出雲崎陣屋と戊辰戦争 出雲崎町
鳥羽・伏見敗戦と越後幕領慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、江戸幕府の権威は急速に失われた。新政府は徳川慶喜追討令を発し、北陸道鎮撫総督府を設置して北陸・越後方面への支配拡大を進めた。一方、旧幕府は各地の幕領支配を維持しようとしたが、戦局はすでに新政府側へ大きく傾き始めていた。当時の越後国には高田藩、長岡藩、新発田藩、村松藩、三根山藩、与板藩、椎谷藩など多くの諸藩が存在し、その間には江戸幕府の直轄領である幕領が広く点在していた。その中心となっていたのが出雲崎代官所である。代官所は三島郡、刈羽郡、古志郡、魚沼郡など約6万石の幕領を管轄し、年貢徴収、治安維持、訴訟処理、河川や道路の管理など、幕府の地方行政を担う重要な役所であった。また、日本海沿岸の交通や佐渡航路を押さえる要地でもあり、軍事・経済の両面から重要な役割を果たしていた。 鳥羽・伏見敗戦の報が越後へ伝わると、出雲崎代官所でも緊張が高まった。旧幕府は1月20日、老中名による「討薩長」の檄文を支配下の村々へ伝達し、幕府への忠誠を呼びかけた。しかし、京都で新政府軍が勝利したという知らせは各地へ広まり、幕府の権威は急速に揺らいでいった。 この状況の中で最も不安を抱いたのは幕領の農民たちであった。彼らにとって重要なのは幕府か新政府かではなく、戦乱から村を守り、農業と暮らしを維持することであった。戦争が越後へ及べば兵糧米や軍資金の徴発、人夫の動員、宿泊場所の提供など、大きな負担を強いられることは避けられず、村々には不安が広がっていった。 幕領預け替えと農民の抵抗旧幕府は越後支配を維持するため、2月1日、代官甘利八右衛門に対して支配地の預け替えを命じた。三島郡の出雲崎・尼瀬両町は桑名藩柏崎陣屋の預かり地とされ、魚沼郡の村々は会津藩小千谷陣屋の預かり地となった。これは、鳥羽・伏見敗戦後も会津藩・桑名藩を中心に越後の支配体制を維持しようとした措置であった。しかし、この決定は支配下の村々から歓迎されなかった。会津藩と桑名藩はいずれも京都で新政府軍と戦った朝敵であり、その支配下へ入ることは、やがて越後も戦場となる可能性を意味していた。農民たちは兵糧や軍資金の徴発、人夫の動員が増えることを恐れ、支配者が替わること自体にも強い不安を抱いていた。 3月3日、小千谷陣屋の役人が郷村受け取りのため出雲崎代官所を訪れたが、村々の惣代は立ち会いを拒否した。表向きには「幕府の御恩に報いるため」と説明したものの、その本心は戦乱への巻き込まれを避けることにあった。 さらに3月6日には、三島郡吉田村庄屋小八郎と結東村庄屋弥五助を代表として江戸へ派遣し、預け替え撤回を嘆願した。返答が届くまで引き渡しを一日ずつ延期するなど、村々は粘り強く抵抗したが、幕府の方針が覆ることはなかった。 この一連の動きは、幕領農民が政治的な忠誠心よりも生活の安定を優先し、激動する時代の中で現実的な判断を下していたことを示している。 水戸諸生党の出雲崎進出その頃、越後では高田藩が早くから新政府側に属し、新政府軍は高田を拠点として越後各地への進軍を開始していた。一方、会津藩、桑名藩、長岡藩など旧幕府勢力も抵抗を続け、越後は北越戦争の舞台となっていく。閏4月3日、水戸藩諸生党を率いる市川三左衛門、大森弥三左衛門らは寺泊から出雲崎へ移動した。諸生党は会津藩・桑名藩と協力して柏崎方面を防衛するため、海岸交通の要衝である出雲崎を本営とする計画を立てていた。 当時の出雲崎陣屋には幕府遊撃隊系の衝鋒隊が駐留していたが、市川は統一した指揮体制を築くため退去を要求し、衝鋒隊は出雲崎を離れた。 続いて市川は出雲崎陣屋の明け渡しを求めたが、留守役の篠原仙之丞はこれを拒否した。篠原にとって陣屋は幕府の行政施設であり、正式な幕府の命令もないまま、一藩の軍勢へ引き渡すことは認められなかったからである。 閏4月6日、市川は約200人の兵を率いて再び出雲崎へ入り、翌日には陣屋を本営として使用することを宣言した。しかし篠原はなお抵抗を続けた。 その後、会津藩士有賀円次郎が篠原に対し、幕府の命令によって出雲崎代官所支配地は会津藩預かりとなっており、今後は会津藩が管理することを説明した。篠原は幕府の正式な命令であることを確認すると、不本意ながら陣屋を引き渡した。 こうして出雲崎陣屋は水戸諸生党の本営となり、柏崎、鯨波、椎谷方面への軍事行動の拠点となった。 灰爪の戦いと出雲崎撤退閏4月14日、柏崎方面の要衝である灰爪で新政府軍と諸生党が激突した。諸生党は約500人を投入して迎え撃ったが、新政府軍の攻勢の前に敗北し、65人もの死傷者を出す大きな損害を受けた。敗報が出雲崎へ届くと陣屋は混乱し、役人たちは退去を開始した。重要な行政文書は敵の手に渡ることを防ぐため焼却され、上役人は船で避難した。 諸生党も出雲崎の維持を断念したが、滞在中に世話になった町民への感謝と町への延焼を避けるため、陣屋へ火を放つことはしなかった。陣屋前で形式的な焚火を行っただけで寺泊方面へ撤退した。(灰爪の戦い) 新政府軍による出雲崎掌握諸生党撤退後、新政府軍は速やかに出雲崎を占領した。出雲崎は佐渡への渡海拠点であるとともに、日本海沿岸交通の要衝であったため、新政府軍はここを軍事・行政の拠点として整備した。代官所は軍事施設として利用され、寺泊・柏崎方面との連絡や海岸警備、佐渡航路の監視が行われた。また、庄屋を通じて兵糧米や薪炭、人足などの供出が命じられ、周辺の村々は新政府軍の兵站を支える役割を担うこととなった。 5月24日には寺泊沖で薩摩・長州両藩の軍艦と旧幕府軍艦「順動丸」が交戦し、順動丸は撃沈された。さらに寺泊は艦砲射撃を受け、旧幕府軍の日本海沿岸での海上輸送は大きく制約された。これにより新政府軍は海岸部の主導権を握り、出雲崎は北越戦争を支える前線基地として重要性を増した。 その後も木ノ芽峠、北野、荒巻、乙茂など出雲崎周辺では、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との間で激しい攻防が続いた。木ノ芽峠は与板と出雲崎を結ぶ重要な補給路であり、同盟軍はこれを占領して交通を遮断したが、新政府軍は繰り返し奪還を試みた。また、乙茂方面へ進出した同盟軍に対しては、新政府軍艦「丁卯丸」「乾行丸」が日本海から艦砲射撃を加え、進撃を阻止した。こうした攻防は約1か月に及び、出雲崎周辺は北越戦争における重要な戦場の一つとなった。 出雲崎代官所の終焉北越戦争後半、出雲崎は長岡方面へ兵員や軍需物資を送り出す兵站基地として重要性を増した。7月29日に長岡城が再落城すると奥羽越列藩同盟軍は総崩れとなり、越後での旧幕府勢力の抵抗は急速に終息へ向かった。戦後、出雲崎代官所は新政府の地方行政機関へ再編され、250年以上続いた幕府による越後幕領支配は終焉を迎えた。村役人制度も明治政府の地方行政制度へ移行し、年貢を基盤とした幕藩体制は新たな行政制度へと改められていった。 出雲崎では、わずか半年足らずの間に幕府直轄地、会津藩預かり地、水戸諸生党本営、新政府軍拠点へと支配者が目まぐるしく交代した。その過程では、武士だけでなく町民や農民も戦乱を避けながら地域社会を守るために苦慮していた。出雲崎代官所の終焉は、江戸幕府による越後幕領支配の終わりを象徴するとともに、地域社会が近代国家へ移行する大きな転換点となったのである。 🔙戻る
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