日野資朝 Suketom Hino 佐渡市
| 🔗本間氏 🔗阿新丸 🔗大膳神社 日野資朝 正応3年(1290)〔生〕 ~ 正慶元/元弘2年(1332)6月2日 〔没〕 日野資朝は、鎌倉幕府末期に後醍醐天皇の側近として倒幕計画の中心を担い、正中の変によって佐渡へ流され、配流先で斬首された廷臣である。公家社会の古い慣習にとらわれない自由闊達な人物として知られ、その信念を貫いて命を落とした姿は、やがて鎌倉幕府滅亡へとつながる時代の転換を象徴するものとなった。彼は建武の新政を見ることなく世を去ったが、その志と行動は後醍醐天皇の倒幕運動の礎となり、中世史に大きな足跡を残した。 名門日野家に生まれた青年資朝は正応3年(1290)、権大納言日野俊光の子として京都に生まれた。日野家は藤原北家真夏流に属する名門であり、代々朝廷で重職を務めた家柄だった。幼い頃から漢学や和歌を学び、宮廷文化の中で育った資朝は、若くして花園天皇の蔵人となり、宮中の実務に携わるようになった。しかし彼は、旧来の公家社会に安住する人物ではなかった。『徒然草』にも、その既成概念に縛られない性格をうかがわせる逸話が残る。形式や前例よりも実行を重んじる気質を持ち、新しい時代を求める気概を備えていた。その資質を見抜いたのが後醍醐天皇だった。後醍醐天皇との出会い当時の朝廷は、大覚寺統と持明院統による皇位継承争いに揺れていた。一方、政治の実権は鎌倉幕府が握り、天皇は名目上の君主に近い存在となっていた。後醍醐天皇は、この体制を根本から変えようと考えていた。幕府を倒し、天皇自ら政治を行う親政を実現しようという壮大な構想である。資朝はこの理想に強く共鳴した。31歳頃に蔵人頭へ抜擢されると、急速に昇進を重ね、参議を経て元享4年(1324)には権中納言となる。異例ともいえる出世だった。しかし、この出世は父との決別も意味した。父俊光は持明院統に仕える立場だったため、大覚寺統の中心人物となった資朝との関係を世間体から絶たざるを得なかった。元享2年(1322)、父子は絶縁したと伝えられる。資朝は家よりも、自ら信じた理想を選んだのである。正中の変への道鎌倉幕府第14代執権北条高時の時代になると、幕府政治は大きく揺らいでいた。実権は内管領長崎高資が握り、多くの御家人や守護の不満が高まっていた。後醍醐天皇は、この幕府の弱体化を好機と考え、密かに倒幕計画を進める。資朝は東国で武士勢力との連携を担当し、日野俊基は近畿で寺社や武士の協力を集めた。計画は周到だった。正中元年(1324)9月23日の北野祭礼では、多くの群衆が集まり騒動が起こるのが恒例だった。その混乱で六波羅探題の兵が分散した隙に京都で挙兵し、比叡山や興福寺にも綸旨を送り、鎌倉から攻め上る幕府軍を宇治・勢多で迎え撃つ構想だった。しかし、この計画は思わぬところから漏れる。会議に参加していた土岐頼員が妻へ秘密を打ち明け、その情報が幕府へ伝わったのである。六波羅探題は関係者を急襲し、資朝と俊基は捕らえられた。これが「正中の変」である。計画は未遂に終わったものの、朝廷が幕府へ本格的に挑戦した最初の事件として歴史に刻まれた。資朝は死罪ではなく、佐渡への流罪を命じられた。 遠い島への流罪正中2年(1325)、資朝は佐渡へ送られた。当時の佐渡は比企北条氏が守護を務め、その下で本間氏が守護代として島を支配していた。守護代は本間山城入道(本間泰宣)とされる人物で、一族を島内各地へ配置して支配を固めていた。資朝が預けられたのは雑太郷にある壇風城だった。現在も真野湾近くに城跡が残るこの場所は、国中平野西部を見渡す要地であり、高貴な流人を監視するには適した場所だった。しかし、資朝の生活は牢獄に閉じ込められた囚人のようなものではなかった。厳重な監視下にはあったものの、城内での生活は許され、読書や和歌、写経を行うこともできた。城の周辺を散策する程度の自由もあったと考えられている。『太平記』や佐渡の伝承では、秋の景色を眺めながら
佐渡での七年間佐渡での七年間は、資朝にとって孤独との戦いだった。都の華やかな宮廷生活から隔絶され、帰京の望みも薄いまま歳月が流れた。それでも彼は絶望だけに支配されたわけではない。配流中の生活で最も重要なのが法華経の書写である。元徳3年(1331)、資朝は父俊光と母の追善供養のため、『細字法華経』八巻を書き上げた。縦わずか約5.8センチ、長さ約14.5メートルにも及ぶ巻物に、一行16文字という驚くほど細かな楷書で記された写経は、現在も妙宣寺に伝わる国の重要文化財となっている。奥書には父母の功徳増進を願う思いが記され、細く整った文字からは、都に残した家族を思い続けた資朝の心情が伝わってくる。特に1331年には母の死が伝えられたとされる。遠く離れた島で親の最期に立ち会えなかった悲しみが、この写経へ込められたとも考えられている。僧との交流資朝は完全に孤立していたわけではなかった。妙宣寺の前身となる阿仏寺では、日満上人と法談を交わしたと伝えられている。日満は資朝に法華経の書写を勧め、精神的な支えとなった人物ともされる。また、資朝が処刑された後には葬儀を執り行い、その遺骨を息子へ託したという伝承も残る。佐渡での生活は監視下に置かれた流人生活だったが、仏教への信仰を深め、人との交流を通じて心の平穏を保とうとしていたことがうかがえる。 都を思い続けた日々佐渡は都から遠く離れた島だったが、政治の動きは島にも伝わっていた。後醍醐天皇が倒幕を諦めず準備を続けていることや、家族の消息も資朝の耳に届いていたと考えられる。彼は希望を完全には失わなかった。もし再び都へ戻れる日が来るなら、その時は再び天皇を支えようという思いを抱き続けていたのだろう。しかし運命は、その願いをかなえなかった。元弘の変と死の命令元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再び倒幕を企てる。天皇は大和の笠置山へ立てこもったが、幕府軍によって落城し、自身も隠岐へ流された。幕府は、この機会に倒幕関係者を徹底的に排除しようとする。佐渡の資朝にも斬首命令が届いた。流人が配流先で処刑されることは当時きわめて異例だった。通常、流罪とは命を奪わず社会から隔離する刑だったからである。それでも資朝が処刑されたのは、日野俊基と並ぶ倒幕運動の中心人物であり、再び乱の火種となることを幕府が恐れたためと考えられている。『増鏡』には、その知らせを受けた資朝の姿が描かれている。資朝は取り乱すことなく、都に残した子へ手紙を書き、それを託したという。すでに自らの運命を受け入れていたのである。辞世に込めた覚悟処刑に際して資朝は漢詩形式の偈頌を残したと伝わる。
竹田川で迎えた最期元弘2年(1332)6月2日。資朝は壇風城から竹田川河原へ連行された。処刑地は「グミの木川原」と呼ばれる場所だったという。命令を実行したのは守護代本間山城入道だった。資朝は43歳でその生涯を閉じた。息子の阿新丸(後の日野邦光)は、父が処刑されると聞いて13歳で佐渡へ渡り、本間山城入道に父との最後の対面を願い出た。しかし本間は情けを示して館に泊めたものの、父子の面会だけは許さなかった。父子はわずか数町の距離にいながら生きて会うことはかなわず、処刑後に阿新丸へ渡されたのは父の遺骨だけだった。阿新丸は「今生の対面遂に叶わず」と嘆き悲しみ、その後、父の仇を討つ決意を固めた。皮肉にも、その翌1333年、新田義貞が鎌倉を攻め、足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡した。もし資朝があと一年生き延びていれば、後醍醐天皇のもとへ帰還できた可能性もあった。彼は新しい時代の夜明けを目前にして命を落としたのである。 後世へ受け継がれた遺産日野資朝は建武の新政を見ることなく世を去ったが、その存在は後醍醐天皇の倒幕運動の出発点として大きな意味を持つ。正中の変は失敗に終わったものの、その経験は元弘の変へ受け継がれ、やがて幕府滅亡への流れを生み出した。佐渡には現在も壇風城跡、竹田川の処刑地、妙宣寺に伝わる『細字法華経』など、資朝ゆかりの史跡が残る。 父との絶縁、七年間の配流生活、家族を思いながら書き続けた写経、静かな辞世、そして竹田川での最期。 その一つ一つは、権勢や栄達ではなく、自ら信じた理想を最後まで貫いた一人の廷臣の生涯を物語っている。 武力ではなく信念によって時代を変えようとした日野資朝は、日本中世史における悲劇の先駆者として、今も佐渡の地にその記憶を刻み続けている。
❏《墓所》
≪現地案内看板≫
日野資朝の墓 後醍醐天皇の正中二年(一三二五)十二月、日野資朝は北條高時のために佐渡に流され、壇風城に幽閉されること七年、元弘二年(一三三二)城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。 遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。 資朝は明治八年真野宮に合祀され同十七年に従二位を贈られた。 真野町教育委員会 ❏遺品
❏〔ゆかりの地〕 檀風城跡本間氏は、鎌倉時代佐渡国守護大佛氏の守護代として入国した。室町時代の雑太地頭といわれた本間氏の祖である。本間氏の本拠は何度か移り変わるが、鎌倉初期の本拠は波多郷(現畑野)に居館がおかれていた(元の雑太城)。この地は律令時代の佐渡国衙の跡と推定される場所であり、本間氏が居館として再利用したものであろう。 低地に突き出た標高4mほどの台地に築いた単郭で周囲を取り囲んだ土塁が今も残る。 日野資朝を預かることになった本間山城入道(泰宣)は、この居館の牢内に資朝を幽閉した。 幽閉中の資朝が詠んだ歌「秋たけし檀(まゆみ)の梢(こずえ)吹く風に雑太(さわた)の里は紅葉しにけり」から、檀風城の名で呼ばれるようになったという物語は江戸時代にはいってつくられたもので、当時の呼び名ではない。 資朝の子阿新丸が父との面会を求め、山城入道を訪ねたのもこの居館である。 🔙戻る
本間氏佐渡の雑太郷は、古代から国府が置かれるなど、島の政治・行政の中心地として発展した地域である。鎌倉時代になると、相模国を本拠とする本間氏が佐渡へ入り、守護代職を務めるようになった。本間氏は島内各地に一族を配置して勢力を広げ、佐渡の有力武士として大きな力を持つに至った。鎌倉幕府滅亡後の室町時代には、本間氏の分家が各地で勢力を伸ばしたため、雑太の本間惣領家は次第に勢力を失い、一地頭としての地位を保つ程度となった。このため「雑太地頭」と呼ばれるようになった。本間氏の本拠地は時代によって移されたが、最終的には真野の竹田に雑太地頭の本城が築かれ、周辺地域を支配する拠点となった。雑太城(さわだじょう) ※GOOGLE 画像竹田城ともいわれる。築城時期は不明。佐渡本間氏の本城である。 竹田川を前面にめぐらせた台地部分に2郭を設けたもので、土塁や空豪跡が今も残る。戦国時代になると、本城よりさらに南側に新たに築城され、天正17年(1589)上杉景勝の侵攻により廃城となったのはこの城である。上杉家重臣の直江兼続がこの城の跡地に一宇を造立した。現在の妙宣寺である。 🔙戻る
日野邦光 元応2年(1320)〔生〕- 正平18年/貞治2年(1363)〔没〕 |
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蓮峯王山妙宣寺 雑太城
檀風城跡
大膳神社