小千谷陣屋跡 小千谷市



小千谷陣屋 片貝の戦い
🔗雪峠の戦い

小千谷陣屋は、小千谷市街の中心善光寺街道に面して構えられていた。また小千谷は信濃川と支流湯殿川の合流点にあり、舟運が盛んであったことから、陣屋から200mほどのところに小千谷舟改番所が設けられ、取り締まりを行った。
元和元年(1681)に幕府は小千谷陣屋を出雲崎陣屋の出張陣屋として設置した。主たる任務は年貢を徴収し、これを江戸に回送することだったが、住民の訴訟も載断した。
享保9年(1724)、小千谷は会津預地となり、小千谷陣屋は会津藩が管理する出張陣屋となって政庁がおかれた。
宝暦5年(1755)小千谷は幕領となり、1年後には十日町陣屋の出張陣屋となった。同13年(1763)再び会津藩領となり、魚沼郡にあった35,000石余を預地とした。幕末の戊辰戦争で越後で政府軍と戦った会津藩の拠点にもなっている。

小千谷陣屋内には梁間5間、桁行16間の政庁建物や役人住宅数棟が建てられており、町屋に向いた北側に表門(長屋門)があった。
嘉永7年(1854)に改築した際には建築費は3200両もかかったが、その半数以上を民間に献金させている。
現在、陣屋跡には小千谷総合病院の老人保健施設「水仙の家」が建ち、陣屋の遺構はないが、政庁玄関が陣屋跡南方の五智院地蔵堂に移築され現存する。


🔶小千谷陣屋跡・旧町名記念碑

🔶五智院

小千谷陣屋の玄関車寄せ部分が、五智院地蔵堂に移築され現存する
  • 〔所在地〕小千谷市元町小千谷市元町14−7




(小千谷陣屋と戊辰戦争)

慶応4年(1868)1月2日夕刻、鳥羽・伏見で旧幕府兵および会津・桑名二藩兵と薩摩兵長州兵との間に激烈な戦争が開始された。6日には幕府側の敗色が明らかとなり、徳川慶喜は松平容保・松平定敬を伴い大坂から江戸に帰った。7日、朝廷は徳川慶喜に対して追討令を出した。
鳥羽・伏見の戦争が小千谷の町民に伝えられたのは、1月16日であった。小千谷陣屋は、この日の朝、町役人等を招集し、会津藩から届いた急ぎの知らせを読み聞かせた。京都表の大戦争の事、11日徳川慶喜とともに藩主が江戸表に着船していよいよ勇健であることなどであった。
この日に先立つ12日、先祖以来厚恩を受けたものは報国尽忠の時と、小千谷の有力者に対して合わせて3450両の新調達金・新献金をおこなうべきことが伝えられていた。また、新たに会津藩の領地となっていた魚沼・三島郡の村々に対して5000両の調達金の賦課が申し渡された。

慶応4年(1868)2月1日、旧幕府は出雲崎代官所、代官甘利八右衛門に対して、魚沼郡にある出雲崎代官所支配の村々は会津藩の小千谷陣屋の預かり地とすると伝えた。3月3日には小千谷陣屋から役人が郷村受け取りを求めて出雲崎代官所へ出張ったが、郷村の惣代らは引き渡しに反対する立場で立ち合いを拒否し、これまで通りの取り扱いを求めた。郷村の長たちは、表面上は幕府の御恩に報いたいと表明したが、本心では会津藩は朝敵とされ、討伐の対象となっており、戦端が開かれれば、村々が戦いに巻き込まれ、これまで以上の金子の調達や、人夫等の軍役に伴う徴用が課されるなどが考えられ、強く反対した。

この年の春、会津藩預所小千谷陣屋には代官高橋伝八他が勤番していた。会津本国で全藩一致の抗戦体制が強行されると、小千谷方面にも会津から精兵が派遣された。
2月13日、小千谷陣屋は管内の郷元・庄屋等に変事の際に、帯刀し得手のものを携え、壮健の者をひきつれて陣屋にかけつけることを命じた。
3月29日、井深宅右衛門が、97人を引き連れて小千谷に着陣した。フランス式の軍事訓練をつんだ会津第一の強兵朱雀隊(18歳から35歳)の中核であった。
4月3日小千谷陣屋は鳥羽・伏見戦争戦没者供養の施餓鬼追善を井深隊が宿陣した照専寺で行った。会津藩兵はもとより、小千谷村内の家内・召使・名子にいたるまで一同参詣するよう各戸にもれなく触達がなされていたので市中の雑踏がはなはだしかった。
4月10日、会津の山内大学が南山養兵組37人を率い、六十里越から小千谷に着陣した。
4月29日朝五ッ半時、高田藩に敗れた衝鋒隊(旧幕府歩兵隊)を率いる古屋佐久左衛門ほか幹部が小千谷に到着した。隊士420人余は、29日夜までにおいおい到着した。閏4月1日、衝鋒隊は一旦小千谷を引き払い、船で長岡方面に向かった。

新政府軍の侵攻に備えて小千谷陣屋に、会津藩の越後口総督一ノ瀬要人が入った。この時陣屋にいたのは藩兵250名と幕府脱走兵の衝鋒隊200名ほどであった。
新政府軍は小出島方面の支隊約500名と雪峠方面の本隊約1000名の2隊に分けて進軍してきた。一ノ瀬は、藩兵を小出島方面に井深宅右衛門以下200名、雪峠方面に衝鋒隊副長今井信郎を指揮官として会津藩兵50名と衝鋒隊あわせて200名を派兵してこれに備えた。閏4月26日、両方面で会津藩は敗退し、敗兵は小出島では六十里越を通て会津へ撤退、雪峠の衝鋒隊は小千谷陣屋に撤退してきた。(☛ 小出島の戦い)
この時、小千谷陣屋にいて指揮を執っていた一ノ瀬は、一戦もせず、いち早く陣屋を後にして不在であった。衝鋒隊古屋は怒り、この後、一ノ瀬との間で軋轢が生じている。また、一ノ瀬は会津藩兵からも作戦能力に対する信頼を失っている。この件は、後の会津戦争における一ノ瀬の行動に影を落とすこととなった。

新政府軍は、やすやすと無傷の小千谷陣屋に入り、この後、山道軍の会議所が設置された。この会議所に、閏4月27日には松代藩・松本藩・尾張藩・高田藩・飯田藩が、28日・29日には長州藩奇兵隊・長府報国隊・薩摩外城隊・尾張藩、ついで松代藩・飯山藩・上田藩・椎谷藩・須坂藩・高遠藩・高島藩・岩村田藩・田野口藩・加賀藩が進駐した。
5月25日、越後山道軍は小千谷から関原に移動し海道軍と統合した。長州奇兵隊軍監の白井小介らはしばらく小千谷に滞在して、軍務の整理総括等を行った。

雪峠の戦い

慶応4年(1868)閏4月26日、早朝に千手を進発した山道軍の一隊は、軍監岩村精一郎が指揮して、四つ半(午前11時頃)、真人村へ着陣した。先陣は高田藩兵、二陣は尾州藩兵・松本藩兵、三陣は松代藩兵であった。
真人村の住民は、すすんで新政府軍に協力を申し出た。

(芋坂の戦い)

会津陣屋では探索を放ち、進軍してくる新政府軍の情報を得ていた。新政府軍1000名に対し、会津藩兵約50名と幕府脱走兵で組織した衝鋒隊150名、合わせて200名ほどであった。指揮は衝鋒隊副隊長の今井信郎が直接執った。会津藩は、山道軍別働隊が小出島に向かったので、朱雀精鋭の井深宅衛門隊を派兵しており、人員が手薄になっていた。
会津藩兵・衝鋒隊は芋坂の要害に立て籠もり、土塁を築き、これに備えた。芋坂の周辺の丘上には塹壕を掘り、伏兵をしのばせ迎撃の態勢を整えていた。
新政府軍は、上田藩兵などに命じ、信濃川の東岸を進み岩沢の渡し口にあった会津側の舟を押さえ、水運の安全を確保し、十日町千手から大砲・弾丸などを真人村の渡し口に運び込んだ。
新政府軍は真人村に着陣。午の半刻過ぎ(午後1時)、先陣の高田藩の榊原若狭隊は、大砲隊・小銃隊をもって本道から平坦な道を進み、尾張藩の千賀与八郎隊と高田藩の別隊は陣ヶ平をめざして進撃した。
衝鋒隊が松代藩兵に先制攻撃をかけ、戦いが始まった。今朝より雨天にて道路頗る泥濘であった。本道から進む榊原若狭隊はにわかに陣ヶ平山腹から砲撃され、算を乱して退却した。伏兵が山腹の塹壕にひそみ、多数の尾州藩兵を手元に引き付けて一斉射撃した。尾州藩の千賀与八郎隊は敵兵の少ないことをあなどり、地形不便にもかかわらず総攻撃をかけた。しかし山腹の会津藩兵・衝鋒隊は一歩も退かず、かえって激しく応戦したので、総崩れとなった。
また会津藩兵・衝鋒隊が信濃川を渡り東岸より本道上の新政府軍に発砲したので、新政府軍は松代藩一隊と松本藩兵を東岸にむかわせこれを攻撃させた。
この後、松代藩兵と高田藩兵の別隊が真人村から山を迂回し、間道を出て側面から攻撃したので、虚をつかれた会津藩兵・衝鋒隊は雪峠に撤退した。会津・衝鋒隊に、敵の迂回隊の対応にまわすだけの兵数がなかったのが敗因であった。

(雪峠の戦い)

雪峠は芋坂と池ケ原のほぼ中間、小千谷町から一里のところにある。会津藩・衝鋒隊は雪峠の要害に砲台を築き、塹壕を掘り、宿営を急造して、迎撃の態勢を整えていた。
閏4月26日昼過ぎ、本道から進撃した榊原若狭隊が山腹近くに進むと、突然伏兵が一斉射撃を浴びせた。松本・尾州・松代・高田の諸藩兵は三方から攻め立てたが、会津藩兵・衝鋒隊はよく支え、征討軍は苦戦した。
会津藩兵・衝鋒隊は約200であったが、約3倍の征討軍を迎えて、大砲・小銃および「破裂弾」をあびせてこれをくじき勇戦した。しかし征討軍の後陣が隣村から迂回し、横面の山から援護砲撃をしたので、会津軍・衝鋒隊は苦戦に陥った。
たまたま雪峠の陣営に大砲が命中し、兵力が少なく後詰の兵も皆無であったため、会津藩・衝鋒隊は、夕七ツ半(午後5時頃)すぎまで戦闘を続けたが、支えきれず、戦死者の首を刎ね、小千谷に退却した。
衝鋒隊の敗兵が夜12時過ぎ小千谷陣屋に撤退してくると、陣屋に一人もいなかったという。総督古屋佐久左衛門が一小隊を率い小千谷陣屋に来て、大軍を防ぐには難しいからと、撤退を指示した。
衝鋒隊兵士は会津藩が残していった大砲四門、其外小銃、幕、雑具等を纏め船に積み入れ撤退した。これを町民が見送ったという。
暁5時頃、妙見に渡る。 陣屋にあった大砲等は、いちはやく陣屋を後にした一ノ瀬要人宛てに送り返した。この件があって、衝鋒隊指図役頭取の楠山兼三郎は会津藩は頼むに足らずとして、隊を辞し故国に帰った。
この雪峠の戦いが行われた時、砲撃音が長岡城下まで届き、長岡藩執政河井継之助は藩境に派兵し、警戒態勢を取らせたといわれる。
また芋坂・雪峠の戦争では、真人村の人々はこぞって征討軍に協力し、武器弾薬の輸送、兵糧・陣夫の供出・負傷者等の介抱等に勉励したので、のちに小千谷民政局より金2,000疋を賞与された。

🔶「雪峠の碑」

平成7年(1995)に、市民有志により記念碑が建立され、碑には、「昔戦場 今農場 農魂が後世に伝わる様に」と記されている。

わたや平沢店
[住所]新潟県小千谷市平沢1-8-5
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