生田万(いくたよろず) 柏崎市



生田 万(享和元年(1801年) - 天保8年6月1日(1837年7月3日))
館林藩士の家に生まれ,藩校で主流の崎門の学風になじます,以後独学の道にすすむ。青年期に尊皇思想にめざめ,23歳で平田篤胤の「気吹舎」に入門。
帰郷後,27歳のとき藩政改革の意見書「岩にむす苔」を呈上したが却下され,藩を追放され流浪の日々をおくる。上野国太田に開塾した後,天保7年(1836)柏崎神社の神官樋口英哲の招きで越後柏崎に移って桜園塾を開き,国学を教えた。
翌天保8年2月19日大坂で大塩平八郎の乱がおこり,その情報は全国にひろまった。
同年6月,生田万の乱は,大塩の乱の波紋として起こった。
天文の飢饉時。飢えに苦しむ庶民の中には飢餓者も出た。藩の支庁にあたる陣屋は救済策を講じず、商人は役人と結託し、米の買占めや売り惜しみを行って暴利をむさぼっていた。
凶作に苦しむ町民を救うため,加茂在住の尾張浪人鷲尾甚助など同志6人で桑名藩柏崎陣屋を襲った。6月1日未明「奉天命誅国賊」「集忠臣征暴逆」の二流の旗をかざし,刈羽郡荒浜村から上陸し,柏崎大久保の桑名藩柏崎陣屋に向かった。陣屋に到着すると門に火をかけ大塩平八郎の門弟と名乗って突入したとされている。しかし戦闘は短時間で終了し万らは敗死した。翌日から米価は低落し,人々は餓死をまぬがれた。
現在、柏崎小学校わきの柏崎招魂所に墓があり、西本町の八坂神社境内に顕彰碑が建っている。


墓碑
〔所在地〕新潟県柏崎市学校町1642-1
〔アクセス〕
  • 電車…JR信越本線「柏崎駅」より徒歩で15分
  • 車…北陸自動車道「柏崎IC」より車で15分
〔関連する施設〕
  • 柏崎陣屋跡
    〔所在地〕 柏崎市大久保2丁目5-11
    〔見どころ〕享保元年(1741)白河へ領地を移された松平定賢は、翌年領内221箇村の総支配所として、総坪数5千坪の柏崎陣屋を大久保の高台に移しました。
    陣屋内には、越後領を支配する御役所、天領を預かる預役所、各郡代官の詰める刈羽会所などの諸役所、郡代を筆頭にした役人とその家族の住む長屋などがありました。
    明治に入ると、柏崎県庁がここに置かれました。

  • 八坂神社
    顕彰碑

    〔所在地〕柏崎市西本町3-11-2


〔周辺の観光施設〕

墓碑の現地案内説明文

市指定文化財 記念物・史跡 生田萬の墓碑及び供養費 6基
(昭和48年8月1日指定)

天保8年(1837)6月1日、生田萬は、折からの天保飢饉による窮身の救済を求めて、柏崎陣屋に討ち入り、破れて自刃した。彼の墓は、世間をはばかって永い間建てられず、明治32年戊辰招魂所の片隅に建立された。他にも、生田萬埋骨塔や天保4年(1833)の飢饉による餓死者の供養塔などがあるが、これらの石碑は、江戸時代の火葬場にあったものを、大正時代に生田遺跡保存会が移転・整備したものである。

※天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)とは、江戸時代後期の天保4年(1833年)に始まり、35年から37年にかけて最大規模化した飢饉。天保10年(1839年)まで続いた。天保7年(1836年)までと定義する説もある。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つ。単に天保の飢饉とも。


  • 生田万 墓碑
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  • 柏崎陣屋跡











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山内農場 柏崎日吉店
山内農場 柏崎日吉店
ジャンル:地鶏居酒屋
アクセス:JR越後線東柏崎駅 徒歩18分
住所:〒945-0043 新潟県柏崎市日吉町9-17 1F(地図
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情報掲載日:2015年11月29日

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