飯山藩の戊辰戦争



飯山の戦い(飯山戦争)

幕末の信州は、小藩と旗本領が分立していた。一番大きな藩は松代藩真田家10万石であった。
藩主真田幸民は英名の誉れ高い藩主であった。鳥羽伏見の戦いで、薩長の近代的な武器・戦術によって、3倍もある幕軍を駆逐した様子をみて、時代は、薩長を中心として朝廷に移ると推察した。
幸民は、早速朝廷に恭順を表明し、藩内の佐幕派を排除していった。新政府内で、一定の役割を得ようと、積極的に協力を打ち出していた。
信州内の幕領24万石は、尾張藩に預領として寄託された。尾張藩は、八代将軍徳川吉宗との間で、将軍職を巡って敗れてからは、幕政から排除されていた。
尾張藩は、新政府では徳川宗家に変わって中心に座ろうと、早くから朝廷に接近し、その信任を得ていた。幕領の中野陣屋には100人程の藩士が常駐していた。
一方、飯山藩本多家2万石は、徳川家の譜代大名であった。信州でも最北端の山国の中の小藩で、松代藩などからの影響を受け、2月中には恭順嘆願書を提出していた。東山道軍からは飯山藩に対し17,000両の軍資金と、兵糧米250石の供出を命じられた。飯山藩は、新政府に対して積極的なかかわりを持たず、様子見していた。

衝鋒隊は旧幕府陸軍の歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門と、直心影流免許皆伝の今井信郎が指揮する600名からなる旧幕府歩兵第11・12連隊の集団脱走兵である。鳥羽・伏見の戦で敗退した後、これらの敗兵を部隊として編成しなおした。古屋は旧幕府陸軍から歩兵頭並に任じられて信濃鎮撫の命令を受けた。
3月9日、下野国梁田の戦いで新政府軍と戦って敗れた後、会津藩に向かう。3月22日、松平容保に謁見するが、この当時会津藩は、新政府に対して恭順の意をあらわしており、古屋に対して、会津藩の重要拠点である新潟町に向かうよう指示し、衝鋒隊という名前も下賜している。
4月1日新潟に到着する。4月8日まで新潟に滞在し、9日に出立し、海岸沿いに進んで寺泊につき、11日には勤王色の濃い与板藩(井伊家2万石)に今井信郎の率いる300~400人が押し掛け、軍用金として1万両、兵糧米500俵を奪い取り、城下でも掠奪を欲しいままにした。
その後、桑名領柏崎を過ぎ、鉢崎の関をおし通って、16日の高田領柿崎の宿に入った。
17日に高田藩は側用人川上直本を柿崎に遣わし、古屋隊との交渉にあたらせた。その結果、高田城下にはとどまらず新井宿へ行かせ、粗暴な行動は一切しないというという請書をとって、古屋隊の通行を黙認することにした。古屋隊は、19日高田を通過し高田城下を武装して通行し、高田藩の許しを得て新井別院(現妙高市新井)に宿陣した。
ここで、古屋は信州各藩に信州鎮撫の檄文をだし、幕領24万石を尾張藩に代わっておさめるとした。衝鋒隊には後ろ盾として、高田藩が支援していることを暗にほのめかしている。衝鋒隊古屋の最終目標は、尾張藩に支配された幕領24万石を取り戻し、高田藩榊原家を中心に据え、新政府に抵抗する一大勢力を築くことだった。

飯山城中では向背を決すべき大評定が開かれ、飯山藩の少兵だけでは、抗戦しても勝てることは見込めず、城下を廃墟にするだけである。老臣らは、偽って古屋に同意を約し、密使を松代藩に送り救援を求めた。衝鋒隊に協力し、少しでも早く千曲川を渡って、中野方面に去ってほしいのが実情であった。
松代藩真田家は、衝鋒隊の進出を察知して、江戸の東山道総督に急使を派遣し、その到着を待たずに、早くも大砲2門を持てる先鋒戦闘隊を出発させた。当時奥羽鎮撫総督府が、旧幕府軍に宇都宮城を奪われるなど劣勢にあり、総督府では信濃方面まで直ぐには対応できなかった。総督府は、土佐藩の岩村精一郎を軍監として派遣し、信州諸藩との調整連絡をすることとした。
4月20日、飯山藩では、衝鋒隊に対する方針を決めないまま信越国境に、急遽、軍事掛黒田数馬、坂本勇平を遣わした。
衝鋒隊は進軍を開始し国境の峠(富倉峠)の手前に長沢という宿場があって坂本雄兵衛と黒田直右衛門から出迎えを受け、三つ葉葵の旗と、幕府陸軍の隊旗である日の丸の旗を先頭に、城下に進撃した。
飯山藩は、衝鋒隊のために上町にある寺院(真宗寺)を本陣とし、兵たちの宿舎として民家40軒を用意した。
4月21日、尾張家と真田家を主体とした連合軍は飯山から二里ほど南の古牧(腰巻)周辺に達した。松代藩は小布施に滞陣した兵力と合わせて600~700名の兵力であった。
衝鋒隊は、千曲川に沿って静間、蓮、替佐、神代に堡塁を築造するため、飯山藩に藩兵と人足の応援を依頼した。飯山藩は20人程の藩兵を差しだした。また、安田の渡しの舟を、飯山藩側に集め、信州連合軍が渡河できないようにした。
この年は、雨が多く降ったため、川の水が増水し、徒歩での渡河は困難だった。

4月23日になると、総督府は松代藩以外の信州諸藩に派兵の命令を出した。その兵力は松本藩600名、上田藩200名、尾州藩300 名、諏訪藩200名、岩村田藩60名、田ノ口藩50名のおよそ1500名を超える兵力であったが、この日までに兵力はおいおい集結した。
飯山藩の使者弓削田一学が、松代藩の陣にやって来て、信州諸藩の救援を謝絶した。「城下を兵火で焼くことは忍び難いので、策を設けて、古屋らを中野方面に赴かせて、城下の無事をはかりたい」という理由であった。しかし、松代藩は、この要請の裏には、衝鋒隊が、高田藩の援兵の到着まで戦いを引き延ばそうというのではないかと疑った。松代藩の放った間諜も、飯山城下は、恰も飯山藩は衝鋒隊に寝返ったようであると報告していた。

一方、衝鋒隊の古屋は隊を600人程の兵を3分割し、前軍・中軍・後軍とした。前軍は古屋が指揮し、高田へ向かい、腹の座らない榊原家に対し出兵の談判をすることとなった。
4月24日、古屋は、高田藩に出兵の要請をおこなった。高田藩は、衝鋒隊が飯山城を落とし、中野陣屋へ向かう際は、応援の部隊を送ると、はっきりした言質を与えずに表明していたので、古屋はそれを実行してほしいと要請した。また佐幕派よりの重役などに対しても力添えを願った。
しかし、高田藩側の記録では、宿泊していた新井別院を後にして、無断で飯山に向かったことを詰問するために、古屋を呼んだことになっている。
この24日に高田藩の間諜2名が丹波島口を警備していた松代藩兵に捕らえられた。この間諜は松代藩などの官軍の配備の状況を調べて、帰藩しようとしていたところを捕縛されたのだった。この間諜の取り調べにより、高田藩の状況や衝鋒隊の古屋作久左衛門の行動が知れた。
高田藩はこの2人を、衝鋒隊の無断行動を問いただすため、飯山に派遣した藩士だと後に言い張っている。
中軍の200名余は、頭の今井信郎が信越国境の富倉峠を守備した。高田藩と飯山藩の動向に対応出来るよう、両にらみで峠に陣を置いた。
後軍の200名余は隊長の内田庄司が、飯山藩の兵の応援を受けながら城下を守備した。

24日、松代藩は出動に当たって尾張家の尾崎将曹に属する隊と連合し、攻撃の戦術を話し合った。結果、その日夜のうちに安田の渡、腰巻の渡、今井の渡しを扼し、本陣を安田口の東なる飯縄山に置き、主力は松代の総隊長河原左京が自ら陣頭に起って率い、千曲川の西なる替佐峠を突破し、飯山城を一挙に屠ろうというのであった。

4月25日、戦いの先駆は安田の渡しから始まった。千曲川を挟んで一方は松代・尾張の兵、一方は衝鋒隊。銃火を交えて数時間、衝鋒隊が甚だ優勢だった。
然し、正午ごろになって小布施方面から松代の大軍(殿軍)が襲い来ることが判明し、衝鋒隊は劣勢になるのが見えたので、安田口で戦っていた兵は、内田庄司隊長の命で、高田藩からの援軍が到着するまで、飯山城に籠城し戦おうと、城に向かった。
衝鋒隊が城の開門を要求すると、城中より衝鋒隊に向けて銃撃があった。
内田隊長は、城に向け銃撃を命じた。衝鋒隊士は新式のミニエー銃で銃撃した。これに対し、城内から発砲した銃が旧式の火縄銃であったことや、城が陣屋に塀を巡しただけの建物だったので、落城間近と思われた。
このとき、衝鋒隊と共に戦っていた飯山藩兵が後方で、衝鋒隊が飯山城を攻撃しているのを知って、驚いて騒ぎ立て、戦線から離脱した。衝鋒隊士たちは、これを敵が川を渡河し襲ってきたものと勘違いし浮足立ち、総崩れとなった。
内田庄司隊長は、越後方面への撤退を指示した。衝鋒隊は撤退に際し、城下の各町内に火をかけたため、1000軒以上の家屋と、寺社が灰燼に帰した。放火による火は翌日まで燃え続けたという。
内田の指揮した隊は、富倉峠で、今居信郎の中軍と合流した。飯山での戦いが、自壊によって総崩れとなったと聞いて、さすがの今井でもいかんともしがたく、峠で一泊して、新井に向かった。
信州軍は、千曲川の対岸に繋ぎとめてあった舟を奪い返し、ようやく兵隊や大砲・弾薬などを輸送することが可能となった。
この後松代藩に詰問された飯山藩の言い訳は、「今日まで賊徒城下に屯集為致候段、誠に持って奉恐入弊藩何分にも少人数にて不得止め因循致候、何卒豊後守儀朝敵之御疑義不蒙様、松代藩において執成呉候様」ということであった。
この戦いで飯山藩に2名の戦死者が出たが、松代藩との交戦で負傷し死亡したとされている。
飯山藩は、新政府より叱責を受けたが、格別のお咎めもなく、こののち、新政府軍の一員として越後口での戦いに参戦することになった。





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