船岡公園 Funaoka Park 小千谷市
🔗船岡公園西軍墓地 西小千谷市街の南寄り、信濃川の右岸に盛り上がる標高104mの船岡山頂を中心に、船岡一帯を占める市民公園。新潟県の「新八景」として有名。眼下に信濃川を見下ろし、戊辰戦争の激戦のあった地や、はるかに上越国境の連山をながめる景勝の地である。 江戸時代は山林であったが、戊辰戦争後に戦没者の墓をここに移して、公園に発展する契機となった。 山頂には子供遊園地、憩いの広場などが、麓には花壇や噴水があり、山全体が公園となっているので、花見のシーズンのロケーションは最高。 公園の桜が一斉に花開く4月下旬~5月上旬には船岡公園祭が行われる。全山雪洞を飾り付けた4月下旬の桜まつりが行われる。 静かに眠る維新の戦争の英霊と対照的に、その数およそ500本の桜の花は、爛漫の美しさで人々を圧倒する。
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船岡公園西軍墓地慶応4年(1868)、小千谷近郊の榎峠や朝日山で新政府軍と旧幕府軍との間で激しい戦闘があり、新政府軍では多くの戦死者を出した。戦後明治4年(1871)、戊辰戦争当時小千谷駐屯長州藩の御用掛を務めた井口喜代助が、藩に船岡公園の土地を寄付し、長州藩士の死没者の墓が築かれた。 その後、周辺寺院などに埋葬されていた多くの西軍戦死者を、明治41年(1908)には県費の補助を受けて、全部この船岡山に改葬し現在に至っている。 長州藩、薩摩藩など13藩、198基の墳墓が建てられた。※ストリートビュー 碑群の中には、長州藩参謀時山直八を悼んで、盟友山県有朋が撰文した追討碑「時山君の碑」※ストリートビューがある。 時山 直八 天保9年1月1日(1838年1月26日)〔生〕 - 慶応4年5月13日(1868年7月2日)〔没〕
萩城外奥玉江、下級藩士時山茂作の子として生まれた。 同藩の槍術師範・岡部半蔵に宝蔵院流を習う。また、嘉永3年(1850)頃、吉田松陰の松下村塾にて学んだ。山県有朋とは同い年で共に下級武士の出身、共に吉田松陰門下生となった後、奇兵隊でも盟友であった。 高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加する。文久2年(1862)、京都の藩邸で諸藩応接掛を務め、元治元年(1864)7月には、禁門の変に加わり敗走。帰国後、奇兵隊に参加し、長州征伐などの数々の戦争において、奇兵隊参謀として活躍した。 戊辰戦争では 長岡藩攻撃の部隊長となり、奇兵隊士200名を率いて朝日山を急襲する。桑名藩雷神隊の銃手 三木重左衛門に頭部を狙撃され即死した。(享年31歳) その報に接した山県有朋は、「あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ越の山風」と詠み、友の死を悼んだ。 🔙戻る
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船岡公園桜まつり
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