に進出し、雪峠方面へ向かう部隊と小出島方面へ向かう部隊に分かれた。岩村は雪峠方面隊に同行し、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊と会津藩兵を相手に交戦した。雪峠の戦いで旧幕府軍は後退し、翌27日、山道軍は小千谷へ進撃して会津藩小千谷陣屋を占領した。岩村はここを山道軍の本陣とし、諸藩の会議所を置いて長岡攻略の準備を進めた。 一方、長岡藩では家老河井継之助が、武力衝突を回避する最後の道を模索していた。河井は奥羽越列藩同盟への参加を決断する以前から、新政府と会津・桑名両藩との間を仲介し、戦争そのものを避けようと考えていた。そこで尾張藩の仲介により、岩村との会談が実現することとなった。 慶応4年5月2日(1868年6月21日)、小千谷慈眼寺において歴史に名高い「小千谷談判」が行われた。 岩村には薩摩藩の淵辺直右衛門、長州藩の杉山荘一、白井小助が陪席した。河井は長岡藩軍事総督として単身赴き、長岡藩が中立の立場で朝廷と会津・桑名との間を調停し、日本国内の内戦を回避したいという考えを述べた。河井にとって最も重要なのは、長岡藩一藩の存亡ではなく、日本人同士が武力をもって争う事態を避けることであった。 しかし岩村の立場は全く異なっていた。 東山道総督府はすでに長岡攻略を決定しており、岩村は軍監としてその命令を執行する責任を負っていた。軍監には独自の外交権限はなく、長岡藩が朝命に服するか否かを確認することが任務であった。そのため岩村は、河井の提案に対して「官軍に帰順するか、さもなくば敵として討伐を受けるか」の二者択一を示し、嘆願書も受け取らなかったと伝えられる。 談判は約三十分で終了し、両者の主張が交わることはなかった。 この会談は北越戦争を象徴する出来事として後世に語り継がれているが、その評価は現在でも大きく分かれている。 従来は、岩村の高圧的な態度が談判を決裂させ、結果として長岡藩を開戦へ追い込んだという見方が広く流布した。河井継之助を主人公とする文学作品や伝記では、若い岩村が老練な河井の国家論を理解できず、一方的に談判を打ち切ったと描かれることが少なくない。 確かに岩村は当時二十三歳であり、河井は四十一歳であった。政治経験、藩政経験、軍事知識のいずれをとっても河井が大きく勝っていたことは否定できない。また、高田藩との交渉で帰順を実現した成功体験が、長岡藩に対しても同様の対応を取らせた可能性を指摘する研究者もいる。 一方、近年では岩村個人に責任を帰する見方を見直す研究も増えている。 そもそも岩村は新政府軍の最高指揮官ではなく、東山道軍軍監として総督府の命令を執行する立場にあった。独断で停戦交渉を成立させる権限はなく、仮に河井の提案を受け入れれば、自らが朝命違反に問われる可能性もあった。さらに長岡藩では軍備の整備が急速に進められており、新政府軍側は時間を与えれば軍事的に不利になることを警戒していた。また、新政府軍内部でも方針は必ずしも一致していなかった。 薩摩藩の黒田了介は、西郷隆盛の方針を受けて和平の可能性を探ろうとしていたとされ、河井に宛てた書簡を送ったという記録も残る。しかし、この書簡は何らかの事情で河井のもとへ届かなかったと伝えられる。 これに対し、長州藩の山縣狂介は大村益次郎の軍事思想を背景に、敵対する勢力は速やかに武力で制圧すべきであるとの立場をとっていた。山縣は後年の回想で、小千谷へ向かう途中に河井来訪の報を聞き、自ら到着するまで会談を引き延ばすよう命じたが間に合わなかったと述べている。また、河井を拘束して長岡城の開城を実現させる構想を持っていたとも伝えられる。 さらに山縣は、自分を待たずに河井を帰してしまった岩村を「キョロマ(愚か者)」と呼んだと回想している。ただし、これも山縣晩年の回顧談であり、史実としてそのまま受け取ることには慎重さが求められる。 談判決裂後、長岡藩は奥羽越列藩同盟への参加を決断し、北越戦争は本格化する。 5月10日、長岡藩・会津藩・桑名藩など同盟軍は三国街道の要衝榎峠を奪取し、山道軍は守備線を突破された。同夜、山縣狂介は小千谷本陣に到着した。 『山縣有朋回顧録』には、この時岩村は危機感を欠き、山道軍幹部と酒宴を開いていたため、山縣が激怒して膳を蹴り飛ばし、山道軍の指揮権を取り上げたとの逸話が記されている。しかし、この記述は山縣自身による回想であり、他の一次史料による裏付けは十分ではないことから、そのまま史実と断定することはできない。 その後、山縣は時山直八らとともに反攻作戦を立案し、5月13日に榎峠・朝日山で総攻撃を開始した。しかし桑名藩士立見鑑三郎ら同盟軍の奮戦によって新政府軍は敗北し、北越戦争最初の大敗を喫した。 この敗戦後、岩村は山道軍軍監として第一線で部隊を指揮する立場を退き、以後は参謀山縣の命令を諸藩へ伝達・調整する役割を担うようになる。一般には「更迭」あるいは「降格」と説明されることが多いが、軍監としての職を完全に失ったわけではなく、その後も越後戦線に留まり、新潟攻略や新発田藩・米沢藩との交渉などに従事している。 岩村精一郎の戊辰戦争における評価は、今日でも定まっていない。河井継之助との談判を決裂させた若き軍監として批判されることがある一方、総督府の命令を忠実に執行したに過ぎず、個人の裁量には限界があったとの評価も有力である。少なくとも、小千谷談判を岩村一人の資質や性格のみで説明することはできず、新政府軍内部の方針対立や戦局の推移を含めた総合的な視点から理解する必要がある。 (新潟攻略と越後戦線)榎峠・朝日山の戦いで新政府軍は苦戦を強いられたが、5月19日には長岡城攻略を目的とした信濃川渡河作戦を敢行し、長岡城を占領した。しかし長岡藩軍は退却後も抗戦を続け、新政府軍は出雲崎から栃尾に至る防御線を構築して対峙したため、戦線は一時膠着状態となった。戦争終盤には、長岡藩軍が八丁沖渡河作戦による奇襲で長岡城を一時奪還するなど激戦が続いた。この状況を打開するため、新政府軍は日本海を利用した新潟攻略作戦を採用する。これは長州藩士山田市之丞が立案した作戦で、柏崎から軍艦によって兵を輸送し、新発田藩の協力を得て新潟町近郊へ上陸するという大胆な計画であった。当時、新潟港は奥羽越列藩同盟にとって最大の補給基地であり、米・兵器・弾薬・軍資金が集積する軍事・物流の要衝であった。ここを制圧すれば、同盟軍の補給路を断ち、越後戦線全体の主導権を握ることができると考えられた。 慶応4年(1868)7月21日、新政府軍は作戦の総指揮を薩摩藩士黒田清隆に委ね、山田市之丞を参謀に任命した。岩村精一郎も会津征討越後口軍軍監としてこの作戦に参加し、再び重要な役割を与えられることとなる。 一般には、小千谷談判後の岩村は失脚したように語られることがある。しかし実際には、新政府軍から完全に退けられたわけではなく、軍監として引き続き越後戦線に留め置かれ、山縣有朋のもとで軍務に従事していた。これは山縣が岩村の行政能力や調整能力を評価していたためとも考えられる。 岩村は柏崎周辺に配置されていた諸藩兵を軍艦へ迅速に乗船させる任務を担当した。西国諸藩から到着した援兵を短期間で海上輸送し、新潟町攻略に投入するには、多数の船舶を一元的に運用する必要があった。各藩との綿密な連絡と調整が不可欠であり、軍監として諸藩を統率してきた岩村の経験が生かされたのである。 7月23日、船団は柏崎を出港し、25日早朝、新発田藩領太夫浜(現在の新潟市北区)への上陸作戦が開始された。上陸は山田市之丞の指揮のもと成功し、新政府軍はほとんど抵抗を受けることなく橋頭堡を築いた。 一方、黒田清隆は主力部隊を率いて新発田城へ向かい、新発田藩に開城を求めた。新発田藩はすでに密かに新政府側への帰順を決意しており、大きな戦闘に至ることなく城門を開いた。岩村も黒田に同行し、新発田城入城に立ち会っている。 新発田藩の帰順は、越後戦線全体に大きな影響を及ぼした。奥羽越列藩同盟は日本海側最大の補給拠点を失い、さらに同盟内部にも動揺が広がった。新政府軍は新発田城を新たな軍事・行政の拠点とし、ここに総督府を置いて越後攻略を進めることとなる。 7月29日には、新発田藩主溝口直正が柏崎において会津征討越後口軍総督仁和寺宮嘉彰親王に拝謁し、正式に帰順を申し出た。まだ13歳であった若き藩主を案内したのも岩村であり、軍監として儀礼や外交上の実務にも携わっている。 その後、新政府軍は奥羽越列藩同盟の盟主であった米沢藩に対しても恭順工作を進めた。米沢藩では戦局の悪化を受けて藩論が恭順へと傾き、藩主上杉茂憲は謝罪嘆願書を携えた家老一行を総督府へ派遣した。 9月2日、岩村は下関村(現在の関川村付近)まで出向き、米沢藩家老らを新発田総督府へ案内している。軍監として戦場を巡ってきた岩村は、この頃には戦闘の最前線よりも、諸藩との交渉や連絡調整にその役割を移していた。高田藩との交渉、小千谷談判、新発田藩・米沢藩の帰順工作はいずれも、軍監としての岩村の重要な職務であり、彼が単なる戦場指揮官ではなく、新政府軍と諸藩を結ぶ政治的実務担当者であったことを物語っている。こうして越後各地で新政府軍への帰順が相次ぐと、奥羽越列藩同盟は急速に瓦解へ向かう。新潟港の喪失、新発田藩の離脱、米沢藩の恭順は同盟に決定的な打撃を与え、北越戦争は終結へと向かっていった。 岩村精一郎は、北越戦争では小千谷談判の当事者として語られることが多い。しかし実際には、その後も越後戦線に留まり、新潟攻略作戦や新発田・米沢両藩との外交交渉に深く関わっている。軍事的指揮官としてよりも、総督府の方針を各藩に伝達し、帰順工作を進める行政的・外交的能力こそが、越後戦線における岩村の真の役割であったと評価できる。 (行政官としての岩村高俊)戊辰戦争が終結すると、岩村精一郎は軍人としてではなく行政官として新政府に仕える道を歩み始めた。戦時中は東山道軍軍監として諸藩との交渉や軍務の調整に携わったが、その経験は維新後の地方行政において大いに生かされることとなる。明治2年(1869)2月22日、新潟府は第一次新潟県へ改称され、行政区域を開港場新潟町とその周辺に限定した新たな地方行政機関として発足した。初代知事には、戊辰戦争で会津征討越後口総督府副参謀を務めた肥前藩士楠田英世が任命され、岩村はその下で外国事務を担当した。 当時の新潟港は、横浜・長崎・函館・神戸と並ぶ開港場の一つであり、外国人居留地の管理、関税、通商、領事との交渉など、近代国家建設に直結する重要な行政課題を抱えていた。岩村は外国事務掛としてこれらの実務に従事するとともに、越後各地の物産調査にも取り組み、加茂町などへ赴いて輸出に適した特産品の調査を行ったと伝えられる。 同年7月、第一次新潟県は水原県へ統合されることとなった。この統合は、戊辰戦争によって誕生した府県を整理し、新たな地方行政制度を整備する政府方針によるものであった。岩村は統合事務にも積極的に関与し、戦時中に培った越後各地の地理や各藩との人的関係を行政面でも生かした。 その後、宇都宮県権参事、神奈川県権参事を歴任し、地方行政官として経験を重ねる。そして明治7年(1874)2月、佐賀県権令に抜擢され、佐賀の乱という明治政府最初の本格的な士族反乱への対応を任されることとなった。 佐賀では、征韓論政変後の不満を背景に江藤新平が挙兵し、さらに開拓判官として札幌建設を主導した島義勇もこれに加わった。岩村は政府を代表して鎮圧に当たったが、その過程で佐賀士族との対立を深めたことでも知られる。島義勇との関係については、岩村の強硬な態度が島の反発を招いたとする見方がある一方、大久保利通があえて岩村を権令に起用し、反乱勢力を表面化させる意図があったとする説もある。木戸孝允の日記には、そのような政府首脳の思惑をうかがわせる記述が見られるが、史実として断定することは難しく、現在も評価が分かれている。 佐賀の乱平定後、岩村は内務省へ転じ、同年9月には大久保利通に随行して北京へ赴き、日清間の外交交渉にも参与した。地方行政だけでなく外交実務にも携わったことは、政府内で岩村の行政能力が高く評価されていたことを示している。 その後は愛媛・石川・愛知・鹿児島各県令、広島県知事などを歴任した。とりわけ愛媛県では、旧藩士のみならず平民にも積極的に登用の道を開き、自由民権運動にも一定の理解を示したことから、「民権県令」「平民長官」と称されるなど、地方行政官として高い評価を受けた。戊辰戦争当時に見られた強硬な軍監という印象とは対照的に、地方統治では現実的かつ柔軟な行政手腕を発揮したのである。 明治22年(1889)には農商務大臣に就任し、翌23年には貴族院議員となった。さらに明治29年(1896)には男爵に叙せられ、明治政府の高級官僚・政治家としてその地位を確立した。明治39年(1906)1月2日に満60歳で没し、墓所は京都東大谷廟所武家墓域に営まれている。 岩村高俊の生涯を振り返ると、その真価は軍人よりも行政官として発揮されたといえる。戊辰戦争では小千谷談判の当事者として激しい批判にさらされることも少なくないが、明治維新後は地方行政、殖産興業、外交、中央政治と幅広い分野で実績を重ねた。晩年には自らの歩みを『岩村高俊自傳草稿』として記し、その足跡は近代国家形成期を知る貴重な史料となっている。 (人物評価)岩村高俊(精一郎)は、戊辰戦争における小千谷談判の当事者として広く知られる一方、明治政府では地方行政官、さらには農商務大臣にまで昇進した維新官僚である。しかし、その人物評価は今日に至るまで大きく分かれており、毀誉褒貶の激しい人物の一人といえる。最も議論の対象となるのは、慶応4年(1868)の小千谷談判である。長岡藩家老河井継之助との会談では、岩村が長岡藩に無条件の帰順を求め、河井の和平提案を受け入れなかったことから談判は決裂し、その後の北越戦争へと発展した。このため、従来は「若年ゆえの経験不足」や「高圧的な態度」が戦争を招いたとする評価が少なくなかった。とりわけ河井継之助を主人公とする文学作品や郷土史では、国家構想を語る河井に対し、岩村は朝命を盾に一方的な態度をとった人物として描かれることが多く、その印象は広く定着している。 しかし近年の研究では、このような評価を再検討する見方も有力になっている。岩村は東山道軍軍監として総督府の命令を執行する立場にあり、講和や停戦を独断で決定する権限はなかった。長岡藩に対しても、帰順か抗戦かの明確な態度表明を求めることが任務であり、仮に河井の提案を受け入れれば、自らが朝命に反した責任を問われる可能性もあった。さらに、新政府軍内部でも黒田清隆ら和平を模索する勢力と、山縣有朋ら武力討伐を主張する勢力が存在しており、小千谷談判は岩村一人の判断で左右できる状況ではなかった。 また、戊辰戦争における岩村は、軍事指揮官としてよりも、諸藩との交渉や軍務の調整を担う軍監として活動していた。高田藩、新発田藩、米沢藩との交渉に見られるように、戦場の最前線で兵を率いるよりも、総督府の意思を各藩に伝え、帰順工作を進める実務を担当していたのである。榎峠・朝日山の敗戦後も越後戦線から外されることなく、新潟攻略や新発田総督府での行政・外交事務に従事しており、総督府が岩村の実務能力を評価していたことがうかがえる。 維新後の歩みを見ると、岩村の真価は行政官として発揮された。新潟で開港行政に携わったことを皮切りに、佐賀・愛媛・石川・愛知・鹿児島・広島など各地で地方行政を担い、殖産興業、教育、地方制度の整備に尽力した。とりわけ愛媛県では旧藩士だけでなく平民も積極的に登用し、「民権県令」「平民長官」と称されるなど、地方統治において一定の評価を得ている。さらに農商務大臣、貴族院議員へと昇進し、近代国家形成期の官僚として重要な足跡を残した。 岩村高俊は、卓越した軍略家でも優れた政治思想家でもなかった。しかし、新政府の方針を忠実に実行し、地方行政の現場で着実に成果を積み重ねた実務官僚であったことは疑いない。小千谷談判だけをもってその生涯を評価することは、人物像を過度に単純化することにつながる。戊辰戦争の軍監としての姿と、明治国家建設を支えた行政官としての姿の双方を視野に入れてこそ、岩村高俊という人物を歴史の中で適切に位置づけることができるであろう。
🔙戻る
|
