椎谷陣屋跡 Shiiya Jinya Ruins 柏崎市
🔗椎谷藩と戊辰戦争 🔗灰爪の戦い椎谷藩・椎谷陣屋椎谷藩は、徳川二代将軍秀忠に仕え、大坂の陣による軍功を認められた堀直之が椎谷に5500石を与えられたのが始まりである。直之は、慶長3年(1598)に春日山城(上越市)主となった堀秀治の与力大名として越後入りし、名臣と称された堀直政の四男である。直之は江戸定府のまま超願寺(西山)に仮陣屋を設け統治した。直之は椎谷藩の藩祖とされている。元和5年(1619)出張陣屋は椎谷の唐箕前に移された。 寛永19年(1642)、直之の子直賀のとき、上総国4000石、甲斐国など2000石を合わせ、11500石を領有したが、その内1500石を弟に分治し、椎谷藩1万石が成立した。 元禄11年(1698)、4代(初代藩主)堀直宥が関東と越後の領地をまとめる形で越後の沼垂・三島・蒲原(現在の刈羽)三郡内にかけて1万石を与えられ、椎谷の地に陣屋を置いて居住する初代藩主となる。 正徳5年(1715)、5代(2代藩主)直央の時に、柏崎市の北端、日本海沿いに低い家並みを連ねる椎谷の街の背後、海抜20mほどの台地上の現在地に移された。 寛政4年(1792)に藩主著朝のとき、天明義民事件がおき、幕府の裁定の結果、著朝の隠居と、信濃国高井郡六川村に領地5000石の半知替え処分が下された。このとき、信濃国高井郡六川村に六川陣屋が設けられている。
新潟県指定文化財・史跡
椎谷陣屋跡 椎谷陣屋跡は、柏崎市大字椎谷字打越に所在する。江戸時代に椎谷地区ほか刈羽郡の一部などを領した椎谷藩(一六一六 - 一八七一)が設けた陣屋跡である。藩祖の堀直之は、草創期の幕閣に参画し、江戸町奉行や寺社奉行などの重要な役職に就いた。歴代の藩主も若年寄や大番頭、奏者番などの要職を勤めている。石高は五千五百石であったが、のちに一万石となった。藩主は江戸定府であったため、領内の統治は陣屋にて行った。当初、椎谷藩は西山町妙法寺の超願寺を仮陣屋としていたが、元和五年(一六一九)には椎谷に陣屋を設けた。その後、元禄年間には椎谷字「唐見の前」に移されたという。現在の字「打越」に構えたのは、正徳五年(一七一五)、五代直央の時代である。 陣屋は、日本海を望む独立丘陵上にあり、麓には北国街道(現国道)に沿って展開した椎谷の町屋が広がっている。丘陵は約一五〇m×約三〇〇mの大きさで、内部には郭状の平坦地が造成されている。約三千坪の範囲に、かつては陣屋を構成する各施設が築かれている。
陣屋の中心となるのは、丘陵頂部の平坦面である。平坦面は五三m×七〇mと広く、現在石碑のある付近に藩邸が構えられ、その左手に砲術稽古場、正面に馬場などが設けられた。海側は、長さ九〇m、高さ四mを測るL字状の土塁によって囲まれている。敵襲や浜風に備えたものであろう。また、中心部に隣接して階段状に郭が設けられている。上から武器庫・籾蔵・役所・長屋などが続いていた。長屋は藩士等の居住地であり、上級藩士の屋敷などとともに陣屋の中心を取り巻いている。そのほか、陣屋には表門・裏門があったとされる。 表門は、砲術稽古場の近くにあり、石段を下ってクランク状の通路を経ると街道へ至る(大手)、裏門は、武器蔵の海側にあり、斜面を下ると同じく街道へ至る(搦手)。 慶応四年(一八六八)、陣屋は戊辰戦争によって全焼したため、当時の建物などは残されていない。しかし、現在も地元では「お屋敷」と呼ばれている。また、土塁や郭といった遺構が良好に保存されており、江戸時代の面影をみることができる。 平成二十二年十一月吉日 柏崎市教育委員会 🔙戻る
椎谷藩と戊辰戦争水戸藩家老で門閥派(諸生党)の市川弘美(三左衛門)は藩の実権を掌握して、改革派(天狗党)関係者を徹底的に処罰した。徳川慶喜が大政奉還したことによって、改革派が実権を握ることが必至となったことから、慶応4年(1868)4月、諸生党約500名を率いて水戸を脱出し、会津を経由して越後に入り、出雲崎に陣を置いた。市川勢は閏4月27日鯨波戦争を戦い退却後、いったん出雲崎に引いて、その後5月3日妙法寺に本営をおいて椎谷藩の陣屋にのりこんだ。 椎谷藩は兵の多くが江戸にいたので交戦もできず、藩士が敵の囲みを通り抜け、ひそかに新政府側に内通し援軍を要請した。密使を送られた海道軍は、5日、薩長藩兵が唐見の前に陣を構え猛烈な砲撃により椎谷陣屋に総攻撃をかけた。不意をつかれた市川勢は陣屋や椎谷岬の天秤山で防戦したが、防戦一辺倒になり、17人の死者と7人の負傷者出して観音峠から石地方面に敗走した。諸生党として水戸を出て、初めての戦死者となった。中には、大目付萩昌介、大番組磯野長兵衛がいた。この戦いが諸生党の長く続く悲劇の始まりとなった。 5月6日の夕刻、市川勢は、薩長の兵が引き上げたことを聞き、再び椎谷へ進撃してきた。先に椎谷陣屋が新政府軍へ内通したことを恨み、椎谷陣屋に火をつけたため、藩主邸・役所・上の米蔵・下の米蔵・武器庫・長屋5棟が全焼した。椎谷の民家は、1軒を残し約100軒が焼失した。 🔙戻る
灰爪の戦い(薬師峠の戦い)新政府海道軍は出雲崎制圧に向かう兵を分けて、本隊は長岡方面向へ向かい、2500名の新政府軍が5月10日宮本に到着する。別山村(西山町)荒谷口に宿陣した会津藩結義隊80名の内、井上哲作隊20名と水戸諸生党の45名が西山連峰(丘陵)の薬師峠に陣を置き、別山村の結義隊渡部隊と連携して、新政府軍の様子を伺った。 薬師峠は、出雲崎と与板、長岡へ通じる交通の要衝で、柏崎から長岡関原に向け長岡街道を進軍する新政府軍の補給路を側面から攻撃できる位置にあった。 5月13日夜、別山村の庄屋高橋甚次郎が、会津の陣に訪ねてきて同盟軍側の大砲や兵力の配備状況を聞きだした。会津軍は新政府軍の攻撃があっても撃退するので、住民が動揺しないようにという配慮から教えたといわれる。 庄屋高橋甚次郎は、そのまま坂田村(西山町)円満寺に宿陣中の高田藩に会津藩・水戸藩兵の布陣を通報した。これを受けて高田藩は直ちに妙法寺村に滞陣する新政府軍の長州藩参謀に報告した。新政府軍は斥候と、加賀藩1個小隊を坂田村に向かわせた。 5月14日、この日は早朝から大雨であった。 新政府軍は長岡関原の本営に滞陣する高田藩の大隊長竹田十左衛門に薬師峠の会津兵の討伐を命じた。竹田は早速若干の薩長兵を加え300余名で出発。 この時、峠を守備していたのは井上哲作外9名の会津藩士がいただけで、残りの兵は雨と寒さを避けて麓で休息していた。 新政府軍は夜陰に乗じて兵を進め、夜明けとともに三方から峠の頂上目指して攻めあがった。井上哲作隊は、多勢に無勢、逃げるように退却し、水戸藩諸生党筧政布隊が滞陣する灰爪村向山に向かった。薬師峠に達した新政府軍はさらにその会津兵を追撃し、灰爪村に向かって進撃した。 一方、長州一個小隊が妙法寺村本陣より灰爪村へ向け出発、途中坂田村の加賀藩一個小隊と合流する。 (灰爪の戦い)結義隊井上哲作は、椎谷から敗走してきて灰爪村向山に陣を置いた水戸藩諸生党筧政布と作戦を協議し、一端、灰爪の陣を払い、水戸藩朝日奈弥太郎隊がいる市野坪村正法寺に向かい、兵を合併し、450名の兵で体制を整え、灰爪村へ引き返した。そこはすでに薩摩・高田藩兵などが小高い丘を占領していたので、水戸藩兵はこれを奪取しようと、雨が降る中突撃を開始した。接近戦となり水戸藩兵は刀槍で戦い、ついに駆け上がって一応勝利した。 しかしやがて小高い丘は増援の長州・加賀藩兵に取り囲まれてしまった。砲撃がはじまると、水戸藩兵は弾雨にさらされることになった。水戸勢の銃が旧式銃に対して、新政府軍が新式銃で戦ったことから到底太刀打ちできなかった。戦死者は65人に達し、負傷者も多かった。水戸藩兵は市之坪・石地を通り出雲崎方面へ脱出して、灰爪の激闘は終わった。筧の弟平三郎や郡奉行岡野荘七郎が戦死した。北越での水戸藩諸生党の戦いの中で、最大の犠牲者を出した激戦であった。諸生党撤退により、信濃川左岸には新政府軍の行く手を阻む者がいなくなった。 それまで平和な小山村に暮らす村人たちにとっては、このような激闘が繰り広げられるのを見るのも、又、山のように積み重なった死体を見るのも初めてのことであった。村人たちは、戦死した水戸藩兵士の遺体を集めて土を盛った塚を造り、手厚くとむらった。塚は向山の上り口に2基、頂上に4基ある。 昭和52年(1977)、4体の遺骨が灰爪の畑から発見された。新潟大学医学部解剖学第一教室で鑑定された結果、30歳前後で身長165cm前後の男性、30歳代後半で身長149cm前後の女性、20歳代前半で身長151cm前後の女性と男性と思われる右上腕骨と判明した。遺骨の人物については特定されていない。この場所が周辺を見渡せる高所であることから、戦いの様子を伺っていた人が戦いに巻き込まれたとも考えられる。 遺骨が発見された場所には、地元住民らの尽力によって、平成元(1989)年10月12日に供養塔が建立された。供養塔は鎮魂のため水戸の方角を向いて建てられた。 (☛ 出雲崎陣屋と戊辰戦争)
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