番神堂 Banjindo 柏崎市
番神岬
※GOOGLE 画像は30メートルの断崖になっている切りたった岬で、200段近い石段を上りつめたところに番神堂がある。ここからは柏崎の市街をはじめ佐渡ヶ島、弥彦の山、そして背後には米山が望める。
番神堂は市内日蓮宗妙行寺の境外御堂。日蓮宗三大霊場の一つとして信仰を集めている。 今から約700年前、鎌倉時代、日蓮宗を開いた日蓮が「立正安国論」を著し、当時の幕府に献上したが、幕府の怒りをかい佐渡へ流された。 その後文永11年(1274)島流しの罪をが許されると、日蓮は寺泊に上陸する予定で船出したが嵐にあい、柏崎の番神岬に流れ着いた。 着岸の地とされる岩場もある。 当時の番神堂は西本町の真言宗妙行寺のお堂であったが、住職の慈福は深く帰依し日蓮宗に改宗した。 日蓮は八幡大菩薩の力によって無事上陸することができたと感謝し、八幡大菩薩を中心に29神を勧請して三十番神堂とした。この時からこのお堂は番神堂と呼ばれるようになったという。 現在のお堂は明治4年(1871)の大火で焼けた後、当時の住職が2代にわたって財を工面し、7年の歳月をかけて再建されたものである。 お堂の三面の壁面には肉厚の板にすばらしい彫刻がほどこされている。 波と亀、鳳凰と桐、雲と竜のテーマで彫られたものは桃山時代の特徴が見られるといわれる。お堂は建築、彫刻ともに市の指定文化財となっている。 ≪現地案内看板≫
柏崎市指定有形文化財・建造物 番神堂 一棟
柏崎市番神二丁目十番四十二号
日蓮宗妙行寺(西本町一丁目)に属し、文永十一年(一二七四)佐渡からの赦免の折、日蓮上人が三十番神を勧請(神や仏の霊を移して祭ること)したと伝えられる。明治四年(一八七一)十月の下宿(今の番神町)大火で類焼、同六年から再建に着手し、同十一年(一八七八)四月十七日竣工した。 民謡の三階節に”番神堂がよく出来た 向拝 向拝の仕掛けは 新町宗吉 大手柄”とある。 権現造り(本殿と拝殿との間に「石の間(相の間)」を設けたのが特徴)で、棟梁には四代目の篠田宗吉、石工は小林群鳳、彫刻は、出雲崎の原篤三郎・脇野町の池山甚太郎・直江津の彫富で、飾り金具は大久保の歌代佐次兵衛の鋳造である。 昭和五十年四月十六日指定 柏崎市教育委員会
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