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味方但馬(初代孫太夫)の生涯――佐渡金銀山を再生させた山師

永禄6(1563)〔生〕~元和9年(1623)4月8日〔没〕
佐渡の芸能 春駒
佐渡には「はりごま」という芸能がある。正月に着飾ってひょっとこの面をつけた人物が花模様のある馬乗り衣装を着て、左手に馬の首を描いた板を持ち、右手に鈴を持って祝い唄をうたいながら角付けをして歩く。それは昔、味方但馬が鉱山が衰えて払いもできない年の暮、一人山に餅を備えに行った。すると餅をそなえたあたりに銀鉱石があった。銀鉱を発見した山師味方但馬はよろこびのあまり町中を喚いてまわったという。ハリゴマはその時の但馬の姿だと伝えている。今では結婚式などのお祝い事などで、縁起を担ぐものとして披露され、親しまれている。



武士の家に生まれ、鉱山経営の道へ

味方但馬は、江戸時代初期の佐渡を代表する山師の一人である。永禄6年(1563)生まれ、本姓は村井、名は貞重、のち家重、通称は小次郎、孫太夫と伝わる。「但馬」は但馬守の受領名であり、後世には「味方但馬」の名で広く知られるようになった。1623年に61歳で没したとする人物事典の記録も残る。
父は村井善左衛門と伝えられる。近江ゆかりの武士で池田輝政に仕えたのち、播磨国三方の地に隠退して三方姓を名乗ったとされる。こうした武家の環境に育った但馬も、若いころは鉱山師としてではなく武士として世に出た。
最初は小次郎貞重と名乗って福島正則に仕え、関ヶ原の戦いで戦功を立てて500石を与えられたという。ところが、武士として安定した道を歩み続けることはなかった。戦国の世が終わり、天下の秩序が大きく変わっていくなかで、但馬は鉱山経営という新しい世界へ進んでいく。この転身が、その後の人生を決定的に変えることになる。

42歳で佐渡へ

慶長9年(1604)、但馬は42歳で佐渡へ渡った。一族の味方与次右衛門らを伴い、大久保長安の招きによるものだったとされる。大久保長安は徳川家康のもとで鉱山開発を積極的に進めた人物であり、佐渡金銀山もその重要な舞台となっていた。
佐渡へ渡った当初の但馬が、いきなり最大級の山師だったわけではない。慶長11年(1606)の史料には、他の山師とともに沢根の鶴子銀山を経営していたことが見える。つまり、佐渡に入ってから複数の鉱山を経験し、次第に自分自身の経営基盤を築いていったのである。
但馬の特色は、単に鉱石を掘り当てるだけの人物ではなかったことにある。坑道を掘る技術、人夫や大工を動かす力、排水のための設備投資、さらには水路の建設まで、鉱山経営のすべてを一つの事業として考えていた。そのため、やがて「山師」というより、巨大な鉱山事業を指揮する経営者というべき存在になっていった。

割間歩との出会い

但馬の名を歴史に残すことになったのが、相川金銀山の「割間歩」である。割間歩は相川の主要な鉱脈の一つで、但馬が経営に乗り出したころには、以前ほどの産出を上げられなくなっていた。しかし但馬は、この鉱山を簡単には見限らなかった。
鉱山では、地下深く掘り進むほど鉱石が豊富になる一方、最大の敵となるのが地下水だった。坑道が深くなればなるほど水が湧き出し、人力で汲み上げるだけでは採掘が追いつかなくなる。どれほど豊かな鉱脈が存在していても、水を排除できなければ鉱山は死んでしまう。但馬は、この問題に正面から挑んだ。
元和4年(1618)、但馬は「寸方樋」、後に「スッポン樋」と呼ばれる排水装置を導入したとされる。これは長さ約3メートル、直径約11センチほどの筒状の装置で、牛皮を巻いた突木をピストンのように動かして地下水を吸い上げる仕組みだった。従来の人力による汲み上げに比べれば大きな技術革新であり、佐渡市の調査報告でも、味方但馬による元和4年の導入が確認されている。
但馬の強みは、新技術を知っていることだけではなかった。それを大量に配置し、人手と組み合わせ、実際の鉱山経営に使いこなしたことにあった。伝承では、スッポン樋を360挺も設置して坑底の湧水を排出したとされる。まさに莫大な費用と人手を投入した大工事だった。

十日間で一万荷を超えた鉱石

排水に成功すると、眠っていた鉱脈が再び動き始める。元和6年(1620)12月11日から20日までの10日間について、うち一日を休みとして割間歩から大量の鉱石が掘り出されたという記録が伝わる。5貫目入りの荷で一万荷を超えるという、とてつもない採掘量だった。
この数字は、当時の佐渡金銀山における味方但馬の経営力を象徴するものといえる。実際、史料によれば元和期の割間歩は継続して稼働しており、1620年代初めの割間歩が佐渡有数の重要鉱山だったことが確認できる。
山師にとって鉱石の発見は始まりにすぎない。坑道を掘り、人夫を雇い、木材や鉄、道具を調達し、鉱石を運び、さらに湧水を処理しなければならない。つまり、鉱山は巨大な総合事業だった。
但馬が財を成したのは、鉱脈を見る目だけでなく、「鉱山を動かす仕組み」を作る能力にあったからだと考えられる。

350メートルの水抜き坑

しかし、スッポン樋による排水だけでは限界があった。元和8年(1622)、但馬は割間歩の深敷にたまった水を抜くため、大規模な水抜きトンネルを掘った。長さは約190間、現在の約345メートルに達する。史料では「大水貫」とされ、後世の調査でも味方但馬による元和8年の大水貫が確認されている。
幅や高さを備えた水抜き坑を地下に延々と掘り抜く工事は、今日のような測量機器も動力機械もない時代には極めて困難だった。
それでも但馬は工事を進めた。伝えられる工費は銀1220貫、金に換算して約2万両にも及んだとされる。
これは、一人の山師が負担するには途方もない金額だった。しかし、それほどの資金を投入しても採算が取れると判断できるほど、割間歩の鉱脈は豊かだったのである。

家康から「味方」の名を授かったという逸話

但馬には、徳川家康との間に生まれた有名な逸話がある。大久保長安に伴われて家康に御目見えした際、家康が但馬を見て「但馬はよき味方なり」と語った。それを受けて、もともとの「三方」を「味方」と改め、さらに家康から「家」の一字と但馬守の名を賜り、以後「味方家重」「味方但馬」と名乗ったという。
この話は味方家の由緒書に伝わるもので、現在も家康から拝領したと伝わる茶碗や扇子などが味方家資料に残されている。したがって、単なる後世の人物伝ではなく、味方家自身が大切にしてきた伝承だったことがわかる。ただし、家康が実際にどのような言葉を発したのかについては、後世の由緒伝承として見る必要がある。

鉱山だけでなく、人と町も動かした

大山師となった但馬は、鉱山から得た財を自分一人のものにしなかった。佐渡では日蓮宗寺院への寄進や伽藍整備に力を注いだと伝えられ、京都の妙覚寺とも深い関係を持った。相川の瑞仙寺は、後に二代目となる家次が父但馬の菩提を弔うため建立したもので、寺には味方一族の墓が残されている。
また、味方家には初代但馬が家族へ宛てた書状も残っている。そこからは、山の経営だけでなく、家族や奉公人、仕事場の管理にも細かな指示を与えていたことがうかがえる。味方家に残された275点の鉱山関係資料には、こうした文書類だけでなく、割間歩の坑内図や鉱山絵図まで含まれている。つまり但馬は、鉱脈を掘るだけの「山師」ではなく、人間集団と高度な技術を組織して一つの巨大事業を動かした経営者だった。

「春駒」になったという伝承

但馬の人物像を伝える面白い伝承もある。正月になると、但馬は鉱山関係者の家々を訪ね、前年の働きに感謝するとともに、その年の金銀山の繁栄、家内安全、五穀豊穣を願って、自ら「春駒」となったという話である。
莫大な富を持つ大山師が、正月には自ら祝い芸を演じ、鉱山で働く人々の家を回ったという姿には、単なる金持ちとしてではなく、地域社会の中心人物としての但馬の姿が重なる。ただし、これは同時代史料による確実な事実というより、後世に伝えられた人物伝・民俗的な逸話として受け取るのが適切である。

西三川にも広がった鉱山経営

但馬の活動範囲は相川だけではなかった。摂州多田、奥州南部、伊勢などの鉱山にも関わったと伝えられ、各地の鉱山事情を知る経験が、佐渡での経営にも生かされたと考えられる。 西三川砂金山との関係も重要である。後世の資料には、味方但馬が西三川の砂金採取に必要な水路の整備に関わったことが記され、その水路は「但馬江」と呼ばれたという。さらに西三川には、味方但馬の事業と結びつけて語られる「金山江」と呼ばれる大規模な導水路もあり、世界遺産「佐渡島の金山」の構成資産に関連する水利施設として調査されている。
鉱山で金銀を掘るだけでなく、水をどこから引き、どこへ流すかまで考える。ここにも、但馬の鉱山経営が単なる採掘ではなく、土木技術を伴う総合事業だったことが表れている。

京都で迎えた最期

これほどまでに佐渡の鉱山経営に力を注いだ但馬だったが、その生涯は長くなかった。元和9年(1623)4月8日、京都で死去したと伝えられる。61歳だった。墓は京都の妙覚寺にあるとされる。佐渡で巨万の富を築いた男の最後の地が京都だったことも興味深い。京都と江戸の双方に屋敷を持ち、佐渡で得た財力を背景に広域的な活動を展開していたことからみても、但馬はすでに一地方の山師という枠を超えた存在になっていた。

三代にわたる「水との戦い」

但馬の死後、鉱山経営は二代孫太夫家次へ受け継がれた。しかし、最も収益の大きかった割間歩では、父の時代から続く「水との戦い」が終わらなかった。
二代、三代と採掘が深くなるにつれ、地下水はさらに大きな問題となった。寛永14年(1637)には、大坂から「からくり巧者」として知られた水学宗圃を招き、「水上輪」と呼ばれるアルキメデス式ポンプの技術を学び、国内の鉱山で初めて試用したとされる。
これは、初代但馬以来、味方家が単に父祖の方法を守るのではなく、必要ならば外部から新しい技術を取り入れてでも鉱山を維持しようとしたことを示している。
しかし、技術だけで鉱山の苦境を永遠に克服できるわけではなかった。水没は味方家の経営を徐々に圧迫し、慶安3年(1650)には、江戸と京都に所有していた屋敷を売却し、約4200両を得て兄弟で分配したうえ、その資金を割間歩の樋の施設などに投入したという記録が伝わる。最終的には、莫大な経費に耐えられず、味方家は割間歩を放棄することになった。

「味方さんの世盛り」と呼ばれた時代

味方但馬の人生を振り返ると、そこには戦国から江戸へ移り変わる時代そのものが映し出されている。武士として生まれ、福島正則に仕え、関ヶ原を経験し、その後は鉱山師へ転身する。42歳で佐渡へ渡ると、衰えかけた割間歩に巨額の資金と新技術を投入し、排水に成功させた。さらに大規模な水貫を掘り、鉱山の再生を果たした。
その財力は寺院の建立や修理にも及び、京都と江戸にも屋敷を持つまでになった。佐渡に残る味方家の鉱山資料は、その繁栄を裏付ける貴重な歴史資料となっている。
佐渡には今も「味方さんの世盛りのようだ」という言葉が残ると伝えられる。これは、味方但馬の時代が、単に一人の大山師が富を得た時代ではなく、鉱山町相川そのものが繁栄した時代だったことを象徴する言葉といえる。
味方但馬が残した最大の功績は、金銀を掘ったことだけではない。地下水という鉱山最大の障害に対して、新しい技術と巨額の資金を投入し、人と土木と経営を結びつけて山を再生させたことである。その挑戦は、本人の死後も二代、三代へ引き継がれた。やがて割間歩は水に敗れることになるが、味方家三代にわたる排水技術の改良は、近世日本の鉱山技術史においても重要な足跡を残した。
味方但馬とは、金脈を見つけた幸運な山師というだけの人物ではない。衰えた鉱山にもう一度生命を吹き込み、そのためならば新しい技術を海外由来のものまで取り入れ、莫大な資金を投じ、時には自らの財産まで危険にさらした鉱山経営者だった。佐渡金銀山が最盛期へ向かう過程で、その中心に味方但馬の姿があったのである。


  • 没後 年が経過しました。



  • 墓所
    〔所在地〕京都府京都市下清蔵口町 妙覚寺墓地 ※地図 ※ストリートビュー


初代味方与次右衛門

不詳〔生〕~元和4年(1618)?〔没〕

初代味方与次右衛門――青盤の大鉱脈に挑んだ山師

初代味方与次右衛門は、江戸時代初期の佐渡金銀山で活躍した山師である。出自について詳しいことは分かっていないが、味方但馬守家重の弟、あるいは舎弟であったと伝えられている。慶長年間、一族の味方但馬らとともに大久保長安の招きによって佐渡へ渡ったとされる。
大久保長安は徳川家康の命を受けて全国の金銀山開発を進めた人物で、慶長8年(1603)には佐渡代官となった。長安は佐渡の鉱山開発を急速に進めるため、各地から山師や鉱山技術に詳しい人々を集めた。味方但馬と与次右衛門が佐渡へ渡ったのも、こうした鉱山開発の動きと深く関係していたと考えられる。

青盤間歩を引き継ぐ

与次右衛門の名が特に知られるのは、相川の青盤間歩の開発によってである。
慶長9年(1604)、青盤十左衛門が青盤間歩を切り開いた。しかし、約10間、現在の約18メートルほど掘ったところで採掘を断念し、その後を与次右衛門が引き継いだと伝えられている。先に掘った山師がわずかな距離で手を引いた坑道を、さらに掘り進めることは容易ではなかった。鉱脈が見つからなければ、それまでに投入した人夫や道具、坑木などの費用はすべて無駄になる。まして坑道を深く延ばせば、落盤や出水、酸欠などの危険も増していく。
それでも与次右衛門は青盤を見限らなかった。この判断の背景には、地表の状態や岩石の変化、鉱脈の走り方などから、地下にまだ鉱床が続いていると判断する山師としての経験があったのかもしれない。当時の山師にとって、鉱石を実際に掘り出す力だけでなく、「どこを掘れば鉱脈に当たるのか」を見極めることこそ重要な技術だった。

佐渡最大級の青盤脈

与次右衛門が掘り継いだ青盤間歩は、やがて佐渡金銀山を代表する鉱脈の一つとなった。
「青盤脈」と呼ばれた鉱脈は佐渡最大級の規模を持つとされ、相川の金銀山開発を語るうえで重要な存在である。そして、この青盤脈と味方但馬の名を世に知らしめた割間歩には、深い関係があった。
但馬が巨額の資金を投入して開発し、大量の鉱石を産出するようになった割間歩は、この青盤脈を西端でとらえたものだったと伝えられている。
つまり、与次右衛門が青盤間歩で掘り進めた鉱脈と、のちに但馬が割間歩で追った鉱脈は、佐渡の地下で連続する巨大な鉱脈だったことになる。このことを考えると、与次右衛門が青盤間歩を引き継いだ意味は大きい。本人が掘り進めた坑道そのものだけでなく、そこで確認された鉱脈の存在が、後の味方一族による大規模な鉱山開発につながっていったからである。

但馬とともに佐渡へ

与次右衛門は、単独で佐渡へ渡った人物ではなかった。味方但馬ら一族とともに佐渡へ入り、それぞれが鉱山経営に携わった。
そのなかでも、但馬は後に割間歩を再生し、スッポン樋などの排水技術を大量に導入して大山師へと成長していく。一方、与次右衛門は青盤間歩という大鉱脈の開発に取り組んだ。
同じ味方一族でありながら、異なる鉱山を舞台に活動した二人の存在は興味深い。但馬が排水や大規模な土木工事によって「山を再生する」ことに力を注いだのに対し、与次右衛門は、まだ十分に開発されていなかった鉱脈を見つめ、その可能性を掘り当てていった山師だったといえる。

「手を引いた山」を掘り続けた意味

青盤十左衛門が約10間で手を引いた後を、与次右衛門が引き継いだという逸話は、与次右衛門の人物像を考えるうえでも象徴的である。
鉱山では、少し掘って鉱石が出なければ、その場所を捨てて別の場所を探すことも珍しくなかった。採掘には莫大な費用がかかるため、見込みのない坑道に資金を投入し続けることは経営上の危険でもあった。
それでも与次右衛門は青盤を掘り続けた。結果として、そこには佐渡最大級とされる青盤脈が存在していた。最初の10間だけを見れば、先人が手を引いた判断にも理由があった。しかし、その先に何があるのかを見極め、さらに掘り進めた与次右衛門の判断が、後の味方一族の発展につながったのである。

味方一族の佐渡進出、その出発点

味方但馬の華々しい成功に比べると、初代与次右衛門について残されている記録は決して多くない。しかし、佐渡金銀山の歴史をたどると、彼の存在を軽く見ることはできない。
慶長9年(1604)に青盤間歩の開発を引き継いだことは、味方一族が佐渡の鉱山開発に本格的に進出していく初期の重要な出来事だった。そして、その青盤脈が後に味方但馬の割間歩の開発にもつながっていく。
佐渡金銀山の繁栄を語るとき、どうしても莫大な富を築いた味方但馬に目が向く。しかし、その陰には、まだ価値が十分に知られていなかった山に入り、先人が掘ることをやめた坑道を引き継ぎ、さらに地下へ掘り進めた与次右衛門の姿があった。
青盤間歩をめぐる与次右衛門の挑戦は、味方一族が佐渡で山師として地位を築いていくための重要な第一歩だったといえる。後に味方家が佐渡を代表する山師の一族として知られるようになった背景には、こうした初期の地道な鉱山開発の積み重ねがあった。初代与次右衛門は、その歴史の出発点に位置する人物だったのである。

  • 〔墓所〕
  • 〔所在地〕法輪寺(新潟県佐渡市相川下寺町)
    墓所は相川下寺町の法輪寺。境内には味方与次右衛門一族の墓があり、元和4年(1618)12月晦日の銘を持つ五輪塔が初代与次右衛門の墓と推定されている。

2代味方与次右衛門

?〔生〕~延宝2年(1674)10月〔没〕

二代味方与次右衛門は、越中(現在の富山県)の出身で、次郎四郎と称した。生年は明らかでないが、延宝2年(1674)10月に没したと伝えられる。初代与次右衛門の後を継いで佐渡金銀山の山師となり、味方家の鉱山経営をさらに発展させた人物である。

青盤間歩の大盛り

二代目がまず力を注いだのは、初代から受け継いだ青盤間歩だった。青盤脈は佐渡でも最大級の鉱脈とされ、寛永5~7年(1628~1630)ごろには大盛りを迎えたという。
豊富な鉱石が出れば、山師には莫大な利益が入る。しかし二代与次右衛門は、その富を屋敷や財産として蓄えるだけではなかった。得られた利益をさらに新しい鉱山開発へ投じた。その象徴が、左沢における大切山間歩の開発である。

十四年をかけた大工事

寛永11年(1634)、二代与次右衛門は左沢に大切山と呼ばれる大型坑道の開発を始めた。目標は地下深くに眠る鉱脈だった。しかし、掘ればすぐに鉱石が出るような簡単な山ではなかった。坑道を少しずつ地下へ延ばし、岩盤を砕き、掘り出した土砂を運び出す。その作業を何年も繰り返さなければならなかった。それでも与次右衛門は手を止めなかった。
正保4年(1647)の時点で、開発開始からすでに14年が経過していた。自己資金は800貫、金に換算して約1万6000両にも及ぶ巨額に達していたという。坑道は158間(約284メートル)、さらに並行して煙貫も180間(約324メートル)に達していた。それほど掘り進めても、まだ目当ての鉱脈には届かなかった。
これだけの費用と年月を費やしても鉱脈に当たらないとなれば、普通ならば開発を断念しても不思議ではない。しかし後世の記録には、「与次右衛門、殊の外山の事に精を出す」と記されている。まさに鉱山開発に執念を燃やした山師だった。

私財を使い果たしても掘り続ける

ついに自己資金が底をつく。ここで与次右衛門は開発を諦めるのではなく、佐渡奉行所に援助を願い出た。奉行所はその事情を認め、大切山を直轄坑道として開発を続けることを決め、与次右衛門には引き続き掘削を担当させた。
そして慶安元年(1648)12月26日、長年追い続けた鉱脈の端に、ついに突き当たった。開発を始めてから実に14年。莫大な私財を投じ、何百メートルもの坑道を掘り続けた末の発見だった。
翌慶安2年(1649)初めから鉱石の採取が始まり、大切山間歩はその後、大きな繁栄を迎えることになる。長い年月の苦労が、ようやく報われた瞬間だった。

「山の事に精を出す」

二代与次右衛門の生涯を象徴するのは、この「14年」という年月である。青盤間歩の大盛りによって得た莫大な利益を、新たな鉱山開発につぎ込み、さらに鉱脈に届くまで自らの財産を使い果たした。その姿は、単に金銀を掘って利益を得る山師というより、将来の鉱山の可能性に賭ける事業家に近い。
大切山の開発は、結果だけを見れば成功した。しかし、その成功の陰には、鉱脈が見つからないまま何年も掘り続けた年月と、800貫にも達した巨額の自己負担があった。
二代与次右衛門は代々左門町に居住し、後に中京町へ移ったとされる。味方家の与次右衛門一族は、その後も佐渡で山師として活動を続けた。明治時代に入ると北海道開拓に伴って佐渡を離れたと伝えられる。
初代が青盤間歩を開いたのに対し、二代目はその青盤の利益を新たな山へ投じ、十四年もの歳月をかけて大切山を開いた。「掘って、掘って、ついに鉱脈へ届く」――その執念こそ、二代味方与次右衛門という山師を最もよく表す姿だった。



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