佐渡金山遺跡 Sado Gold Mine Ruins 佐渡市
佐渡金銀山 佐渡奉行所 大山師 味方但馬 水替無宿人 佐渡一国一揆(佐渡金山遺跡)佐渡金山遺跡は相川にある佐渡金山関連7カ所の史跡の総称である。❶「佐渡奉行所跡」、江戸時代、1601年(慶長6)の佐渡金山開山に伴い、相川地区は幕府直轄の天領となって1603年(慶長8)に建てられた鉱山経営と行政の中心であった。❷「道遊(どうゆう)の割度(われど)」、佐渡金山発見の端緒となった露天彫り跡。❸「南沢疎水道」、坑道の水抜きのための施設。❹「御料局支庁跡」、明治時代の役所建物。❺「時鐘楼」、町民に時刻を知らせた。旧裁判所の赤レンガ掘の奥に見える。❻「京町筋」、かつて大阪・京伏見の商人が店を構えた。❼「時鐘通」、佐渡奉行所のお抱え大工を住まわせた大工町へと続く通り。この道は、金山ロードとして知られている。 初代金山奉行の大久保長安が開いた大安寺には、長安が生前に予め自分のために冥福を祈った「逆修塔」が残る。 相川から眺望する道遊の割戸は、金鉱脈を縦に掘り進んだ結果、山を二つに割るまでに姿を変えたものであり、世界に例を見ないものである。 (佐渡銀山から金山へ)佐渡金銀山が現在のように「佐渡金山」と呼ばれるようになったのは、明治以降のことである。明治時代になり金本位制が確立すると、金重視の傾向が強まった。相川の鉱山は国有化され、三菱財閥が経営を握ったあと、「佐渡金山」と一般的に呼ばれるようになった。天文12年(1543)ポルトガル船が薩南諸島の種子島にが漂着したのを契機とし、相次いで南蛮船が来訪するようになった。西洋から鉄砲はじめ、進歩した技術を導入するため、日本は否応なく世界的な貿易体制に組み込まれた。銀本位制が主流であった国際貿易の決済のために求められる世界通貨は銀であった。 「灰吹精錬法」が導入されると、1000ともいわれる銀山の開発が日本各地で始まることになった。戦国時代には日本全国で年間1100tの銀の産出量であったものが、江戸時代には6600tと言われ、世界総産出量の4%に相当した。また江戸時代初めには、1年に150~200tにも及ぶ量が輸出されたので、幕府は寛文8年(1668)銀の持ち出しを禁じた。 相川の山は、金1に対し銀が20と、銀の産出比率が圧倒的に高く、江戸時代までは「佐渡銀山」と呼ばれる方が多かった。 ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦
(中世)佐渡の金銀について最も古い記録は11世紀後半に著された『今昔物語』であり、その後世阿弥の『金島書』に見られるように、中世を通じて金銀の島として名を知られていた。そのころの鉱山は砂金山で、砂金を最も多く出すのは西三川の砂金山であり、第二に産出量が多いのは新穂鉱山であった。西三川砂金山 ※地図 ※ストリートビュー平安時代から佐渡は「砂金の宝庫」として知られていた。砂金とは、鉱脈から産する山金が風化して移動し、河床や海浜に砂礫とともに堆積したもの。最も古い記録は11世紀後半に著された『今昔物語』に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり、千両ほどの資金を得た話が載っている。その後世阿弥の『金島書』に見られるように、中世を通じて金銀の島として名を知られていた。真野町の南部に残る西三川砂金山は佐渡最古の砂金山である。安土桃山時代には、上杉景勝によって管理され、その砂金は、豊臣秀吉にも献上されていたと伝えられる。その後も江戸時代を通じて西三川砂金山は、島内唯一の「砂金山」として稼働していた。 この時代になると本格的な採掘が始まり、山を掘り崩して砂金を含んだ土砂を一気に洗い流す「大流し」という手法で砂金を採った。「ゆり板」などの道具を使って水の中で土砂をゆすると、比重が大きい金は流れず、道具の上にたまる。鉱物から金銀を取り出す相川金銀山と違い、砂金は塊で採れるため、高度な技術がなくても容易に取り組めた。かつて砂金山の中心地であったのは笹川集落※地図。かつて利用された石が積まれた水路跡などが残る。 この砂金山は明治5年(1872)に閉山となるが、現在、西三川ゴールドパークではかつての砂金採りを体験できる。 内側に細かい溝がついた器で土砂をすくい、丁寧に洗い流せば溝に数粒の砂金が残る。砂金採りのコツは、河床の深い部分の土砂をすくうこと。比重の思い砂金は、河底深く堆積するからだ。自然河川での砂金採りは根気がいるが、挑戦するのも面白い。 (上杉謙信・景勝時代)佐渡の金銀山が時代の脚光を浴びるようになったのは、天文期(1532~1555)に灰吹法(鉱石を掘り取りそれを砕いて鉛と混ぜて焼くという新精錬技術)の導入によって未曽有の活況に導かれたというによる。上杉謙信時代には、越後上田銀山と佐渡銀山が傘下にあり富の源泉となっていた。謙信の頃の佐渡の主要鉱山は鶴子銀山と新穂銀山であった。 1589年(天正17)に上杉景勝により佐渡の豪族本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となる。上杉景勝は、1593年(文禄2)3月18日、佐渡西三川の砂金をはじめて豊臣秀吉の伏見御蔵へ納め、以降毎年3駄ずつ納めた。 1595年(文禄4)、石田三成のもとから派遣された西洋式坑道掘りの技術者によって相川の金銀山が発見された。同年豊臣秀吉は越後・佐渡の金山代官を景勝に命じる。相川の山は鶴子、新穂などと違って巨大な岩盤である。秀吉の時代、それを鑚で切り抜いて鉱脈を探す新技術が取り入れられた。上杉氏の鉱山経営の方法は探鉱に直接かかわらないで、山主からの運上(税金)を上納させる方法をとっていた。運上の額は上杉氏からの要請で次第に引き上げられていったが、それでも計算は山主の手の内にあった。 また文禄から慶長にかけて相川にたくさんの人々が押し寄せ、鉱山の近くに町が出来た。 (江戸時代)✣田中清六の開発1600年(慶長5)関ケ原の戦を制した徳川家康は、翌年佐渡を直轄地とし、敦賀の豪商であった田中清六を派遣して佐渡銀山を開発させた。一時的ではあるが鉱山は活況を呈した。1601年(慶長6)北山(金北山)で金脈が発見されている。田中清六は、家康の期待に応えて、早く成果を出そうと、それまでの方法とは異なる手法で佐渡金銀山を経営した。 清六は、金掘たちに自由に山を掘らせる。鉱脈を発見した山師には、金掘にかかった費用を回収するため、坑道ごとに10日間ほど自由に山を掘らせ、その鉱石をすべて与えた。そして、その後は、採掘期間を10日間ほどに区切って運上額を入札させ、一番高い入札者に採掘権を与えるという「運上入札制」を採用した。このやり方によって、山師たちが全国から集まり、鉱脈探しに鎬を削るようになった。 1,2年、銀山の運上は1万貫にも及んだという。しかし、この方法は、金銀山を一度に荒廃させ、出水を放置したまま「捨山」が続出してしまった。掘る事ばかりに力が入って探鉱とか、坑内普請とかいう経営継続のための基本的な対応が出来なかった。銀山はすぐに危機を迎えた。 ✣大久保長安の最盛期と衰退1603年(慶長8)に増税問題に連座して田中は罷免され、石見銀山の経営に成功した大久保長安が、佐渡の金山代官となり、公費投入により施設の拡充を画すなど、経営の革新を図った。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心となった。大久保長安は、石見から吉岡出雲、宗岡佐渡の銀山功労者らに水田与左衛門などの番匠衆を送り込んだ。陣屋が建築され鶴子から代官屋敷を相川に移し、佐渡の府中とした、物資が直接相川に移入できるよう、海運の便をはかるためた相川に港を整備した。 鉱山の荒廃を避けるために「運上入札制」をやめた。 そして銀山の谷々から山主たちの力では統一的に行うことのできなかった水貫掘削の大工事に着手した。これを陣屋の費用で賄った。さらに山主に対して炭、留木、鑽、紙、蝋燭など彼らが手に入れにくい事業遂行のための物資を供給した。それらは坑道の経営者ごとに日帳をつくって供給され、それと引き換えの形で坑道から出る鉱石を毎日山奉行人が帳面につけたのである。そして10日ごとに山主と陣屋の役人が相談をして出た鉱石の荷分けの率を協議した。 こうして金銀生産に必要な資材を支給し、掘り出された金銀は、幕府と山師が談合して分け合う「御直山」制を導入した。 産出し製錬された筋金および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀(佐渡銀)とも呼ばれた。 大久保長安は物資を公給することによって山主の生産に深くかかわりその出鉱高の2、3割を手中にした。そのかわり長安の家計と金銀山の経営が分離できず、家康への上納額は長安の胸三寸の所にあったことはいなめない。そして長安の物資公給制は坑道が次第に深くなるにつれて経費がかさばり、1612年(慶長17)頃になると運上額は激減し盛時の5分の1如何にもなっていた。 ✣鎮目惟明の繁栄期と衰退1619年(元和4)、名奉行とうたわれた鎮目惟明は佐渡へ渡り、大久保長安の没後、衰退に向かっていた佐渡金山の経営を復興させた。
佐渡代官所と採掘業者が、費用と責任を分担し、収益を分けながら経営した鉱山を「御直山(おじきやま)」という。一方費用は業者に負担させ、収益を出来高に応じて採掘業者と分け合う鉱山を「自分山」、最初から一定額の上納を決めて業者に採掘させる鉱山は「請負山」と呼ばれる。
山師に銀や生産資材を供給し、また大工や穿子には銀や米を前借させて、生活の安定をはかり、労働力の確保には意を用い、金山・銀山の山主の経営する「自分山」からの公納の定率化をはかり、山主の経営を安定させた。惟明は、諏訪間歩など33間歩に公費を投入し、「御直山」として経営した。 鎮目奉行の10年間の佐渡支配によって相川銀山は活気を取り戻し、産出量は増え、「前後無類の盛り」といわれる時代を築いた。元和8年(1622)には、金に換算して14万357両の銀が納められた。しかしこの時期、金銀の産出高は出水事故などもあり大きく上下した。 一方、佐渡銀山の開発に伴って様々な技術革新がもたらされた。水平坑道を掘る必要性から、測量技術が発達し、奉行所では振矩師と呼ばれる測量技師を民間から登用した。また大量の鉱石を粉砕する動力として、寛永3年(1626)から、外国の水車を改良した大型水車が用いられるようになった。これらはその後各地の農村でも利用されるようになり、日本の農業技術に変革をもたらすことになった。 しかし寛永初期(1630ころ)を過ぎるころから富鉱帯を掘りつくし、金銀山はすっかり衰えた。排水費用の増大、物価騰貴による生産費用の急増が原因として産出額が低下した。また寛永期(1624~1644)世界の銀価格の下落も佐渡鉱山に決定的な影響を与えた。 1649年(慶安2)以来、数度の大洪水に見舞われたことが決定打となり、1651年(慶安4)頃から金銀山は衰え、幕府は次第に採算の合わない坑道の直営をやめ、山師からの運上金の取り立てのみを考えるようになった。しかし山師らの個人的資力ではもはや鉱山再開発は不可能であった。寛文2年(1662)には最大の幕府直轄坑道である割間歩の稼業も停止した。 17世紀の後半、寛文期(1661~1673)に至って金銀山はすっかり衰えた。佐渡奉行所はそれまで禁止されていた大工、穿子の他国出を許したので、おびただしい人々が佐渡の相川を離れ、人口は最盛期の5分の1程度に激減した。 1674年(延宝2)、相川口新鉱脈が発見され、一時的に金銀鉱山は繁栄するが、その後は大雨で度々間歩が出水し次第に振るわなくなった。 ✣荻原重秀による中興1690年(元禄3)、荻原重秀が勘定奉行兼佐渡奉行に任じられると、翌1691年(元禄4)4月佐渡へと渡海した。荻原の時代は5代将軍綱吉の治政で、荻原はその勘定奉行となっている。その頃の幕府の財政は累積する赤字に悩まされていた。そしてそれまで取り続けてきた節約という消極策では財政の立て直しは困難と見えた。ここで荻原は幕府の消極財政策を積極策に切りかえたのである。 現地にて金山の状況を調べ上げた重秀は、「今後は十分な公費投入を行う。目先の収支にこだわらず存分に経営せよ」と宣言した。 1695年(元禄8)、荻原は佐渡に1万両を送ったのを手始めに、1702年(元禄15)までに11万両余の金を相川の鉱山に投入し産金類の増加をはかった。 着任するとさっそく安米による物価安定策を実施し、主要坑道の直山稼ぎを再開した。同時に佐渡最大の稼ぎ場所である割間歩の復活のため海岸から割間歩底部の水没個所まで約1000メートルの大排水坑道(南沢疎水坑)を計画した。当時としては驚異的な技術水準と言える大工事であった。着任5年後の1696年(元禄9)に「南沢疏水坑」が完成し、これにより佐渡金山は生産量が回復した。荻原は佐渡金山にとって復興の恩人となった。 ✣鉱山放棄衰退期しかし元禄の繁栄は長くは続かず、その後新井白石の時代になると消極策へと転換し、享保、宝暦(1716~1764)のころまでは鉱山放棄策がとられるほどであった。金山労働者の人件費増・相川町民への安米支援措置等による経費増は鉱山事業収益を圧迫していた。 住民は相川経済の基盤である金銀山の停廃に強く抵抗した。こうして住民が鉱山費用を負担するという新しい施策が生み出された。それは住民が米を買うとき、一石に銭200文を上納し、それを探鉱費用に使うというものであった。その金額は一年に印銀(佐渡だけの通用銀)40貫目(4000両)になったという。 1739年(元文4 )3月13日、 佐渡奉行所は相川町民への安米配給量を半減する改革を行ったが、金銀山大工らはこれを不満とし,奉行所に押しかける騒動が起きる。 ✣石谷清昌の改革1756(宝暦6年)1月、石谷清昌が佐渡奉行に就任した頃は、佐渡金山はかつてない極衰期であった。おまけに元禄の「佐渡一国検地」以後あいつぐ年貢増徴で、島民はことごとく困窮疲弊していた。1758年(宝暦8)12月、石谷は金山経営全般にわたる詳細な仕法改革案、赤字を出さないで鉱山を経営する鉱山直営法を具申し、1759年(宝暦9)2月幕府の裁許を得た。 それまで鉱石を掘りだして売却する金児と、それを買って精錬する買石の間の不公正な価格決定を止めさせた。奉行所でそれぞれの鉱区から出る鉱石をためし吹きをしてせりの値段の基礎としたのである。安値入札競争によって、業者が疲弊しないようにするとともに、製品である灰吹銀の買い上げ値段を約2割引き上げて精錬費を保障してやり、幕府への公納分を安定させた。 町内に分散していた選鉱および精錬施設と、金銀吹分所、試し吹所、小判所を奉行所構内に集め寄勝場(よせりば)とし、昼夜交替で厳重に監視して金銀地金の密売を防止した。また大工(坑夫)賃金等の前払制をとり、良い場所ばかり選んで乱獲することを禁じ、諸経費を切り詰め、鉱山開発でも利益を上げた。積極的に新鉱脈を掘り進め、わずかの在職期間で佐渡鉱山に数十年ぶりの盛況をとりもどした。 石谷清昌は勘定奉行在職中の1777年(安永6)に佐渡の水替人足の制度を発案した。天明の大飢饉などによる政情不安により発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、凶悪犯罪を犯すようになっていたことから、江戸浄化のため、無宿者を捕らえて佐渡金山に送り、過酷な労働である鉱山に溜まった排水を外部に排出する仕事(水替)の人足として使役することを発議し、翌年から数十人単位で無宿人が佐渡に送られた。 鉱山労働者のあいだに「けだえ」と呼ばれた病気、現在でいう「珪肺」が多発。この病気は鉱山での油煙や石の粉を吸い込むことに原因があるという因果関係が突き止められた。日本では古来、病気は悪霊の力によるものと信じられていたが、「けだえ」は病気を科学的に解明する契機ともなった。 延宝(1763ー80)のころ、相川の医者益田玄皓が初めて、「竹節人參」「甘草末」「紫金末」「胡桝末」など五種類の調合で「紫金丹」という特効薬を処方した。金穿りの病むのを憐んでこの薬を作ったという。銀山繁昌のときだったので、門前市をなすありさまであったと伝えられている。玄皓が発明した紫金丹は、珪肺に対する日本で最初の対症療法であった。 ✣幕府無策時代化政期(1804~31)からのちの幕府の金銀山に対する施策は無策に等しいものであった。御直山5ヵ所のうち2ヵ所は休山となった。金銀山の経費はできうる限り圧縮しなければならなかった。もう将来の展望などはどこにもなかった。1811年(文化8)、勘定吟味役金沢瀬兵衛が佐渡奉行に着任した。その頃の金銀山の稼動していた間歩は、青盤間歩と鳥越間歩の二間歩のみで、10日間の鏈の代銀は銀一貫目ほどしかなかった。彼は宝暦以来、地役人たちが積み立ててきた出目銭のうち4000貫文を上げ金として差し出させ、また相川町民から5ヵ年間に4000貫文の献金をさせて、青盤、中尾などの鉱区を稼業させた。さらに1814年(文化11)には採掘を継続するために佐渡南部の廻船問屋衆に4500貫文を上げ金させた。これにより金銀山の危機を脱するに至る。 1817年(文化14)には、相川市中はまたも5000貫文の出銭をした。文政年間(1818~1831)ともなると幕府から1ヵ年3000両の下げ金が下されたり、1828年(文政11)には天領越後の水原の豪農真島権兵衛から3000両の上げ金が送られてきたりした。しかしこのような方策で金銀山を活況に赴かせることは不可能であった。 (幕末・明治維新期)徳川幕府の財政をささえてきた佐渡鉱山も幕末に至り、当時の技術では限界に達していた。しかし財政的にも苦しかった幕府は慶応3年(1867)、北海道茅沼炭田の開発にあたっていた英人エラスムス・ガウワーを佐渡にさしむけたガウワーは英国公使ハリー・パークス一行に同行し慶応3年(1867)8月5日、夷(両津)港に上陸し、佐渡鉱山を視察、幕府より佐渡鉱山の再建計画立案を命ぜられる。 ガウワーは慶応4年(1868)1月1日、箱館から再び夷港に上陸したが、数日後には幕府の崩壊が決定的となり、坑内排水用ポンプの設計・使用、火薬採鉱法の伝授などを試みたが、3ヶ月ほどで引揚げた。 明治維新後、佐渡鉱山は政府直轄となり、明治2年(1869)5月20日、旧金座役所跡(寄勝場跡)(※地図)に御料局鉱山司支庁を設置し鉱山司知事足立忠次郎が着任した。この頃の佐渡鉱山は衰微の極みにあった。明治元年(1868)より翌2年(1869)9月までの産額は金約5貫目(18.8㎏)余、銀106貫目(397.5㎏)となっている。 明治2年(1869)6月、明治政府は先に来島したことのあるガウワーをふたたび佐渡に派遣した。ガウワーは坑内外を調査・検討し、洋式機械設備による鉱山技術の改革案を鉱山司に報告した。政府は米国から洋式機械を購入し、明治5年(1872)には試運転を始めた。竪坑の開削と運搬技術の改良に成果を上げたが、洋式製錬法の改革には失敗し、明治6年(1873)ガウワーは責任をとって辞任した。 この一連の技術革新によって、旧来の粉成・吹方に従事していた労働者たちが失業し、さらに運搬の機械化に背負子らも失業することになり、その数2000人にも及んだ。明治10年(1877)には金18貫(67.5㎏)余、銀802貫(3008㎏)余を産するまでに至った。さらに削岩機や江戸時代から悩まされていた出水を解決するためのポンプが使用され、ますます産金高を増加させていった。 (明治時代以降)1885年(明治18)、伊藤博文政権の強力な保護と大投資のもとに佐渡鉱山は大発展することになった。大島高任による鉱山開発はトロッコや索道、西洋式の垂直坑道(大立竪坑)、積み出し港(大間港)など西洋技術導入による近代的なものであった。その後1896年(明治29)官業払下げ政策によって三菱に払い下げられた。 1937年(昭和12)の日中戦争開始以降は北沢地区においてシックナー(※地図 ※ストリートビュー)や浮遊選鉱場(※地図 ※ストリートビュー)といった大規模施設が建設された。1940年(昭和15)には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25 トンの銀を生産した。 (第2次大戦後)第2次大戦が終わって、鉱山は戦時荒廃の影響を全面的に受けて急速に衰え、しかも世界経済の構造変化の影響を受けて、三菱は1952年(昭和27)鉱山の大縮小を行った。さらに1976年(昭和51)、鉱山は佐渡鉱山として三菱の手を離れ、独立採算制のもとでささやかに経営を続け、1989年(平成元)3月31日に閉山となった。 ☯2010年、ユネスコ世界遺産暫定リストに加えられる。 🔶史跡 佐渡金山
🔶南沢疎水坑南沢疎水抗は佐渡金山の鉱山内に溜まった水を排水するためのもので、長さ922m。数万人の人足がタガネとツチだけで掘りぬいた金山の排水坑である。元禄4年(1691)から掘り始め、6年後に完成したものである。佐渡金山は、湧水との戦いであり、これを克服するため巨費を投じて掘られた。当時の土木測量技術としては、世界的な工事と高く評価されている。≪現地案内看板≫
南沢疎水坑 南沢 坑道の側壁と、天井の鑿痕は、夏の朝露をたたえた蜘蛛の巣のようにきれいだ。元禄四年から数万の人足が鑕と鎚だけで六年の歳月をかけて掘りぬいた排水坑道である。鉱山から南沢まで約一キロの長さがあり、内部は将棋のコマ型。 坑内から湧く水は、この坑道を伝って音をたてて日本海へ流れこんでいる。縄引きをした振拒師は静野興右衛門といい、元禄時代の測量技術では、箱根用水とならんで世界的なものと賞賛されている。 🔶宗太夫坑跡江戸初期に開発された手掘り坑道。佐渡金山の中で最も良質の鉱脈だった「青盤脈」を開発し、海水面下まで続いているといあれている。宗太夫とは、この坑道を請け負った山師の名である。現在は、地下深く掘り進んだ坑道跡に、約300メートルの順路に、70体の人形を設置し、「佐渡金山絵巻」に描かれている採掘作業を忠実に再現し、一般公開している。
≪現地案内看板≫
国指定史跡 宗太夫坑 宗太夫坑は、坑口の高さが約三メートル、幅二メートル、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大型坑道である。 鉱石の運搬機能と採掘技術が発達した一六九〇年代(元禄時代初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気坑、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなど、江戸期の旧坑の諸条件を完備していて、大形の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩(われまぶ)」坑の一鉱区として開発された。 平成六年(一九九四)五月二十四日、国の史跡に指定された。 🔶道遊の割戸 (→)佐渡金銀山の中でも開発初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘り跡で、相川金銀山を象徴する世界最大級の大露頭。鉱脈の中でも最大といわれる青盤脈(あおばんみゃく)の富鉱帯が地表に突出して山をなしたものである。三角形の一つの山であったものが、金鉱採掘の為、頂上から真っ二つに割られ、巨大な岩肌を露出しているさまは、金の欲につかれた人間の執念を思わせ、金山の象徴的な景観と言える。山頂部の割れ目は、幅約30m、深さ約74mにも達する。古くは「青柳割戸」ともいわれた。開発の初期に山の頂上部の鉱石を穿ち取ってV字型に掘割られたので、その割れ目の形から「割戸」といわれた。江戸時代末期には「道遊の割戸」という名称が定着したという。 「青柳」というのは、最初にこの割戸を稼いだ山師の名まえか、あるいは「青柳隼人」という上杉氏の家臣で銀山代官としてここを開発した人物の名まえに由来するという。 「道遊」という名称の由来ははっきりしないが、この割戸に関連する人物の名まえに起因するものと思われる。 ≪現地案内看板≫
国指定史跡「道遊の割戸」 山頂が真二つに割れている正面の山は、佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」と呼ばれ、江戸時代に金を求めて人力で掘り割られた採掘跡です。 佐渡金山は1601(慶長6)年、山向こうで先に開発されていた「鶴子銀山」の山師3人により発見されたと伝えられ、道遊の割戸は、開山当初から採掘が行われた最古の鉱区のひとつです。佐渡鉱山の主要鉱脈のひとつ「道遊脈」が地表に露出した部分を鏨と槌で掘り割ったもので、割戸の幅は約30m、深さは約74mにも達します。垂直に近い絶壁を成すこのような採掘跡は世界的にも例がなく、平成6(1994)年に国の史跡に指定されました。 山頂は江戸時代の手掘り跡ですが、下部は明治以降、西洋技術を導入して大規模に再開発され、昭和まで採掘が続けられました。 🔶明治以降施設群 大立地区 「大立竪坑」日本最古の西洋式竪坑。ドイツ人技師アドルフ・レーらの手により明治8年(1875)に開削が始まり、明治10年(1875)に完成。地下エレベーターによる垂直の運搬坑道。最終深度は352mにも及ぶ。巻き上げ機の動力は、当初の馬力から蒸気機関、電動機へと変遷。平成元年(1989)の操業停止に至るまで常に佐渡鉱山の主要施設として稼動した。
🔶大間港跡大間地区は、佐渡鉱山の生産品の搬出及び生産に必要な物資の搬入のため、明治25年(1892)に完成した港である。
🔶北沢浮遊選鉱場相川の北沢地区には発電所やシックナーなど鉱山の近代化に貢献した施設群(国の史跡)が密集している。もともとは銅の製造過程で行われていた技術であった浮遊選鉱法を金銀の採取に応用し、日本で最初に金銀鉱石の浮遊選鉱法を採用し、昭和11年(1936)に工場建設に着手、その後大増生産計画に伴って設計を変更し完成した。施設完成後の鉱石処理鉱量は、1ヶ月5万トン以上に達し、この設備の規模は「東洋一」とうたわれた。
🔶御料局佐渡支庁跡(相川郷土博物館)現存する佐渡支庁の建物は、御料局時代の明治時代後期に建造されたもので、洋風2階建、寄棟造桟瓦葺で屋根瓦には菊の御紋章が付いており、外壁は横板張り、内部は漆喰仕上げとなっている。展示室には、金山と佐渡奉行所関連、相川遊女の道具類、美術品、民俗資料、さらに考古関連などを紹介。金銀山とともに歩んだ町の濃密な歴史と出会える。 ❏〔周辺の観光施設〕
❏〔交通情報〕
❏〔佐渡金山を紹介しているサイト〕 ❏〔新潟県内のその他の鉱山〕 佐渡奉行所へ |