大山師 味方但馬 佐渡市



佐渡金銀山 佐渡奉行所 大山師 味方但馬 水替無宿人 佐渡一国一揆

🔹味方但馬(初代孫太夫)
永禄6(1563)〔生〕~元和9年4月8日(1623年5月7日)〔没〕
佐渡の芸能 春駒
佐渡には「はりごま」という芸能がある。正月に着飾ってひょっとこの面をつけた人物が花模様のある馬乗り衣装を着て、左手に馬の首を描いた板を持ち、右手に鈴を持って祝い唄をうたいながら角付けをして歩く。それは昔、味方但馬が鉱山が衰えて払いもできない年の暮、一人山に餅を備えに行った。すると餅をそなえたあたりに銀鉱石があった。銀鉱を発見した山師味方但馬はよろこびのあまり町中を喚いてまわったという。ハリゴマはその時の但馬の姿だと伝えている。今では結婚式などのお祝い事などで、縁起を担ぐものとして披露され、親しまれている。


本名を村井孫太郎という。父は近江国の住人で村井善左衛門といい、池田輝政に仕えた2000石とりの武士であり、播磨国(兵庫県)三方に隠退して味方姓を名乗る。但馬もはじめは小次郎貞重といい福島正則に仕えて関ケ原の戦の戦功で500石を得た。42歳のとき一族の味方与次衛門らとともに大久保長安の招きで佐渡へわたった。掘り当てた割間歩(鉱区)は慶長14年(1609)以来たびたび大量の鉱石を出した。長安の後年になると産出額が落ち込む。しかし元和期(1615~24)に西洋技術を用いて,寸法樋(スポンとい)を360艘もしかけてついに坑底の湧水の汲みだしに成功した。衰えていた相川最大の割間歩再生に成功し、大山師となる。
元和6年(1620)12月11日から20日までの中10日(10日のうち1日は休み)に割間歩からは鉱石5貫目(約19㎏)入りのかます1万200荷が掘り出された。(1荷を5貫目として12,000両となる)
その3分の1、が幕府に納められ、3分の2が味方の手元に残された。佐渡金銀山の繁栄の中心に大山師味方但馬があった。
元和8年(1622)には割間歩の深敷にたまった水を抜くために、但馬は高さ4.5m、幅約4m、長さ350mの水抜きトンネル(水貫)を掘ったが、その経費は銀1220貫、小判にして2万両にも達していう。そうした大金を個人で投入することができたのは、割間歩がかつて知らないほどの富鉱帯であったからだ。佐渡のほか摂州多田、南部、伊勢の鉱山で採掘、経営に才腕をふるい財を成した。元和3年(1617)には、但馬は故郷但馬国中瀬金山に行き、山に水を流して金を探す流山という方法で金を探索している。

但馬は金銀山の手柄で、大久保長安に同行し、徳川家康に御目見えし、但馬守の受領名と「家」の一字を賜って改名したといわれる。以降但馬家重と名乗るようになった。

但馬は莫大な財によって佐渡のほとんどの日蓮宗寺院の伽藍の整備に助力した。京都・江戸にも屋敷をかまえていた。京都で没し,墓は京都妙覚寺にある。
また、現在の長光山 妙円寺新潟県佐渡市相川下寺町1※地図は、享保2年(1717)に相川の但馬邸跡へ移転再建されたものである。

あとを継いだ二代孫太夫(家次)は、寛永年間、西三川砂金山の水路を開設した。その江は但馬江と名付けられた。また三代孫太夫(家之)にわたって割間歩の採掘中に坑内の湧水に苦しみ、寛永14年(1637)に大坂からからくり巧者水学宗圃を呼び水上輪(アルキメデスポンプ)の仕法を学んで国内鉱山で初めて試用するなど、3代にわたって鉱山技術の改良に業績を残した。
しかしその後も水没に苦しみ、孫太夫の経営を危機に陥れ、慶安3年(1650)江戸と京に持っていた屋敷4軒を売って4200両を得、それを兄弟で配分し、ことごとくを割間歩の樋の施設につぎ込んだが施設費はおびただしく、やがて味方孫大夫は割間歩を放棄することになった。

🔹初代味方与次右衛門
味方但馬守家重の弟舎弟とも伝えられている。一族の但馬らとともに大久保長安の招きで佐渡へわたった。
慶長9年(1604)、青盤十左衛門が、青盤間歩を切り開いたが10間ばかりで手を引き、その後初代味方与次右衛門が切り継いだ。青盤脈といえば佐渡鉱山最大の脈で、味方但馬などが稼いだとする有名な割間歩は、この脈をその西端でとらえたものであった。

🔹2代味方与次右衛門
?〔生〕~延宝2年(1674)10月〔没〕
越中(富山)の人で、次郎四郎と称した。寛永11年(1634)に、左沢に大切山という大型の坑道を堀った。2代目は初代に引き続き青盤間歩を稼業し、寛永5~7年(1628~30)頃に大盛りを迎えたという。この青盤間歩の稼業で莫大な収益を得た2代目は、寛永11年(1634)、左沢に大切山間歩と呼ばれる坑道の開発を手がけた。目指す鉱脈にたどり着いたのは正保4年(1647)で、延べ14年もの歳月をかけた大工事であった。大切山間歩の開設は公費ではなく全て自費で行ったことから、後の記録には「与次右衛門、殊の外山の事に精を出す」とうたわれた。
しかし、大切山の鉱脈は想像以上に奥深く、10年以上掘り続けても目当ての鉱脈に達することができなかった。1647(正保)の時点において、それまで自己資金800貫(1万6千両)を費やし、坑道158間(約284m)、並行する煙貫180間(約324m)を掘り進めたが、いまだ鉱脈に突き当たらなかった。
ついに手持ちの資金が底をついた与次右衛門は、奉行所に支援を願い出ると、奉行所は直轄坑道とし、与次右衛門は引き続き開発を命ぜられ、掘削に当たった。
慶安元年(1648)12月26日、ついに鉱脈の端に突き当たった。慶安2年(1649)はじめから採取され始め、この後、大切山間歩は大繁栄時代を迎えることとなる。

味方与次右衛門は代々左門町に住み、のち中京町に移っている。3代目以降も山師として佐渡に根付いた与次右衛門一族であったが、明治に入り、北海道開拓の折に佐渡を離れたという。


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