生田万(萬) ( いくたよろず ) Ikuta Yorozu 柏崎市



柏崎陣屋

生田 万 享和元年(1801)〔生〕 - 天保8年6月1日(1837年7月3日)〔没〕
上州館林藩城内の大名小路(※地図 ※ストリートビュー)で生まれる。父は130石取の大邑従頭生田信勝で長男として生まれる。幼名は瞭または雄、後に萬と改めた。
藩校「道学館」で朱子学を学び、文武両道に通じ将来を期待されたが、陽明学を奉じ朱子学を攻撃するにおよんで師や友に疎まれ、以後独学の道にすすむ。若いころから性格は、直情的で、正義感の強い性格であった。
青年期に尊皇思想にめざめ、文政6年(1823)、23歳で平田篤胤の「気吹舎」に入門。易と国学を究め、ついに平田塾(気吹舎)の塾頭となり、篤胤の後継者と目された。万の言動に幕政批判などが現れたので、篤胤はこれを危ぶみ帰藩を勧めた。
文政7年(1824)、鎬と結婚する。万は子煩悩で家族思いであったという。
文政11年10月(1828)、 27歳のとき藩政改革の意見書「岩にむす苔」を呈上し、藩政の改革を求めたが却下され、11月藩を追放され流浪の日々をおくる。生田家は弟が家督を継ぐことになった。
天保2年(1831)、父の死により追放処分を解かれて帰藩。 家督を弟に譲って、上野国太田新井村の理解者小暮照房の後援を受けて、太田に私塾「厚載館」を開塾した。
天保7年(1836)館林藩主の松平家が島根の浜田へ国替えとなるが、実家は弟が継いでいたためこれに従わず。
9月、柏崎神社の神官で同門の樋口英哲の招きで越後柏崎に移って「桜園」塾を開き国学を広め、貧民に給与して人望を集めた。門人は町役人・船問屋など上流の子弟であった。

翌天保8年(1837)2月19日、大坂で大塩平八郎の乱がおこり、その情報は全国にひろまった。 同年6月、生田万の乱は、大塩の乱の波紋として起こった。


(乱前の柏崎の状況)

柏崎を中心とする8万3000石の地は、かつて高田藩主であり、その後頸城質地騒動を解決するなど功績を認められ、移封された桑名藩松平越中守のかつての領地であり、そのまま分領地とされた。越後国内の三島郡和島村、島崎村や寺泊村などが領地に含まれていた。大久保村に陣屋を置き、郡代以下60人が在住し、事務を取り扱っていた。
柏崎地方では、天保元年以来凶作続きで米価が高騰し、窮民続出、同2年(1831)は苗代が枯れ腐り、天保4年(1833)同6年(1835)は天候不順で米は稔らず、早くも周辺の細民に飢饉の犠牲者が出ている(1833年=天保4供養碑銘)。この惨状は、天保7年(1836)に一層深刻となり、小児を川に流す村も生じていた。(生田書簡状)。そして平野部の農村では検見の要求、払い米の安値を要求する険悪な動きとなった。
払い米は、陣屋が貢米(年貢米)を換金するため入札によって特権商人(船問屋)に売却する制度である。陣屋は入札に参加する特権商人を制限することによって、その統制と価格の維持を図り、特権商人は独占的販売権を得て巨利を博していた。
また百姓の貢米は定免法であったため、凶作時の「不足分」はこの払い米値にもとづき「拝借金」という名目で元利ともに計算されるため、百姓は払い米の安値を期待するという矛盾に苦しんでいた。
したがって商米の高値を望む陣屋側が飢饉対策に消極的で、芝高輪の仙波太郎兵衛のような買占め商人が現れても、津留を無視し怠ったものである。
津留とは江戸時代、物価調節・自領内産業の保護等、経済的な理由によって商品の移出入統制を行い、自領と他領を連絡する水陸交通の要路には口留番所などを置いて、人や物資の自由な領外移出入を取り締まっていた。
飢饉が天保4年(1833)から天保7年(1836)に及ぶと払い米の入札は次第に騰貴し、10両につき、天保3年(1832)の34俵9分9厘から同4年(1833)15俵6分、さらに7年(1836)には12俵1分9厘と2倍以上に高騰した。
天保8年(1837)、江戸の芝高輪の町人仙波太郎兵衛は、手代5人に10万両を持たせ、寺泊で米を買い占めさせた。寺泊の米商は柏崎代官に贈賄して、「津留」の禁をとかせ、下役の者はひそかに米の売買を手伝っていた。5月下旬、米価は10両に4俵と暴騰した。
天文の飢饉時、飢えに苦しむ庶民の中には飢餓者も出た。陣屋は救済策を講じず、商人は役人と結託し、米の買占めや売り惜しみを行って暴利をむさぼっていた。万は領民の救済策を代官に献じたが顧みられなかった。

(生田万の乱)

天保8年(1837)2月大塩の乱があり、 生田万は4月には大塩の捨て文を読んでいた。役人の怠慢を怒り、4月~5月にかけて「落し文」で警告していた。
ついに5月晦日の30日九ッ(零時)ごろ、柏崎から2里ばかり離れた与板藩荒浜村(現柏崎市荒浜)庄屋新兵衛、組頭庄三郎を襲って金品を強奪し、これを村民に分かち、柏崎に至らばさらに金品を与えると煽動し、「奉天命誅国賊」「集忠臣征暴虐」の2旗を掲げ、金兵衛・彦三郎ら8人の村民と船頭1名を促して柏崎に至った。
6月1日未明、凶作に苦しむ町民を救うため,「大塩平八郎の門弟」と称し、生田は、尾張浪人鷲尾甚助など同志6人で桑名藩柏崎陣屋を襲った。生田ら3人の浪士と他領の村役人層からなっていた。
生田万(館林浪人)のほか、尾張浪人鷲尾甚助(加茂住)、水戸浪人鈴木城之助(三条住)と、村役人層である出雲崎代官所源八新田の山岸嘉藤、新発田藩蒲原郡荻島村名主小沢佐右衛門、同大島村名主次男古田亀一郎らである。柏崎に招かれ塾を開いてから滞留8ヵ月の短期のため、また生田を柏崎に招いたのが上流の特権的な商人であったことから、中流以下の領民を糾合できなかったのである。
陣屋に到着すると門に火をかけ大塩平八郎の門弟と名乗って突入したとされている。
陣屋は修築中であったため外泊者が多く、死者3人、負傷者7人を出したが、同士側も鈴木城之助が陣内で斬死、生田と山岸嘉藤太は浜に逃れて自刃、小沢佐右衛門、古田亀一郎は鉄砲に撃たれ死亡、荒浜村の旗持ち彦三郎も一味と目され斬殺された。鷲尾甚助ただ一人現場を逃れ、生田の首を三島郡与板の勝願寺に葬り、江戸へ逃亡、勘定所へ自首したが程なく牢死した。
陣屋の長屋内に残った刃傷の柱が、柏崎市立博物館に保管されている。

(乱後)

戦闘は短時間で終了し、生田の乱は失敗に終わったが、陣屋役人も更迭され、この乱を契機に米価が下がり、桑名藩の窮民対策も軌道に乗るなど、生田万らの死は無駄ではなかった。

彼の墓は、世間をはばかって永い間建てられず、明治32年(1899)戊辰招魂所の片隅に建立された(柏崎小学校わき)。また西本町の八坂神社境内に顕彰碑が建っている。



≪関連人物≫
  • 生田 ( こう )
    生田万の妻 文化元年(1804)~天保8年(1837)享年34
    館林藩士・香取庄右衛門政徳の娘として生れる。21歳のとき万と結婚。
    生田の自刃後の2日、妻の鎬と二人の子供も捕らえられた。彼女は牢中で二児を手拭いで絞殺し、自分も舌を噛み切って自決、夫に殉じた。
    和歌に秀でており、「烈女不更二夫」の歌は有名である。
  • 鷲尾甚助
    元尾張藩士で、神道無念流皆伝の剣客であった。文化10年(1813)に加茂新富坂で剣道道場を開いていたが、柏崎の神官樋口英哲と親交を結び、同町へ出張教授を行っていた。天保7年(1836)に柏崎に移っていた国学者生田万とも親交を持つようになった。
    6月1日の事件後、6月14日に江戸勘定奉行所に自首し、取調べ中に獄死している。




※天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)とは、江戸時代後期の天保4年(1833)に始まり、35年から37年にかけて最大規模化した飢饉。天保10年(1839)まで続いた。天保7年(1836年)までと定義する説もある。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つ。単に天保の飢饉とも。












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