出雲崎陣屋と戊辰戦争 出雲崎町



出雲崎代官所 出雲崎陣屋と戊辰戦争
🔗出雲崎陣屋と戊辰戦争 🔗水戸諸生党 佐藤図書 🔗富山弥兵衛

≪出雲崎陣屋と戊辰戦争≫

鳥羽・伏見の戦い・新政府の慶喜追討令・諸道鎮撫総督の進発などの情報が伝わると、代官所や奉行所の緊張が高まった。旧幕府老中の発した討薩長と檄文を1月20日に支配村々に伝達した。幕領の農民の不安も徐々に大きくなっていった。当時出雲崎代官所支配の幕領はおよそ6万石となっていた。
2月1日、旧幕府は出雲崎代官所、代官甘利八右衛門に対して、三島郡内の出雲崎代官所が支配していた出雲崎・尼瀬の両町を桑名藩の柏崎陣屋の預かり地にする。また魚沼郡にある出雲崎代官所支配の村々は会津藩の小千谷陣屋の預かり地とすると伝えた。
3月3日には小千谷陣屋の役人が郷村受け取りを求めて出雲崎代官所へ来たが、郷村の惣代らは引き渡しに反対する立場で立ち合いを拒否し、これまで通りの取り扱いを求めた。郷村の長たちは、表面上これまで通り幕府の御恩に報いたいと表明したが、本心では会津藩と桑名藩は朝敵とされ、討伐の対象となっており、戦端が開かれれば、村々が戦いに巻き込まれ、これまで以上の金子の調達や、人夫等の軍役に伴う徴用が課される恐れがあるなど強く反対した。出雲崎代官所支配村々は、3月6日に三島郡吉田村(和島村)庄屋小八郎と結東村庄屋弥五助を嘆願の為に江戸へ出府させ、その返答がとどくまではと、引き渡しを1日延ばしに引き延ばした。
しかし預け替えの方針は変更されることなく堅持された。

(諸生党)

水戸藩の藩政を握っていたのは執政市川三左衛門(弘美)(52歳)、家老佐藤図書(43歳)、家老朝日奈弥太郎を中心とする過激佐幕派諸生党だった。時代は徳川から離れ始めていることに気づかず、尊王攘夷派を徹底的に武力をもって弾圧した。弾圧は、藩士のみならずその家族にも及び、捕縛し牢内に閉じ込め処罰した。
ところが慶応3(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられると、諸生党に対し朝廷から追討の勅令が出された。立場が逆転し、諸生党は藩政における実権を失う。
攘夷派の本圀寺党が戻ってくると伝えられ、諸生党は情勢の不利を察して水戸を脱出する。
市川三左衛門に率いられおよそ500人の門閥派藩士が会津へ向かった。一隊は幕府再興という同じ目的を持つ藩士たちで、その結束は非常に固かった。
3月17日に会津藩領内に入る勢至堂峠の関所で足止めされた。この時、会津藩は朝廷に対して謝罪の嘆願を行っている最中であった。一方、市川勢に対しては朝廷から、水戸藩の改革派に討伐の勅命が出ていた。会津藩としては、市川勢を城下に招き入れることはできず、藩領内の通行することのみを許した。
市川勢は、会津藩の指示に従って、会津坂下に向かい、3月21日到着宿泊した。会津藩は佐川官兵衛を差し向け、藩の非礼を詫び、藩の事情を話し理解を求めるとともに、道案内と1000両の資金の提供を申し出、越後の水原陣屋へ行き、しばらく越後での動向をみるように要請している。
一方3月19日、水戸藩で実権を取り戻した改革派鈴木縫殿は、約千人の兵を纏めて会津まで追討の兵を差し向けた。藩主慶篤の急死で諸生党追討軍は止む無く兵を引き揚げ、後に再度追討の軍をおこすが、市川勢と天狗派の兵が北越の地で遭遇することは遂になかった。
3月24日に市川勢は津川に、29日には水原代官所に入り、ここで9日間を過ごした。4月8日新潟湊に到着し、6日間滞在して、その後、内野、赤塚、弥彦に立ち寄り4月16日に桑名藩領寺泊に入った。道案内の会津藩士鈴木丹下から佐渡に渡り佐渡奉行所で保管する金塊を提供してもらうよう要請された。
4月26日、諸生党筧助太夫隊100人余が佐渡へ渡った。筧らは奉行所に金銀の引き渡しと軍用金の協力を求め粘り強く交渉したが、結局得るものはなく、佐渡奉行所組頭中山修輔に振り回されただけで、5月10日に佐渡を去っている。
閏4月3日、寺泊から市川三左衛門、大森弥三左衛門らが出雲崎にやって来た。出雲崎代官所を占拠し、新政府軍と対決する際の本営とするためであった。
このとき、代官所には衝鋒隊が陣取って、金の無心をし居座っていた。市川は水戸勢の本拠するとして出雲崎町から衝鋒隊を去らせている。
市川は代官所の留守役篠原仙之丞に代官所の明け渡しを要求するが、篠原は頑なに拒絶した。
市川らは一旦寺泊に戻るが、6日、再び200人を引き連れて出雲崎に入る。篠原との交渉が進まないことに腹を立てた市川は翌7日、自ら兵を率いて代官所に乗り込み、一方的に本陣として使用する旨を宣言。兵隊の宿舎に陣屋を充てた。
これに対し篠原は応じようとしなかったが、会津藩士有賀円次郎がやってきて幕府はすでになく、水原・出雲崎の幕領は会津藩に移されたとし、代官所は会津藩で管理する旨を告げた。
篠原は会津の言うことには逆らえず、なくなく明け渡しに応じたという。結局水戸諸生党が代官所を守ることとなった。水戸諸生党は出雲崎陣屋を本営として此処に滞在し、ここから、柏崎鯨波や、椎谷藩へ出陣した。
5月14日早朝、要衝灰爪で、新政府軍と諸生党の間で激戦が行われ、水戸勢は敗れて撤退した。この戦いで諸生党が越後国内で最大の犠牲である65人もの死傷者を出した。
逃れてきた諸生党で出雲崎は大混乱となる。
代官所の上役人は水戸勢の敗北を見ると真っ先に船を出して逃げ落ち、逃げ遅れた下役人は、一切の記録を焼き捨てて退却した。
この時、水戸諸生党は、もし陣屋に火を放てばそれが延焼して、あるいは長らく厄介をかけたこの住民に気の毒な思いをさせることになるとして、陣屋の前で形ばかりの焚火をしただけで実際は何も焼かずに寺泊方面へ移動した。
水戸藩兵の出雲崎撤退により一時的に海岸線を守る隊がいなくなったため、会津は一隊を割いて幕府遊撃隊の生き残りと合流させ、諸生党と寺泊を守り、出雲崎の奪還を目指した。

(☛ 水原陣屋 佐渡奉行所 椎谷陣屋 灰爪の戦い)

(出雲崎以後の諸生党)

5月22日23日、加茂で同盟軍の軍議が行われ、各藩各隊の配置が決定された。諸生党は寺泊で出雲崎陣屋奪還を目指すこととなった。
5月24日、寺泊で、薩摩の軍艦乾行丸と長州の丁卯丸が来襲して、寺泊に停泊していた幕府の軍艦順動丸と砲戦になり、順動丸は大破撃沈されてしまう。続いて二艦は陸に対して猛烈な艦砲射撃を浴びせたので町は破壊しつくされてしまった。諸生党は弥彦へ撤退する。
5月27日、28日と与板城を攻略する戦闘に参戦する。与板城は落城寸前までとなったが、新政府軍が必死の防戦で持ちこたえた。水戸勢は陣ケ峰の攻撃に参戦。戦闘は膠着状態となった。
7月29日、長岡城が再落城すると、同盟軍は総崩れとなり米沢藩は藩境守備に方針を変えて、8月1日八十里越を通って帰藩した。
与板方面にいた同盟軍は三条目指して撤退した。諸生党は会津藩兵と行動を共にして、8月2日、五十嵐川の戦い、8月4日村松城での戦いの後、津川口を通って会津に撤退した。
諸生党は越後国内での戦いで、500名の藩士の内、160名が犠牲となった。しかし、墓に葬られたのは佐藤図書と戸崎留五郎の二人だけで灰爪以外の戦死者の大半は墓もなく名も判らず、消息は全く不明である。
戸崎留五郎は、6月6日の戦闘で深手を負い、弥彦の旅館「のとや」までたどり着いたが、8日にはこの旅館で落命する。遺体は「のとや」の主人の計らいで、弥彦神社の裏手にある宝光院の墓地に埋葬され、「戸崎留五郎の墓 水藩」と刻まれた石碑が今も残っている。

余談ではあるが、出雲崎陣屋で、薩摩の密偵富山弥兵衛を討った伊藤隊の隊長であった伊藤辰之助は、市川勢の中で異色の存在であった。辰之助は剣をとっては諸生党随一の使い手で、筋骨隆々、五人力といわれ、頭には髷をのせず、坊主頭で、北越戦争では、新政府軍に「鬼」と呼ばれ恐れられていた。
市川勢が会津藩と行動を共にするなかで、桑名藩にさそわれ、一隊25名を引き連れ、桑名藩の部隊と会津城を目指した。会津城が落城すると桑名隊とともに庄内藩に向かう。
庄内藩が降伏した後は、会津喜多方でけがを治療するとして一時潜伏し、水戸藩の追及を逃れた後、東京に出る。
西郷隆盛が下野し、薩摩で決起するという噂があり、警察は伊藤の素性を知り、密偵として働くよう勧める。しかし西郷と取り巻き達の動向を探るうちに彼らの考えに共鳴し、仲間に入ってしまう。結局、逮捕され、1878年(明治11)に約3年の懲役刑を言い渡され、拘置所暮らしを経験する。


(新政府軍による出雲崎陣屋掌握)

5月15日、新政府軍は出雲崎に進駐して、本営を設置した。
6月に入ると、河井継之助によって閑職に追いやられていた長岡藩主席家老稲垣茂光が藩命に背くかたちで、密かに出雲崎の官軍本営を訪れ、参謀方に帰順する旨と主家の助命の嘆願書を差し出している。


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水戸諸生党 佐藤図書

佐藤図書(佐藤信近) 〔生〕1825年(文政8)-〔没〕1868年(明治元)5月4日

家禄2000石の大身であった。水戸藩の執政として、朝比奈弥太郎、市川三左衛門と保守派を率いる中心人物となった。
1864(元治元)年、藩内の天狗党を筑波山破り、三左衛門らとともに藩政の実権を掌握する。徹底的に天狗党を弾圧し、藩士はおろかその家族にも累が及び激しい恨みをかった。
1868(明治元)年の幕府崩壊後、京都に逃れていた天狗党の生き残りが新政府軍に属して水戸に入ると、水戸を離れて会津に逃れ、その後、会津藩から支援を受け、越後国内で会津藩兵とともに戊辰戦争を戦った。
越後では、会津藩の預領となっていた出雲崎陣屋に本営をおいた。図書は一隊の長として兵を率いて戦ったが、病を得て、寺泊まで後退してきた。相当の重病で、菅沼平助家に収容されて手厚い看護を受けたが、慶応4年(1868)5月4日ここで息を引き取った。享年44。菅沼家では菩提所法福寺の同家の墓域に遺体を埋葬した。
奥羽の戊辰戦争の平定も済んだ明治元年(1868)10月25日、水戸藩の役人梶又左衛門の代人榊原彦之進ほかが寺泊に現れ、翌26日夜、密に図書の遺体を掘り返し、首を刎ねて持去った。この首は、水戸市内柵町銷魂橋(たまげばし)脇の高札場に三日間晒された。
残された胴の方は元通りに埋め戻されていたので、寺ではこのことに長い間全く気付かなかったという。


🔹佐藤図書の墓
〔所在地〕新潟県長岡市寺泊二ノ関2720 法福寺

🔹法福寺
日蓮聖人が佐渡に流された際、あまりの大風に佐渡に渡ることができず、七日間滞在した寺といわれる。祖師堂門前の「硯水の霊井」は日蓮が寺泊御書を書いた際に使った清水といわれている。

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富山弥兵衛 ( とみやまやへえ )

天保14年(1843)〔生〕 - 慶応4年(1868)閏4月2日〔没〕
天保14年(1843)、薩摩藩士の子として生まれる。元治元年(1864)、薩摩藩の間者として新選組に加盟したといわれる。のち、新選組から脱退し御陵衛士結成に参加する。油小路事件では新選組との乱闘ののちに薩摩藩に匿われる。その後、伏見街道で御陵衛士残党と共に近藤勇を襲撃した(黒染事件)に関わる。
慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで薩摩軍に加わり、御陵衛士残党からなる光台寺党として戦い、銃創を負う。回復を待った富山は2月には東征軍に従い、江戸に行く。4月に京都に戻ると、新政府軍参謀の黒田清隆に越後探索を命じられ、越後出雲崎にて会津藩の動向を探索した。
閏4月1日、寺泊の諸生党本隊から分かれて伊藤辰之助の小隊が宿屋「摂津屋」に宿泊していた。博徒姿に変装した富山は、越後で情報収集しながら出雲崎に着いたところであった。しかし博徒のような恰好をしているがその身のこなしや姿が博徒とは思えないのを、通りがかった目明しが怪しみ、尋問する。当時の出雲崎は、博徒の観音寺久左衛門一家が、陣屋から十手を預かって町の治安を維持していた。
宿にいた伊藤隊も出て来て、男を取り囲んだ。挙動不審な様子に、伊藤隊は宿屋に連行し、拷問による厳しい取り調べを行った。富山は間者であることをついに白状した。
富山は、二階の柱に縛られていたが、翌朝、二人の見張りの隙を見て、うまく縄をほどき、二階から飛び降り逃げ出すが、伊藤隊に気付かれ追われる。富山は稀に見る健脚で田圃のあぜ道を走って逃げるが、宿から東に2里ほど離れた吉永村の教念寺近くまで来たところで、油田から湧き出た油混じりの泥濘に足をとられ伊藤隊に追いつかれてしまう。伊藤隊二十数人と刀を交わすが、槍で刺殺されるが、全身約50ヶ所を串刺しにされたと伝わる。富山の首は町はずれの獄門前に3日間晒された。
伊藤は、世間に名前の知られた通りの富山の奮戦ぶりに、「後世諸士ノ亀鑑大丈夫ノ士(=後世の武士諸君の手本となる大丈夫の士)」と称賛したという。富山の遺体は地元の人々が教念寺に葬り、碑を建てた。
越後口総督仁和寺宮が柏崎に宿陣した時に富山弥兵衛の戦死の様子を聞き、村長山田重左衛門に神社を作り祀るように命じたと伝わる。

尚、司馬遼太郎の時代小説『新選組血風録』のその13「弥兵衛奮迅」として記載されている。薩摩郷士富山弥兵衛は喧嘩が元で芸州藩士を斬ってしまう。薩摩藩にいられなくなった富山は伊東甲子太郎の仲介で新選組に入隊する。土方は薩摩藩の間者ではないかと警戒するものの、素朴で愛嬌のある富山がとても間者とは思えず、警戒を解いてしまう。だが、富山こそ天稟の間者だったというストーリーである。
(☛ 観音寺久左衛門)

🔹富山弥兵衛の墓
〔所在地〕新潟県三島郡出雲崎町吉水1031 教念寺


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