出雲崎代官所(出雲崎陣屋) Izumozaki Jinya Remains 出雲崎町



出雲崎代官所 出雲崎陣屋と戊辰戦争
🔗御金荷の道

江戸初期、堀・松平忠輝藩時代とも、佐渡金銀の船着場として代官に支配させていたが、元和2年(1616)幕府は直轄領として、初代代官として高田小次郎を任命し、3万1千石を管轄させた。出雲崎陣屋の任務は、佐渡金銀の揚陸と出雲米の佐渡回送であった。

良寛の生家橘屋に近く、町の中央に位置する上杉氏時代の陣屋の場所(秋田屋敷)が、越後で最初の天領代官所となった。
初代代官高田小次郎は、民衆の力の強かったこの町を「出雲崎」と「尼瀬」の2つに分け、それぞれに名主(橘屋(山本家)・京屋(野口家))を置いて統治した。寛永3年(1706)頃の代官所支配地は8万9千石に及んでいた。(橘屋の屋敷跡に現在良寛堂が建っている。)

佐渡の金銀の陸揚げ地であり 北前船の寄港地 北国街道の宿場町として物資の交流も盛んで、街並みの中にあった代官所では手狭であったことから、寛永2年(1624)2代目代官松下勘左衛門は、それまで出雲崎町の秋田屋敷にあった代官所を、京屋与右衛門家があった尼瀬町の稲荷町に移転する。
これは、出雲崎から分立した尼瀬町名主(京屋)の働きかけが功を奏したのであり、この後、尼瀬の築港によって御備米の船積み、佐渡鉱山の金・銀の受け渡し、荷造り・伝送などの業務が尼瀬側に移り、出雲崎側の衰微を招いた。しかし、依然「出雲崎陣屋」と公称された。

享保9年(1724)、地滑りで陣屋は被害を受けた。この年、陣屋支配地の村々は長岡藩預領となり、出雲崎陣屋は廃止された。

宝暦13年(1763)、再び幕府領に戻り、代官風祭甚三郎のもと、京屋の働きかけで再び尼瀬の稲荷町陣屋が復活した。この時出雲崎側の名主で良寛の弟・由之は代官所を出雲崎に復帰する運動を起こす。しかし父・以南の時代にすでに橘屋の没落はきわまっており、京屋との争いに勝てる力もなくなっていた。以南は家業に対する情熱を失って、最後は京都で自殺している。そればかりか出雲崎では廻船問屋敦賀屋が影響力を増し、橘屋は名ばかりの名主となった。また、陣屋はこのころから「出雲崎代官所」と呼ばれるようになった。

天明8年(1788)、出雲崎支配の村々は高田藩預所となり、陣屋は廃止。寛政12年(1800)幕領に復帰するが、文化元年(1804)支配地は白河藩領となり陣屋は廃止される。白河藩は柏崎に陣屋をおいた。
文化12年(1815)支配の村々は幕領に戻り陣屋は復興した。出雲崎陣屋再興にあたり、現在の陣屋跡地である尼瀬地内に建築移転された。

文化7年(1824)、橘屋由之が家財取上げ、所払いの処分を受けた後、敦賀屋(鳥居氏)が出雲崎の名主となった。(敦賀屋鳥井家の屋敷跡は現在芭蕉園となっている。)
1839年(天保10)の記録によれば、青山九八郎代官は、100俵5人扶持、役人数は代官所詰め10人、支配領は1838年(天保9)で7万1289石である。

慶応4年(1868)戊辰戦争の際に新政府軍の攻撃を受け、建物は焼失した。
現在、元和創建の陣屋跡地は代官所跡案内板が建つのみであるが、文化再興の陣屋跡地には「出雲崎代官所跡」の石碑が建ち、石積みの一部が残る。周辺には代官稲荷、獄門跡もある。また近郊の「天領出雲崎時代館」でも代官所の一部を再現している。


≪事件録≫
●天明3年(1783)11月2日- 柿崎米騒動おこる
天明飢饉の影響は柿崎にもおよび、米が高騰し、農民の困窮はひどく、その惨状は目に余るものがあった。
柿崎村(現上越市)の漁師重左衛門、善三郎ら数名が同志をつのり、夜、法螺貝を吹いて蜂起した。近隣の農民も加わり400名に膨れ上がった一団は、上小野村の富豪木村家に押し入り、家具家財を打ち壊し、火をつけ立ち去った。
当時柿崎村は天領であったことから、出雲崎代官風祭長三郎は自ら与力・同心数名を引き連れて柿崎に急行、治安の回復、犯人の逮捕、事件の真相糾明にあたり、関係者数十人が捕縛された。首謀者として重左衛門が磔刑に処された。天明5年(1785)7月27日その他のものに処分が言い渡され佐渡と八丈島へ遠流が各1名、所払いが若干、残りが訓戒のうえ放免となった。




≪獄門跡≫  ※GOOGLE 画像

佐渡の金銀を運ぶ重要な港だった出雲崎には、牢屋と極刑執行所も設けられた。江戸幕府直轄の出雲崎代官所が、文化5年(1808)に稲荷町から移転した時、一緒に罪人の処刑場もここへ移された。その処刑場跡が獄門跡として残っている。
処刑人の霊を慰めるためにお地蔵様が安置されており、天明3年(1783)の建立と言われる供養塔と、老榎が当時を偲ばせる。現在でも霊を慰めるため、毎年9月1日に尼瀬町内の人達によって、このお地蔵様の前で百万遍講が行われている。
獄門跡の脇を流れる小川は、そこで斬首した犯罪人の首を洗ったことから洗い川と呼ばれた。
良寛の名主見習役の時に処刑に立ち会ったことが、良寛の出家の動機になったとの説がある。

≪代官所稲荷≫

代官所の守護神として建立された。文化5(1808)年に代官所が稲荷町から移った際に移設された。「陣屋稲荷」ともいう。

≪天領出雲崎時代館≫

道の駅
江戸時代の家並みを再現。江戸時代の栄華と情緒とを存分に満喫できる。また、オーシャンビューのレストラン、物産販売店などもある。



佐渡御金荷の道

江戸幕府は、佐渡で産出した金を江戸まで安全かつ迅速に運搬するルートとして、北国街道、三国街道、会津街道の3つの街道を整備した。これらは佐渡三道と呼ばれた。
江戸まで最短の道のりの三国街道は三国峠を筆頭にした険阻山道が続き、佐渡御金荷の輸送には不向きで、もっぱら北国街道が用いられた。
三国街道と会津街道は北国街道に不都合があった事態を想定した予備の道として整備された。実際に利用されることはほとんどなかった。三国街道が、寛延4年(1751)の高田地震が発生した際に1回のみ利用された。

佐州御金荷は、1箱13貫目(49kg)とし、100箱、200箱単位で小木湊で船積みし、日本海を渡って出雲崎で陸揚げされた。出雲崎では、代官所役人立会いで、出雲崎港で荷下ろしし、一旦御金蔵に納め、2~3日後100頭を超える車馬に載せて、御用札を立て、北国街道を江戸に出発した。
北国街道は、出雲崎から高田を経由し小諸を経て、信濃追分で中山道に合流する街道で、佐渡から船で船で出雲崎に運ばれた「御金荷」は、初日は石地・椎谷・宮川・柏崎・鯨波を通り、鉢崎の御金蔵に保管され泊りとなった。2日目は柿崎・潟町・黒井・春日新田を通り高田城下の御金蔵に保管され泊りとなった。3日目は新井・二本木松崎・関山・二俣田切・上原関川を通り信州野尻宿の御金蔵に保管され泊りとなり、善光寺門前を経て、11日目に江戸に到着し、継ぎたてられた御金荷が江戸城内御金蔵に収納された。

御金荷は毎年春・秋の2回、江戸に向かったという。五街道以外の脇街道の物資輸送に使われる人馬は、宿場ごとに1日に25人・25頭までの負担と定められていた。しかし、御金荷のように多数の馬が必要kとなると一宿毎の継ぎ立ては不可能なため、出雲崎宿と春日新田宿以外は隣接宿と合同で、または数宿が一緒となって継ぎたてを行った。
道中はもとより宿泊地の御金蔵の警備は厳重であった。各宿への助成のために郡内の村々に「佐州割」などの負担を村高に応じてかけた。

また、安永7年(1778)以降、北国街道は、江戸から佐渡送りとなった無宿人たちが目籠に入れられ護送された。各宿場では人足負担を強いられ、近郷村々からの助郷人足も強いられた。地元の記録の中には無宿人逃亡の記事もある。佐渡に送り込まれた水替え人足は、幕末までに合計2000人を超えたとされる。

幕府は、松平忠輝の高田藩が改易となった元和2年(1616)、高田藩領だった出雲崎を直轄領とし、出雲崎代官所を設置し、佐渡相川で産する金銀「佐州御金荷」を、江戸に向け陸送するための中継地として重要視した。
1604(慶長9)年に幕府が日本橋を起点に五街道を整備した際、北国街道にも一里塚を築かせている。脇街道としては異例のことで、この一例からも幕府がいかに北国街道を重視していたかを伺い知ることができよう。

🌌御金荷
元禄13年(1700)の場合、6月3日に出雲崎を出発した御金荷の量は銀110箱で55頭の馬に積んだ。一疋二箱でその重さは75キログラムと算出できる。警護人その他荷物運搬として21頭の馬が使われ合計76頭となっている。江戸時代初期の慶長(1613)から元和元年(1623)までの佐渡金銀の産出量は元禄期の3.6倍であったという。

🌌御金蔵
御金蔵は明治初期(明治6年頃)に解体され、現存する建物がないので構造についての資料は少ない。出雲崎の御金蔵が「二間×三間」程度の蔵だったという資料がある。「金銀塊」を管理する蔵なので、一般の穀物や物資倉庫よりもさらに堅牢・防犯性を重視した構造。扉や開口部は少なく、蔵内の床は湿気や火災対策で石を敷いた可能性があり、外壁は漆喰塗りで火災・湿気に強く、夜間や休暇時には厳重な警備・見回り体制が敷かれたという記録もある。入口には重い板戸や鉄具を付けて、複数人が異なる鍵を持ち、一人では開けられない態勢であった。
御金蔵は、出雲崎宿は「金銀御用小路」、鉢崎宿は関所付近に、高田宿は安養寺の付近にあったといわれている。

🔳御金荷関連施設
出雲崎御用小路(金銀小路)
佐渡から海上を輸送した金銀の陸揚げに使用された道だったというのが、名の由来だという。

🌌「佐州割(さしゅうわり)」
「佐州割」は、江戸時代に佐渡金山で産出された金銀を江戸へ輸送する際に、その輸送の負担を北国街道の宿場間で分担した制度(仕組み)を指す。佐渡奉行所から産出された金銀を安全かつ確実に江戸まで運ぶ必要があり、そのための公定の輸送ルートと仕組みが確立された。
金銀の輸送は、佐渡奉行所の役人によって行われ、江戸へ運ばれた。この際、街道沿いの宿場町が、人足や馬丁、宿泊などの費用や労力を一定の負担割合(割)で共同して負担した。これが「佐州割」と呼ばれる。この輸送は公儀の御用として行われたため、宿場にとっては本来の業務に加え、無賃または低賃金での対応を強いられることもあり、大きな負担となっていた。

❶北国街道御金荷経由宿場町
出雲崎宿🏠 ⇉ 鉢崎(柏崎)宿🏠 ⇉ 潟町宿 ⇉ 黒井宿 ⇉ 高田宿🏠 ⇉ 新井宿 ⇉ ⇉ ⇉ (信州国)
🏠は御金蔵

❷三国街道経由 出雲崎宿 ⇉ 与板宿 ⇉ 長岡宿 ⇉ 堀之内宿 ⇉ 浦佐宿 ⇉ 六日町宿 ⇉ 塩沢宿 ⇉ 関宿 ⇉ 湯沢宿 ⇉ 三俣宿 ⇉ 二居宿 ⇉ 浅貝宿 ⇉ ⇉ ⇉ (上野国)

❸会津街道経由 寺泊宿 ⇉ 弥彦宿 ⇉ 新潟宿 ⇉ 新発田宿 ⇉ 赤谷宿 ⇉ 津川宿 ⇉ ⇉ ⇉ (会津藩)
















国別城郭・陣屋・要害・台場事典

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  • 作者:西ケ谷恭弘
  • 出版社:東京堂出版
  • 発売日: 2002年07月

地図と写真から見える!日本の街道歴史を巡る!

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