日蓮 Nichiren 佐渡市
🔗角田の三題目 🔗硯水の霊井 〔生〕貞応元年(1222)2月16日 - 〔没〕弘安5年(1282)10月13日 日蓮は佐渡配流以前、時代の過渡期に新たに台頭してきた下総国の在地領主層と密接な関係を持ち、旧時代の上流階級が信奉する念仏宗を徹底的に攻撃した。また幕府の要人たちと直接・間接に接触する機会を持ち、政治的に幕府の政策に発言することもいとわなかった。 日蓮のは蒙古襲来の危機に対する幕府の政策を批判し、幕府執権の怒りをかった。日蓮は捕縛され、教団は200余名が処断され解体状態に追い込まれた。 文永8年(1271)9月12日、日蓮は、侍所の所司・平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして評定所へ連行、「佐渡流罪」をいい渡され、佐渡守護武蔵守北条宣時に預けられた。 しかし、頼綱はひそかに日蓮を斬罪に処する計画を企てていた。 深夜になると日蓮は処刑のために竜口の刑場へ護送されたが、 その処刑の瞬間、突如として江ノ島の方角より 月のような光り物が南東より北西に光り渡り、太刀取りはその強烈な光に目が眩んで倒れ伏せた。 取り囲んでいた兵士たちも恐怖におののいて逃げ惑い、ある者はひれ伏すなどのありさまで、結局、命を断つことができなかったという。 竜口における頸の座の後、日蓮は、相模国依智(神奈川県厚木市)の佐渡守護代本間六郎左衛門邸に一ヵ月近く拘留された。 そして、文永8年(1271)10月10日、佐渡配流のために依智を出発した。日蓮49歳。日興外数名の門弟を連れていた。 三国峠を越え、12日間を経て越後の国寺泊の津に一行は着いた。もう初冬の季節であり、海が荒れ、寺泊では幾日も船が出なかった。そして、小舟で佐渡に向かうが、強い北風によって、角田の地に流される。 しかし、翌日10月28日、風が追い風に変わったので、ようやく佐渡の松ケ崎へ着いた。 日蓮が佐渡に上陸し最初の夜を明かした、けやきの老木が、今でもそびえている。 日蓮一行は、小倉山を越え新穂の守護代本間六左衛門の屋敷に入った。 本間六左衛門は佐渡守護代職で、彼は雑太郷地頭職以下数ヶ郷の地頭職をもって雑太郡内波多の地に住んでいた。その場所は現在の佐渡市下畑の地であったといわれている。 そして、日蓮は11月1日には本間六左衛門の家の見える場所である配所の塚原の三昧堂へ入る。六郎左衛門は、日蓮の面倒を、百姓名主の阿仏房夫妻に任せた。阿仏房は、塚原にあった自家の墓の近くに立つお堂に日蓮を住まわせ、食事の世話などもおこなった。極寒の地・佐渡の三昧堂での生活は、このうえなく厳しい状態であった。破れた壁の隙間から雪が吹き込んでくるような、あばら家で、雪の下の草をむしって飢えをしのぐという生活だったと回想している。百姓家であったことから、日蓮から見ればあばら家で、食事も粗末なものに映ったと思われる。後年この配所が不明になってしまうのは、法華宗各派が、それぞれ自宗の寺院を上人の遺跡として世に宣伝したためにほかならない。 念仏信者である島民たちから受け入れられず、法華経を唱え、念仏宗の悪口をいう日蓮は常に身の危険にさらされていたという。 このようななか、本間六左衛門のはからいで、日蓮は念仏宗の僧達と、討論することとなった。翌年の1月16日、塚原において領主・本間六郎左衛門の立ち合いのもと、数百人の諸宗の僧らを相手に問答がおこなわれたが、これが有名な「塚原問答」といわれるもので、多くの僧達の誰一人として、日蓮を打ち負かすことができなかった。 日蓮は、文永9年(1272)2月に 紙や筆の乏しい極寒の塚原三昧堂におい『開目抄』を著した。そして、その年の春、それまで日蓮を保護してきた守護代本間六左衛門重連が佐渡を離れたことを機に、一谷(いちのさわ)に移り、「観心本尊抄」を著わした。 この頃になると、島民の中には、畏敬の念を抱く者たちが出てくるようになった。 日蓮は佐渡に捕らわれの身となり、政治的敗北者として、現世的政治権力への志向から全く解き放されて、現実に村落にある領主層や百姓名主層の願望、生き方について目を開くことが出来たのであった。島民たちは、不幸に立ち向かう戦闘的な法華行者としての日蓮の、そのひたむきな生き方に共感したのである。 文永11年(1274)に入ると、再び蒙古の使者の到来により、「他国侵逼難」が現実味を帯びて来たことや、さらに天変地夭も相次いで起こり、世情はますます混乱し、民衆は不安な日々を過ごしていた。 事相が日蓮の予言どおりであったこともあり、弟子達の嘆願を聞き入れ、時の執権北条時宗は2月14日、佐渡流罪の赦免状を発した。 3月15日(日蓮53歳)、佐渡真浦より柏崎の番神崎に到着する。 ≪佐渡真浦にある現地案内看板≫
佐渡百選 62 日蓮上人波題目碑日蓮が赦免された1274(文永11)年3月、佐渡を去るべく真浦で最後の夢をむすんだ。翌朝、朝日に向かって合掌すると、海上の波間に「南無妙法蓮華経」の七文字が浮かび現れ、これを「波題目」として流布される霊園。一説では、国仲より峠越えで真浦の津に着き、海岸近くの岩窟で夜を明かし、地元民の世話で船出したと伝えられる。佐渡百選実行委員会 ≪佐渡真浦の日蓮洞窟にある現地案内看板≫ 日蓮洞窟の由来「日蓮上人は御赦免となった文永十一年三月十三日、河原田一谷を出発して真野渋手より梨の木道を経て大木戸越よりこの坂道を下り、その日遅く真浦に着き給う。されど宿るべき家も尋ねあたらずこの洞窟に夜露を凌ぎ、翌十四日舟本家に迎えられ一泊、翌十五日この浦より船出せしと・・・・。 その砌り立子家の老婆が粥一杯持成したり。」と伝えられている。 明治三十年の水害にこの洞窟の大半が埋まり最近その一部を掘り出したものである。 佐渡市 🔶日蓮聖人佐渡銅像🔶日蓮ゆかりの地🔹日蓮、世阿弥着岸地の碑松ヶ崎の津は日蓮はじめ、佐渡流人の着岸地と定められていた。
🔹佐渡塚原跡碑日蓮の配所塚原三昧堂と推定された跡地の一つ
🔹本行寺佐渡へ最初に上陸した松ヶ崎に後世になって建立された日蓮宗の寺
🔹根本寺日蓮佐渡配流の時の居所の一つ(地頭本間重連の家のうしろ山塚原三昧堂)に後世になって建立。(☛ 詳細)
🔹妙照寺仁王門をくぐると石段を下るようになっていて、「一の谷」とも呼ばれる。日蓮上人が文永9年(1272)4月7日塚原の三昧堂から移られ、赦免になる文永11年(1274)3月8日まで謫居されたところである。聖人はここで、有名な「観心本尊抄」を書き、宗門における根本原理を象徴する「法華曼陀羅」を描いて、日蓮宗の教義を始めて確立された。鎌倉へ帰るときに弟子の日静に山号・寺号を授けて開山させた寺で、草庵跡地に祖師堂が建っている。景観の美しさにも恵まれており、宗派にとらわれず賑わっている。※令和3年(2021)11月22日、かやぶき屋根の本堂など計4棟を全焼した。敷地内で関係者がたき火をしていた。
🔹実相寺日蓮宗寺院。山号は御松山。新穂大野根本寺の末寺で文永9年(1274)から同11年(1274)まで一の谷に蟄居の身となった日蓮上人が、この丘陵に建ち、古松に袈裟を掛け(「袈裟掛けの松」)、崖下の泉で口を漱ぎ(「御手清水」)、朝日を拝したといわれている。樹齢1000余年、昭和48年(1973)に町の文化財に指定された神木、三光の杉(「千年杉」)が残されている。 この所縁の地に、日蓮上人が郷里の両親を忍びながら朝日を拝んでいる立像が、昭和53年(1978)、日蓮赦免七百年を記念して建立された。高さ5.5m、重さ4t、台座5m、外陣、内陣を加えると総高15.5mの銅像である(「思親の銅像」)。
🔹日蓮上人波題目碑鎌倉幕府から赦免された日蓮聖人が船出した「真浦の津」に建ちます。この地の言い伝えによれば、聖人が沖に向かう船の上から朝日に向かって合掌すると、波間から「南無妙法蓮華経」の7文字が浮かび上がったとされています。
🔹日蓮洞窟3月13日、河原田一谷を出発して真野渋手より梨の木道を経て大木戸越えよりこの坂道を下り、その日遅くに真浦に着いたが、泊まる家もなく、この洞窟で夜露をしのいだと伝えられる。🔹おけやき(お欅)日蓮上人が佐渡での第一夜を過ごしたと伝えられる欅(けやき)。その場所で空腹と疲労の中一心に法華経を唱えていると村の老婆から一椀の粥を恵まれ、お礼に鍋と血曼荼羅を与えたと伝えられています。
🔹本光寺日蓮宗の寺で、日朗上人を開山とし、弟子日行上人により開創。文化11年(1274)当地に流されていた日蓮上人と、赦免状を携えたその弟子日朗が劇的対面をしたところと伝えられている。赦免状を披見した際に日蓮聖人が腰掛けた「赦免石」や袈裟を掛けた「袈裟掛けの松」など、ゆかりの史跡が残る。また、日朗上人が赦免状をとどける途中、風吹のため難渋し、師の名を呼んだという日朗坂は一宮神社のすぐ近くの県道の坂道である。
🔶佐渡に流された人物日蓮と佐渡における略歴日蓮は、文永8年(1271)、幕政批判や他宗派を攻撃したことが、悪口科の重犯(御成敗式目12条)という罪状に当たるとして、流罪が言い渡された。文永8年(1271)50歳9月12日 佐渡へ流罪の判決が決定される。龍ノ口法難を免れた日蓮は、佐渡の代官本間重連の館、相模国依智(神奈川県厚木市)に向かう。10月10日 相模国愛京郡依智の右馬尉の館を出、武蔵国久目河に着く。 10月21日 三国路を通って越後寺泊に着く。 10月27日 寺泊を船出。角田の地に流される。 10月28日 佐渡国松ヶ崎港に着く。 11月1日 本間重連の家の後ろ、塚原の小堂(塚原三昧堂)に入られる。(新穂・根本寺) 文永9年(1272)51歳1月16日、「塚原問答」が行われる。2月、「開目抄」を著す。 4月7日 石田郷地頭本間某のもとに移り一谷入道の家に入る。(佐和田・妙照寺) 文永10年(1273)52歳4月、「観心本尊抄」を著す。文永11年(1274)53歳2月14日 赦免の決定3月8日 赦免状が佐渡に到着する 3月13日 松ケ崎を出発したが海が荒れて真浦へ避難。 3月15日 柏崎に到着する。(柏崎市・番神堂) 3月28日 越後国府を経て鎌倉に到着する。 🔙戻る
≪角田の三題目≫文永八年(1271)佐渡へ流罪となった日蓮が寺泊から船出したが、嵐に見舞われ角田の磯に漂着した。上陸した日蓮は、近くの岩石に衆生結縁と龍神供養のために南妙法蓮華経の題目を書いたという。(岸の題目) そのとき現れた老翁に,付近に大きな岩穴があり、そこに七頭一尾の悪蛇が住み土民を悩ませていると聞き、日蓮聖人はこの悪蛇を教化に伏し、悪行を改めさせ、法華経の行者を守護するとの誓いをたてさせ、以後悪蛇は身延七面山に鎮座して、末法の鎮守として崇敬される七面大明神となったと伝えられる。この記念に再び老翁に願われて、近くの岩肌に『南無妙法蓮華経』のお題目を書かれました。(岩の題目) 岩屋の〝七つ頭の大蛇〟は後に『七面天女』として祀られている。 翌28日、日蓮聖人は波が静まったため佐渡に向かって船出したが、天候が急変し風と波が強まり、船が木の葉のように揺れて遭難しそうになった。その時日蓮聖人が船頭の使う棹で、波の上に題目を書くと、不思議なことに『南無妙法蓮華経』の文字が水面に浮かび上がり、海は穏やかに静まり、無事佐渡の松ヶ崎海岸に上陸することができたという。(波の題目) 合わせて『角田の三題目』とよぶ。 後の世正和2年(1313)に、日印上人が『角田の三題目』にちなみ角田浜に角田山妙法寺、角田山蓮華寺、角田山経王寺の一山三カ寺を建てた。 当時から角田浜は交通不便な地だったため、開創120年余の頃、蓮華寺は県内新発田市に移転して蓮昌寺と改称、経王寺は村上市に移転して現在に至りました。 妙法寺は妙光寺と改称されて現在に至っている。 🔹妙光寺三題目にちなみ妙法寺・蓮華寺・経王寺の一山三ヶ寺の一つとして、正和2年(1313)、日印(日蓮の孫弟子)が創建した。のちに蓮華寺と経王寺は移転し、妙法寺を妙光寺に改称した。
🔹七面天女の岩屋その昔、妙光寺付近に大きな岩穴があり、そこに七頭一尾の悪蛇が住み、住民を悩ませていた。日蓮聖人はこの悪蛇を教化し、悪行を改めさせ、法華経の業者を守護するとの誓いをたてさせたという。以後、悪蛇は身延七面山に鎮座して、末法の鎮守として崇敬される七面大明神となったと伝えられている。
🔹岸の題目跡道路事情の変化にともない、岸の題目跡にアクセスできなくなったため この地に銅像を建立した。岸の題目跡は像の下方にある。🔙戻る
≪硯水の霊井≫寺泊の町中、大町祖師堂の境内にある。鎌倉時代の文永8年(1271)、日蓮上人が佐渡島へ流される途中、7日間滞在した。寺泊で待つ間に上総国中山の弟子、日常にあてて有名な「寺泊御書」を書いて送った。そのとき硯水に使ったのがこの水だといい、今も清冽な清水を湧き出している。寺泊御書は、日常が開いた正中山法華経寺(千葉県市川市)に寺宝として現存している。祖師堂門前には寺泊御書を写した碑が建っている。 またここは、日蓮が日本海側で初めて民衆に向って辻説法をした霊地ともされている。霊井のかたわらに昭和39年信者によって造立された「日蓮上人獅子吼の説法像」がたっている。 硯水の霊井〔所在地〕長岡市寺泊大町8157 祖師堂境内〔アクセス〕
番神堂文永11年(1274)3月15日、日蓮は寺泊に上陸する予定であったが嵐にあい、柏崎の番神岬に流れ着いた。 着岸の地とされる岩場もある。(☛ 詳細)🔙戻る
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