涌井藤四郎と新潟明和騒動 Toshiro Wakui 新潟市



🔗新潟明和騒動

涌井藤四郎(わくい とうしろう) 1721年?生~旧暦1770年(明和7)8月25日没(新暦1770年10月13日)

明和騒動の中心人物涌井藤四郎は、新潟町片原通五之町西(今の東堀通八)、坂内小路上手角において反物屋を営んでいた。本町通りの特権的な営業権を独占する表店とは一線を画する新興商人であった。涌井家の先祖は越前の人で、佐渡にわたり宝永元年(1704)、新潟町に移って商売を始めた。
騒動は米価高騰や、諸物価高騰に苦しむ町民の米問屋に対する一揆であったが、涌井が中心となって、特権的な豪商が町役人となって町政を取り仕切っている現状を改革し、自分たちで自治することによって庶民の生活の安定をはかろうとした。結果、涌井による自治は2か月で終わってしまうが、長岡藩や幕府に対して衝撃を与えた。
1768年(明和5)11月22日、長岡から召喚状がきて、藩の取り調べが始まった。惣代の涌井藤四郎をはじめ、騒動に加わった町人が長岡にのぼり、取り調べの期間は1ヵ年間にも及んだ。
1770年(明和7)8月20日、騒動の判決が出された。涌井と岩船屋は騒動の責任者として打首獄門が言い渡された。
8月23日、涌井藤四郎・岩船屋佐次兵衛が長岡から護送され、25日町中引き回しの上、鍛冶小路牢屋敷にて斬首、浜往来の獄門(今の題目庵の地)にかけられた。

処刑の場に臨み、涌井は辞世の句を残したが、町民のためにやるべきことを全力で行ったたというある種満足感に似た思いが込められた歌である。
  • 「湯かへしの 杓をかくるや 秋の蝉 憚からず 蓮の葉にのる蛙かな」
8月26日夜、首は何者かにより盗まれて持ち去られたが、その際獄門台を見張る番人たちはその場を離れ見逃したという。

日蓮宗長照寺境内に明和騒動の指導者・涌井藤四郎と須藤佐次兵 衛の墓がある。これは明治21年(1888)に旭座劇場で行われた新潟明和騒動を描いた芝居の収益金で建立されたものである。
また昭和3年(1928)白山公園内に明和義人顕彰碑が建立された。学校町2番町中央高校脇の題目庵 に涌井の慰霊碑がある。


新潟明和騒動

(新潟町の状況)

新潟町はそれまで信濃川と新潟で合流していた阿賀野川が享保16年(1731)、新発田藩開墾事業によって松ヶ崎で直流し、新潟港の水量が激減し、出船入船で賑わった湊は灯の消えたような寂しさとなった。
一方、凶作と一部富商の米の買い占めで米の値段はあがり、庶民の生活は苦しくなるばかりであった。
1767年(明和4)は物価が一層高騰し、米問屋および米の移出を扱う廻船問屋への反感がまった。このような状況の中で、長岡藩から1500両の御用金の賦課が申し渡された。
長岡藩領内は、宝暦・明和期(1751-72)の頃、信濃川はじめ中小河川がたびたびの氾濫し凶作が続いた。また阿賀野川松ヶ崎分水によって新潟湊への水量が減少し、湊を利用する船が減り、仲金(スアイキン)が減少し、藩財政はひっ迫した。
こうした中で明和3年(1766)6月30日には藩主牧野忠寛が亡くなり、幼君牧野忠精が6歳で相続したが、臨時出費に追われ、長岡藩の財政は苦しくなるばかりであった。
1767年(明和4)の御用金1500両割付にあたり、長岡町に比較して新潟町が不景気な状況であるにもかかわらず、割り付け方が客観的でないという不満が生じ、さらに織物に対して、奉行、検断が私的に徴税することもあり(はた会所)町役人不信の空気が生じていた。

(町民一揆)

明和4年(1767)、新潟町に対して1500両の御用金が課せられ、うち半分は本年8月中に、残りは翌年3月までに納入せよとい内容であった。町ではとりあえず、半分を上納したが、翌年3月になると、米価はますます高騰し、生活が苦しくなったので、9月まで月2分の利息つきで延期を願った。
しかし凶作と一部富商の米の買い占めで米の値段はあがり、町民の生活は苦しくなるばかりであった。
納期限も迫った8月、涌井藤四郎は、利息180両を上納したうえで、元金は景気が回復するまで支払いを延期してもらうよう回状にしたため市中に流した。しかしこの回状は町役人に摘発され没収されてしまう。
9月13日涌井ほか各町から30人ほどの町民が本浄寺(西堀一)の寺中、西祐寺へ集まり協議を重ねた。町民たちは口々に生活の窮状や町役人たちの悪政を訴えた。
この場で、御用金対策だけでなく、町民の生活を苦しめる、不合理な町政を行う町役人など町政機構の改変と藩政にかかわる問題が話し合われた。
涌井藤四郎は自分を犠牲にしても、町民の先頭に立って願いの筋を申し述べようと決意し、町民たちは、涌井藤四郎に一任し、この寄合を秘密会にすることを誓い合って別れた。
ところが本町14軒町の八木屋市兵衛が西祐寺の寄合を徒党を組むものとして、検断長野六右衛門・町老斎藤仲右衛門に密告し、騒ぎは大きくなった。
9月20日、町役人は新潟奉行の指図をうけて集会者全員を町会所に呼び出し、首謀者の涌井は鍛冶小路牢獄へ入牢、家族5人は町内預、銅屋嘉兵衛・曽川屋七平は宅番、その他の者は禁足を申し渡した。
この日の真夜中9ツ(12時)過ぎ、信濃川左岸河口近くの漁師・船頭・湊労務者・船大工・魚屋・仲買人らの住む下町・洲崎町一帯5、60人が菅笠をかぶり蓑をつけ、提灯もつけずに「火事だ火事だ」と叫んで騒ぎ立てた。このため町中は一時騒然としたが、夜が明けるとともに鎮まった。
それから6日後の9月26日の真夜中下町の本明寺(古町通り12)で早鐘が鳴り、鬨の声とともに、鳶口・掛矢・六尺棒・斧・鉞・鋸・かなてこなどを手に手に大勢の者が日和山に集まった。その群衆は600人程に膨れあがると、そのなかから6人の黒装束覆面のいでたちをしたものが指揮し集団は鬨の声をあげて古町御菜堀まで押し出した。
驚いた町奉行石垣忠兵衛と佐野与三右衛門は人数を繰り出したが鎮圧できず、ついに鉄砲を放ち町民に怪我人が出ると、一揆はかえって狂暴化し、手もつけられない抵抗ぶりとなり、役人側は後退し、ついに防御線を破られ敗走を始めた。
一揆勢は密告した八木屋市兵衛宅を襲い、続いて検断長野六右衛門・池文右衛門、米の買い占めをした小川屋多右衛門らの家15軒を打毀しを行った。
町奉行は騒動鎮静化のために、入牢中の涌井をはじめ、宅番、禁足を申し付けられたものを許し、また町役人は町民の願いを取り次ぐべきこと、米価はさげて売るべきことを命じた。
9月27日も、ふたたび洲崎町から一揆が始まり上の小揚町にも飛び火し、その人数は昨夜よりもふえ、集団は鬨の声を上げつつ奉行所を目指して柾谷小路まできた。涌井藤四郎が一揆の集団に対して奉行所と武力衝突を控えるよう説得に努めたため、集団は方向を転じて町役人や小役人の家を打毀した。

(新潟町町民による自治)

涌井による自治がはじめられた。涌井の下における町政組織は、寄合いによって町民の意志を吸い上げ、町政を運営した。米値段が下げられ、涌井の裏判を押した米切手で横町蔵の米が安値段で売り出された。酒・豆腐の値、質屋の利息も引き下げられた。町内の治安を維持するため町民の自主的な夜回りや、辻番人による巡回警戒が行われた。
10月3日、長岡藩兵60人が到着したが、荷物を舟から陸揚げする人足すら涌井の承認なくしては一人として応じないほど統制できていた。
17日、今泉岡右衛門と飯田久兵衛が長岡藩から派遣されて、町内代表を西堀本覚寺に招集し、検断の解任と仮検断を任命、願意の提出を申し渡した。
23日には長岡藩から飢米百俵が下賜され、生活困窮者、騒動のさいの負傷者に配分された。奉行との折衝は、涌井が町民から惣連印帳をあずかり、町中惣代としておこなったので、藩側の町支配機構は機能しなかった。今泉岡右衛門はこのような状況を認め長岡へ引き上げざるを得なかった。

(長岡藩による騒動鎮圧)

明和5年(1768)11月21日、仮奉行太田門左衛門が新潟町に派遣される。取り調べは、新潟町と長岡藩とで並行して行われた。
22日、長岡藩から召喚状がきて、藩の取り調べが始まった。藩側では新潟町奉行・町役人・同心・小役人など、町人側では惣代の涌井藤四郎をはじめ5人の騒動の指導者が長岡に召喚され尋問された。
12月に入ると、岩船屋佐次兵衛(須藤規方)以下20数名が長岡へ送られた。また12月14日、涌井藤四郎の留守宅は家中くまなく調べられ、書類は残らず取り上げられ長岡へ送られた。
取り調べは1年間に及んだ。町民自治を目指す一揆の発生は、この時代前代未聞の出来事であった。幕府はじめ周辺の諸藩が注視していたことから、解決に落ち度がないよう時間をかけたものとみられる。また時間をかけることによって、町民の中に残る涌井らに対する思慕から再度騒動となる火種を排除したと思われる。
取り調べの進行につれてつぎつぎ入牢、あるいは町内預け、組預け、慎みなどの刑に処せられた。しかし、暴動を扇動した黒装束6人組の正体は判明できなかった。
明和6年(1769)4月、稲垣茂市・太田門左衛門が新潟町奉行として着任する。9月に入ると長岡藩は750両の未納の御用金を請求してきた。
明和7年(1770)4月29日の原因不明の出火によって市中の約半分を焼く前代未聞の大火となった(小島屋火事)。新潟の町は、前年の3月15日にも大火に見舞われており、2回の業火によって完全に焦土と化した。
8月20日、騒動の判決が出された。涌井と岩船屋は騒動の責任者として打首獄門が言い渡された。
8月23日、涌井藤四郎・岩船屋佐次兵衛が長岡から護送され、25日町中引き回しの上、鍛冶小路の牢屋敷にて斬首、浜往来の獄門(今の題目庵の地)にかけられた。騒動は鎮圧された。
新潟町町民は奉行所をはばかって涌井などを追慕したり、功績を検証する催し、記念碑の建立も行わなかったが、江戸時代を通じて、人々の間で、落語・講談などによって語りつがれた。ようやく涌井たちを新潟町の自治に身をささげた義人として公に語られるようになったのは、明治に入って自由民権運動が高まってからである。
明治17年(1884)、新潟市の古町愛宕神社境内に下総国で一揆を煽動した佐倉惣五郎を祀る千葉県の神社の分霊を迎え口之神社が創建され、義人涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛を祀っている。新潟町では 「下総に宗吾あるを知りて 越後に宗吾あるを知らず」と言われていた。
旧新潟三越デパート脇の日蓮宗長照寺境内に明和騒動の指導者・涌井藤四郎と須藤佐次兵 衛の墓がある。また白山公園内には明和義人顕彰碑が、学校町2番町中央高校脇の題目庵 に涌井の慰霊碑がある。
涌井が処刑された8月25日、新潟郷土研究会が慰霊祭を行っている。


🔶記念碑
  • ①明和義人顕彰之碑
    〔建碑〕昭和3(1928)年
    〔所在地〕新潟市中央区一番堀通町白山公園内
  • ②涌井藤四郎の慰霊碑
    長岡藩の獄門台のあった場所に建立された
    〔所在地〕新潟市中央区学校町の題目寺(旧題目庵)
  • ③古町愛宕神社
    古町愛宕神社の境内社の口之神社は、下総の義人木内惣五郎の霊を分霊し、義人涌井藤四郎・岩船屋佐次兵衛を祀っている
    〔所在地〕新潟市中央区古町通2番町495番地

🔶墓所
  • 長照寺
    明治21年(1888)に旭座劇場で行われた新潟明和騒動を描いた芝居の収益金で建立されたものである。
    〔所在地〕新潟県新潟市中央区西堀通5番町854
    〔問い合わせ先〕025-224-5266

🔶行事

  • 明和義人祭

    江戸時代に新潟町の住民自治を勝ち取った涌井藤四郎、岩船屋左次兵衛を中心とした人々「明和義人」を慰霊・顕彰するお祭り。
    〔所在地〕 新潟市中央区古町通1番町~4番町
    〔日時〕 2022年8月27日(土)
    〔特徴〕 終日、屋台、紙芝居や明和義人行列、古町芸妓の舞、奉納盆踊り(蜑の手振り)などが開催される
    〔WEB〕 公式サイト

🔶関連地

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■明和騒動の略歴















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明和義人祭 2019年8月24日 まで







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