佐渡一国一揆 佐渡市
佐渡金山 佐渡奉行所 大山師 味方但馬 水替無宿人 佐渡一国一揆 🔗キリシタン塚 佐渡の農民騒動は大きく分けて4回あった。 ❶(慶長一揆)慶長8年(1603)の越訴は佐渡奉行所が設置される前4人の代官のいた頃であった。敦賀の廻船商人で豪商田中正長と上杉家の代官であった河村彦左衛門に、江戸から旗本吉田佐太郎と、中川主税が代官として派遣されていた。上杉景勝の指示を受け河村彦左衛門が実施した検地は慶長2年(1597)から始められて同5年(1600)に完了した。河村検知は中使検地と言われ隣村の中使(名主)同志が田畑屋敷の広少を調べて検知しあうものであった。本土で行われていた豊臣秀吉による太閤検地とは相当性格が異なるものであった。この検知に基づき代官たちは年貢の五割増という急激な増税策を打ち出した。 新穂村半次郎・北方村豊四郎と羽茂村の勘兵衛が一国を代表して江戸幕府に直訴した。幕府は、中川市左衛門、鳥井九郎左衛門、飯倉隼人の三人を現地に派遣して実情を調べさせたところ、直訴の内容が正しいことが分って、この年貢増税を主導した奉行吉田佐太郎は切腹、中川主税は免職、河村彦左衛門と田中清六は改易となった。 ❷(寛延一揆)奉行鈴木九十郎の時、奉行所は金銀山の衰えを増年貢で補おうと懸命になった。寛延元年(1748)5000石余の増年貢、翌2年(1749)3000石余の増年貢と増徴はつづいた。たまりかねた羽田・大野・小木・夷の各組数百人の百姓や名主たちは減免を訴えて、国仲へ出張した地方役人を取り囲んで放さず、相川から同心が繰り出してやっと役人が救出されるという騒ぎが起こった。奉行所は名主を呼び出して説得するが名主はこれに従わず、20余人を投獄し、増年貢に同意しなければ牢から出さないといって、名主らを脅し屈服させた。 帰村した名主たちは、幕府の不当を訴えた。寛延3年(1750)10月7日、山田村の太郎右衛門が作成した元禄以来の奉行所の悪政28ヵ条を書いた訴状に、260か村全部が調印し、椎泊村の弥次右衛門と吉岡村の七郎左衛門、新保村の作右衛門、下村の庄右衛門、和泉村の久兵衛の5人が一国惣代として江戸で勘定奉行に提出する。 その結果、寛延4年(1751)7月、佐渡奉行所で判決が言い渡された。役人側は鈴木奉行は免職、斬罪1人、死罪2人、遠島7人その他合わせて46人、農民側は太郎右衛門と椎泊村の弥次右衛門が死罪、遠島7人その他合わせて13人。 刑の執行は見せしめのため中山街道の刑場で行われ、切り落とされた首は獄門台にさらされた。 訴状28か条は認められて改善された。従来村方に課せられていた役人の転勤費用・出張費・下人給金・薪の無料提供が廃止となったが、年貢については一石も減免にならなかった。結局役人も粛清されたが農民たちの暮らしも楽にならなかった。 ❸(明和一揆)宝暦5年(1755)の凶作のときは飢渇人11,900人、餓死者2,800人を生んだ。ついで明和4年(1767)もイナゴの大量発生により凶作となった。佐渡奉行所は、農村支配のため代官所を置いて年貢徴集の事務などをおこなわせていた。代官の中には、年貢の減免をいっさい認めず、見栄えのよくない俵や品質の良くない米を農民に突き返したり、俵を開封して米を地面に撒き散らすなどして、厳しく取り立てる役人もいた。このような厳しい代官所のやり方は、百姓らの大きな不信を招いた。 遍照坊智専ほか6人が凶作に苦しむ農民のため立毛検見を奉行所に求めて立ち上がった。 加茂大明神に74ヵ村百姓が蓑笠・竹槍に身を固めて会合し、年貢減免・代官制廃止、救米払い出しを要求し、要求が入れられない限り、いっさい呼び出しに応じないと決議した。しかし、一揆決行前に、首謀者全員が役人に捕縛されてしまう。 奉行所は事件より3年後の明和7年(1770)3月21日に長谷寺の遍照坊智専を最大の扇動者として処断した。智専は釈尊の救済捨身を守り、罪を1人で引き受け、斬罪に処せられるとき般若心経を唱えて泰然として白刃を受けたという。他の6人は敲き放しとし釈放される。 佐渡ヶ島では遍照坊智専が処刑された翌年、「憲盛法印」の法号を贈り、各地に「憲盛法印供養塔」が建てられた。 憲盛法印大供養塔
❹(佐渡一国騒動・天保一揆)天保9年(1838)の強訴はうち続く不作にもよるが、それよりも奉行所の役人の悪政に対する怒りから起きたものである。奉行鳥居八右衛門の時で、中川善兵衛を一国惣代とする巡検使への直訴によって始まり、ついには打ち壊しにまで発展し、「天保佐渡一国騒動」と呼ばれる佐渡最大の農民一揆となった。 天保9年(1838)、江戸幕府に将軍の代替りがあり、恒例の巡検使が佐渡へも来ることになった。首謀者は中川善兵衛であった。連年不作の窮状や年貢の重いこと、広恵倉(こうえいそう)の矛盾などをしたためた18ヵ条の訴状を、4月に巡見使の渡海を待って、一国惣代として善兵衛が巡検使にその訴状を差し巡見使は一応受理した。 善兵衛は行動を決行するにあたり肉親に累の及ぶことを恐れ妻と子(倅勝太郎・娘千代)に去り状(離縁状)を渡したという。驚いた奉行の鳥居は、善兵衛を狂人だといって捕らえ牢屋へ入れた。 これに対して、急を聞いて1万人を超える小前百姓(一説では5万人とも)が奉行所に殺到し、善兵衛の釈放を要求した。これに対して奉行所は騒動を懐柔しようとして善兵衛を釈放した。 百姓たちは群衆化・暴動化して、密告した八幡村名主の家をおそい、翌日は善兵衛の制止もきかず、小木町の番所や、奉行所に内通した小木町の問屋10数軒をつぎつぎと打ち壊し、以後佐渡南部を中心として各所に米穀商のうち壊しが続発した。 小木町の暴徒による惨状は、シケのため入港していた諸国の船によって全国におおげさに広まった。前年大坂で大塩平八郎の事変があったばかりなので驚いた幕府は、在府奉行篠山十兵衛を評定所役人一行に同行させ、高田藩兵300名を入国させて鎮圧に乗り出し、善兵衛らを再逮捕した。 取り調べは相川で始められたが、進むにつれて奉行所自体にもかかわる重大事件であることが判明し、幕府の評定所に移された。天保10年(1839)3月7日、役人側田中従太郎他8人が江戸へ護送され、篠山奉行邸に預けられた。農民側は6人、暴徒12人が伝馬町の牢に入れられた。4月24日、善兵衛らは1日の調べも受けないまま獄中で病死した(口を封じるため毒を盛られたという説がある)。役人側の方は病死した1人に罪を負わせた。この時の判決は農民に重く役人に軽い一方的なものであった。この天保9年の「佐渡一国騒動」は全島250余ヵ村のうちわずか3村が不参加という大規模なものであった。 善兵衛らの要求は一揆後佐渡奉行に就任した川路聖謨の政治に活かされることになり,善兵衛は義民として顕彰されていった。 中川善兵衛彰徳碑
🔶佐渡一国義民殿
広々と広がる佐渡の穀倉地帯を見守るように、農民の父たちは眠っている。
≪現地案内看板≫
佐渡一国義民殿 祀られている義民 慶長の義民(慶長八年・一六〇三) 新穂村 半次郎 北方村 豊四郎 羽茂村 勘兵衛 (白井氏) 寛延の義民(寛延二年・一七四九) 辰巳村 太郎右衛門 (本間氏) 椎泊村 彌次右衛門 (緒方氏) 同 七左衛門 (永井氏) 川茂村 彌曽右衛門 (風間氏) 吉岡村 七郎左衛門 (永井氏) 新穂村 作右衛門 (本間氏) 下村 庄右衛門 (服部氏) 和泉村 久兵衛 (久保氏) 明和の義民(明和四年・一七六七) 長谷村 智専 (遍照坊) 畑野村 文左衛門 (熊谷氏) 同 藤右衛門 (本間氏) 同 六郎右衛門 小倉村 重左衛門 (中村氏) 同 重次郎 (中村氏) 後山村 助左衛門 (羽二生氏) 丹代村 五郎右衛門 (後藤氏) 瓜生屋村 仲右衛門 (本間氏) 天保の義民(天保九年・一八三八) 上山田村 善兵衛 (中川氏) 同 助左衛門 (大倉氏) 村山村 豊後 (富岡氏) 畑野村 四郎左衛門 (後藤氏) 同 季左衛門 (中川氏) 加茂村 半左衛門 (後藤氏) 佐渡一国義民殿は島内外の多くの方々からの浄財により再建が叶ったものであります。心から深く感謝申し上げます。 平成二十五年十二月十一日 佐渡一国義民殿再建実行委員会 🔶佐渡奉行所
🔶牢屋および刑場跡
🔶旧中山街道 旧中山道は、小木と相川を結ぶ小木街道のうち、沢根から相川を結ぶ比較的平坦な峠越えの道で「中山街道」または「奉行道」と呼ばれ、寛永5年(1628)頃に開かれた。全長は約5.6㎞に及んだ。 佐渡奉行所は、街道を通行する人に対する見せしめのため、道路わきに処刑場や獄門台を設けたという。現在も路傍には、寛延一揆処刑者供養六地蔵、獄門場跡、刑場跡、峠の茶屋跡、キリシタン塚が史跡として残されている。 キリシタン塚 ~佐渡のキリシタン殉教者の墓寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発し、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結した島原の乱以降、幕府は徹底的にキリシタンの弾圧を進めた。佐渡でも、寛永15年(1638)に数多くの処刑が行われた。大正元年(1912)になって、キリスト教伝道師の大江雄松が、中山古老から「百人塚」と呼ばれる塚があることを聞き、そこが殉教の地であると考え付近を整備した。 それまで寛永のキリシタンのおびただしい数の殉教者が佐渡島内に存在したことは歴史の表舞台から完全に消し去られ、忘れ去られた存在であった。 元和9年(1623)と思われるイエズス会のマカオ発の年報に「佐渡は日本の主要な島(本州)から離れており、北あるいは西の海に位置している。そこに多くの銀山がある。神父たちは秘跡を授けて、そこの切支丹を慰め、また新しい人々に洗礼を授けることによって信者を殖やした」とある。 佐渡の代官となった大久保長安は鉱山から、金銀を抽出する方法として、西洋式の「アマルガム法」を採用して効率を上げ、佐渡金山の隆盛を築いた。また相川町の整備が行われ、多くの鉱山労働者や商人、遊郭で働く遊女なども、各地から流入してきたが、中には故郷でキリスト教に改宗し佐渡に渡ってきた鉱夫達もいた。ポルトガル式の技術の導入と共に、ポルトガル宣教師の布教活動も活発化した。長安自身もキリスト教に帰依したという説も残されている。 慶長11(1606)年、京都の伏見の熱心なキリシタンの一人が佐渡にたどり着き、1年半にわたって鉱山労働者に布教を行ったことが、佐渡での布教活動のはじまりと言われている。 しかし、慶長17年(1612)になって、徳川家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。佐渡では、その後も宣教師が潜伏して布教活動を続けたという。 ジェロニモ・デ・アンジェリス神父は元和5年(1619)、宣教師として初めて来島し、布教巡回した。また元和7年(1621)にジョアン・マウテス・アダミ神父が佐渡に渡ったといわれている。慶長19年(1614)の宣教師追放令の後も、多くの外国人宣教師が日本に潜伏・活動していて、佐渡へは主として鉱山めがけて布教に来島した。 隠れキリシタン狩りで捕らえられた100人近くのキリシタンの処刑は、中山街道にある刑場で、斬首などで執行された。首は獄門台に晒され、遺体は中山街道の峠付近にうち捨てられた。それが百人塚であったと思われる。 同じ時期に弾圧が行われた秋田の久保田藩や北海道の松前藩では殉教者の氏名が残されているが、佐渡の殉教者には名前さえ残されていない。誰にも弔われることもなく、風化し、島民からも忘れ去られてしまった。 🔙戻る
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