テオドール・フォン・レルヒ Theodor von Lerch 上越市
テオドール・フォン・レルヒ(Theodor von Lerch,1869年8月31日 ハンガリー王国北部のプレスブルク〔生〕 - 1945年12月24日〔没〕) オーストリアの参謀レルヒ少佐は、明治43年(1910)、日露戦争に勝利した日本陸軍の研究のために来日。翌年、13師団視察のため高田を訪れ自費で作った軍用スキーを10台寄贈した。長岡師団長の願いにより1月12日(当日は雨で雪質が悪く中止された)、歩兵第58連隊営庭において、堀内大佐以下14名のスキー研究員を対象にスキーの指導が行われた。指導は「メトゥール スキー!(スキーを履け)」の号令で始まった。 これが日本におけるスキーのはじまりとなる。 練習は、平地をすべる基礎から始まり、4日目からは南葉山の中腹にある旭山の頂上から麓の練兵場まで、約4キロのコースをすべりた。それから3月24日まで34回にわたり軍隊や学校の先生にスキーを教えた。 レルヒの伝えたスキーは、輪のついていない太い竹の一本杖でバランスをとり滑るものだった。親切丁寧に教えたが、教官としては厳格だった。吹雪の日も休まず、夕方遅くまで練習は続いた。 「スキーは軍隊専用にしてはならない。雪国の生活にも取り入れるべきだ。」というのが長岡外史師団長の方針だった。民間にも門戸を開き、2月には民間スキー講習を実施、女性教師や将校婦人らも参加した。女はスキーのときも和服で、えび茶の袴をはいて滑った。そしてわずか1か月後には日本最初のスキークラブ「高田スキー倶楽部」が発足。多くの人々に伝播していった。 大正元年(1912)に高田を去り、旭川でスキーの指導をしたのち10月に帰国。第一次大戦では、アルプス山岳隊長、西部戦線などで活躍したが、敗戦でウィーンに帰った。妻を失い、52歳のとき、2児を連れたイルマ夫人と再婚。 1945年12月24日、連合軍による軍政期中のオーストリアで糖尿病のため死去。76歳没。ウィーンの共同墓地に葬られた。 「スキー発祥の地」となった高田では、初練習の日を記念して1961年1月12日、金谷山に「レルヒの像」が建てられた。 また1月12日は、ミズノ株式会社の直営店エスポートミズノによって、『スキー記念日』に制定された。 平成23年(2011)1月はレルヒが金谷山において軍人に対してスキーの指導を行ってから100年目にあたり、日本のスキー発祥100周年を記念して観光キャンペーンがおこなわれた。このときメインキャラクターとして『レルヒさん』が誕生。また毎年『レルヒ祭』が開催されている。
|
|
日本スキー発祥記念館< レルヒ像 大日本スキー発祥之地碑