佐渡奉行所 佐渡市
佐渡金山 佐渡奉行所 大山師 味方但馬 水替無宿人 佐渡一国一揆 大久保長安と相川町の繁栄 🔗佐渡奉行所と戊辰戦争 佐渡奉行所✢大久保長安 慶長8年(1603) - 慶長13年(1613)慶長8年(1603)大久保長安が、鶴子外山の陣屋を相川に移し、相川陣屋と名付けた。大久保長安は佐渡代官と称された。✢鎮目惟明 元和4年(1618) - 寛永4年(1627) ✢竹村嘉理 元和4年(1618) - 寛永8年(1631)元和3年(1617)、相川陣屋は佐渡奉行所と改称された。元和4年(1618)に鎮目惟明と竹村嘉理が共に佐渡支配(佐渡奉行)を命じられ、寛永4年(1627)鎮目が死亡するまで両名か交代で佐渡に留まった。鎮目が奉行を務めた時期が佐渡金山の全盛期を築くとともに、貨幣流通の円滑化と銀の島外流出防止に、佐渡一国通用の刻印銀や小判を相川で鋳造したり、経済面にも積極的な政策を展開した。また金山に限らず、新田の開発もしたとする記録が残っている。 鎮目惟明は、多くの善政を敷いた名奉行として近世までその功績を称える「鎮目祭」が行われていた。 寛永5年(1628)、竹村奉行によって、相川から小木に至る街道の内、沢根村相川小路まで5.6kmの中山街道が完成し、従来の道に比べ勾配が小さく、奉行街道と呼ばれた。小木湊から相川に向かう人や荷物、果ては島送りとなった無宿人も唐丸駕籠に乗せられこの道を通った。また街道脇に罪人の処刑場と獄門台が設けられ、見せしめとされた。 ✢伊丹康勝 寛永12年(1635) - 承応2年 (1653)寛永14年(1637)、旧中山街道のキリシタン塚のある付近で、佐渡金山などに隠れ住んだキリシタン信徒およそ100人が磔刑や火あぶりで処刑される。慶安5年(1652)3月14日、小比叡騒動で、佐渡奉行所役人の辻藤左衛門が、上役との軋轢から騒乱となり、小比叡山蓮華峯寺に立て籠もって自刃する事件が発生する。 ✢萩原重秀 元禄3年(1690) - 正徳 2年(1712)元禄3年(1690)荻原重秀が勘定奉行兼佐渡奉行に任じられると、翌元禄4年(1691)4月佐渡へと渡海した。現地にて金山の状況を調べ上げた重秀は、「今後は十分な公費投入を行う。目先の収支にこだわらず存分に経営せよ」と金鉱山の復活を宣言した。元禄9年(1696)に約1000メートルの大排水坑道「南沢疏水坑」を完成させ、金山の復興をみて元禄の好景気を生み出した。一方、荻原は元禄6年(1693)に初めて実測による佐渡一国検地を断行。それまで2万石余の年貢が一挙に4万石となった。不満を持つ百姓に対しては、増税分を軽減した銀納で認め、反発を抑えた。この増収となった分を、鉱山経営に振り当て鉱山経営の財政を強化した。 荻原の在職期間中、奉行は在府であり、佐渡では留守居役(月番役、広間役)を中心として諸役が役務にあたっていた。 佐渡に年貢を決めるため、毎年江戸から役人がやってきたが、なかには昼間から酒盛りをするだけという役人もおり、百姓たちからの蜜訴によって、幕府の中で新井白石と権力闘争を繰り広げていた荻原重秀にとっては不利な罷免される口実として利用された。 佐渡の農村社会では、中世以来の世襲の名主が百姓と紛争事件をおこしていたので、佐渡奉行所はその名主を村から追放。萩原治政下であらたに名主制度を設けた。 多くの村では元禄~正徳年間(1688~1715)に、有力百姓による選挙で名主を決め、村政は有力百姓との合議で民主的に運営されることになった。このような動きは各地に広がり、幕府は正徳3年(1713)、幕府領での名主の世襲を禁じる触れを出した。この結果、数が多くなっていた平百姓の中の有力者から名主が選ばれるようになった。 正徳2年(1712)以降は、奉行が2名となり、1名が現地佐渡に在勤し、もう1名は江戸に詰めた。奉行は、佐渡在勤時は単身赴任であった。 しかし享保、宝暦(1716~1764)のころまでには、金山労働者の人件費増・相川町民への安米支援措置等による経費増は鉱山事業収益を圧迫し、鉱山放棄策がとられるに至った。また結果、金鉱山からの収入の減少は、幕府の財政を圧迫することに直結した。 奉行所は金鉱山からの収入の減少を補うため、猶予されていた、検地見直しによる増税分を農民に対し厳しく取り立てる政策をとった。これにより、百姓たちの生活が苦しくなり、また商人たちと結託して賄賂政治を行っていた役人たちに対する不満から一揆が多発するようになった。 ✢遠藤易継 延享4年(1747) - 寛延2年(1749)✢鈴木房平 寛延2年(1749) - 寛延3年(1750) ✢松平忠睦 寛延3年(1750) - 宝暦3年(1753)寛永元年(1748)、山田村太郎右衛門を首謀者として、年貢増加に抵抗する寛延一揆が起きる。寛延4年(1751)7月、佐渡奉行所で判決が言い渡され、役人側は鈴木奉行は免職、斬罪1人、死罪2人、遠島7人その他合わせて46人、農民側は2人が死罪、遠島7人その他合わせて13人となった。死罪は、見せしめのため、中山街道脇に設けられた刑場で行われ、首は獄門にさらされた。正徳の改変以来、有力百姓が独占していた名主織を平百姓にもよこすべきだとして対立が続き、奉行所は平百姓の意見を入れ、宝暦3年(1753)、百姓全員の合意で名主を決めるよう指示した。これによって、平百姓の考えが奉行所の治世によりよく反映される一方で、平百姓の発言力が増し、一揆が多発する要因ともなった。 ✢石谷清昌 宝暦6年(1756)- 宝暦9年(1759)宝暦6年(1756)1月、石谷清昌が佐渡奉行に就任した頃は、佐渡金山はかつてない極衰期であった。おまけに元禄の「佐渡一国検地」以後あいつぐ年貢増徴で、島民はことごとく困窮疲弊していた。宝暦8年(1758)7月、江戸表に掛け合い、総額2万1千600両に及ぶ累積した未進年貢等の借金棒引きを行い、質物として役所にとってあった田畑・屋敷を全部持主に返した。一方で佐渡島内での特産品の増産を奨励した。 宝暦8年(1758)12月、石谷は金山経営全般にわたる詳細な改革案、赤字を出さないで鉱山を経営する鉱山直営法を具申し、宝暦9年(1759)2月幕府の裁許を得た。積極的に新鉱脈を掘り進め、わずかの在職期間で佐渡鉱山に数十年ぶりの盛況をとりもどした。 ✢青山成存 宝暦12年(1762) - 明和7年(1770) ✢夏目信政 明和2年 (1765)- 明和6年(1769)明和4年(1767)、首謀者遍照坊智専ほか6人が凶作に苦しむ農民のために立ち上がった明和一揆がおきる。智専のみが死罪となり、首は中山街道の獄門台にさらされた。✢金沢瀬兵衛(千秋) 文化8年(1811)- 文化13年(1816)彼は宝暦以来、地役人たちが積み立ててきた出目銭のうち4000貫文(1000両)を上げ金としてさしださせ、また相川町民から5ヵ年間に4000貫文の献金をさせて、失業者を雇用し、閉鉱していた金銀鉱山の再開発を行い、金銀山の危機を救った。✢篠山景徳 天保7年(1836) - 天保11年(1840) ✢鳥居正房 天保9年(1838) - 天保11年(1840)天保9年(1838)、上山田村善兵衛を一国惣代とする巡検使への直訴によって始まり、ついには打ち壊しにまで発展し、「天保佐渡一国騒動」と呼ばれる佐渡最大の農民一揆となった。農民側6名は江戸送りとなり、天保10年(1839)3月、取り調べを受けないまま牢内で病死する。奉行所は幕末まで5回火災に遭っているが、その都度再建されている。 正保4年(1647)相川大火で奉行所も類焼。寛延元年(1748)全焼。寛政11年(1799)と天保5年(1834)に一部類焼、さらに安政5年(1858)には全焼。 佐渡奉行は佐渡一国の行政、裁判を管轄したほか、金銀山を支配した。加えて佐渡の海上警衛、年貢の取立を役務とし、江戸時代後期になり、外国船が日本近海に出現するようになると外国船の監視も任務に加わった。 敷地面積は1万㎡に及び、約300人前後の役人がその任にあたっていた。 慶応元年(1865)9月13日、鈴木重嶺は、最後の佐渡奉行となり、慶応4年(1868)閏4月16日に御役御免となり、奉行所は廃止された。その後明治4年(1871)12月8日に再び佐渡に渡り、相川県参事となった。 明治以降、旧奉行所建物は相川県庁などに利用されたが、昭和17年(1942)に全焼した。 🌌復元された佐渡奉行所の建物佐渡奉行所跡は平成6年(1994)に国指定史跡となり、発掘調査を開始。天保から文久頃の建物として御役所、大御門、大御門脇御物見、御門番所、組工場、広間役長屋の門2棟、南門、西門や塀等を復元。勝場建物もガイダンス施設一部復元した。大御門脇から広間長屋にかけては掘割があり、海側には海防のための石垣、土塁が巡っている。 勝場敷地は北側に一段低く、この面にも石垣が築かれている。所要時間30分。 🔶牢屋および刑場跡
🔶河村彦左衛門供養塔河村彦左衛門(生年不詳〜1601)は、天正17年(1589)に上杉景勝が佐渡に派遣した9人の代官の1人で、文禄4年(1595)に鶴子銀山の経営を担当したほか、慶長2〜5年(1597〜1600)にかけて「慶長の検地」を実施している。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は、銀山経営の才覚を買われて徳川家の家臣となり、同7年(1602)まで佐渡4代官の1人として在島したが、改易により村上に移ったといわれている。
🌌現存する建築物佐渡奉行所裏門佐渡金山近くの相川諏訪町広間の万照寺に山門として移築現存する。この門は佐渡奉行所裏門との伝承がある。佐渡奉行所と戊辰戦争慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに端を発して戊辰戦争が勃発すると、戦線は北陸地方にも及んだ。このような状況の中、13万石の知行と金銀山を抱える佐渡奉行所も幕府方・新政府方それぞれから帰趨を迫られることになった。3月に入って、新政府からは佐渡に裁判所(行政官庁)を設置し、滋野井公寿総督を派遣する旨が伝えられた。(正式には4月29日、総督府から佐渡裁判所を設置し、滋野井公寿を総督とすることが公表された。しかし、越後国内が混沌としており、形式上のものとなった。) 佐渡奉行所へ高田の総督府からの出頭命令が到着したのは3月18日であった。 奉行鈴木重嶺は組頭竹川竜之助外2名を代理として派遣した。総督一行は江戸に向け出発した後で、江戸板橋で漸く一向に追いつき、4月9日、江戸の総督府に出頭した3人は、佐渡の状況を報告し、これまでの制度を維持してくれるよう懇願した。 同じ3月18日、会津藩軍事奉行で遊撃隊頭大竹主計外4名が来島して奉行に面会を求めた。対応した奉行所組頭中山修輔に対し、会津藩への協力と軍用金を要求し、既に出雲崎と寺泊に500人余の会津藩兵が待機していると脅迫した。奉行所ではこの申し入れを断るため、会津へ使者を送ることにした。 4月に入り佐渡が両勢力の板挟みとなる中、最後の佐渡奉行鈴木重嶺は後事を組頭の中山修輔に託して島を去り、江戸に向かった。 その直後の4月26日、水戸藩脱藩浪士からなる諸生党の筧助太夫隊100人余が佐渡奉行所が保管する金塊を同盟軍の軍用金にしようと寺泊から佐渡へ渡った。筧らは、会津藩の名代を名乗り、奉行所に金塊の引き渡しと軍用金の協力を求め、各地で乱暴を働いて、佐渡は不穏な情勢となった。筧は新政府軍に抗戦するとして小木の河原田にあった屯所(現佐渡高校)※地図を占領した。 これに対して、閏4月11日、中山は地役人や町人ら150名を集めて佐幕を標榜する迅雷隊を結成し、佐渡は奉行所役人や島民自ら守ることを水戸藩諸生党の筧らに説いて佐渡を去るよう説得した。諸生党筧助太夫隊は佐渡の金銀の引き渡しを求めたが、中山は、金塊は江戸城に移し、奉行所にはない。信じないならば家探ししても良いといった。筧たちは、何度も探し回ったが、見つからず、時間だけが過ぎた。そのうち、寺泊の本隊から新政府軍が迫って来たので、至急もどるよう連絡が入り、筧は、金塊をあきらめ、5月10日に佐渡を去っている。 (☛ 諸生党) 中山は新政府と旧幕府の両勢力に対して協力的な姿勢を示し、佐渡の政治的中立を保とうとした。一方、同じ閏4月11日、江戸に着いた佐渡奉行鈴木重嶺が江戸で高倉北陸道鎮撫総督に会い,佐渡の支配についてこれまで通りの体制を維持するよう懇願する。また旧幕府と太政官の双方に、佐渡の政治的中立を保とうとする内容の陳情書を提出した。 閏4月18日、佐渡奉行鈴木重嶺は,王政復古の朝旨を奉戴する旨の請書を提出する。鈴木は奉行職を免じられ、佐渡奉行所は廃止となった。 5月29日、薩摩藩の砲艦乾行丸と長州藩の砲艦丁卯丸が小木へ入港した。中山組頭に対し、乾行丸まで即刻出頭するように命令があった。中山は、乾行丸に向かい、艦長の北郷作左衛門久信と丁卯丸艦長山田市之丞顕義と面会した。保管する金銀のことを尋ねられたが、島内にはすでにないと答え、佐渡は局外中立を守るとして、会津藩から派遣された一隊も退去させた旨を話すと、砲艦は佐渡を離れた。長州の総督府副参謀山田市之丞顕義は後の新潟湊制圧の作戦の立案者であり、小木湊を中継地と考え調査したものと思われる。 7月3日、太政官は旧佐渡奉行所組頭中山修輔の願いを入れ,中山を佐渡国取締に任命して当分の間佐渡を支配することを認め、滋野井総督赴任の延期を決定した。 7月23日、新潟町を制圧するための船団が柏崎を出港したが、途中風雨で一端小木港まで引き返し、24日夜半出航している。 越後が戊辰戦争の激戦場となる中、中山は佐渡の局外中立を成功させ、金銀山や村々を戦禍に巻き込むことを防ぎ、佐渡の恩人となった。 明治維新以後の11月、越後府権大参事奥平謙輔が佐渡に渡り、中山は金塊などを引き渡した。明治2年(1869)2月13日、中山は佐渡取締を免ぜられ佐渡を去った。 (☛ 出雲崎代官所) |