閻魔市 Enma fair 柏崎市
毎年6月14日~16日に行われる閻魔堂の縁日で、200年の伝統を持つ。閻魔堂周辺の柏崎市本町通りなどで開催される。約700mに渡って全国から集まってくる600店もの露店が並ぶ。 さまざまな露店が並ぶが、メインといえるのは「食」。たこ焼きや焼きそばなどの一般的な露店のほか、新潟ならではの「ぽっぽ焼き」や各地のご当地グルメなど、さまざまな「屋台グルメ」が楽しめる。 毎年20万人を越す見物客で賑わい、 「新潟三大高市(たかまち=縁日)」の一つに数えられるている。(※他の二つは蒲原まつり、村上大祭) 閻魔堂は、戦国の頃まで半田村にあったと伝えられる。 現在地は町の東の「木戸」の門外で、旅人や浮浪者の宿に利用されていたという。明治7年(1874)の大火以来再度の火災にあい、現在のお堂は土蔵造で明治29年(1896)第四代篠田宗吉によって建てられた。 安置されている「えんま大王」をはじめとする閻魔十王神・婆鬼・但生神などは東大寺の仏教彫刻で有名な運慶の作とつたえられている。 閻魔市の起源は、江戸中期には下町にあった馬市がこの周辺に移っていたが、天保頃(1830-44)から馬市にかわって旅商人、見せ物、博徒の集う季節市となった。閻魔堂の裏手は博徒が丁半博打に熱中する場として賑わった。 このような大規模な縁日となったのは、6月中旬という日程が全国の露店業者が集うのに好都合だったため。かつては、近隣農村部の田植え後の大きな楽しみであった。 🌌閻魔堂山号を、金砂山円光寺閻魔堂といい、今日では「えんま市のお堂」として親しまれている。戦国時代の頃までは半田村にあったと伝えられ、江戸時代中期の資料「柏崎町古絵図」には、町の東の木戸の門外に位置していたことがわかる。お堂は数度の火災で類焼し、現在の土蔵造りの建物は明治29年(1896)に建てられた。宮大工の「番匠」と知られた4代目篠田宗吉の作。本尊「えんま大王」は運慶の作と伝えられ、他の像は長野の戸隠神社から来たものである。
≪現地案内看板≫
閻魔堂 柏崎市の文化財 柏崎市指定・史跡 昭和48年8月1日指定 柏崎市教育委員会 閻魔堂の言い伝え これは、閻魔堂に残されていた宝永7年(1710)の「越後柏崎町閻魔堂縁起」の一部を、今のことばになおし、わかりやすくしたものである。 ○この堂は、聖武天皇の願いにより建立されたものであり、閻魔大王や秦広王などの十王は行基の作、ほかに奪衣姿や多くの仏像があり、かつては七堂伽藍を誇っていた。 ○当町の街道にある地蔵菩薩と薬師如来は、伝えによりと自然湧出の霊石で造立者はわからないが、泰澄禅師の開眼供養後、この堂の本尊として崇められた。 ○堀河天皇、寛治の頃(1087~94)、境内に伝法の道場を構え、弘法大師の像を安置し、毎年正月15日から7日間、国家豊饒を祈った。この時の大師が今もある。 ○護念上人がこの堂にこもって修行をして依頼、阿弥陀如来の名号を唱える念仏会が今もなお絶えることなく続いている。毎年5月15日、6日には多くの人々が集まる。この辺りのは人々は閻魔祭といっている。 ○お堂の鎮守は、山王権現と熊野権現であり、社地に霊泉が湧き、薬湯に用いると効き目があるといい、近郷の人々は、薬の水といっている。 ○お堂の南は、米山の裾が海に延び、鴨川・黒姫の地から流れ出る川は、広大な円形の田園を造っている。これを鏡ヶ沖と呼んでいるのは、諸仏の功徳及ぶ地にあり、閻魔堂の正面にあるからである。そしてここは、月が西の海に傾けば、白い鴎が橋のようにうなって佐渡の沖に渡り、太陽が東の山に昇れば、人馬は功徳の浜を行き交い、弥彦の森・国上寺・有明の濱もほど近く、信濃・奥羽の遠山も木の間雲間に見え隠れし、絶景の地という、また神々は不思議を現し、竜神が毎夜お堂に灯明をあげたなど古記録にある。 ○当堂には古くからの記録が多く、そのすべてを記されないが、今、閻魔大王はじめ十有余の仏が目を光らせ、街道を往来する人々と縁を結んでいる。このお堂こそ、北海を鎮め護り、この世もあの世も安楽に暮らせるようにする道場である。 閻魔堂 地図 ストリートビュー |
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