良寛 Ryokan 出雲崎町
宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕〔生〕 - 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕〔没〕(幼少年時代~光照寺時代)良寛は宝暦8年(1758)三島郡出雲崎町石井町の名主、兼石井神社の神官も兼ねていた橘屋山本以南の長男として生まれた。生誕年については宝暦8年が通説であるが、宝暦9年生まれという説もあり、確定されていない。母の秀子は、佐渡相川の山本家から養女に、父の以南は、三島郡与板町から養子に来た人であった。祖父新左衛門に嗣子がなかったため、両養子を迎えたのである。以南には良寛を長男として四男三女があった。 父以南は国学、俳諧に才があり、諸国の文人と交友があった。尼瀬の名主京屋との勢力争いに敗れ、51歳で隠居して諸国を遊歴し、寛政3年(1791)京に上り、同7年『天真録』を著して、60歳を一期に桂川に身を投じられたと伝えられる。 良寛の弟妹も、いずれも文学的素養に優れていたが、いずれも世事に疎く、領民掌握の術に欠け、商売敵の京家との間の政争や訴訟に敗れ、橘屋は衰退の一途をたどった。 良寛の弟由之が兄に代わって家業をついたが、文化7年(1810)11月、町政と訴訟事件で失脚し、家財取り上げ、処払いの処断を受けている。 良寛は幼名を栄蔵といい、性格は温和であったが社交性に欠け、昼行灯とあだ名されるほどだった。 幼少時の逸話として、父以南を上目遣いで見た良寛は「親をにらむとカレイになるぞ」と叱られた。それを信じた良寛は、変身したら海に飛び込もうと、じっと海岸に座り込んでいたという逸話は象徴的である。 しかし幼時から読書を好み、13歳の頃から地蔵堂の大森子陽の狭川塾に儒学を学び、16歳で元服、名主見習となった。しかし、18歳のとき家督を弟由之に譲り、家を捨てて出雲崎尼瀬の光照寺、玄乗破了和尚の下で剃髪した。 良寛の出家の動機としては、正直一途な良寛にとって、政治的駆け引きの必要な名主職が耐えがたかったのではないかと言われている。 橘屋の言い伝えでは、良寛が18歳のころ、出雲崎名主見習いとなったが、あるとき代官と漁民との間に紛争が起こり、良寛は仲裁しようとして、代官にたいしては漁民の悪口雑言をそのまま上申し、漁民に向かっては代官の侮蔑を飾りなく伝達したため、両者の怨恨はますます激化するばかりであった。代官は良寛の愚直を譴責したところ、彼は「不直不実はわがなしうるところにあらず」として直ちに出家した、という話である。 (円通寺時代~西国行脚時代)安永8年(1779) 22歳の時国仙和尚に従って備中玉島に赴き10年間修行に励んだ。当初、良寛も僧として立身出世を考えたらしいが、その後、修業を重ねるうち、名利の道を捨てて、清貧に、自然を愛で、慈悲の心で生きることが、真の仏道であると考え至った。良寛の漢詩「憶在圓通時」が当時の様子を伝えている。 「憶う円通に在りし時 常にわが道の孤なるを歎きしを 薪を搬んでは龐公を憶い 堆を踏んでは老盧を思う 入室あえて後るるにあらず 朝参つねに徒に先んず 一たび席を散じてより 悠々三十年 山海中州を隔て 消息人の伝うる無し 恩に感じて終いに涙有り 之を水の潺湲たるに寄せん」 厳しい修行に耐え、寛政2(1790)年33歳で師から印可の偈(げ゙)を与えられる。 「良や愚なるごとく 道うたた寛し 騰々任運 誰か看を得ん 為に附す 山形爛藤の杖 至る処 壁間にも 午睡閑かなり」 しかし翌年寛政3年(1791)、国仙和尚の死を契機としてか、西国行脚の旅に出る。 寛政7年(1795)7月には、桂川に身を投じたという父以南の法要には良寛も上洛して列席したらしい。 (越後各地に仮住い時代)寛政8年(1796)頃郷里に帰ったが約10年間は寺泊町郷本(塩炊き小屋か)をはじめ空庵や方々の寺を転々とした。西照坊良寛は岡山県円通寺での修行の後、諸国行脚の旅に出た。寛政8年(1796)頃帰郷、この西照坊に住んだ。ここは、中山の南波家から出た妙喜尼の為に、安永の初めころ(1772~)に建てたもので、妙喜尼は寛政元年(1789)に示寂している。 良寛がここを選んだのは、生家や因縁深い光照寺にも近く、出家後の生家の様子を知るのにも都合がよかった。 しかし、失火によって焼失してしまった。村人が良寛に原因を聞くと、縁の下から筍が顔を出したため縁板をはねてやって伸ばしてやった。ぐんぐん伸びて今度は屋根につかえた。そこで屋根にも穴をあけてやろうと、蝋燭の火で穴をあけようとしたと答えたと伝えられている。良寛は、この後、五合庵に移っている。 西照坊は、昭和54年(1979)に再建され、歌碑も建てられている。 歌碑
「はるののに わかなつみつつ きじのこゑ きけはむかしの おもほゆらくに」 (五合庵時代)文化元年(1804)48歳の時国上山の五合庵に定住した。庵ではただ一人坐禅をし、時には一軒一軒托鉢しながら回って、米やお金をもらい清貧な生活に努めた。この時期、阿部定珍(庄屋)、解良叔間(庄屋)らの外護をうけ、書道・詩歌に格段の進歩を遂げた。良寛は曹洞宗の寺で修業したが、五合庵のある国上寺は真言宗であった。60歳ころから乙子神社の社務所に住み、晩年は浄土真宗の信者木村家の屋敷内に生活した。このように良寛は、一つの宗派にこだわることなく、むしろ宗教を超越して、人々を思い、皆が幸せに明るく過ごせるように願ってた。後に口さがない人は良寛の宗派を「雑煮派」といったという。 宗教による諦観をもとにし、純真な人間性を愛し、虚偽をしりぞけ、子供や農民に親しんだ。この五合庵で過ごした時期に、良寛にまつわる多くの逸話が残されている。また彼は民衆に直接教え諭すことはせず、人のあるべき姿を、詩や歌を通して人々につたえていった。 清貧な生活をし、粗末な庵には持っていくようなものは何もなかった。そんな庵に泥棒が入ったことがあった。
盗人が、庵に入り何か金目のものがないかと探していると、物音にきずいた良寛が目を覚まし、盗るもののない盗人を気の毒に思って、着ていた衣を脱いで与え、送り出してやったという。そのためか、良寛は風邪をひいてしまい、鼻水を流しながら知り合いの家に行き、衣をもらいたいとお願いした。家の人が訳を尋ねると、昨夜盗人に入られたが、何もないので衣をやってしまい、それで風邪をひいたようだと、話したという。 良寛は泥棒に衣を与えて、送り出した後に作った発句が
良寛の住んでいた五合庵の床下に竹の子が頭を出し、床につかえそうになったので、良寛は床板をはぎ取って、自由に伸びるようにしてやった。そのうちに竹の子が大きくなり、庵の天井を突き破るほどになったが、良寛は少しも気にせず、ゆったりと茂った竹の下に座っていたという。(※西照坊に仮住まいの頃の逸話という説もある)
解良家を良寛が訪れた時、庭先で大工の少年が、大きな鍋の蓋を作っていた。蓋に取っ手を付けるため、木目に沿って溝を彫ろうとしたので、のみをあてた所からさけ目が入ってしまった。失敗した少年は蓋を二つに割ってしまおうとしたので、良寛は少年を可哀そうに思い、その蓋に「心月輪」と筆で書いた。「心月輪」は密教で用いる円い形をした祈りの道具であり、お祈りをすると悟りが得られるといわれている。
解良家では良寛の書いた鍋蓋を大切にして、現在まで家宝として伝わっている。良寛は、この少年の心を生かし、鍋蓋を生かし、さらには鍋蓋を見る人々の心をも生かしたのであった。 遠くからの来訪者には、江戸の亀田鵬斎(儒者)京都の大村光枝(国学者)塩沢の黒田玄鶴(医師)新潟の厳田州尾(画家)新津の坂口文仲(儒医)等がいて、これらの知識人を通じ五合庵時代の良寛という人物、またその行状の奇偉(すぐれた偉さ)が次第に広まっていったのである。 (乙子神社草庵時代 60歳~69歳の頃)五合庵が老朽化し腐朽したことや、60歳を超し、山中の五合庵では、日々の薪運びや水汲みが身体にこたえるようになった。文化13年(1816)里に近い乙子神社境内の庵室に移り、翌年、文化14年(1817)初めて貞心尼(当時29歳)に会った。40歳の年の差を超越して、心から敬愛しあった師弟の交わりは、晩年の良寛の魂をますます昂揚させ、浄化させたに違いない。 良寛は、誰が訪ねてきても、山にあるもの、川辺に生えているものなどでもてなし、何もないときは、窓を開け放って美しい自然をご馳走したという。 ここでの10年間は良寛の芸術が五合庵時代よりさらに深まって、多彩な変化を見せた時代であった。 良寛の書で有名な 『天上大風』には、逸話が残されている。 良寛が乙子神社の小庵に移り住んだ頃、ある年の端午の節句に、春風にさそわれて、燕の詩友神保杏村宅を訪ねようと、仲町あたりを歩いていると、中ノ口川の堤防では、子供たちがさまざまな凧を揚げて楽しんでいた。良寛も脚を止めてしばらく見て楽しんでいた。
その時、裏長屋から出て来たおじいさんが、「良寛さま、孫の凧に貼ってやるのですが何か字を書いて下さい」といって一枚の白紙を差し出した。子供好きの良寛は二つ返事で、了承した。 場所は当時中ノ口川の船着き場のあった堤上で、作業の邪魔になったので、近くの料亭「八娯楼」※地図の部屋を借りて、当時の凧あげの童唄から「天上大風」と書いてあたえたという。 おじいさんは喜んで家に持ち帰り、茶の間の壁に貼って眺めていると、ある日家主の高田屋が来て、 「見事な書だ。譲ってくれないか」と頼んだ。おじいさんは、「孫の凧に貼ってやるんですから」と断わると、大家は、「立派な絵凧を買えるだけのお金をあげるから、譲ってくれ」 といって金を置き、持って帰った。 この書は良寛の傑作といわれ、長く高田屋(東樹家)に保管された。明治35年(1902)藤崎という人に17円で売られたという。 こうして良寛が子供のためと思って書いた『天上大風』の書は、実際に凧に貼られることはなく、後世に残されたのである。現在は個人に保管されている。 当時の良寛は、いくら頼んでも書を書いてくれないので、子供好きの良寛に、子供の凧にするといって書いてもらったともいわれている。 (木村家庵室時代)文政9年(1826)、69歳のとき、孤独を恐れ、人々のすすめもあり、三島郡和島村島崎の能登屋木村右衛門の屋敷内の小屋に移り住んだ。新しく作った庵や、立派な邸内に住むことは良寛の本意ではなく、既存の納屋を改造した小屋に移るが、床は土間で、焚き物が転がっている狭い建物であった。ために庵室で書を書くこともできず事あれば人の家に行って書いた。この庵に住んだのは短期間ながら小さな紙に書き散らした歌、詩、消息、覚書様のものが多く遺っている。すべて人間の我執を全く拭い去ったような神品が多く、その精神が死にいたる少しも衰えなかったことを示している。 良寛はここで5年をすごし、73歳の夏から体調を悪くしてしまい、食べ物も喉を通らなくなった。 この時期、貞心尼が心配し、「かひなしと 薬も飲まず 飯絶ちて 自ら雪の 消ゆるをや待つ」と問うと、良寛は「うちつけに 飯絶つとには あらねども 且つやすらひて 時をし待たむ 」と歌で返している。これが良寛最後の歌となった。 天保2年(1831)1月6日申の刻(午後4時)直腸癌のため、弟由之、能登屋元右衛門一家、愛弟子貞心尼、僧遍澄らの親しい縁者に見守られながら74歳で示寂。雪の降り積もる中で葬儀には千人の人が集まった。良寛の墓は、島崎隆泉寺裏にある木村家墓地の正面に自然石で、三段組の大きなものが据えられている。
永い間の托鉢生活,清貧孤独,子供好きで無欲脱俗至純な人柄は諸人の敬愛を受けた。一方大村光枝・阿部定珍などの文人・庇護者と交わり,万葉調の歌・味わい深い漢詩をのこした。 殊に晩年貞心尼と唱和した「蓮の露」は飾らぬ愛情のほほえましさがある。 芸術的にすぐれた書は和漢の名筆に学びながら自由奔放・当意即妙・独創的。現存の書、和歌約1,400,漢詩約420,書翰は250余にのぼり愛好者・愛蔵者が多い。 良寛の書は人に見せるため、名声のため、代償を得んがために書かれた書ではなかった。自ずと成った天心の書であったから、永く人々の心をとらえて放さぬ魅力がある。阿部家蔵の遺墨は重文。 出雲崎の良寛の生家跡には良寛堂が建っており、虎岸ヶ丘の上には良寛記念館がある。 🔶墓所
浄土真宗隆泉寺は木村家の菩提寺で、 近世初め、木村家とともに能登から移ってきた。 〔所在地〕長岡市島崎4709(「木村邸」から3分) 隆泉寺 🔶著作 良寛全集〈上巻〉 (1959年) 良寛全集〈下巻〉 (1959年)、東郷豊治編著 東京創元社 定本良寛全集 (第1巻) 定本良寛全集 (第2巻) 定本良寛全集 第3巻 書簡集法華転・法華讃 谷川敏朗・内山知也・松本市寿編 中央公論新社 校注 良寛全歌集 谷川敏朗編、春秋社 校注 良寛全詩集 谷川敏朗編、春秋社 校注 良寛全句集 谷川敏朗編、春秋社 良寛歌集 (東洋文庫) 🔶記念碑
🔶銅像
🔶ゆかりの地
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