観音寺久左衛門 長岡市



観音寺久左衛門

文政9年(1826)〔生〕- 明治6年(1873)〔没〕

観音寺久左衛門(本名 松宮雄次郎)は、博徒観音寺一家9代目久左衛門の次男として与板領観音寺で生まれた。(長男は刑死している。)
松宮家は広く知られた素封家で、代々当主は久左衛門を名乗り、雄次郎は10代目であった。雄次郎の妻は長岡藩士伊藤右門の息女である。長岡の河井継之助とも、若い時から付き合いがあった。

観音寺一家は越後の出雲崎を縄張りとして博奕場を開いていた。彼の観音寺の家は広さ約3000㎡の石垣をめぐらせた家屋敷を持ち、天井は人を隠すために二重につくられていたという。
久左衛門は、博徒の親分であったが、信義を守り、人望熱く学問もあり、その道では全国的に名を知られ、江戸の幡隨院長兵衛に比肩される存在であった。
久左衛門は博徒の親分とは云いながら、「性温柔、人情に厚く、罪人でも人を憎まず、沈勇にして威在り、孝心深く、詩文、発句、更に画を学び、衣類は木綿、草履脚絆、真綿の下着、絹物は母の作ってくれた絹裏の羽織にさえも生涯手を通さなかった。」といわれる。
博徒としての逸話は数えきれない。

佐渡に流罪になった博徒が、島を抜け出して、弥彦、角田の海岸に辿り着くと、こっそり路銀をくれて逃がしてやった。
国定忠治、大前田の英五郎らも凶状持ち時代に、この観音寺久左衛門にかくまわれていたことがある。忠治の子分が土地の娘をからかったというので、親分の忠治が観音寺に叱りつけられ、両手をついてあやまって出ていったという。
弥彦の燈籠押しに、暴れ者で有名な、新井田の惣七親分が弥彦へ来て、行いが悪かったことから観音寺に裸にされて、松の木に縛られた。
質素で、贅沢を嫌ったため、ある時旅館で入浴していると、「親分がまだお入りにならねえに、子分の癖になんてことだ。」と女中に叱られたという。母親が裏だけ絹の着物を作ってくれたが、とうとう袖を通さなかった。

久左衛門が一声かければ、数百人が参集し、越後国内の博徒が1000人近く、動いたという。また、上州や、信州の親分たちにも影響力を持っていた。
その勢力は、大名3万石から4万石に匹敵する戦力であったことから、会津藩は、これを味方に引き入れようと藩士を久左衛門のもとに派遣し、手を突き頭を下げて助力を依頼した。これに対して久左衛門は、徳川300年の報恩に酬いるときがようやく訪れたと、助力を確約した。先づ博徒400人に武装させ、越後国内の親分衆に命令して兵を出させ、ついに千人の命知らずの博徒を集めた。
会津藩はこれらをもとに、観音寺久左衛門の聚義隊のほか、会津藩士の指揮下で多くの隊を作った。また観音寺は、上州・信州の親分たちに依頼し、官軍の進撃を妨害するため、各地で騒動や、一揆をおこさせた。
慶応4年(1868)3月、観音寺村が北国街道に面する要衝であったことから博徒兵・会津浪人・会津藩正規の兵など、約200人が観音寺久左衛門宅に駐屯した。出雲崎代官所が会津藩領となると、会津藩は陣屋の警備を久左衛門に任せている。
戊辰戦争には、多くの博徒が参加しているが、多くは利害関係から参加した者が多い中、久左衛門は義理人情の侠客の矜持をもって戦いに参戦した特異な人物であった。

一方で、観音寺村は与板藩の領地であり、久左衛門は文久2年(1862)与板藩から用人に任じられ、十手を預かり、藩の治安の維持に努めるとともに、自宅を賭場として利用することもみとめられ、与板藩には恩義を感じていた。故郷の領民からの信義に酬いるため、身は同盟軍に置きながら、同盟軍によって領民たちに対し虐待や略奪が起きないよう防いだという。

4月11日衝鋒隊大隊長今井信郎が与板城に乗り込んで、与板の勤王態度をなじり、「城を貸すか、一万両出すか二つに一つを決答せよ」と脅迫した。与板藩は有り金7000両を差し出すと、今井は引き揚げた。与板藩は資金が底を突き、後に長岡藩の河井継之助に頼み7000両を融資してもらっている。
この時、衝鋒隊の兵士が与板の町の民家で略奪行為を行った。これを聞いた久左衛門は、手兵を引き連れて与板に駆け付け、隊長の古屋作左衛門を詰問した。古屋は兵の乱暴狼藉を認め、翌日、兵7名を斬罪に処し、町の入口(原村)にさらし首にし、7000両を懐にして立ち去ったという。
また、久左衛門は、その情報網を通して、衝鋒隊の一連の行動は河井継之助の謀略であり、救援と称して与板へ進駐しようとしていることを見破って、その計画を未然に阻止したといわれる。

慶応4年(1868)4月、会津藩が水原で会議を招集し、長岡藩や与板藩に列藩同盟に参加するよう強くもとめた。
与板藩では城代家老松下源六郎を正使として派したが、このとき、観音寺久左衛門も随行した。彼は、会津側に立って戦うことを表明しており、藩士を通じて会津藩の裏面を良く知っていた。会議にあたって、主導権を握る会津の交渉内容をいちはやく察知し、これを正使に内報し、与板藩のために大いに役立った。

閏4月29日、佐川官兵衛に率いられた会津軍700人が山道軍本営のある小千谷陣屋を攻撃する足溜まりとして与板に宿泊し、滞陣したが、夜具などの調達で、町民に迷惑が及んでいた。与板藩では、水原にいる会津本営総督一の瀬要人のもとに藩士を派遣して善処を求めたが、この時も久左衛門は与力の為に同行している。

閏4月、同盟軍と新政府軍が交戦状態になると、会津兵と共に越後各地を転戦した。観音寺久左衛門はその手下47名(聚義隊)を率いて、裏金の陣笠に猩々緋の陣羽織を着て督戦したので、その姿が注目を浴びた。
聚義隊には、水戸藩脱走兵の剣客斎藤新之助と村上藩脱藩の浪士遠藤海蔵がいて指揮し勇猛に戦った。もともとは、故郷から流れて、観音寺一家の下で用心棒として世話になっていた人物たちである。
5月27日、28日、同盟軍が与板城を攻撃し、落城寸前まで追い込んだが、この時久左衛門は桑名藩雷神隊などと陽動作戦を行い、要衝島崎で新政府軍を撃退している。
彼は、裏金の陣笠を被り、猩々緋の真っ赤な陣羽織を着て、満身に闘魂を漲らせ、獅子奮迅の勢いで暴れまわり、出雲崎から進撃してきた高田藩兵は、泥田の中へ大砲をすてたまま蜘蛛の子を散らすように逃げ戻ったという。

この後、60日間にわたて与板周辺地域での新政府軍との戦いでは、百姓姿に変装し、道案内を装って敵を味方の陣に引き込むなど、奇策を講じて敵兵を翻弄し、奇襲攻撃で活躍した。
しかし、8月1日に至って与板口の同盟軍は全線一斉の大敗走にうつり、新政府軍方は一斉に大追撃に移った。
新政府軍では、久左衛門を捕らえ斬首するようにという、触れが出されていた。これに対して、与板藩の執政松下源左衛門は、久左衛門の命を助けるため、その帰順降伏を勧めたという。
久左衛門は、松下源左衛門の気持ちに感謝しながら、会津に落ちていったという。その時久左門が手下に託した句がある。
『天のこと知らぬ事では なけれども
義理の網絶つ つるぎ持たねば』
久左衛門は、越後での戦いの後、会津・米沢方面に逃れたが、米沢藩で捕らわれの身となった。明治4年(1871)、米沢藩の護衛で、信州中野県の官軍巡察使のもとに送られた。

その後明治6年(1873)、許されて観音寺に帰ったが、広大な屋敷は新政府軍によって焼き払われてすでになくなっていた。
弟の走出村庄屋をしていた松宮竜太郎は博徒隊(聚義隊)の名簿に名前があったことから、捕縛され分水町の新政府軍屯所で斬首され北国街道にさらされていた。
久左衛門に対しては、地元民の信頼厚かったことから、維新後与板藩参事から出仕の誘いもあったが、賊軍として戦った身であるからと固辞したという。

明治6年(1873)48歳で病没した。屋敷跡に墓地がある。

〔墓所〕 西蒲原郡弥彦村観音寺349番地
















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