生田万(萬) ( いくたよろず ) Ikuta Yorozu 柏崎市



柏崎陣屋

生田 万 享和元年(1801)〔生〕 - 天保8年6月1日(1837年7月3日)〔没〕

上州館林での誕生と学問への叛逆

享和元年(1801年)、生田万は上州館林藩(現在の群馬県館林市)の城内大名小路にある武家屋敷で生を受けた。父は130石取りの藩士であり、大邑従頭(おおむらよりがしら)という重職を務める生田信勝。万はその長男であり、跡取り息子として周囲から大きな期待を寄せられる存在であった。幼名は瞭(あきら)または雄(ゆう)と呼ばれ、のちに萬(よろず)と改名した。
生田家は藩内でも相応の家格を持つ格式高い家柄であり、長男である万には幼少期から厳格な武士教育が施された。万はめきめきと頭角を現し、藩校「道学館」へと進む。道学館では、当時の幕府および諸藩が正統な学問として定めていた朱子学を徹底的に叩き込まれた。万は並外れた聡明さを持ち、経書を暗誦し、武芸にも励む文武両道の優等生であった。将来の館林藩を背負って立つ逸材として、周囲も万の将来を嘱望していた。
しかし、成長するにつれて万の心中に、ある学問的・思想的な疑問が芽生え始める。当時の朱子学は形式主義的であり、身分秩序の維持や体制の自己正当化の道具と化していた。若き万の目には、それが現実の社会問題から目を背けた空虚な教条主義に映った。万の性格は生まれつき極めて直情的であり、不正や曖昧さを許さない強烈な正義感に満ちていた。妥協を知らない彼は、実践を重んじ、人間の内なる良知に従って行動することを説く「陽明学」に急速に傾倒していく。
陽明学に開眼した万は、自らの信じる真理を曲げることができなかった。彼は藩校の師や友人たちの前で、朱子学の矛盾や欺瞞を激しく攻撃し始めた。体制の根幹たる学問を真っ向から否定し、公然と批判を繰り広げる万の姿は、藩の教育者や門生たちにとって危険極まりない異端児と映った。昨日までの前途有望な秀才は、一転して周囲から疎まれ、孤立を余儀なくされる。しかし万は屈しなかった。藩校を去った彼は、誰の教えも乞うことなく、独学で己の信じる学問の道を突き進む決意を固める。この時期の孤独な学索が、彼の徹底した自己完結的な正義感をいっそう研ぎ澄ますこととなった。

江戸「気吹舎」での隆盛と幕政批判

青年期に達した万は、内憂外患に揺れる日本社会の現実を凝視する中で、強烈な尊皇思想へと目覚めていく。形骸化した幕藩体制ではなく、天皇を中心とした国のあるべき姿を模索し始めた彼は、当時、江戸で一世を風靡していた国学者・平田篤胤の思想に共鳴した。
文政6年(1823年)、23歳になった万は故郷を離れ、江戸にある平田篤胤の私塾「気吹舎」の門を叩いた。万の才気はここでも瞬く間に爆発する。彼は寝食を忘れて易学と国学の奥義を究め、その該博な知識と妥協のない姿勢は塾生たちを圧倒した。師である篤胤もまた万の並外れた器量を見抜き、深く寵愛した。万はまたたく間に気吹舎の「塾頭」へと登り詰め、平田塾の膨大な門弟たちを統率する立場となる。当時、周囲の誰もが「生田万こそが平田篤胤の正統な後継者である」と確信し、目していた。
私生活においては、江戸にいた文政7年(1824年)に鎬(しの)という女性と結婚している。鋭い思想家であり、時に周囲を威圧するほどの激しさを持っていた万であったが、家庭内では全く異なる一面を見せた。万は極めて子煩悩であり、妻や子供たちを深く思いやる、心優しい家庭人であった。後年、彼が命を賭して暴挙に出る背景には、単なる抽象的なイデオロギーだけでなく、目の前で餓死していく他者の子供たちに、自らの愛する家族の姿を重ね合わせるという人間的な情愛の深さがあった。
しかし、気吹舎での充実した日々は長くは続かなかった。国学を究め、社会の不条理に対する義憤を募らせた万は、その言動に露骨な幕政批判を交えるようになっていく。鎖国体制の弛緩や役人の腐敗を容赦なく突く万の過激な発言は日増しにエスカレートしていった。師の篤胤は、万の学才を誰よりも高く評価し、その将来を嘱望していたからこそ、彼の身に迫る危険を敏感に察知した。幕府による弾圧を恐れ、また何よりも愛弟子の命を救いたいと願った篤胤は、万に対してこれ以上の江戸滞留は危険であると言い渡し、危ぶんで帰藩を強く勧めた。万は師の深い情愛を汲み取り、断腸の思いで江戸を去り、再び館林へと戻ることとなった。

藩政改革の建白と流浪、そして「厚載館」の開塾

館林に帰藩した万を待っていたのは、放漫な財政と行き詰まる藩政の現実であった。万は愛する故郷と領民を救うため、そして己の学問を実践に移すため、一世一代の行動に出る。
文政11年(1828年)10月、27歳になった万は、藩主に対して一冊の建白書を呈上した。その名は『岩にむす苔』。この意見書の中で、万は藩政の根底的な改革を熱烈に要求し、門閥の弊害や役人の怠慢、財政の不正を辛辣な言葉で糾弾した。彼にとっては至誠から出た救国の言動であったが、保守的な藩の上層部にとって、一若輩の藩士による激しい体制批判は到底受け入れられるものではなかった。意見書は一顧だにされず却下され、万の熱意は完全に踏みにじられた。
そればかりか、藩幹部たちの怒りを買った万は、翌11月、館林藩から「追放処分」を言い渡される。武士としての身分を剥奪され、生まれ育った故郷を追われた万は、一瞬にして路頭に迷うこととなった。生田家の名跡を汚すわけにはいかないため、家督は弟が継ぐこととなり、万は籍を失った「館林浪人」となった。ここから、万と家族の苦難に満ちた流浪の日々が始まる。子煩悩な万にとって、自らの思想的信念の代償として、妻や幼い子供たちを極貧の放浪生活に巻き込んでしまったことは、筆舌に尽くしがたい苦痛であった。
天保2年(1831年)、流浪の旅路にあった万に父・信勝の訃報が届く。長男でありながら親の死目に逢えぬ不孝を噛み締める万であったが、この父の死をきっかけに、館林藩は万の追放処分を解除し、帰藩を許した。処分が解けたとはいえ、すでに生田家の家督は弟が継いでいたため、万が武士として藩に仕える道は残されていなかった。
そこで万は学問の力で自立し、次代を担う人材を育成することを選択する。上野国太田新井村(現在の群馬県太田市)に、万の才能と高潔な人格を深く理解する小暮照房という有力者がいた。万は小暮の手厚い後援を受け、太田の地に私塾「厚載館(こうさいかん)」を開塾する。厚載館には万の烈々たる思想と国学の教えを乞うべく、近隣から多くの若者たちが集まった。万はここでようやく腰を落ち着け、家族とともに穏やかな教育者としての時間を送るかのように見えた。

新天地・越後柏崎と私塾「桜園」の賑わい

しかし、時代の濁流は万を一個の教育者として埋もれさせることを許さなかった。天保7年(1836年)、館林藩主の松平家が島根の浜田藩へ国替え(移封)となることが決定する。実家の生田家は弟が家督を継いでいたため、当然のように藩主に従って遥か山陰の浜田へと赴くことになった。しかし、すでに藩籍を離れ、独自の思想世界に生きていた万はこの国替えに従うことを拒否し、上野の地に残った。
そんな万に、新たな運命の出会いが訪れる。越後国柏崎(現在の新潟県柏崎市)にある柏崎神社の神官であり、平田篤胤の門下生として同門の間柄であった樋口英哲から、熱烈な招待を受けたのである。樋口は気吹舎の塾頭として名を馳せた生田万の卓越した学識を柏崎の地に迎え、文化の興隆を図りたいと考えていた。
同年9月、万は樋口の招きに応じ、家族を連れて越後柏崎へと移り住んだ。万はここで、新たな私塾「桜園」を開く。万の評判を聞きつけた柏崎の町役人や、日本海交易で富を築いた船問屋など、いわゆる地域の上流階級・知識人層の子弟たちがこぞって桜園に入門した。塾は瞬く間に繁盛し、万は国学の真髄を講じることで、地域での確固たる人望と名声を獲得していった。彼はまた、自らの収入から進んで貧民へ給与を施すなど、社会の弱者に対する慈悲の心を忘れることはなかった。
だが、この「上流階級の支持によって成り立つ私塾」という桜園の構造こそが、のちに万が起こす暴挙において致命的な弱点として作用することになる。万が熱弁を振るう相手は富裕層の子弟であり、彼が真に救おうと願っていた泥沼の底にいる貧民層との間には、強固な精神的・組織的ネットワークが構築されていなかったのである。柏崎に到着してからの滞留期間は、わずか8ヶ月という短期間であった。この時間の短さと支持層の偏りが、のちの運命を決定づけることとなる。

天保の大飢饉と柏崎領民の地獄絵図

生田万が越後柏崎で教鞭を執っていたまさにその時、日本全土は歴史上悪名高い「天保の大飢饉」の極限状態に達していた。
柏崎を中心とする8万3000石の地域は、かつて高田藩主であり、頸城質地騒動を解決した功績を認められて移封された、桑名藩主・松平越中守の領地であった。この広大な領地は本国から離れた「分領地」であり、越後国内の三島郡和島村、島崎村、寺泊村などがその範囲に含まれていた。桑名藩は大久保村に陣屋(代官所)を置き、郡代以下約60人の役人が常駐して、この地遠く離れた分領の統治と年貢の徴収にあたっていた。
柏崎地方の惨状は言語を絶するものがあった。天保元年(1830年)以来、この地方は毎年のように凶作続きであり、米価はとどまることを知らず高騰していた。天保2年(1831年)には、異常気象によって苗代が枯れ腐り、田植えすら満足にできない事態となった。さらに天保4年(1833年)、同6年(1835年)も天候不順が続き、夏になっても気温が上がらず、米は全く実らなかった。早くから周辺の細民たちの間には飢餓が蔓延し、多数の犠牲者が出ていた。その悲劇の記憶は、今も「天保四供養碑銘」として現地に残されている。
天保7年(1836年)に及ぶと、この飢饉は一層深刻な地獄絵図を現出させた。あまりの飢えから、親が自らの幼い子供を養いきれず、生きたまま川へ流して間引きを行う村さえ出現した。万自身が当時の様子を書き残した『生田書簡状』には、その凄惨極まる光景が克明に記されている。平野部の農村では、生きるために追い詰められた百姓たちが、不作に応じた臨時の税率軽減を求める「検見の要求」や、備蓄米を安価で放出することを求める「払い米の安値要求」を行い、陣屋周辺はいつ暴動が起きてもおかしくない険悪な空気に包まれていた。
しかし、領民を救うべき桑名藩柏崎陣屋と役人たちは、驚くべき冷酷さと怠慢さでこれに対応した。陣屋が行っていた「払い米」とは、領民から徴収した貢米(年貢米)を換金するため、入札によって特権商人(船問屋)に売却する制度であった。陣屋側はあえて入札に参加できる特権商人を厳しく制限することで、米の流通量を統制し価格を高値に維持しようとした。特権商人たちはこの公認された独占的販売権を利用し、飢饉の最中でありながら巨万の富を貪っていたのである。
さらに、百姓たちが納める年貢は「定免法:作柄に関わらず毎年一定の免率を課す制度)」であったため、凶作による不足分は、この高騰した払い米の価格を基準にして「拝借金」という名目で、元利ともに百姓の借金として計算された。そのため百姓たちは少しでも払い米の価格が下がることを切望していたが、商米が高値であればあるほど財政が潤う陣屋側は、意図的に米価を高く維持し続け、積極的な飢饉対策を講じようとしなかった。この構造的な矛盾が百姓たちを極限まで苦しめていた。
天保8年(1837年)になると、この腐敗は頂点に達する。江戸の芝高輪の町人であり、希代の買占め商人であった仙波太郎兵衛が、手代5人に総額10万両という巨費を持たせ、水運の要衝であった寺泊で米を根こそぎ買い占めさせたのである。本来であれば、領外への物資流出を防ぎ物価を安定させるための経済統制令である「津留」が発動され、口留番所で厳しく取り締まられるべき事態であった。しかし、寺泊の米商人たちは柏崎の代官に対して莫大な賄賂を贈り、この「津留」の禁をひそかに解除させた。そればかりか、陣屋の下役の役人たちは賄賂に目が眩み、自ら進んで仙波らの米の買占めや不正売買を手伝う始末であった。
この役商結託による売り惜しみと買占めにより、5月下旬、柏崎の米価は「10両につきわずか4俵」という、平年の数倍にあたる常軌を逸した暴騰を記録する。巷には餓死者が溢れ、地獄と化した街の片隅で商人や役人たちは暴利を貪って笑っていた。陽明学者であり、直情径行の正義漢である生田万が、この惨状を黙って見過ごせるはずがなかった。万は領民を救うための具体的な救済策を練り上げ、柏崎陣屋の代官に対して真摯に献策した。しかし、腐敗しきった役人たちは一介の浪人に過ぎない万の訴えを鼻で笑い、完全に黙殺した。この瞬間、万の心中で言論による救済の道は完全に閉ざされ、武力による誅伐の決意が固まった。

大塩平八郎の乱の衝撃と、義憤の「落し文」

万が絶望と義憤の淵にあった天保8年(1837年)2月19日、日本の歴史を揺るがす大事件が勃ブツしていた。大坂において、元大坂町奉行所与力であり、高名な陽明学者でもあった大塩平八郎が、飢えに苦しむ民衆のために兵を挙げたのである(大塩平八郎の乱)。大坂という天下の台所、幕府の直轄地で起きたこの元役人による造反のニュースは、飛脚を通じて瞬く間に日本全国へと拡散し、全土の支配階層を震撼させ、虐げられた民衆を熱狂させた。
4月、越後柏崎にいた万のもとにも、大塩が挙兵に際して天下に放った檄文、いわゆる「大塩の捨て文」が届く。万はその文面を貪るように読んだ。「天を怨み地を呪う民の窮状を救わんとし、貪官汚吏を誅戮す」という大塩の激烈な言葉は、万の魂の最深部に突き刺さった。同じ陽明学を奉じる者として、大塩の行動は万にとって「知行合一」の究極の実践例として映った。
役人たちの恥知らずな怠慢と腐敗に対し、万の怒りは沸点に達した。しかし、彼はすぐに暴動を起こしたわけではなかった。万は4月から5月にかけて、柏崎の市街や陣屋の周辺に、夜陰に紛れて数々の「落し文(警告文)」を投下した。それは、役人たちに対して自らの非を改め、今すぐ米蔵を開いて領民を救済しなければ天罰が下るであろうという、万からの最後の慈悲を込めた警告であった。しかし、利権に溺れた陣屋の役人たちが、この匿名の警告に耳を貸すことはついになかった。万は悟った。もはや言葉の通じる相手ではない。天に代わって、己の手で国賊を討つほかない、と。

天命を奉じ、国賊を誅す――荒浜村の襲撃

天保8年(1837年)5月晦日の30日、夜九ツ(午前0時)頃、満天の星空の下、生田万はついに武装蜂起を決行した。
万が最初の標的として選んだのは、柏崎の市街から約2里(約8キロメートル)ほど離れた場所にある、与板藩領の荒浜村(現在の新潟県柏崎市荒浜)であった。この村の庄屋である新兵衛、そして組頭の庄三郎は、日頃から特権商人と結託し、米を蓄え込んで暴利を貪っていると噂される不義の徒であった。万は数人の同志とともに夜襲を仕掛け、両名の屋敷へと突入した。不意を突かれた庄屋らは抵抗できず、万たちは屋敷内から大量の金品や米穀を強奪することに成功する。
万は奪い取った金品を、その場に集まってきた荒浜村の飢えた貧しい村民たちに次々と手渡していった。降って湧いた財宝に狂喜する村民たちを前に、万は声を大にして叫んだ。
「我らとともに柏崎の陣屋へ至らば、そこにある米蔵を開放し、さらに多くの金品と米を貴殿らに与えよう!」
この煽動に応じ、飢えで理性を失いかけていた村民のうち、金兵衛や彦三郎ら8人の男たち、そして物資を運ぶための船頭1名が万の軍勢に加わることを志願した。
万は、あらかじめ用意していた2本の巨大な白旗を夜風に翻した。そこには彼の烈々たる信念が墨黒々と染め抜かれていた。
「奉天命誅国賊(天命を奉じて国賊を誅す)」
「集忠臣征暴虐(忠臣を集めて暴虐を征す)」
この2本の旗を先頭に立て、万率いる急造の軍勢は、暗闇の街道を柏崎陣屋を目指して進軍を開始した。

桑名藩柏崎陣屋への奇襲と、その限界

明けて6月1日の未明、薄霧が立ち込める中、生田万とその軍勢は桑名藩柏崎陣屋の門前に到達した。凶作と飢餓に苦しむ町民を救うという大義名分を掲げた万は、自らを「大塩平八郎の門弟」と高らかに自称した。大塩の名を騙ることで陣屋側を精神的に威圧し、同時に柏崎の民衆が一斉に蜂起に同調することを期待したのである。
この時、万とともに陣屋へ突入した中核メンバーは、万を含めてわずか6人の同志であった。その顔ぶれは極めて特異な混成部隊であった。
首謀者である生田万(館林浪人)のほか、武芸に優れた尾張浪人の鷲尾甚助(加茂在住)、水戸浪人の鈴木城之助(三条在住)という、熱狂的な思想を持つ3人の浪人。そして残りの3人は、他領の農村を統率する村役人層であった。すなわち、出雲崎代官所領源八新田の山岸嘉藤太、新発田藩領蒲原郡荻島村の名主・小沢佐右衛門、同大島村の名主次男・古田亀一郎である。
この同志の構成こそが、この乱の限界を物語っていた。蜂起の主力は柏崎の現地調達の民衆ではなく、近隣の他藩から集まった志士や、比較的裕福な村役人層であった。前述の通り、万が柏崎に塾を開いてからわずか8ヶ月という短期間であったこと、そして何よりも万を柏崎に招き、経済的に塾を支えていたのが、まさに下層民を搾取していた側の上流特権商人層であった。このため、万の思想は柏崎の中流以下の広大な領民層にまで浸透しておらず、彼らを組織的に糾合して巨大な一揆へと発展させることができなかったのである。万の戦いは大衆を欠いた、あまりにも孤高で純粋すぎる「思想犯の暴発」であった。

凄絶なる結末と浜辺の自刃

陣屋に到着するやいなや、万たちは手に持った松明で陣屋の正門に火を放った。激しく燃え上がる炎の中、「大塩平八郎の門弟なるぞ!」と怒号を上げながら、抜刀した万を先頭に同志たちが陣内へと突入していいった。
当時、大久保村の柏崎陣屋は偶然にも建物の修築工事を行っている最中であった。そのため夜間は陣屋を離れて外泊している役人が多く、宿直の守備兵は手薄であった。不意を突かれた陣屋側はパニックに陥り、万たちの凄まじい斬り込みの前に、瞬く間に死者3人、負傷者7人を出す大混乱となった。万の剣は冴え渡り、役人たちを次々と切り伏せていった。
しかし、手薄とはいえ相手は天下の徳川譜代・桑名藩の公権力である。夜が明けるにつれて事態を把握した陣屋側は、圧倒的な人数と、最新の火縄銃や防具を投入して組織的な反撃を開始した。多勢に無勢、初手の奇襲による優位が失われると、万たちの劣勢は決定的となった。
激戦の最中、水戸浪人の鈴木城之助は陣屋の敷地内で無数の敵に囲まれ、壮絶な斬死を遂げた。また、農村から従軍していた小沢佐右衛門と古田亀一郎の2人は、陣屋側の冷酷な一斉射撃を浴び、鉄砲の弾に撃ち抜かれて相次いで死亡した。さらに、荒浜村から連れてこられ、万の掲げた「奉天命誅国賊」の白旗を必死に持ち続けていた旗持ちの彦三郎も、一味の凶徒とみなされ、弁明の余地なくその場で無残に斬殺された。
もはやこれまでと悟った生田万と、村役人の山岸嘉藤太の2人は、血煙の上がる陣屋を脱出し、すぐ近くにある柏崎の浜辺へと逃れた。背後には波頭が砕ける日本海、前方からは押し寄せる無数の追手。傷つき、疲れ果てた万は、広大な海を見つめながら、自らの「知行合一」の旅路の終わりを覚悟した。2人は生きて捕らえられ、市中引き回しの上で磔にされる武士の恥辱を嫌った。万と山岸は静かに向かい合い、互いの健闘を称え合うと、刀を構えて一斉に突き出し、互いに刺し違えて自刃した。生田万、享年37。その短いが生気に満ちた生涯は、柏崎の荒波が洗う砂浜の上で、鮮血とともに幕を閉じた。
この凄絶な蜂起の中で、尾張浪人の鷲尾甚助ただ一人が包囲網の隙を突いて奇跡的に現場を脱出することに成功した。鷲尾は逃亡の際、自刃した主君とも言うべき生田万の首級を敵の手から守るため、ひそかに抱えて戦場を去った。彼は三島郡与板にある勝願寺へと赴き、住職に懇願して万の首を境内に密かに埋葬した。その後、鷲尾は執念で江戸へと逃亡し、幕府の中枢である勘定所へと自首した。幕府を震撼させた大罪人として過酷な取り調べを受けた鷲尾は、判決を待たずして間もなく牢死を遂げた。
現在、柏崎市立博物館には、この天保の世を震撼させた一夜の激戦の記憶を今に伝える貴重な歴史的遺物が保管されている。それは、陣屋の長屋内に残されていた「刃傷が深く刻まれた柱」である。万たちが放った怒りの剣の跡は、190年以上が経過した現在も、彼らの義憤の激しさを生々しく物語っている。

義人の遺産と後世の顕彰

生田万の乱は、軍事的な観点から見れば、わずか数時間で鎮圧された完全な失敗であった。万が夢見た、大塩の乱に続く全国的な革命の連鎖もこの地で潰えた。しかし、彼の流した血は決して無駄ではなかった。
時の権力に対して命懸けで反旗を翻した浪士たちの突撃は、桑名藩の上層部、そして江戸の幕府首脳陣に、文字通り腰を抜かすほどの強烈な衝撃を与えた。もしこれ以上民衆の困窮を放置すれば、第二、第三の生田万が現れ、徳川の天下そのものが転覆しかねないという危機感が共有されたのである。
乱の終結後、不条理な失政を続け、買占め商人から賄賂を受け取っていた柏崎陣屋の主要な役人たちは、全員が即座に更怠・処罰された。そして、この乱を明確な契機として、それまで信じられないほど消極的であった桑名藩の窮民救済策が一気に軌道に乗ることとなる。藩の備蓄米が次々と放出され、飢えた領民への救済金の給与や炊き出しが大規模に実施された。また、役人と特権商人の癒着が断たれたことで、不当に吊り上げられていた米価は急速に下落していった。万たちの凄絶な死は、皮肉にも彼らが守ろうとした越後柏崎の何千、何万という窮民の命を文字通り救う結果となったのである。
しかし、乱直後の万の扱いはどこまでも「幕府への大逆罪人」であった。そのため、残された人々や地域住民はお上の目を恐れ、万の墓を建てることも、その名を公に口にすることも長い間固く禁じられた。家族への思いやりが人一倍強かった万の遺族もまた、逆賊の家族として過酷な運命を生きることを余儀なくされた。
時代が激変し、徳川の世が崩壊して明治の世が訪れると、生田万の評価は180度覆ることとなる。形式的な秩序に囚われず、天皇への忠義(尊皇思想)と民衆への大義のために命を捧げた万の姿勢は、「幕末の先駆者」「郷土の義人」として熱烈に再評価された。
蜂起から62年という長い歳月が流れた明治32年(1899年)、柏崎小学校の脇にある戊辰招魂所の片隅に、世間をはばかることなく、ようやく生田万の堂々たる墓碑が建立された。さらに現在、柏崎市西本町にある八坂の神社の境内には、彼の至誠に満ちた生涯と、民を思った至高の義挙を永久に称える顕彰碑がそびえ立っている。


≪関連人物≫
  • 生田鎬 ( こう )
    生田万の妻 文化元年(1804)~天保8年(1837)享年34
    館林藩士・香取庄右衛門政徳の娘として生れる。21歳のとき万と結婚。
    生田の自刃後の2日、妻の鎬と二人の子供も捕らえられた。彼女は牢中で二児を手拭いで絞殺し、自分も舌を噛み切って自決、夫に殉じた。
    和歌に秀でており、「烈女不更二夫」の歌は有名である。
  • 鷲尾甚助
    元尾張藩士で、神道無念流皆伝の剣客であった。文化10年(1813)に加茂新富坂で剣道道場を開いていたが、柏崎の神官樋口英哲と親交を結び、同町へ出張教授を行っていた。天保7年(1836)に柏崎に移っていた国学者生田万とも親交を持つようになった。
    6月1日の事件後、6月14日に江戸勘定奉行所に自首し、取調べ中に獄死している。

郡代毛利権太夫の失政

生田万の乱が起きた当時、桑名藩の飛地領であった越後柏崎陣屋(大久保陣屋)の最高責任者(郡代)は毛利権太夫であった。本国である桑名藩は移封に伴う莫大な借財により破綻寸前であり、毛利ら陣屋上層部は領内から集めた年貢米をいかに高く売って換金するかという利権構造の維持に血眼になっていた。
天保の大飢饉により餓死者が続出する地獄絵図の中にありながら、毛利らは備蓄米の放出などの救済策を一切講じなかった。そればかりか、江戸の特権商人・仙波太郎兵衛らの米の買い占めを黙認。商人側から莫大な賄賂を受け取り、物資の領外流出を規制する「津留」の禁をひそかに解除して暴利を貪らせた。この役商結託による米価暴騰を見かねた生田万が差し出した窮民救済の嘆願書も、毛利らは一顧だにせず黙殺し、万を武力蜂起へと突き動かした。
天保8年(1837年)6月1日未明、万らが陣屋を急襲した際、陣屋は修築中であり、毛利をはじめとする主要役人の多くは宿直せず外泊していた。トップの不在により指揮系統は麻痺し、陣屋側は死傷者10人を出す大失態を演じる。
乱は数時間で鎮圧されたが、警備上の不手際と乱の原因となった苛政や贈収賄の事実は大スキャンダルとなり、毛利権太夫は即座に郡代を更迭され、厳しい処分を受けた。新赴任の役人らが暴動の再発を恐れて方針を180度転換し、米の放出や炊き出しを行ったため米価は急速に下落。万は命を落としたが、強欲な毛利の体制を打倒したことで多くの領民が救われる結果となった。














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墓碑 柏崎陣屋跡 八坂神社