日野資朝 Suketom Hino 佐渡市



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☆ 日野資朝 ☆

日野資朝 正応3年(1290)〔生〕 ~ 正慶元/元弘2年(1332)〔没〕

廷臣。権大納言日野俊光の子。
もとは花園天皇の蔵人であったが、後醍醐天皇に抜擢される。旧い価値観や固定観念を嫌う気鋭の資朝は、同じように自由な政治を目指す後醍醐天皇の理想と軌道を一つにした。31歳で蔵人頭に抜擢された頃から、後醍醐天皇に接近する。資朝は後醍醐天皇のもとで頭角を顕し、異例の速さで出世、参議から正中元年(1324)には権中納言に出世した。元享2年(1322)には、持明院統に仕える父俊光が、大覚寺統を助ける資朝を世間をはばかって絶縁している。
第14代執権北条高時の頃、幕府の実権は内管領長崎高資に移り、守護,御家人の心は、幕府に離反した。
時の後醍醐天皇は、理想政治の実践と皇位継承問題の解決のため、倒幕を目指した。そこで、近臣の日野資朝を東国に,日野俊基を近畿諸国に放ち、公領の武士、寺院を味方に引き入れようとしたが、計画が幕府に漏れた。
計画だと、9月23日に北野の祭礼がある。群集が集まって喧嘩・騒動が常例だから、探題の兵士たちがその警備にくりだす留守に乗じて六波羅を攻め、一方で叡山や南都興福寺に宣旨を下して鎌倉から攻め上る軍勢を、宇治と勢多で迎え撃つ、といった。ところが、出席していた土岐蔵人頼員という者が寄託して妻女に謀議を漏らしたことから探題の兵士の急襲を受けることとなる。
結果、日野資朝,日野俊基は六波羅探題に捕らえられ、資朝は佐渡に流罪となった。これが正中の変(1324年)と呼ばれるものだ。

佐渡は比企北条氏が守護をしており、相模から入部した本間氏が守護代を務めていた。
当時の守護代職は本間山城入道(本間泰宣又は有綱とも) で居館は波多郷にあったが、各地に自分の子供を配した。
二男頼綱は雑太(真野町竹田)に配された。資朝が幽閉されていたといわれる壇風城は頼綱の領地にあった(後の雑太本間氏)。
資朝卿書写の法華経が阿仏房妙宣寺に残っている。元徳3年(1331)資朝の母が病気を患い亡くなったといわれるから、写経もそれを契機として書かれたと思われる。佐渡に来島して8年がたっており、写経の細い文字を見ると、資朝の心細さが伝わってくるようだ。京都での家族の事や政治情勢は資朝にも細かく伝わっていたと思われる。

京都では、その後も倒幕計画は進められたが、元弘元年(1331)元弘の変で再び計画が露見すると、後醍醐天皇は大和の笠置山に籠城した。しかしながら、笠置山は落城し、後醍醐天皇は隠岐に流された。日野資朝にも配所の佐渡で斬首の命が下される。
「増鏡」には、これを聞いた資朝の様子が記されている。
「また元亨の乱れの初めに流されし資朝の中納言をも、いまだ佐渡の島に沈みつるを、このほどのついでに、かしこにて失なふべき由、預かりの武士に仰せければ、この由を知らせけるに、思ひ設けたる由言ひて、都に止めける子の許に、哀れなる文書きて、預けけり。すでに斬られける時の頌とぞ聞き侍りし。」
資朝は、すでに覚悟を決め、自分の運命を達観し、受け入れていたことがうかがえる。
また辞世の句は
「四大本無主 五蘊本来空 将頭傾白刃 但如鑚夏風」であったと伝わる。

流人が処刑されるのはきわめて異例であるが、これは、資朝が元弘の変の中心人物日野俊基とかつて謀議を実践した血盟の友であったからだと思われる。
佐渡で命令を実行したのは守護代職本間山城入道(本間泰宣)であった。壇風城に幽閉されていた資朝は、元弘2年(1332)6月2日、竹田川のグミの木川原で斬首された。国中平野の西部、真野湾の入り江近くに、入道の館といわれる檀風城跡がのこっている。


《墓所》

≪現地案内看板≫
日野資朝の墓

後醍醐天皇の正中二年(一三二五)十二月、日野資朝は北條高時のために佐渡に流され、壇風城に幽閉されること七年、元弘二年(一三三二)城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。
遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。
資朝は明治八年真野宮に合祀され同十七年に従二位を贈られた。

真野町教育委員会

遺品
  • 日野資朝筆細字法華経(重要文化財)
    〔所在地〕妙宣寺

❏〔ゆかりの地〕

檀風城跡

本間氏は、鎌倉時代佐渡国守護大佛氏の守護代として入国した。室町時代の雑太地頭といわれた本間氏の祖である。
本間氏の本拠は何度か移り変わるが、鎌倉初期の本拠は波多郷(現畑野)に居館がおかれていた(元の雑太城)。この地は律令時代の佐渡国衙の跡と推定される場所であり、本間氏が居館として再利用したものであろう。
低地に突き出た標高4mほどの台地に築いた単郭で周囲を取り囲んだ土塁が今も残る。
日野資朝を預かることになった本間山城入道(泰宣)は、この居館の牢内に資朝を幽閉した。
幽閉中の資朝が詠んだ歌「秋たけし檀(まゆみ)の梢(こずえ)吹く風に雑太(さわた)の里は紅葉しにけり」から、檀風城の名で呼ばれるようになったという物語は江戸時代にはいってつくられたもので、当時の呼び名ではない。
資朝の子阿新丸が父との面会を求め、山城入道を訪ねたのもこの居館である。

❏〔佐渡に流されたその他の人物〕

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本間氏

佐渡の雑太郷は国府がおかれる等、佐渡の中心地であった。鎌倉時代、本間氏は相模の国から守護代職として入国した。鎌倉幕府の滅亡とともに、室町時代には分家が力を持ち、雑太の本間惣領家は一地頭としての位置を保つにすぎなくなった。(雑太地頭)
本拠は何度か移されたが、真野の竹田に雑太地頭の本城が築城された。

雑太城(さわだじょう)

竹田城ともいわれる。築城時期は不明。佐渡本間氏の本城である。 竹田川を前面にめぐらせた台地部分に2郭を設けたもので、土塁や空豪跡が今も残る。
戦国時代になると、本城よりさらに南側に新たに築城され、天正17年(1589)上杉景勝の侵攻により廃城となったのはこの城である。上杉家重臣の直江兼続がこの城の跡地に一宇を造立した。現在の妙宣寺である。

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阿新丸 ( くまわかまる )

日野邦光 元応2年(1320)〔生〕- 正平18年/貞治2年(1363)〔没〕

阿新丸6歳のころ、正中の変(1325)おこり、後醍醐天皇の側近だった中納言日野資朝は、鎌倉幕府討伐の謀議に加わったことが、密告によって発覚し、捕らえられて佐渡に流された。その後一家は仁和寺の近辺に隠棲していた。
元弘2年/正慶2年(1332)資朝の一子阿新丸13歳のとき、父に会いたい一念で母の反対を押し切り、下僕一人を連れて佐渡に渡り、佐渡守護代本間山城入道に、父との対面を嘆願した。しかし、鎌倉幕府をはばかって山城入道は面会を許さなかった。このとき阿新丸がをたずねたのは、壇風城であったと思われる。
6月2日の夜、資朝は密かに輿に乗せられ、館から10町あまりの河原に移され、恐れる様子も無く敷き皮に座って斬首された。法談の相手をした僧が型通りの葬礼をして骨を拾い集め、阿新丸にその遺骨を渡したという。
生前の父との対面を許さなかった山城入道を深く恨んだ阿新丸は、ある暴風雨の夜、屋敷に忍び込み山城入道を斬って父の仇を報ぜんとするが、山城入道は不在、離れた部屋に子息三郎(入道の甥ともいう?)が寝込んでいたのでこれを刺し城外に逃れた。この異変を知った郎党たちの追跡を受け、松の木の陰に隠れて危うく難を逃れることができた。その時隠れたといわれる松の木が現存する。(阿新の隠れ松)
昼は麦畑や林の中で眠り、夜の闇に乗じて逃げまわり、山伏の棟梁大膳坊賢栄の助けで海を渡り、越後の親不知海岸に着いた。
越後へ上陸した阿新丸は、父の永眠する場所を探して歩いた。そうして由緒ある水保観音堂をたずね、住職の行為で境内に葬ってもらった。
そして数年後、再び観音堂を訪れ、父の菩提を弔うため多くの金品を寄進したという。
その後、阿新丸は日野邦光と名乗って吉野朝廷に仕え、南朝方として各地を転戦するも、上野頼兼によって討たれて亡くなった。
現在、観音堂の右側に小さい池をめぐらし、古い五輪等が苔むしている。地元の人は、これが資朝の墓だと言い、そばに「中納言資朝卿之墓」と書いた立て札が立っている。この観音堂の開基は、弘法大師だと言われている。


🔶阿新の隠れ松
討手に追い詰められた時に松の木の陰に隠れて危うく難を逃れることができた。
🔶水保観音堂
異説で日野資朝のものという墓がある
  • 〔所在地〕糸魚川市水保



大膳神社 ( だいぜんじんじゃ )



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後醍醐天皇

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私本太平記(二)

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