日蓮 Nichiren 佐渡市



🔗角田の三題目 🔗硯水の霊井

貞応元年(1222)2月16日〔生〕 - 弘安5年(1282)10月13日〔没〕

出生と仏道への道

日蓮は承久4年(1222)、安房国長狭郡小湊(現在の千葉県鴨川市)に生まれた。幼名を善日麿といい、漁業を営む家に生まれたとされる。幼少の頃から仏教を学び、天福元年(1233)頃、清澄寺に入り出家した。
当時の日本では、鎌倉幕府が武士による政治体制を確立する一方、飢饉、疫病、地震、旱魃などの災害が相次ぎ、人々の生活は不安定であった。仏教界でも浄土、禅、真言、天台など多くの宗派が勢力を競い、末法思想が広く信じられていた。
日蓮は清澄寺で学んだ後、鎌倉、比叡山、高野山、京都、奈良などへ赴き、諸宗の教義を幅広く研究した。その結果、釈迦の教えの中でも法華経こそが最も根本的な経典であり、末法の世において人々を救う唯一の教えであるとの確信を深めた。
建長5年(1253)、清澄寺に戻った日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて布教を開始した。以後、法華経を中心とした独自の宗教運動を展開する。日蓮は念仏、禅、真言など既成の仏教を激しく批判し、正しい仏法に帰依しなければ国家も民衆も救われないと説いた。その主張は従来の仏教勢力と鋭く対立し、日蓮は生涯を通して幾度となく迫害を受けることとなる。

鎌倉での活動と法難

鎌倉に進出した日蓮は、時代の過渡期に新たに台頭してきた在地領主層や武士層と密接な関係を持ちながら布教を進めた。特に下総国の在地領主層との結び付きは強く、既成の上流階級を中心に信奉されていた念仏宗を徹底的に批判した。
また、日蓮は単なる宗教家として活動したのではなく、幕府の要人と直接あるいは間接に接触し、政治のあり方についても積極的に発言した。社会の混乱を宗教上の問題と結び付け、正しい仏法を国家が採用することによって災害や争乱を防ぐことができると考えたのである。
文応元年(1260)、日蓮は『立正安国論』を著し、当時の最高権力者の一人である北条時頼に提出した。そこでは、念仏などの誤った教えを改めなければ、国内では兵乱が起こり、国外からも侵略を受けると警告した。
しかし、既成仏教を厳しく批判する日蓮の活動は大きな反発を招いた。松葉ヶ谷の草庵が襲撃され、日蓮は一時身を隠すこととなる。その後も伊豆流罪、小松原法難などの迫害を受けた。小松原法難では襲撃によって負傷し、弟子や信徒にも犠牲者が出た。
それでも日蓮は主張を変えず、蒙古襲来の危機が高まると、幕府に対してさらに強く諫言するようになった。

竜口法難と佐渡流罪

文永5年(1268)、蒙古から日本への服属要求が届くと、日蓮は『立正安国論』で警告した「他国侵逼難」が現実のものになりつつあると考えた。そして幕府や諸宗に対する批判を強め、政治権力者に対しても正しい仏法を受け入れるよう迫った。
このため幕府の怒りは頂点に達した。文永8年(1271)9月12日、日蓮は侍所の所司であった平左衛門尉頼綱によって評定所へ連行された。幕府や諸宗を批判したことを『貞永式目』第十二条の「悪口」の再犯とされ、佐渡流罪を申し渡された。
しかし、この裁定の裏では日蓮を斬罪に処する計画が進められていたとされる。深夜、日蓮は竜口の刑場へ護送され、処刑のために頸の座に据えられた。
その時、江ノ島の方向から月のような光り物が現れ、南東から北西へ強烈な光を放ちながら夜空を横切ったという。太刀取りはその光に目がくらんで倒れ、周囲の兵士たちも恐怖におののいて逃げ惑い、ある者は地面に伏したと伝えられる。結局、日蓮を処刑することはできず、佐渡流罪が実行されることになった。
この出来事が「竜口法難」である。日蓮にとっては、まさに生命を奪われる寸前から生還した重大な出来事であり、その後の思想形成にも大きな意味を持つこととなった。
竜口の頸の座の後、日蓮は当時佐渡守護代職にあった本間六郎左衛門重連の本領、相模国依智郷(現在の神奈川県厚木市の一部)の邸へ預けられた。そこで一か月近く拘留された後、文永8年(1271)10月10日、佐渡配流のため依智を出発した。日蓮四十九歳であった。

佐渡への旅と上陸

日蓮には日興ら数名の門弟が同行した。一行は相模から北上して三国峠を越え、越後国へ入った。約十二日間の旅を続け、10月22日、越後の寺泊の津に到着した。
しかし、すでに季節は初冬であった。日本海は荒れ、佐渡へ渡る船を出すことができなかった。幾日も寺泊で足止めされた末、ようやく小舟に乗って佐渡へ向かったが、海上で強い北風に遭い、船は大きく流された。そして佐渡へ渡るはずが、越後側の角田の地へ押し戻されたという。
その後、風向きが変わったため再び佐渡へ向かい、10月28日、ようやく佐渡の松ヶ崎へ到着した。日蓮が佐渡へ上陸して最初の夜を明かしたと伝えられる場所には、現在もけやきの老木が残され、日蓮の佐渡配流を伝える存在となっている。
佐渡へ渡った日蓮一行は、小倉山を越え、新穂方面へ向かった。そして佐渡守護代本間六郎左衛門重連の屋敷へ入った。
本間重連は佐渡守護代職を務める有力な地頭で、雑太郷地頭職をはじめ数か所の地頭職を持ち、雑太郡内の波多に居住していたとされる。その居館の所在地については諸説あるが、現在の佐渡市下畑付近に比定する説がある。

塚原三昧堂での生活

11月1日、本間重連は日蓮の身柄の管理を百姓名主であった阿仏房夫妻に任せた。阿仏房は日蓮を塚原にあった自家の墓の近くの三昧堂に住まわせた。
この三昧堂こそ、佐渡における日蓮の最初の本格的な配所となった場所である。しかし、その生活環境は極めて厳しかった。
佐渡の冬は寒さが厳しく、三昧堂は破れた壁の隙間から雪が吹き込むような粗末な建物だった。食糧も十分ではなく、日蓮は後に当時の生活を振り返り、雪の下の草をむしって飢えをしのいだという趣旨の記述を残している。
そのような極寒と飢餓の中で日蓮を支えたのが阿仏房日得と妻の千日尼であった。夫妻は日蓮のために食事を用意し、阿仏房は夜になると食物を櫃に入れて背負い、危険を冒して三昧堂まで運んだと伝えられる。
日蓮は後に千日尼について、『千日尼御前御返事』の中で、慈母が佐渡国に生まれ変わってきたのではないかと思うほどの恩を受けたという趣旨を記している。佐渡での厳しい生活の中で、阿仏房夫妻の存在は日蓮にとって精神的にも物質的にも大きな支えとなった。
三昧堂での日々は、単なる流罪人としての苦しい生活に終わらなかった。寒さと飢えに耐えながら、日蓮は法華経を自らの身をもって読む「色読」の境地に入り、これまでの人生と信仰を深く見つめ直した。
現在、日蓮の佐渡配流に関係する場所には多くの伝承が残る一方、塚原三昧堂そのものの正確な所在地については確定していない。後世、法華宗各派がそれぞれ自宗に関係する寺院や場所を日蓮の遺跡として伝えたことも、その所在地が不明確になった背景の一つと考えられている。

塚原問答と佐渡での思想形成

当時の佐渡では念仏信仰が広く浸透していた。念仏を批判し、法華経こそ正しい教えであると説く日蓮は、島民のすべてから歓迎されたわけではなく、常に身の危険にさらされていた。
そのような状況の中、本間六郎左衛門重連の計らいによって、日蓮と念仏宗をはじめとする諸宗の僧侶との問答が行われることとなった。
文永9年(1272)1月16日、塚原において本間重連の立ち会いのもと、数百人とも伝えられる諸宗の僧侶が集まり、日蓮と問答を行った。これが後世に有名な「塚原問答」と呼ばれるものである。
日蓮は諸宗の教義を次々と批判し、法華経の正当性を主張した。伝承では、多数の僧侶が日蓮を論破することができず、逆に日蓮の学識と信念の強さを認めざるを得なかったという。塚原問答は、佐渡における日蓮の立場を大きく変える出来事となった。流罪人として危険視されていた日蓮が、単なる罪人ではなく、仏教について深い知識と強い信念を持つ宗教者として島民から見られるようになったからである。
この頃から、日蓮を敵視する者だけでなく、その人格や信仰に畏敬の念を抱く島民も現れるようになった。

『開目抄』と『観心本尊抄』

塚原三昧堂での生活は厳しかったが、日蓮はその中で精力的に著述を続けた。文永9年(1272)2月、極寒の塚原三昧堂において『開目抄』を著した。
紙や筆さえ十分に手に入らない状況の中で書かれた『開目抄』は、日蓮自身の信仰と使命を明らかにした重要な著作である。竜口法難を経験し、佐渡へ流された日蓮が、なぜ自分がこれほどまでの迫害を受けるのか、法華経の行者として何を使命とするのかを深く論じている。
その後、日蓮は一の谷へ移った。これは、それまで日蓮を保護していた本間六郎左衛門重連が佐渡を離れたことが一つの契機となったとされる。一の谷は現在の佐渡市市野沢付近にあたる。
一の谷での生活を経て、文永10年(1273)4月25日、日蓮は『観心本尊抄』を著した。この著作は、法華経信仰における本尊と人間の心のあり方を論じたもので、後の日蓮宗の思想を形成する上で極めて重要な位置を占める。
このように佐渡は、日蓮にとって単なる流刑地ではなかった。竜口で死を覚悟し、極寒と飢餓の中で信仰を深め、さらに諸宗との論争を経て、自らの思想を体系化していった場所であった。『開目抄』と『観心本尊抄』という代表的著作が佐渡で生み出されたことは、その意味を象徴している。

島民との交流と日蓮の変化

佐渡へ流された当初の日蓮は、幕府に対して強く発言し、政治権力を動かそうとする宗教者でもあった。しかし、佐渡での生活は、その姿勢に大きな変化をもたらした。
日蓮は佐渡に捕らわれた政治的敗北者として、現世の政治権力からいったん切り離された。その結果、それまで以上に現実の村落社会に暮らす人々の生活へ目を向けるようになった。佐渡には、領主層や地頭、百姓名主、農民など、それぞれの立場で厳しい生活を送る人々がいた。日蓮は彼らと直接接する中で、権力者だけでなく、日々の生活の中で不幸や困難と闘う民衆の姿を深く理解するようになった。
阿仏房夫妻のように、危険を承知で日蓮を支える人々も現れた。日蓮の教えに共感し、食物や衣類などを届ける信徒も増えていった。島民たちは、何度迫害されても法華経を唱え続け、苦難に屈しない日蓮の生き方に強い印象を受けたのである。
この時期の日蓮は、単に「法華経が正しい」と主張するだけではなく、自らが苦難を受けながらその教えを実践する存在となった。まさに不幸に立ち向かう戦闘的な法華行者として生きる姿そのものが、島民の共感を集めたのである。
佐渡で築かれた信徒との結び付きは、後の日蓮教団にとっても重要な意味を持った。阿仏房・千日尼夫妻をはじめ、佐渡には後世まで日蓮の信仰を受け継ぐ有力な信徒が形成された。

赦免と佐渡を離れる日

文永11年(1274)に入ると、蒙古の使者が再び日本に来航し、外国からの侵略がいよいよ現実的な脅威となった。さらに天変地異も相次ぎ、社会不安は高まっていた。
こうした状況の中、日蓮が以前から警告していた「他国侵逼難」が現実になりつつあると受け止められた。弟子たちも日蓮の赦免を幕府に働きかけ、執権北条時宗は2月14日、佐渡流罪の赦免状を発した。
赦免状は弟子の日朗によって3月8日に佐渡へ届けられた。日蓮は佐渡で約二年半を過ごした後、3月15日、佐渡の真浦から船で島を離れた。柏崎の番神崎へ到着し、その後鎌倉へ向かい、4月26日に帰還した。
佐渡を離れる時、日蓮は単なる流罪人として島を去ったのではなかった。佐渡での苦難を通して思想を深め、多くの信徒を得て、法華経の行者としての自覚を一層強固なものにしていた。

身延入山と晩年

鎌倉へ戻った日蓮は、再び幕府に対して諫言を行った。しかし、幕府が日蓮の要求を受け入れることはなかった。そこで日蓮は鎌倉を離れ、甲斐国身延へ入った。
身延では弟子の育成と著述に力を注ぎ、教団の組織を整えていった。佐渡時代に深めた思想をさらに発展させ、多くの弟子や信徒へ書簡を送り、全国各地へ法華経の教えを広めた。
弘安5年(1282)、病を得た日蓮は療養のため身延を出て、武蔵国池上へ向かった。そして10月13日、池上宗仲の館で六十一歳の生涯を閉じた。
日蓮の死後、その教えは弟子たちによって全国へ広がり、後世には多くの日蓮系宗派が形成された。

佐渡配流が日蓮に与えた意味

日蓮の生涯を考える上で、佐渡配流は特別な意味を持つ。日蓮は佐渡へ送られる以前から、念仏など既成仏教を激しく批判し、幕府に対しても積極的に政治的発言を行っていた。しかし、竜口法難で処刑寸前となり、佐渡へ流されたことで、政治権力から大きく切り離されることとなった。
そして、極寒の三昧堂で飢えと寒さに耐え、阿仏房夫妻らの支えを受けながら法華経への信仰を深めた。さらに塚原問答を通じて諸宗の僧侶と直接対決し、一の谷では『観心本尊抄』を著した。
佐渡での経験は、日蓮の宗教思想だけでなく、人間観や民衆観にも大きな影響を与えた。政治権力を通して社会を変えようとした日蓮が、権力から切り離された場所で、領主や百姓名主、農民たちと直接向き合い、苦難を生きる民衆の中に信仰の力を見いだしていったのである。
そのため日蓮の生涯は、佐渡配流を境として「佐前」と「佐後」に分けて考えられることが多い。佐渡は、日蓮にとって罪人として送られた配流の地であると同時に、思想が大きく成熟し、後世の日蓮宗教団につながる信仰の基盤が形成された場所でもあった。
特に塚原三昧堂での苦難、『開目抄』の著述、塚原問答、一の谷での『観心本尊抄』の著述、阿仏房・千日尼夫妻をはじめとする島民との交流は、日蓮の生涯を理解する上で欠かすことのできない出来事である。
佐渡配流は、日蓮にとって人生最大の苦難の一つであった。しかし同時に、その苦難を法華経の行者として受け止め、自らの思想を完成へと導いた転機でもあった。佐渡で過ごした約二年半は、後の日蓮の思想と教団の形成を決定づけた重要な時期であり、佐渡が日蓮ゆかりの地として現在まで伝えられている大きな理由となっている。
必要であれば、この文章をさらに「佐渡市の郷土史・観光案内サイトに掲載する文章」向けに、史実と伝承を区別しながら整理した版にもできる。

  • 没後 年が経過しました。

  • 〔墓所〕
    〔所在地〕東京都大田区の池上本門寺境内にある御廟所

≪佐渡真浦にある現地案内看板≫
佐渡百選

62 日蓮上人波題目碑

日蓮が赦免された1274(文永11)年3月、佐渡を去るべく真浦で最後の夢をむすんだ。翌朝、朝日に向かって合掌すると、海上の波間に「南無妙法蓮華経」の七文字が浮かび現れ、これを「波題目」として流布される霊園。一説では、国仲より峠越えで真浦の津に着き、海岸近くの岩窟で夜を明かし、地元民の世話で船出したと伝えられる。

佐渡百選実行委員会


≪佐渡真浦の日蓮洞窟にある現地案内看板≫

日蓮洞窟の由来

「日蓮上人は御赦免となった文永十一年三月十三日、河原田一谷を出発して真野渋手より梨の木道を経て大木戸越よりこの坂道を下り、その日遅く真浦に着き給う。
されど宿るべき家も尋ねあたらずこの洞窟に夜露を凌ぎ、翌十四日舟本家に迎えられ一泊、翌十五日この浦より船出せしと・・・・。
その砌り立子家の老婆が粥一杯持成したり。」と伝えられている。
明治三十年の水害にこの洞窟の大半が埋まり最近その一部を掘り出したものである。

佐渡市


🔶日蓮聖人佐渡銅像 ※GOOGLE 画像

🔶日蓮ゆかりの地

🔹日蓮、世阿弥着岸地の碑

日蓮・世阿弥着岸地の碑は、佐渡市松ヶ崎に建つ史跡である。松ヶ崎の津は鎌倉時代から室町時代にかけて、佐渡へ配流となった人々の着岸地として定められていた。文永8年(1271)、佐渡流罪となった日蓮はこの地に上陸し、佐渡での苦難の生活を始めた。また、室町時代には能楽を大成した世阿弥も佐渡へ流され、この地へ着岸したと伝えられる。碑は、時代を代表する二人の文化人・宗教者が佐渡へ渡った歴史を今に伝え、配流の島としての佐渡の歴史を象徴する記念碑となっている。
  • 〔所在地〕佐渡市松ケ崎1214-2先 松ヶ崎ヒストリーパーク ※GOOGLE 画像

🔹佐渡塚原跡碑 ※GOOGLE 画像

佐渡塚原跡碑は、佐渡市塚原に建つ日蓮ゆかりの史跡で、佐渡配流中の日蓮が暮らした配所・塚原三昧堂の跡地と推定される場所の一つである。文永8年(1271)に佐渡へ流された日蓮は、阿仏房夫妻の世話を受けながら、この地の三昧堂で極寒と飢餓に耐え、『開目抄』を著すなど思想を深めたと伝えられる。三昧堂の正確な所在地は後世に諸説生まれたため確定していないが、この碑はその有力な伝承地として建立され、日蓮が苦難の中で法華経の信仰を貫いた佐渡時代を今に伝えている。
  • 〔所在地〕佐渡市目黒町 字鳥居畑559ー1

🔹本行寺 ※GOOGLE 画像

本行寺は、佐渡市松ヶ崎にある日蓮宗の寺院で、日蓮が佐渡へ最初に上陸したと伝えられる松ヶ崎の地に、後世になって建立された寺である。文永8年(1271)10月28日、日蓮は寺泊から佐渡へ向かう途中、荒天などに遭いながら松ヶ崎へ上陸した。松ヶ崎は佐渡流罪の始まりを象徴する場所であり、その歴史を伝えるため本行寺が建立された。境内には日蓮の佐渡上陸にまつわる伝承や史跡が残され、佐渡における日蓮ゆかりの地の一つとして位置付けられている。寺の存在は、約二年半に及んだ日蓮の佐渡配流の出発点となった松ヶ崎の歴史を今に伝えている。
  • 〔所在地〕佐渡市松ケ崎1201

🔹根本寺 ※GOOGLE 画像

根本寺は、佐渡市にある日蓮宗の寺院で、日蓮の佐渡配流に深く関わる霊跡の一つである。文永8年(1271)、佐渡へ流された日蓮は、佐渡守護代で地頭でもあった本間重連の管理下に置かれ、その居館の後方にある塚原三昧堂を配所の一つとしたと伝えられる。極寒の三昧堂で日蓮は厳しい生活を送りながら法華経の教えを説き、文永9年(1272)には代表的著作『開目抄』を著した。根本寺は、この塚原三昧堂の伝承地に後世建立された寺院で、日蓮が佐渡で過ごした苦難の日々と思想形成の足跡を今に伝える重要な霊場となっている。
(👉 詳細)
  • 〔所在地〕佐渡市新穂大野1837

🔹妙照寺 ※GOOGLE 画像

仁王門をくぐると石段を下るようになっていて、「一の谷」とも呼ばれる。日蓮上人が文永9年(1272)4月7日塚原の三昧堂から移られ、赦免になる文永11年(1274)3月8日まで謫居されたところである。聖人はここで、有名な「観心本尊抄」を書き、宗門における根本原理を象徴する「法華曼陀羅」を描いて、日蓮宗の教義を始めて確立された。鎌倉へ帰るときに弟子の日静に山号・寺号を授けて開山させた寺で、草庵跡地に祖師堂が建っている。景観の美しさにも恵まれており、宗派にとらわれず賑わっている。
※令和3年(2021)11月22日、かやぶき屋根の本堂など計4棟を全焼した。敷地内で関係者がたき火をしていた。
  • 〔所在地〕佐渡市市野沢454

🔹実相寺 ※GOOGLE 画像

日蓮宗寺院。山号は御松山。新穂大野根本寺の末寺で文永9年(1272)から同11年(1274)まで一の谷に蟄居の身となった日蓮上人が、この丘陵に建ち、古松に袈裟を掛け(「袈裟掛けの松」)、崖下の泉で口を漱ぎ(「御手清水」)、朝日を拝したといわれている。
樹齢1000余年、昭和48年(1973)に町の文化財に指定された神木、三光の杉(「千年杉」)が残されている。
この所縁の地に、日蓮上人が郷里の両親を忍びながら朝日を拝んでいる立像が、昭和53年(1978)、日蓮赦免七百年を記念して建立された。高さ5.5m、重さ4t、台座5m、外陣、内陣を加えると総高15.5mの銅像である(「思親の銅像」)。
  • 〔所在地〕佐渡市市野沢856

🔹日蓮上人波題目碑

鎌倉幕府から赦免された日蓮聖人が船出した「真浦の津」に建ちます。この地の言い伝えによれば、聖人が沖に向かう船の上から朝日に向かって合掌すると、波間から「南無妙法蓮華経」の7文字が浮かび上がったとされています。
  • 〔所在地〕新潟県佐渡市真浦98

🔹日蓮洞窟 ※GOOGLE 画像

3月13日、河原田一谷を出発して真野渋手より梨の木道を経て大木戸越えよりこの坂道を下り、その日遅くに真浦に着いたが、泊まる家もなく、この洞窟で夜露をしのいだと伝えられる。

🔹おけやき(お欅) ※GOOGLE 画像

日蓮上人が佐渡での第一夜を過ごしたと伝えられる欅(けやき)。その場所で空腹と疲労の中一心に法華経を唱えていると村の老婆から一椀の粥を恵まれ、お礼に鍋と血曼荼羅を与えたと伝えられています。
  • 〔所在地〕 佐渡市松ヶ崎

🔹本光寺 ※GOOGLE 画像

日蓮宗の寺で、日朗上人を開山とし、弟子日行上人により開創。文化11年(1274)当地に流されていた日蓮上人と、赦免状を携えたその弟子日朗が劇的対面をしたところと伝えられている。赦免状を披見した際に日蓮聖人が腰掛けた「赦免石」や袈裟を掛けた「袈裟掛けの松」など、ゆかりの史跡が残る。
また、日朗上人が赦免状をとどける途中、風吹のため難渋し、師の名を呼んだという日朗坂は一宮神社のすぐ近くの県道の坂道である。
  • 〔所在地〕 佐渡市宮川1082

🔶他の日蓮関連施設

🔹佐渡二宮仏舎利塔 ※GOOGLE 画像

佐渡二宮仏舎利塔は、佐渡市一の谷の妙照寺境内に建つ仏塔である。日蓮が佐渡配流中に一の谷へ移り、西天開教の大宣言を行ったと伝わる霊場に、日蓮の大曼荼羅顕現700年を記念して昭和47年(1972)10月8日に建立された。高さ約22メートル、基壇の直径約20メートルを誇る壮大な建造物で、佐渡の日蓮信仰を象徴する存在となっている。白亜の塔は遠くからもよく見え、佐渡配流後半の日蓮ゆかりの地を今に伝えるランドマークとなっている。
  • 〔所在地〕 佐渡市二宮228−1



日蓮と佐渡における略歴

日蓮は、文永8年(1271)、幕政批判や他宗派を攻撃したことが、悪口科の重犯(御成敗式目12条)という罪状に当たるとして、流罪が言い渡された。

文永8年(1271)50歳

9月12日 佐渡へ流罪の判決が決定される。龍ノ口法難を免れた日蓮は、佐渡の代官本間重連の館、相模国依智(神奈川県厚木市)に向かう。
10月10日 相模国愛京郡依智の右馬尉の館を出、武蔵国久目河に着く。
10月21日 三国路を通って越後寺泊に着く。
10月27日 寺泊を船出。角田の地に流される。
10月28日 佐渡国松ヶ崎港に着く。
11月1日 本間重連の家の後ろ、塚原の小堂(塚原三昧堂)に入られる。(新穂・根本寺)

文永9年(1272)51歳

1月16日、「塚原問答」が行われる。
2月、「開目抄」を著す。
4月7日 石田郷地頭本間某のもとに移り一谷入道の家に入る。(佐和田・妙照寺)

文永10年(1273)52歳

4月、「観心本尊抄」を著す。

文永11年(1274)53歳

2月14日 赦免の決定
3月8日 赦免状が佐渡に到着する
3月13日 松ケ崎を出発したが海が荒れて真浦へ避難。
3月15日 柏崎に到着する。(柏崎市・番神堂)
3月28日 越後国府を経て鎌倉に到着する。


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角田の三題目

文永8年(1271)、佐渡へ流罪となった日蓮は寺泊から佐渡へ向けて船出したが、日本海の荒波に見舞われ、角田浜へ漂着したと伝えられる。この出来事をもとに生まれた伝承が「角田の三題目」であり、「岸の題目」「岩の題目」「波の題目」の三つの霊跡から成る。
最初に上陸した日蓮は、衆生との結縁と龍神供養を願い、海岸近くの岩に「南無妙法蓮華経」の題目を書いた。これが「岸の題目」である。さらに、土地の老翁から、近くの岩穴に七つの頭と一つの尾を持つ悪蛇が住み、人々を苦しめていると聞いた日蓮は、その悪蛇を教化して悪行を改めさせ、法華経の行者を守護することを誓わせたという。その記念として再び岩肌に題目を書いたものが「岩の題目」とされる。この悪蛇は後に身延七面山へ移り、法華経の守護神である七面大明神、あるいは七面天女として信仰されるようになったという。
翌28日、海が静まったため再び佐渡へ向けて出航したが、途中で再び暴風雨に襲われ、船は転覆寸前となった。その時、日蓮が船頭の棹で波の上に「南無妙法蓮華経」と記すと、題目が水面に浮かび上がり、荒れ狂っていた海がたちまち静まり、無事に佐渡松ヶ崎へ到着できたと伝えられる。これが「波の題目」である。
この三つの霊跡を総称して「角田の三題目」と呼ぶ。後の正和2年(1313)、日印上人はこの伝承にちなみ、角田浜に妙法寺・蓮華寺・経王寺から成る一山三カ寺を開いた。しかし角田浜は交通の不便な土地であったため、約120年後には蓮華寺は新発田市へ移って蓮昌寺となり、経王寺は村上市へ移転した。妙法寺だけは当地に残り、後に妙光寺と改称して現在まで法華信仰を伝えている。

🔹妙光寺 ※GOOGLE 画像

妙光寺は、新潟市西蒲区角田浜にある日蓮宗の古刹で、「角田の三題目」の伝承にちなむ寺院である。正和2年(1313)、日蓮の孫弟子にあたる日印が、妙法寺・蓮華寺・経王寺から成る一山三カ寺の一つとして創建した。これは、佐渡配流へ向かう日蓮が角田浜に残した三つの題目跡を後世へ伝えるために開かれたものである。その後、交通の不便さから蓮華寺は新発田市へ、経王寺は村上市へ移転し、当地に残った妙法寺は妙光寺と改称された。現在も角田浜の日蓮信仰を伝える寺として、三題目ゆかりの歴史を今に伝えている。
  • 〔所在地〕新潟市西蒲区角田浜1056
    〔アクセス〕
    • 🚅…JR越後線「巻駅」よりバスで30分、下車後、徒歩で10分
      🚅…JR越後線「内野駅」よりタクシーで20分
      🚘…北陸自動車道「巻潟東IC」より車で40分

🔹七面天女の岩屋 ※GOOGLE 画像

七面天女の岩屋は、新潟市西蒲区角田浜に伝わる日蓮ゆかりの伝承地で、「角田の三題目」にまつわる霊跡の一つである。昔、この付近の大きな岩穴には七つの頭と一つの尾を持つ悪蛇が住み、人々を苦しめていたという。佐渡配流の途中に角田浜へ漂着した日蓮は、この悪蛇を法華経の教えによって教化し、悪行を改めて法華経の行者を守護することを誓わせたと伝えられる。その後、悪蛇は身延七面山へ移り、法華経の守護神である七面大明神、あるいは七面天女として崇敬されるようになったという伝承が今も語り継がれている。
  • 〔所在地〕 新潟市西蒲区角田浜

🔹岸の題目跡

岸の題目跡は、新潟市西蒲区角田浜に伝わる日蓮ゆかりの霊跡で、「角田の三題目」の一つに数えられる。文永8年(1271)、佐渡配流の途中に角田浜へ漂着した日蓮が、衆生結縁と龍神供養を願って海岸の岩に「南無妙法蓮華経」の題目を書いた場所と伝えられる。後年、道路事情の変化によって実際の題目跡へ近づくことが難しくなったため、その由緒を後世へ伝えるために銅像が建立された。現在の岸の題目跡は銅像の下方の海岸にあり、日蓮が角田浜に残した最初の霊跡として大切に守られている。


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硯水の霊井

硯水の霊井は、長岡市寺泊大町の祖師堂境内にある湧水で、日蓮上人ゆかりの霊跡として知られる。文永8年(1271)、佐渡流罪となった日蓮は寺泊から佐渡へ渡る船を待つ間、荒天のため約7日間この地に滞在したと伝えられる。
滞在中、日蓮は上総国中山(現在の千葉県市川市)にいた高弟・日常へ宛てて、有名な『寺泊御書』を書き送った。この時、硯に注いだ水が境内から湧く清水であったと伝えられ、「硯水の霊井」と呼ばれるようになった。現在も清らかな水が絶えず湧き続けており、日蓮ゆかりの霊水として大切に守られている。
『寺泊御書』は、後に日常が開いた正中山法華経寺(千葉県市川市)に寺宝として伝えられ、祖師堂の門前にはその写しを刻んだ石碑が建てられている。
また、この場所は日蓮が日本海側で初めて民衆へ向けて辻説法を行った地とも伝えられる。法華経の教えを力強く説いた「獅子吼」の地として信仰を集め、霊井のそばには昭和39年(1964)に信者によって建立された「日蓮上人獅子吼の説法像」が立ち、佐渡配流へ向かう途上の足跡を今に伝えている。

硯水の霊井 ※GOOGLE 画像

〔所在地〕長岡市寺泊大町8157 祖師堂境内〔アクセス〕
  • 🚅…JR寺泊駅からバス約10分、大町下車、徒歩約3分
    🚘…北陸自動車道「巻潟東IC」より車で40分
〔駐車場〕 🈚


番神堂

番神堂は、柏崎市の番神岬にある日蓮ゆかりの霊跡である。文永11年(1274)3月15日、約二年半に及ぶ佐渡配流を赦免された日蓮は、佐渡の真浦を出航して寺泊へ向かった。しかし、日本海は荒れ、強風に流されて柏崎の番神岬へ漂着したと伝えられる。岬には日蓮が船を着けて上陸したとされる岩場が残り、その足跡を今に伝えている。番神堂は、苦難の配流生活を終え、本土へ帰還する節目となった地として信仰を集め、日蓮の越後ゆかりの霊跡の一つに数えられている。(👉 詳細)


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