涌井藤四郎と新潟明和騒動 Toshiro Wakui 新潟市



涌井藤四郎(わくい とうしろう) 1721年?生~旧暦1770年(明和7)8月25日没(新暦1770年10月13日)

新潟明和騒動と涌井藤四郎の出自

享保から明和期にかけた18世紀中葉の日本は、各地で商品経済の発達とそれに伴う社会の構造変化が生じていた時代であった。とりわけ日本海側の要衝として栄えた越後国新潟町(現・新潟市中央区)は、信濃川と阿賀野川の河口に位置する港町として多大な富を生み出していたが、同時にその富の偏在と藩権力による搾取、そして自然環境の激変によって深刻な社会矛盾を内包するに至っていた。この激動の時代に、特権的な豪商や藩権力に立ち向かい、町民による一時的な自治政権を樹立した中心人物が涌井藤四郎である。
涌井家の先祖はもともと越前国(現・福井県)の出身であったとされる。のちに佐渡国(現・新潟県佐渡市)へと渡り、宝永元年(1704)に新潟町へと移住して商売を始めた。藤四郎が営んでいたのは、新潟町片原通五之町西(現在の新潟市中央区東堀通八番町、坂内小路上手角)における反物屋(織物商)であった。
当時の新潟町において、商業的な特権を独占していたのは「表店(おもてだな)」と呼ばれる本町通りの特権的な豪商たちであった。彼らは町政を司る「町役人(検断や町老)」の地位を世襲・独占し、藩権力と深く結びつくことで自らの利益を擁護していた。これに対し、藤四郎のように一歩退いた通りで商売を営む新興商人や、下町に暮らす一般町民、港湾労働者たちは、町政から完全に排除されていた。藤四郎はこのような表店中心の特権的な営業権構造とは一線を画する新興商人の一人であり、日頃から特権豪商による町政独占と、それに基づく庶民への不条理な圧政に強い危機感を抱いていた。

騒動前夜における新潟町の危機的状況

新潟明和騒動が勃発した背景には、複合的な要因が絡み合っていた。第一に、新潟港を襲った地理的・環境的な激変が挙げられる。それまで信濃川と合流して新潟の中央に流れ込んでいた阿賀野川が、享保16年(1731)に新発田藩による新田開墾事業の一環として行われた「松ヶ崎掘割」の決壊により、日本海へ直接流入するようになった(松ヶ崎分水)。これにより新潟港への水量が激減し、港内には土砂が堆積して大型船の出入りが極端に困難となった。かつて「出船千軒、入船千軒」と称された賑わいは急速に失われ、灯の消えたような寂しさが町を覆っていた。港の衰退は、船頭や漁師、港湾荷役を担う労働者(小揚など)の生活を直撃した。
第二に、このような不況下にあってもなお、自然災害による凶作と一部の富商による米の買い占めが横行したことである。米価をはじめとする諸物価は高騰の一途をたどり、庶民の生活は困窮を極めていた。特に明和4年(1767)に入ると物価高騰は限界に達し、米問屋や米の回送を扱う廻船問屋に対する民衆の恨みと反感は沸点に達しようとしていた。
第三の要因が、新潟町を領有していた長岡藩の深刻な財政難と、それに伴う過酷な御用金(臨時の徴税)の賦課である。長岡藩領内では、宝暦・明和期(1751〜1772)にかけて信濃川をはじめとする中小河川が度重なる氾濫を引き起こし、深刻な凶作が続いていた。さらに先述の松ヶ崎分水によって新潟港の船数が減ったため、港湾利用料である「仲金(すあいきん)」などの税収が激減し、藩財政は瀕死の状態にあった。追い打ちをかけるように、明和3年(1766)6月30日には藩主・牧野忠寛が死去し、わずか6歳の幼君・牧野忠精が家督を相続した。家督相続に伴う臨時の出費がかさみ、藩財政の窮乏は極限に達していた。
このような状況下で、長岡藩は明和4年(1767)、新潟町に対して「1500両の御用金」の割付を通告した。藩領内のもう一つの中心地である長岡町と比較しても、当時の新潟町は港湾衰退の影響で極めて不景気であった。それにもかかわらず、町政を握る町役人たちによる御用金の割り付け方は客観性を欠き、内実を伴わない不公平なものであった。さらに、新潟町の主要産業の一つであった織物(青苧や綿織物など)に対して、新潟奉行や検断(町役人)が「はた会所(機会所)」を通じて私的な徴税を行っている疑惑も浮上していた。町民たちの間には、藩権力の理不尽さへの怒りと同時に、民を代表すべき町役人に対する決定的な不信感が渦巻いていた。

御用金賦課と本浄寺西祐寺の謀議

藩から課せられた1500両の御用金は、「半分を明和4年8月中、残りの半分を翌年(明和5年)3月までに上納せよ」という苛烈な内容であった。新潟町は困窮しながらも、最初の半分(750両)をなんとか上納した。しかし、残りの猶予期限である明和5年3月を迎えても、米価の高騰と不況は収まらず、町民の生活は破綻寸前であった。町役人側も事態の深刻さから、本金の上納を9月まで延期してもらうよう藩に願い出たが、その代償として「月2分」という高利の利息支払いを課されることとなった。
納期限が迫った明和5年8月、反物屋の涌井藤四郎が動いた。藤四郎は、利息分の180両をひとまず上納した上で、景気が回復するまで元金(残りの750両)の支払いを期限なしで延期してもらうよう求める嘆願書(回状)を作成した。そして、この回状を市中の商人や町民たちの間に回し、賛同の署名(血判)を集めようと試みた。しかし、この動きはすぐに特権的な町役人の知るところとなり、回状は途中で摘発され、没収されてしまった。
合法的な嘆願の道を閉ざされた藤四郎や町民たちは、実力行使をも視野に入れた秘密裏の合議へと移行せざるを得なくなった。同年9月13日、藤四郎をはじめとする各町の有力な町民や庶民、およそ30名が、西堀通一丁目にある日蓮宗の本浄寺、その寺中にある「西祐寺」の境内に集まった。
薄暗い堂内で、集まった町民たちは口々に生活の窮状を訴え、特権に胡坐をかく町役人たちの悪政や私腹を肥やす姿勢を激しく告発した。ここでの議論は、単なる御用金の延納対策にとどまらなかった。民衆の生活を苦しめる不合理な町政そのものを根本から覆し、現在の町役人(検断・町老)を中心とする町政機構そのものを改変すること、すなわち「町政改革」と「藩政への異議申し立て」にまで発展した。
議論が白熱する中、藤四郎は「自分を犠牲にしても、町民の先頭に立って願いの筋を申し述べよう」と固い決意を表明した。その毅然とした態度に打たれた町民たちは、今後の全権を涌井藤四郎に一任することを決定し、この寄合を決して外部に漏らさない「秘密会」とすることを互いに神仏に誓い合って解散した。

密告の露見と下町民衆の蜂起

しかし、この決死の秘密会は長続きしなかった。本町十四軒町の商人であった八木屋市兵衛という男が、西祐寺の寄合を「徒党を組んで不穏な動きを企てている」として、検断の長野六右衛門および町老の斎藤仲右衛門に密告したのである。徒党や強訴を極端に恐れる江戸時代の支配体制において、この密告は重大事件として扱われ、事態は一気に緊迫した。
9月20日、新潟町役人は新潟奉行の指図を受け、西祐寺の集会に参加した者全員を「町会所」へと呼び出した。厳しい取り調べの末、首謀者とみなされた涌井藤四郎は直ちに捕縛され、鍛冶小路の牢獄へと投獄された。さらに藤四郎の家族5人は「町内預(自宅禁錮)」となり、同志であった銅屋嘉兵衛や曽川屋七平は「宅番(監視付きの自宅謹慎)」、その他の参加者にも一様に「禁足(外出禁止)」の厳罰が申し渡された。
指導者を奪われた町民たちの怒りは、この弾圧によって頂点に達した。藤四郎が投獄された当日の真夜中(子の一刻・午前0時過ぎ)、信濃川の左岸河口近くに位置する、漁師、船頭、港湾荷役労働者(小揚)、船大工、魚屋、仲買人など、新潟町の中でも最も困窮していた「下町(しもまち)」および「洲崎町」一帯の住民50〜60人が行動を起こした。彼らは一様に菅笠をかぶり、蓑を身にまとい、夜間にもかかわらず提灯の灯を一切消した状態で、闇に紛れて移動を始めた。彼らは突如として「火事だ、火事だ!」と大声を張り上げて町中を駆け巡り、民衆を煽動した。町内は一時大騒然となったが、この夜の動きは夜明けとともにいったん鎮静化した。
しかし、これは来たるべき大暴動の前触れに過ぎなかった。それから6日後の9月26日、真夜中の下町にある本明寺(古町通り十二丁目)で、突如として激しい「早鐘(火災や変事を知らせる鐘)」が乱打された。これを合図に、闇夜に地鳴りのような鬨(とき)の声が響き渡った。
下町の民衆や港湾労働者たちは、手にした鳶口、掛矢(大型の木槌)、六尺棒、斧、鉞(まさかり)、鋸、かなてこなど、およそ武器になり得る道具を携えて日和山(ひよりやま)へと続々と集結した。集まった群衆の数は、またたく間に600人を超える規模へと膨れ上がった。その混沌とした群衆の中から、黒装束に身を包み、顔を覆面で隠した「6人の謎の指揮官」が現れた。彼らが一斉に手を挙げて指図をすると、600人の怒れる一揆勢は鬨の声を上げながら、古町御菜堀(おさいぼり)へと怒濤の如く押し出した。

打毀しの嵐と奉行所の屈服

事態の急転に驚愕した新潟町奉行の石垣忠兵衛と佐野与三右衛門は、直ちに奉行所の同心や足軽を繰り出し、武力による鎮圧を試みた。しかし、生活の困窮から後がない一揆勢の勢いは奉行所の想像を遥かに超えていた。衝突の最中、奉行所側は民衆を威嚇し、あるいは制圧するために鉄砲を発射した。この発砲によって町民側に怪我人が出ると、一揆勢の怒りは狂暴化へと反転した。民衆は恐れるどころか逆に激昂し、手に持った道具を振り回して死に物狂いで突撃した。
奉行所の役人側は、その凄まじい抵抗ぶりに圧倒され、防戦一方となった。ついに防衛線を完全に突破された役人たちは、武器を捨てて敗走を始めた。警察権力が完全に崩壊した新潟町は、一揆勢の支配下に置かれることとなった。
勢いに乗った一揆勢は、まず西祐寺の秘密会を密告した張本人である八木屋市兵衛の邸宅へと押し寄せた。門扉や壁を破壊し、家財道具をことごとく叩き壊す「打毀し(うちこわし)」を敢行した。続いて、町民から悪政の元凶と憎まれていた検断の長野六右衛門や池文右衛門、さらには凶作に乗じて米の買い占めを行い、暴利を貪っていた豪商・小川屋多右衛門らの邸宅へと次々に乱入した。打毀しの対象となった特権豪商や町役人の家は、一晩のうちに15軒に及んだ。
翌9月27日、暴動は収まるどころかさらに拡大した。再び洲崎町から始まった一揆は、上の小揚町(港湾労働者の町)へと瞬く間に飛び火し、集まった人数は前夜を遥かに凌駕していた。群衆は再び激しい鬨の声を上げながら、町の最高権力機関である新潟奉行所を目指して柾谷小路(まさやこうじ)まで押し寄せた。奉行所が焼き打ちに遭うのは時間の問題であった。
ここで、前夜の打毀しの最中に牢獄から救出されるか、あるいは奉行所の懐柔策によって釈放されていた涌井藤四郎が登場する。藤四郎は、これ以上の暴動が激化し、奉行所との本格的な全面武力衝突に発展すれば、長岡藩本隊による大規模な軍事鎮圧を招き、町民に無数の死傷者が出ることを予見していた。
藤四郎は柾谷小路に集結した数千人の怒れる一揆勢の前に立ちはだかり、命がけの説得を試みた。「我らの目的はあくまで理不尽な町政の改革と生活の安定であり、藩権力との無謀な戦争ではない」と、理路整然と、かつ情熱的に群衆に語りかけた。藤四郎の命を賭した説得に、興奮していた群衆も次第に冷静さを取り戻した。一揆勢は奉行所への直接攻撃を思いとどまり、方向を転じて、残る小役人や悪質な町役人の家々の打毀しを行うにとどめた。
町奉行の石垣と佐野は、もはや自力での治安維持が不可能であることを悟り、一揆勢の要求を全面的に受け入れる形で事態の収拾を図らざるを得なくなった。奉行所は、捕らえていた涌井藤四郎をはじめ、宅番や禁足を申し付けられていたすべての同志たちの罪を免じて完全に釈放した。さらに、「今後は町役人が町民の正当な願いを速やかに取り次ぐこと」、そして最大の問題であった「米価を引き下げて一般町民に売り渡すこと」を公式に命じた。これは、民衆の力が国家権力を屈服させた歴史的瞬間であった。

「町民自治」の樹立と民政改革

9月27日の夜以降、新潟町はそれまでの長岡藩の支配支配機構および特権的町役人による統治から切り離され、涌井藤四郎を中心とする「町民による自主的な自治政権」へと移行した。この自治は、後世に「新潟明和騒動の自治」として特筆される試みであった。
藤四郎が樹立した新しい町政組織は、それまでの独裁的・密室的な町政とは根本的に異なっていた。藤四郎は各町から広く代表者を集めた「寄合い」を頻繁に開催し、一般町民の意志や要望を直接吸い上げて町政の運営に反映させる、極めて民主的なシステムを導入した。
自治政府が最初に着手したのは、破綻していた民衆の生活救済であった。最も重要な課題であった米価の大幅な引き下げが即座に断行された。藤四郎は、特権豪商たちの「横町蔵」に眠っていた買い占め米を強制的に発掘し、自身の「裏判(署名・捺印)」を押した「米切手(米の引換券)」を発行した。町民はこの米切手を用いることで、市価よりも遥かに安い値段で命の糧である米を購入することが可能となった。
さらに改革のメスは、日常生活の隅々にまで及んだ。庶民の嗜好品であり生活必需品でもあった酒や豆腐の販売価格を強制的に引き下げさせ、困窮した町民が生活用品を質入れする際の「質屋の利息」も大幅に引き下げさせた。これらの政策により、それまで特権階級に吸い上げられていた富が民衆へと還元され、町民の暮らしは一劇的に安定した。
また、警察権力が空白となった町内の治安維持のため、藤四郎は独自の治安組織を編成した。町民たち自身による自主的な「夜回り(夜警)」を組織し、主要な辻(交差点)には「辻番人」を配置して24時間体制の巡回警戒を行わせた。驚くべきことに、この自治期間中の新潟町は、従前よりも遥かに犯罪や掠奪が少なく、極めて良好な治安が保たれていたと記録されている。
10月3日、長岡藩本国から事態を重く見た藩兵60人が、治安攪乱の平定を名目に新潟町へと到着した。しかし、港に到着した藩兵たちは、自分たちの荷物を舟から陸揚げする「人足(労働者)」を一人として確保することができなかった。当時の新潟の港湾労働者たちは、藤四郎の承認(差配)がなければ、藩の命令であっても絶対に動かないほど見事な連帯と統制を保っていたのである。長岡藩の軍事力は、民衆の完璧な非暴力のボイコットによって、完全に機能不全に陥った。
10月17日、事態を打開できない長岡藩は、重臣の今泉岡右衛門と飯田久兵衛を臨時の使者として新潟に派遣した。彼らは西堀の本覚寺に町内の代表者を招集し、町民から最も憎まれていた旧来の検断たちの解任を公式に発表した。そして臨時の「仮検断」を任命するとともに、町民たちの具体的な「願意(要求書)」を正式に提出するよう申し渡した。
10月23日には、藩側から町民への融和策として「飢米(救済米)百俵」が下賜された。藤四郎はこの米を、真に生活に困窮している家庭や、先の騒動の際に奉行所の銃撃などで負傷した者たちへ、一合の狂いもなく公平に配分した。
奉行所や藩との一切の折衝において、藤四郎は町民全員の署名が集められた「惣連印帳」を預かり、「町中惣代(全町民の最高代表者)」として堂々と渡り合った。藩側がどれほど従来の支配機構を復活させようとしても、民衆の強固な結束の前に藩の支配機構は全く機能しなかった。使者として赴いた今泉岡右衛門は、藤四郎が統率する新潟町の圧倒的な自治の現実を認めざるを得ず、何ら実効支配を回復できないまま、失意のうちに長岡へと引き上げていった。

長岡藩の逆襲と一年間に及ぶ取り調べ

しかし、一見強固に見えた町民による自治は、長くは続かなかった。巨大な幕藩体制という国家権力に対し、一つの港町だけの連帯で立ち向かうには限界があった。長岡藩側は、武力による即時鎮圧がさらなる大暴動を招くことを恐れ、綿密な計画に基づいた「お家芸」とも言える官僚的・時間的な切り崩し工作を開始した。
明和5年(1768)11月21日、長岡藩は「仮奉行」として狡猾な官僚である太田門左衛門を新潟町へと派遣した。太田の着任を機に、藩側による本格的な反撃と、騒動の取り調べが開始された。取り調べは、民衆を刺激しないよう、新潟町奉行所と長岡藩の本国との双方で並行して、極めて慎重に行われた。
太田が着任した翌日の11月22日、長岡藩から涌井藤四郎をはじめとする町民代表に対し、公式な「召喚状」が届いた。藩本国による直接の取り調べの始まりであった。藩側からは失政をとがめられた新潟町奉行、町役人、同心、小役人らが長岡へ上る一方、町人側からは「町中惣代」である涌井藤四郎をはじめとする5人の騒動指導者たちが長岡城下へと召喚され、厳しい尋問に晒されることとなった。
12月に入ると、藩側はさらに弾圧の網を広げた。藤四郎の右腕として自治政権を支えていた岩船屋佐次兵衛(本名・須藤規方)をはじめ、騒動に関与したとみられる有力町人20数名が次々と長岡へと護送された。さらに12月14日、新潟に残された涌井藤四郎の留守宅に対して、藩の役人による徹底的な家宅捜索が行われた。家中の壁や床下がくまなく調べられ、藤四郎が保管していた自治政権の記録、帳簿、町民の惣連印帳などの書類は残らず押収され、証拠品として長岡へ送られた。これにより、町民側の組織的な防衛線は書類の面からも解体されていった。
長岡藩による取り調べの期間は、およそ「1ヵ年間」という異例の長期に及んだ。これには明確な政治的意図があった。民衆が主体となって特権階級を排除し、独自の町政組織を立ち上げて治安まで維持したという「町民自治」の発生は、封建社会の根幹を揺るがす、この時代において前代未聞の出来事であった。徳川幕府をはじめ、周辺の諸藩(新発田藩や村上藩など)もこの一揆の顛末を極めて重大な関心をもって注視しており、長岡藩としては一歩でも解決に落ち度があれば、藩自体の改易(取り潰し)に直面しかねない状況であった。そのため、裁判の手続きに瑕疵がないよう、膨大な時間をかけて審理を行う必要があった。
同時に、時間を意図的に引き延ばすことによって、新潟町民の間に残っていた「涌井藤四郎らに対する熱狂的な思慕や連帯感」を冷却化させる狙いもあった。人間は時間が経てば生活の現実に戻り、熱狂は薄れる。藩側は、藤四郎たちをすぐに処刑して「殉教者」に仕立て上げることで再度の大暴動(火種)が起きるのを防ぐため、あえて1年をかけて民衆の結合力を弱体化させ、町の熱気が完全に冷めるのを待ったのである。
取り調べが進行するにつれ、召喚された町民たちは罪状に応じて次々と入牢させられ、あるいは「町内預」「組預」「慎み(謹慎)」などの刑に処せられていった。しかし、藩の苛烈な拷問を伴う取り調べを以てしても、明和5年9月26日の夜に日和山で600人の群衆を鮮やかに指揮した「黒装束覆面の6人組」の正体だけは、ついに最後まで判明させることができなかった。町民たちは、この秘密だけは固く守り通したのである。
藤四郎らが長岡の牢獄で長い審問に耐えていた明和6年(1769)4月、稲垣茂市と太田門左衛門の二人が正式に新潟町奉行として着任し、藩の支配体制が徐々に再構築されていった。町の不満が沈静化したと判断した長岡藩は、同年9月、騒動の引き金となった「未納分の御用金750両」の支払いを、何事もなかったかのように再び新潟町に対して請求してきた。民衆が命を賭けて戦った要求は、権力の時間攻めの前に、じわじわと圧殺されていった。

二度の大火と非情の判決

新潟町民が藤四郎らの安否を気遣い、重苦しい空気に包まれていた明和7年(1770)4月29日、新潟町をさらなる悲劇が襲った。市中から原因不明の出火が発生し、折からの強風にあおられて、またたく間に市街地の約半分を焼き尽くす前代未聞の大火となったのである。この火災は、出火元の名から「小島屋火事」と呼ばれる。
実は新潟の町は、その前年である明和6年3月15日にも大規模な大火に見舞われたばかりであった。わずか2年の間に二度までも襲った業火により、不況に苦しんでいた新潟の町は完全に焦土と化し、物心ともに壊滅的な打撃を受けた。町民たちは日々の雨露をしのぐことすらままならず、もはや遠い長岡の地で裁判を受けている藤四郎たちのために組織的な救出運動や抗議の声を上げる余力は、完全に奪い去られていた。
町民の抵抗力が完全に喪失したことを見定めた長岡藩は、ついに非情な決断を下した。騒動の発生から約2年が経過した明和7年(1770)8月20日、長岡城下において、新潟明和騒動に関する最終的な判決が言い渡された。
判決は極刑であった。町民自治の最高指導者であった涌井藤四郎、および彼の終始一貫した同志であった岩船屋佐次兵衛の二人は、未曾有の反乱を引き起こし、封建秩序を著しく乱した「騒動の首謀者・責任者」として、最も重い刑罰である打首獄門(斬首の上、首を晒し台に載せて公開する刑)を言い渡された。町民の生活を守るために立ち上がった義人たちに対し、権力側が下した答答は、一切の容赦のない凄惨な死刑宣告であった。

鍛冶小路の処刑と消えた首級

判決が出された3日後の8月23日、涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛の二人は、厳重な警備のもとで長岡の牢獄から引き出され、罪人籠に乗せられて住み慣れた新潟町へと護送された。
明和7年8月25日、新潟町において刑が執行された。二人は生前、自分たちが守ろうとした新潟の町民たちに対する見せしめとして、凄惨な「町中引き回し」に処された。罪状を書いた高札を先頭に、縛り付けられた姿で町中の通りを練り歩かされたのである。焦土となった町の中で、民衆は言葉を失い、涙を流しながらその姿を見守るしかなかった。
引き回しの後、二人は鍛冶小路牢屋敷(現・新潟市中央区)へと連行され、そこで民衆の目の前で斬首された。しかし、刑はそれだけでは終わらなかった。切り落とされた二人の首級は、ただちに「浜往来」と呼ばれる寂しい街道沿いの獄門台(現在の学校町通二番町、中央高校脇にある「題目庵」の地)へと運ばれ、衆目に晒される「獄門」にかけられた。長岡藩は、逆らう者への恐怖を民衆の植え付けることで、騒動を完全に鎮圧したことを誇示したのである。
このあまりにも過酷な処刑の場に臨み、死を目前にした涌井藤四郎は、泰然自若として一枚の紙に「辞世の句」を残した。その歌は以下の通りである。
  • 「湯かへしの 杓をかくるや 秋の蝉 憚からず 蓮の葉にのる蛙かな」
この辞世の句には、死への恐怖や権力への怨嗟の言葉は一切ない。そこにあるのは、自らの命を賭して町民のためにやるべきことを全力で成し遂げたという、ある種の清々しい満足感と、至高の境地に達した達観の思いである。自分自身を、周囲を憚ることなく極楽浄土の象徴である蓮の葉の上に堂々と乗る「蛙」に見立て、現世での闘争を終えて旅立つ義人の誇りが込められていた。
しかし、事件は処刑の翌夜に奇妙な展開を見せる。刑が執行された翌日の8月26日の夜、闇に紛れて何者かが獄門台に忍び寄り、厳重に監視されていたはずの藤四郎と佐次兵衛の首級を盗み出し、どこかへと持ち去ってしまったのである。
江戸時代において、獄門にかけられた罪人の首を盗むことは同罪の重罪であり、見張り番人は命をかけてそれを阻止しなければならなかった。しかし、この夜、獄門台を見張っていた奉行所の番人たちは、首級を盗み出そうとする影に気づきながらも、あえて咎めることなく、その場を離れて見逃したと伝えられている。番人たちもまた、一人の人間として、町の利権や藩の都合のために犠牲となった藤四郎たちの高潔な人格と義挙に深く感銘を受けており、せめて遺体だけでも静かに葬ってやりたいという密かな同情の念を抱いていたのである。盗まれた首級がその後、誰の手によってどこに葬られたのかは、歴史の闇の中に隠されている。

江戸期における地下の追慕と近代自由民権運動

涌井藤四郎らの凄惨な処刑をもって、新潟明和騒動は完全に鎮圧された。その後、新潟町は再び長岡藩奉行所による厳しい統制下に置かれることとなる。奉行所の威光を憚った新潟町民たちは、公の場で藤四郎たちの名前を口にすることすら禁じられ、彼らを追慕する催しや、功績を顕彰する記念碑の建立などは一切行うことができなかった。
しかし、民衆は彼らの恩義を決して忘れなかった。表向きは静まり返った新潟町であったが、江戸時代を通じて、藤四郎たちの義挙は「落語」や「講談」、あるいは夜語りの「実録本」といった形で、人々の間で密かに、かつ綿密に語り継がれていった。権力の目を盗みながら、民衆は「新潟の町を救ってくれた真の英雄」として、彼らの記憶を地下水脈のように守り続けたのである。
光の当たらない地下の記憶が、ようやく公の場へと浮上したのは、時代が明治へと移り変わり、日本全国で「自由民権運動」が激しく高まってからのことであった。藩閥政府による専制に抗い、民衆の権利や自治を求める運動家たちにとって、120年も前に新潟の地で「民衆による自治」を実践し、散っていった涌井藤四郎たちの存在は、まさに近代民権思想の先駆者(義人)そのものであった。
明治17年(1884)、新潟市の古町愛宕神社の境内に、一つの神社が創建された。それは、江戸時代に下総国(現・千葉県)で過酷な重税に苦しむ領民のために将軍へ直訴し、処刑された高名な義人・佐倉惣五郎(宗吾)を祀る千葉県の宗吾霊堂から分霊を迎えた「口之神社(くちのじんじゃ)」であった。新潟の民衆は、この口之神社に佐倉惣五郎とともに、越後の義人である涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛の霊を合祀した。
当時、新潟町では「下総に宗吾あるを知りて、越後に宗吾あるを知らず(全国の人々は千葉の佐倉惣五郎の義挙を知っているが、我が越後にも同じように命を捧げた偉大な義人・涌井藤四郎がいることを知らないのは口惜しい)」と言われていた。民権運動の昂揚とともに、藤四郎たちはついに「お上の罪人」から「郷土の義人」へと、歴史的な名誉回復を遂げたのである。

現代へ受け継がれる「明和義人」の遺徳

明治以降、涌井藤四郎たちの顕彰運動はさらに本格化した。明治21年(1888)、新潟の主要な劇場であった「旭座」において、新潟明和騒動の顛末を忠実に描いた芝居(歌舞伎狂言)が上演された。この芝居は郷土の英雄の物語として町民たちの爆発的な感動を呼び、連日満員の大盛況となった。
この旭座での芝居によって得られた莫大な収益金を基金として、旧新潟三越デパートの脇(現・新潟市中央区古町通)に位置する日蓮宗の長照寺の境内に、明和騒動の指導者・涌井藤四郎と須藤佐次兵衛(岩船屋)の立派な墓碑が正式に建立された。現在もこの境内には、二人の魂が並んで眠っている。
さらに、昭和の時代に入ると、彼らの功績は公的な歴史遺産として完全に定着した。昭和3年(1928)、新潟市のシンボルである白山公園の敷地内に、彼らの義挙を永久に伝えるための巨大な「明和義人顕彰碑」が建立された。また、藤四郎が処刑され、その首級が獄門にかけられたまさにその場所(現在の学校町通二番町、新潟中央高校の脇)にある題目庵の境内には、藤四郎の壮絶な最期を慰めるための「涌井藤四郎慰霊碑」がひっそりと、しかし厳かに佇んでいる。
現在においても、涌井藤四郎が処刑された命日にあたる8月25日には、地元の「新潟郷土研究会」や市民たちの手によって、題目庵や長照寺において盛大な「慰霊祭」が執り行われ続けている。
涌井藤四郎が目指した「特権を排した公平な社会」と「民衆の手による自主的な自治」の精神は、明和の時代から250年以上の時を超え、今なお新潟の地とそこに暮らす人々の誇りとして、深く、脈々と受け継がれている。




没後 年が経過しました。



🔶記念碑
  • ①明和義人顕彰之碑
    新潟明和騒動で民衆のために命を捧げた涌井藤四郎らの功績を永久に伝えるため、昭和3(1928)年に白山公園内に建立された。江戸時代は奉行所を憚り公に語れなかった義人たちの歴史が、明治の自由民権運動を経て公認され、郷土の誇りとして完全に定着したことを象徴する記念碑である

  • ②涌井藤四郎の慰霊碑
    明和7(1770)年8月25日に涌井藤四郎が斬首され、その首級が長岡藩によって晒された浜往来の獄門台跡(現・学校町通2番町の中央高校脇、題目庵の地)に建立された。凄惨な刑場でありながら、翌夜に番人が見逃す中で首級が持ち去られた歴史的遺恨の地であり、民衆のために散った義人を深く慰める象徴となっている。

  • ③古町愛宕神社
    古町愛宕神社の境内社である口之神社は、明治17(1884)年、下総国で重税に苦しむ領民のため直訴し処刑された義人・木内惣五郎(佐倉惣五郎)の霊を千葉県から分霊して創建された。同時に新潟町の自治に命を捧げた涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛を合祀しており、近代の自由民権運動の昂揚とともに義人たちが復権した象徴となっている。

🔶墓所
  • 長照寺
    長照寺の境内には、明和騒動の指導者である涌井藤四郎と須藤(岩船屋)佐次兵衛の墓碑がある。これは明治21(1888)年に旭座劇場で上演され、町民に爆発的な感動を呼んだ「新潟明和騒動」の芝居の収益金で建立された。江戸時代は罪人として公に弔えなかった二人が、郷土の英雄として完全に復権した証である。

🔶行事

  • 明和義人祭

    明和義人祭は、江戸時代の新潟町で長岡藩の重税に抵抗し、命がけで2か月間の民衆自治を成し遂げた涌井藤四郎や岩船屋佐次兵衛(左次兵衛)らの遺徳を偲ぶお祭りである。不条理な格差に屈せず、対話による政治改革を模索した彼らの「正義の心」と偉業を後世に伝えるため、毎年8月下旬に古町通を舞台として開催されている。
    最大の見どころは、一般公募で選ばれた義人役や古町芸妓、お稚児さんらが江戸時代の華やかな衣装を身にまとって街を練り歩く「明和義人行列」である。また、無病息災を願う日本最大級の菓子まき「明和神菓まき」や、200年の歴史を誇る古町芸妓の舞、万代太鼓の奉納のほか、市民が100台の樽を打ち鳴らす「百樽きぬた」の演奏など、郷土の歴史と伝統芸能が融合した熱気あふれる催しが繰り広げられる
    • 〔所在地〕 新潟市中央区古町通1番町~4番町
    • 〔日時〕 2022年8月27日(土)
    • 〔特徴〕 終日、屋台、紙芝居や明和義人行列、古町芸妓の舞、奉納盆踊り(蜑の手振り)などが開催される
    • 〔WEB〕 公式サイト

🔶関連地

🔶新潟県内のその他の義民

■明和騒動の略歴















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明和義人祭 2019年8月24日 まで 日







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新潟明和騒動文献資料集成

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新潟明和騒動文献資料集成新版

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