柏崎陣屋 柏崎市
生田万 鯨波の戦い🔗桑名藩の戊辰戦争 ☆柏崎陣屋跡☆柏崎陣屋跡は、は柏崎市大久保2丁目に位置し、入り口に「柏崎陣屋跡」「柏崎県庁跡」の石碑がある。遺構はほとんどなく、住宅と大久保公園になっている。柏崎地方は上杉景勝の会津移封後、堀秀治、松平忠輝の領地となり、さらに高田藩領となった(途中、一時、幕領となったこともある)。 高田藩主松平越中守定賢が藩主であった享保元年(1741)、白河へ領地を移された。柏崎地方はそのまま白河藩領となった。 享保2年(1742)年、柏崎支配の関係上、これまでの扇町陣屋(現在の西本町一丁目の喬柏園付近)を廃止し、大久保に陣屋が築造された。8月10日から工事に入り、12月5日に竣工、同月15日に役所が移った。領内221箇村の総支配所として、東西100間(180メートル)南、南北90間(160メートル)、総坪数9千坪の柏崎陣屋を大久保の高台に移した。陣屋内には、越後領を支配する御役所、天領を預かる預役所、各郡代官の詰める刈羽会所などの諸役所、役宅、郡代を筆頭にした役人とその家族の住む長屋、学問所、火術細工所、剣槍術場、居合柔術場、弓術場、馬場、稲荷があった。本国から50人ほどの人数で、越後の領地を治めた。ここからは柏崎市街が一望できる。 1823年(文政6)年に白河藩主松平定永が伊勢国桑名へ移封となった際、柏崎地方はそのまま桑名藩領となった。桑名藩の所領は11万石だが、うち越後柏崎は6万石近くの分領であった。 松平定永は当時、江戸を外国船から守るために房総半島にて海防警備にあたり、その財政的負担に苦しんでいた。さらに移封に伴う諸経費が9万両かかって借財は10万4,000両になり、藩財政はますます火の車になったいた。 このため天保の飢饉の際にも、有効な手立てができず、陣屋は救済策を講じず、役人は、払い米価格が高騰することによって得た利益を藩に収めることができ、また一方で商人が米の買占めや売り惜しみを行って米価格が高騰しても見逃していたのである。 1837年(天保8)6月1日には国学者生田万が窮民救済のため一党を率いて陣屋に乱入したが、鎮圧された。柏崎小学校わきに「生田萬埋骨場」の石碑がある。 1868年(慶応4)1月、桑名藩主松平定敬は徳川慶喜の意をくんで恭順の態度をとり、3月30日、藩士220人とともに、新政府に帰順を表明した桑名本国には戻らず、大久保一翁や勝海舟の勧めで柏崎に移り、謹慎した。ところが主戦強硬派が柏崎に到着すると、定敬の考えは主戦論にかわった。閏4月27日、鯨波戦争で新政府軍と交戦したが敗北し、定敬は預かり領であった加茂に向かい、その後、会津を経て函館まで帰順しなかった。藩士たちはその後も越後国内各地で戦闘を続けることとなる。 しかし、柏崎陣屋に元からいた藩士の多くは、新政府軍に降伏し、家族を含めて150 人ほどが捕虜となり拘束される。7月19日に、一行は柏崎を船で出て、敦賀から陸路桑名へ向かった。 1869年(明治2)、頚城地方にある幕領や旗本などから召し上げた領地を統治するため柏崎県が設置され、1873年(明治6)6月10日、新潟県に編入されるまで、陣屋は柏崎県庁舎として使用された。 長屋内に残っていた生田萬の乱のときの刃傷の柱は、柏崎市立博物館に保管されている。陣屋の裏門は、善照寺(刈羽村寺尾)※地図の山門として残っている。陣屋近くの勝願寺※地図 に、戊辰戦争で戦死、病死した桑名藩士の慰霊碑と藩主松平定敬の書による墓碑がある。 長屋は江戸時代、桑名藩士の住居として、近年は長く個人所有の住宅として使われていたが、保存する歴史的価値がないことから、2011年(平成23)08月23日解体が行われた。(案内図) ≪現地案内看板≫
柏崎陣屋 ≪柏崎市指定史跡≫寛保元(1741)年、高田藩主松平定賢(久松松平家)が奥州の白河藩へ移封されたとき、飛び地領である刈羽、三島、魚沼、蒲原、岩船の5郡(8万余石)を支配するため、越後領の総支配所として新たに柏崎市大久保の高台の地に築造されました。久松松平家は、その後に紀州桑名へ移封されますが、この飛び地領はそのまま桑名藩が支配を続け、幕末までの約126年間この陣屋は存続しました。天保8(1837)年の絵図によると、東西180m×南北160m、約9000坪の広さを持ち、2段の地形を利用して築造され、その内部には、自藩領を支配する御役所、天領を預かる御預役所、各代官の詰める刈羽会所などの諸役所、また郡代を筆頭に50人余の役人とその家族の居住する長屋などがありました。(左図参照) 明治4(1871)年、陣屋は柏崎県庁となり、明治6(1873)年6月新潟県に編入され、その役割を閉じました。 また同じ頃、学校制度が新設されたことにより、新潟県内3か所に行政庁直轄の県立学校が開校され、柏崎学校は下長屋跡に新設されました。 🔙戻る
桑名藩の戊辰戦争鳥羽伏見の戦いの後、新政府は徳川慶喜を朝敵の筆頭に、次に容保を、そして第3位に定敬を指名し1月18日、追討令を出した。定敬は元治元年(1864)に京都所司代に任命され、兄容保とともに幕末の京都を守った。徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いの最中、単身で関東への敵前逃亡を図るが、その際、定敬は大阪城を守備していた桑名藩兵をともなって江戸にむかうよう命令を受けた。 桑名本国の留守を守る惣宰職(家老)酒井孫八郎は藩士を集め協議の末開城を決め、前藩主定猷の遺児でまだ13歳だった萬之助(後の定教)を新政府軍に出頭させた。桑名城は1月28日に無血開城となった。萬之助や家臣たちは藩内の寺院に分散して謹慎となった。 慶喜は徳川将軍家存続のため、自らの責任を定敬と容保らになすりつける。2月になって容保には会津への帰国命令を出し、既に帰る城を失っている定敬には深川霊厳寺での謹慎を命じた。 定敬は謹慎中も密かに深川八幡で山脇十左衛門や立見鑑三郎らといった藩の抗戦派と会合していた。これを知った幕府若年寄の大久保一翁は抗戦派との接触を断つため定敬に飛び地の多くある越後に移ることを勧めた。 こうして定敬は本国の意を受けた恭順派百人の桑名藩士に守られ、3月16日プロシア船「コスタリカ号」で越後に向かう。3月23日、越後新潟に到着。3月29日、越後柏崎に到着した。同じ船には長岡藩の河井継之助が乗っていた。 定敬は柏崎に入ると大久保の勝願寺※GOOGLE 画像で謹慎した。江戸に残った立見鑑三郎など抗戦派600人の大半は彰義隊や大鳥圭介の伝習隊に入って関東各地を転戦し、宇都宮戦争では、新選組土方俊三と連携し敗れはしたが奮戦した。 4月上旬、桑名本国を発した密使が、柏崎に到着し本国の状況を伝えた。これに意を強くした恭順派家老吉村権左衛門は、柏崎の全藩士を連れて本国へ帰り恭順すると伝える。柏崎の藩論は日一日と恭順に傾いていく。 しかし、もともと佐幕派志向の強い定敬は、会津、長岡と共に新政府軍と戦う決意を固めていた。 定敬は腹心の山脇十左衛門を呼び策略を立てた。一つは一刻も早く関東を転戦している主戦派を呼び戻すこと。二つ目は恭順派の首魁吉村権左衛門を誅殺することであった。 閏4月3日夕刻、定敬の命令で山脇十左衛門の子隼太郎と高木剛次郎が恭順派の筆頭家老吉村権左衛門を襲い斬った。吉村は柏崎陣屋から定敬のいる勝願寺に向かう途中だった。吉村は、恭順派の藩士を引きつれ本国に戻るよう定敬を説得していた。 大鳥軍に残留し戦い続けていた立見鑑三郎、町田老之丞(立見の実兄)、杉浦秀八、馬場三九郎、大平九左衛門など抗戦派藩士200人は、柏崎に於いて抗戦派と恭順派が衝突することを危惧し越後に向かい、閏4月12日柏崎についた。到着した藩士たちは極楽寺、西光寺へと分宿する。 吉村の死と、抗戦派藩士が大挙到着したことで、恭順派は勢いを失い、藩論は抗戦の道に統一した。 閏4月14日、従来の身分録高門閥をもとにした旧軍事体制を廃止し、若手下級武士を幹部に登用した実力主義の実践的新軍制を定めた。また隊の幹部を「入れ札」により決定した。 総勢360人の桑名軍の編成替えが行われた。統括する軍事方総裁は家老服部半蔵だった。服部は吉村とともに恭順派の代表格だったが、藩論が抗戦と決まると、藩主と運命を共にすると申し出た。
戦雲は急を告げ、新政府軍は越後高田に集中結集中との報が入る。閏4月16日桑名軍は一隊約60人を最前線鯨波青海川へと派遣する。 同日、勝願寺にあった藩主定敬は、供のものを従えて桑名藩領となっていた加茂に出立した。 (鯨波での激闘)閏4月27日、鯨波で新政府軍と交戦し(鯨波の戦い)、立見鑑三郎の目覚ましい活躍で、戦いには勝ったが、同盟軍の会津軍が守る小千谷で敗退したため、退路を断たれることを恐れ妙法寺村の超願寺に向けて撤退を始めた。この時、大久保陣屋の恭順派藩士約30名とその家族も近在の民家に潜伏していた。その後新政府軍に降伏し、8月に入って家族と共に無事桑名へ帰り寺院で謹慎を続けた。 柏崎を撤退した同盟軍は妙法寺村超願寺※GOOGLE 画像で態勢を整え、ここを本陣として、進撃してくる新政府軍に備えた。 鯨波の戦いで負傷し、この地でなくなった三宅厚(17歳)を超願寺へ葬った。 5月6日、赤田北方の戦が行われ、進撃してきた加賀富山兵主力とする新政府軍と交戦しこれを撃退する。その夜遅く、会津藩の長岡敬次郎が「ただちに全軍長岡城へ集結されたし」という急報をもたらした。やむなく桑名隊は兵をまとめると、その夜遅く妙法寺を出発した。 同盟軍が妙法寺村を撤退すると、その後、新政府軍が超願寺に本陣を置いた。
(朝日山での雷神隊の活躍)5月9日、桑名隊長岡へ入る。長岡城中に、会津藩、桑名藩、衝鋒隊の首脳部が集まった。桑名藩からは、軍事総裁の服部半蔵、軍事奉行として山脇十左衛門、岩崎五太夫、町田老之丞、馬場三九郎、立見鑑三郎が出席した。席上、長岡藩河井継之助から、兵の総数2000人のうち半数を信濃川を左岸に渡って、敵の小千谷本陣を攻撃し、半数は、信濃川右岸を妙見榎峠奪還に向かわせる案が提案された。しかし、会津藩から、信濃川増水の折、川を渡っての進撃は無謀であるとの意見がだされ、河井との間で激論となった。 町田老之丞が、信濃川の出水を幸いに、一挙に妙見を奪回すべしと発言し、出席者の多くが賛同したので、榎峠を奪還し、新政府軍の進攻に先制攻撃をかける作戦案がまとめられた。 5月10日、同盟軍が、榎峠を奪還するため新政府軍を攻撃し、北越戊辰戦争が始まる。(榎峠の戦い)
5月11日、朝日山の戦いでは、同盟軍は頂上に陣を敷いて守りを固める一方で、新政府軍は麓から奇兵隊参謀時山直八が指揮し攻めあがり制圧する作戦を実施した。この時、雷神隊立見鑑三郎の機転で、新政府軍は総崩れとなり、時山は戦死する。(朝日山の戦い)
(与板口での桑名軍の活躍)5月19日、長岡城が落城すると、退路を断たれる恐れから、朝日山を放棄し、桑名領の加茂町本営の大昌寺に戻った。5月22日には、桑名藩領の加茂にもどり、奥羽越列藩同盟に加盟していない桑名藩ではあったが加茂軍議に参加した。 諸藩から重臣クラスが参集する中、桑名藩から、(軍事奉行) 小寺新吾左衛門・金子権太左衛門 (致人隊長) 松浦秀八 (雷神隊長) 立見鑑三郎が出席した。 5月23日、河井継之助が主張した長岡城恢復に諸藩が合意し、具体的な進軍の部署が定められた。 桑名藩は、神風隊が与板口へ、雷神隊が栃尾口へ、致人隊が鹿峠へ配置されたが、実際には、海岸通りから与板方面で、新政府軍の動きが活発化しており、神風隊町田からの要請で、雷神隊・致人隊とも与板口へ出発することとなった。 5月25日、桑名藩三隊は、会津萱野隊・村上・水戸諸正党、衝鋒隊、それに観音寺久左衛門博徒隊ら約2000名とともに三条を出発し与板城の制圧に向かった。 5月27日、同盟軍は地蔵堂村に集結し、与板へ向かった。桑名軍は、与板城を攻撃する同盟軍に致人隊、神風隊が参戦し、雷神隊は山越えし黒坂へ出て出雲崎から島崎へ進出する敵に備えた。 与板での攻防の戦端が開かれたが、夕ぐれと共に同盟軍は撤収した。桑名軍は致人隊半隊を残し、雷神隊のいる黒坂に集結。 5月28日、新政府軍は薩長はじめ大軍を、塩入峠を越えて黒坂に向け派遣した。桑名軍は、峠を越えて進撃してくる新政府軍にゲリラ戦を仕掛け、与板城周辺で同盟軍側が優勢であったこともあり、これを撃退し、撤退する新政府軍に対して、追撃に移った。雷神隊20名が峠を駆け下り、新政府軍の後方、本与板の集落に至ると諸所に火をつけて暴れまわった。申の刻(夕方5時過ぎ)であったという。新政府軍は大混乱となり、与板城は落城寸前まで追い込まれた。その後新政府軍に増援部隊が到着し、本与板で攻防が繰り広げらる。(→与板の戦い →島崎の戦い) その後は、与板周辺地である寺泊町とを隔てる西山山地で戦いが続けられた。
(島崎周辺での負けを知らない桑名軍の奮闘)6月1日、晴、敵の拠点剣が峰※地図攻略することに決し、荒巻の陣から、立見鑑三郎の雷神隊と大平九左衛門の神風一分隊と萱野右兵衛の一小隊が出撃した。 剣ヶ峰からの稜線にはすでに、長州二小隊、松代一隊、尾張兵、須坂二小隊、計六小隊が守備する陣地ができており、山上から狙い撃ちされ味方に多数の被害が出ることを恐れ、撤退した。 この交戦で、神風隊副隊長大平九左衛門が戦死した。 6月2日、曇、出雲崎を拠点とする新政府軍が、北野荒巻方面へ来襲した。島崎から与板に向かう街道で、障害となっている北野と荒巻の同盟軍を排除するためであった。 新政府軍は薩長を主力とする600名である。これに対して荒巻を守備していたのは神風隊20余名、北野を守備していたのは雷神隊40名であった。会津・庄内の応援もあり、新政府軍は一方的に敗れ、逃げるように出雲崎に敗走した。 6月4日、晴、町田老之丞は一隊を引き連れ、小島谷村の旗本稲葉氏1000石の陣屋を襲い、新政府軍に帰順していた稲葉氏の代官久住氏は逃亡し不在だったため糧米を運び出す。 6月5日、桑名軍は、荒巻、北野から小島谷へ本陣を移す。 6月11日、致人隊副隊長馬場三九郎が流れ弾を顔面にうけ死亡する。米沢藩が2小隊を与板本道方面に派兵することとなり、大山の陣で前線を視察し、馬場が案内に当たっていた。 桑名隊も柏崎で三隊編成以来早や2ヶ月、激戦に次ぐ激戦で次第に死傷者も増え、実働の兵力は現在150人を切る状態となっていた。6月15日、負傷した傷も癒えた致人隊隊長の松浦秀八が、兵を拝借するため、会津に向け出発した。 6月24日、同盟軍は与板と出雲崎の敵軍事拠点を結ぶ、補給ルートの要地木の芽峠※地図を攻略し、敵の交通を完全に遮断し、更に敵の前線基地乙茂村(現・出雲崎町乙茂)方面迄進撃する作戦を立てた。 木の芽峠を攻略に成功した。しかし、乙茂方面に進撃すると、新政府軍は長州の丁卯丸、薩摩の乾行丸から艦砲射撃を行ったので、その威力に同盟軍は進撃できず後退した。木の芽峠は、庄内隊会津隊桑名隊が交互に守備することとなった。 6月26日、新政府軍の長州・高田・高遠兵200余が、占領された地を取り返さんと日の浦に攻勢をかけるが、これを撃退する。 以降、木の芽峠を巡って、毎日のように新政府軍の攻勢があったが、これをその都度撃退した。敵の重要補給路を1ヶ月以上にわたって遮断し、同盟軍の攻勢に寄与したのは桑名軍の大きな功績であった。 7月9日(新暦8月26日)に致人隊長松浦秀八が、会津兵50人を引き連れて帰陣した。兵とは言っても、会津で歩兵の訓練を受けた町人と農民であった。中に、20人程、士分取りてを約束された博徒が含まれていた。これを桑名三隊に振り分けた。ほかにも、寺泊や加茂で農兵を徴募したので、全部で180人ほどになった。 7月25日、新発田藩が手引きして新政府軍が新潟太夫浜も続々と上陸中であると急報が届く。島崎軍議所で佐川官兵衛、山脇十左衛門を中心に各藩集まり軍議を行ったが、状況が判然としないため結論を出すに至らなかった。 7月28日見附の本営で軍議、出席者は米沢が上杉主水、千坂太郎左衛門、甘粕備後。長岡は花輪求馬、会津は佐川官兵衛、山脇十左衛門、庄内は中村七郎右衛門が出席、統一した結論は出ないうちに、7月29日、長岡城が再び落城の注進が入る。これにより全軍ただちに三条まで総引き揚げに決定した。
(加茂の戦いと越後からの撤退)8月1日、桑名三隊他同盟軍は、地蔵堂で集結、夕方より三条に向け引き上げを開始した。三条で軍議を開き、同盟軍本営のある加茂を最終防衛線とすることで一致した。この時点で残っていたのは会津藩、庄内藩(中村七郎右衛門隊)、桑名藩で、村上藩や庄内藩の本隊は八十里越から帰国の途についていた。8月2日、各隊は順次加茂へと引き上げにかかる。昼前に突如新政府軍の大軍が襲来した。川幅数十メートルの五十嵐川を挟んで、両軍は激しい銃撃戦を展開する。そのまま夕方まで銃撃戦は続くが、夜に入って庄内、佐川隊、最後に神風隊も順次加茂へと引き上げた。(→五十嵐川の戦い) 8月4日、雷神隊が黒水を守備していたので、加茂本道方面は桑名2隊と会津、庄内隊の合せて500名ほどであった。これに対した、新政府軍は5000人近い大軍で進撃してきた。桑名隊は青海神社など高地に陣をおき、善戦した為、一進一退で夕方まで銃撃銭が続いた。 しかし、多勢に無勢で、同盟軍はじりじりと後退し、桑名軍は夜になり、引き上げと決する。立見勘三郎の雷神隊は加茂への間道の要地黒水を守備しており、最後の防衛戦には参加していなかったが、神風、致人の両隊は黒水で雷神隊と一緒になり、多くの傷病者を助けつつ沼越峠を越えて会津藩領津川へ脱出していった。
≪桑名藩戊辰戦争関連地≫
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