良寛 Ryokan 出雲崎町
宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕〔生〕 - 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕〔没〕幼少年時代から光照寺時代:出雲崎での生い立ちと出家出生の背景と家庭環境良寛は、宝暦8年(1758)に三島郡出雲崎町石井町で生まれた。生誕年については宝暦8年とするのが通説であるが、宝暦9年生まれという説もあり、確定には至っていない。実家は名主であり、同時に石井神社の神官も兼ねていた橘屋山本家である。良寛はその長男として生を受けた。母の秀子は、佐渡相川の山本家から養女として迎えられた人物であった。父の以南は、三島郡与板町から養子として橘屋に入った。良寛の祖父にあたる新左衛門に跡継ぎがいなかったため、両養子を迎える形で家系が維持されていた。以南と秀子の間には、長男の良寛を筆頭に四男三女が誕生した。 父の以南は国学や俳諧の才能に恵まれ、諸国の文人たちと広く交友を持つ文化人であった。しかし、尼瀬の名主である京屋との勢力争いに敗北を喫し、51歳で隠居を余儀なくされる。隠居後は諸国を遊歴し、寛政3年(1791)に京都へ上った。寛政7年(1795)には『天真録』を著したが、同年に60歳を一期として桂川に身を投じて亡くなったと伝えられている。 良寛の弟や妹たちも、いずれも優れた文学的素養を受け継いでいた。しかし、一様に世俗の雑事に疎く、領民を掌握する術に欠けていた。商売敵である京家との間で繰り広げられた政争や訴訟にことごとく敗北し、橘屋は衰退の一途をたどることとなる。良寛の弟である由之が兄に代わって家業を継承したが、文化7年(1810)11月、町政と訴訟事件をきっかけに失脚した。由之は家財取り上げおよび処払いの厳しい処分を下されている。 幼少期の性格とカレイの逸話良寛の幼名は栄蔵といった。性格は極めて温和であったが、社会性や社交性に欠ける面があり、周囲からは「昼行灯」とあだ名されるほどであった。幼少時の性格を象徴する逸話が残されている。あるとき、栄蔵が父の以南を上目遣いで見た際、以南から「親をにらむとカレイになるぞ」と激しく叱責された。純真な栄蔵はその言葉を完全に信じ込んだ。自分がカレイに変身してしまったらすぐに海へ飛び込もうと考え、じっと海岸に座り込んでいたという。このエピソードは、良寛の極端なまでの愚直さと純真さを物語る象徴的な事件として語り継がれている。 儒学の修めと名主見習い栄蔵は幼い頃から読書を深く好んだ。13歳の頃からは、地蔵堂の大森子陽が主宰する狭川塾に入塾し、儒学を専門的に学び始めた。学問に親しんだ後、16歳で元服を迎え、橘屋の跡取りとして名主見習いの職に就くこととなった。しかし、18歳のとき、良寛は家督を弟の由之にすべて譲り渡し、家を捨てた。そして出雲崎尼瀬にある光照寺へ赴き、玄乗破了和尚の下で剃髪して出家を遂げた。 出家の動機と愚直なる調停良寛が出家を決意した動機については、正直一途な彼の性格が関係していると言われている。政治的な駆け引きや、人間関係の裏表を巧みに操ることが要求される名主職は、良寛の気質にとって到底耐えがたいものであったと考えられている。橘屋の言い伝えによると、良寛が18歳の頃、出雲崎の名主見習いとして実務に携わっていた際、代官と漁民との間で激しい紛争が発生した。良寛は両者の間に立って仲裁を試みた。しかし、良寛は代官に対して漁民が放った悪口雑言をそのまま包み隠さず上申し、逆に漁民に対しては代官が口にした侮蔑の言葉を一切飾ることなくありのままに伝達してしまった。その結果、仲裁になるどころか両者の怨恨はますます激化する事態となった。 代官は良寛のこのあまりにも配慮に欠けた愚直さを厳しく譴責した。これに対して良寛は「不直不実はわがなしうるところにあらず(嘘偽りや不誠実な態度は、私には到底できないことである)」と言い残し、直ちに出家を選択したという。 円通寺時代から西国行脚時代:厳しい修行と印可、そして旅へ備中玉島での10年間の修行安永8年(1779)、22歳になった良寛は、出雲崎を訪れた備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺の住職・国仙和尚に従い、故郷を離れて備中玉島へと赴いた。良寛は円通寺において、10年間の長きにわたり厳しい修行に身を捧げることとなる。修行の当初、良寛も一人の僧侶として、仏門における立身出世や名声を志した時期があったらしい。しかし、円通寺での修行を重ねていくうちに、彼の思想は大きく変化していった。名誉や利益を追い求める世俗的な道を完全に捨て去り、清貧の中に身を置き、自然の美しさを愛で、慈悲の心を持って生きることこそが真の仏道であるという確信に至った。 良寛が後に詠んだ漢詩「憶在圓通時(円通に在りし時を憶う)」は、当時の円通寺における修行生活と彼の心境を克明に伝えている。
師からの印可円通寺での厳しい修行に耐え抜いた良寛は、寛政2年(1790)、33歳の時に師である国仙和尚から修行の段階を終えた証証である「印可の偈」を授けられた。国仙和尚が良寛に与えた偈文は以下の通りである。
西国行脚の旅と父の法要印可を得た翌年の寛政3年(1791)、師である国仙和尚がこの世を去る。これを契機として、良寛は円通寺を離れ、諸国を巡る西国行脚の旅に出発した。長年にわたる行脚の途上、寛政7年(1795)7月には、京都の桂川に身を投じて自死したという父・以南の法要が営まれた。良寛もこの時期に合わせて京都へと上洛し、法要に列席したと伝えられている。 越後各地に仮住い時代:帰郷と西照坊での筍の逸話郷里への帰還と転々とする生活寛政8年(1796)頃、良寛は長年の行脚を終えて郷里である越後の地に帰った。しかし、帰郷後すぐに行き先が決まったわけではなく、その後の約10年間は、寺泊町郷本にある塩炊き小屋と推測される場所をはじめ、各地の空庵や方々の寺院を転々としながら仮住まいを続ける生活を送った。西照坊での生活と火災の原因帰郷した良寛が身を寄せた場所の一つに、「西照坊」がある。良寛は寛政8年(1796)頃に帰郷した後、この庵に住んだ。西照坊は、中山の南波家から出家した妙喜尼という尼僧のために、安永の初めころ(1772年頃)に建てられた庵であった。妙喜尼自身は、寛政元年(1789)にすでに示寂していた。良寛が仮住まいの場所としてこの西照坊を選んだ理由は、自身の生家や、出家するにあたって因縁の深かった光照寺に地理的に非常に近く、出家した後の実家の様子や衰退していく橘屋の動向を把握するのに極めて都合がよかったからである。 しかし、良寛が居住している期間中に、西照坊は失火によって完全に焼失してしまった。庵が燃えてしまった後、村人たちが良寛に向かって火災の原因を尋ねたところ、良寛は次のように答えたと伝えられている。 「縁側の下から竹の子が顔を出し、縁板につかえて痛そうであったため、縁板をはねのけてやって自由に伸ばしてやった。すると竹の子はぐんぐんと成長し、今度は庵の屋根につかえてしまった。そこで、屋根にも穴をあけて外へ伸ばしてやろうと考え、蝋燭の火を使って屋根に穴をあけようとしたところ、火が燃え移ってしまった」 このあまりにも常軌を逸した愚直な行動の結果、庵を失った良寛は、この後に国上山の五合庵へと移り住むこととなった。なお、この西照坊は昭和54年(1979)に再建され、境内には良寛の歌碑が建てられている。 そこに刻まれている歌は以下の通りである。
五合庵時代:清貧の極みと数々の奇行・逸話五合庵での定住と「雑煮派」の精神文化元年(1804)、48歳になった良寛は、国上山にある「五合庵」に定住を開始した。この庵で良寛はただ一人で坐禅にふけり、時には山を降りて一軒一軒の家々を托鉢して回りながら、わずかな米やお金を恵んでもらうという、徹底した清貧生活に努めた。この五合庵の時期、良寛は地元の庄屋であった阿部定珍や解良叔間らの手厚い物質的・精神的外護(支援)を受けることができた。その安定した環境の中で、良寛の書道や詩歌の才能は格段の進歩を遂げ、独自の芸術世界を確立していくこととなる。良寛はもともと曹洞宗の円通寺で厳しい禅の修行を積んだ僧侶であった。しかし、彼が定住した五合庵を擁する国上寺は真言宗の寺院であった。さらに良寛は、60歳頃からは乙子神社の社務所に居住し、晩年には浄土真宗の篤実な信者であった木村家の屋敷内で生活を送った。 このように、良寛は自身の出自である特定の宗派に決してこだわることなく、むしろあらゆる宗教の垣根を超越していた。ただひたすらに目の前の人々を思いやり、すべての衆生が幸せに明るく過ごせるようにと願い続けていた。後年、世間の口さがない人々は、このようにさまざまな宗派を渡り歩いた良寛の宗教的スタンスを揶揄し、あるいは親しみを込めて「雑煮派」と呼んだという。 良寛は宗教的な深い諦観を土台としながらも、純真な人間性を何よりも愛し、大人の虚偽や虚飾を徹底して退けた。そして、無垢な子供たちや純朴な農民たちと深く親しんだ。五合庵で過ごした時期は、良寛にまつわる最も多くの有名な逸話が残された黄金期である。また、彼は高壇から民衆に対して直接教えを説き諭すような尊大な態度は一切取らなかった。人間としてあるべき真摯な姿を、自らが詠む詩や歌を通して、人々の心へそれとなく伝達していった。 泥棒に衣を与える逸話と窓の月良寛は徹底した清貧生活を送っていたため、彼の粗末な五合庵には、泥棒が盗んでいくような金目のものは何一つ存在しなかった。しかしある夜、そんな庵に一人の泥棒が忍び込んだ。盗人が庵に侵入し、暗闇の中で何か金目のものはないかと必死に探しまわっていると、その物音に気づいた良寛が目を覚ました。良寛は、せっかく危険を冒して盗みに入ったにもかかわらず、持ち帰るものが何もなくて気の毒だという、泥棒に対する奇妙な同情心を抱いた。そこで良寛は、自分がそのとき着ていた唯一の衣を自ら脱いで泥棒に与え、そのまま優しく送り出してやったという。 衣服をすべて失ってしまったためか、良寛はその後激しい風邪をひいてしまった。鼻水を流しながら近所の知り合いの家へと赴き、着るための衣を分けてもらいたいと懇願した。家の住人が驚いてその訳を尋ねると、良寛は「昨夜、私の庵に盗人が入った。しかし、彼にやるものが何もなかったので、着ていた衣をやってしまった。そのせいで風邪をひいたようだ」と平然と話したという。 良寛は泥棒に衣を与えて送り出した後、寒さに震える庵の中で一つの発句を詠んだ。それが有名な以下の句である。
床下の竹の子の逸話良寛が住んでいた五合庵の床下から、あるとき一枚の竹の子が頭を出した。その竹の子はぐんぐんと成長し、今にも庵の床板につかえて伸びられなくなりそうになった。それを見た良寛は、竹の子の成長を妨げてはかわいそうだと思い、床板を自らはぎ取って、竹が自由に上へと伸びられるようにしてやった。そのうちに竹の子はさらに巨大化し、ついに庵の天井を突き破るほどになった。しかし、良寛は庵が破壊されていくことを少しも気に留める様子はなく、天井を突き抜けてゆったりと青々と茂った竹の下に、満足そうに座っていたという。(※ただし、このエピソードは五合庵時代のものではなく、前述した西照坊に仮住まいしていた頃の、火災の原因となった逸話と同一、あるいはその異説であるという見方もある) この竹に寄せて、良寛は次のような歌を遺している。
良寛はこの世の表面を取り繕う嘘や、人を騙そうとする大人の醜い姿を嫌悪していた。そして、ただ真っ直ぐに伸びていく竹の生態を通して、人間はいかにあるべきか、素直で汚れない心を保つことの大切さを、周囲の人々にそれとなく訴えかけていた。 鍋の蓋と「心月輪」の少年ある日、良寛が外護者である解良(けら)家を訪れた時のことである。庭先において、年若い大工の少年が、大きな木製の鍋の蓋を制作していた。蓋の表面に取っ手を取り付けるため、少年が木の目に沿ってノミで溝を彫ろうとしたところ、運悪くノミを当てた箇所から木目に沿って大きな裂け目が入ってしまった。作業に失敗し、落胆した少年は、使い物にならなくなったその鍋の蓋をいっそのこと二つに叩き割って処分してしまおうとした。それを見ていた良寛は、失敗して傷心している少年の心を可哀そうに思った。そこで良寛は少年を制止し、裂け目の入ったその鍋の蓋を受け取ると、筆を執って表面に大きく「心月輪(しんがつりん)」という文字を揮毫した。 「心月輪」とは、密教の修行において用いられる、満月のような円い形をした祈りの道具(観想法)であり、この月輪を心の中に深く念じてお祈りを捧げると、やがて迷いが晴れて仏の悟りが得られると言われている。 解良家では、良寛が落書きのように書いたこの鍋の蓋を極めて貴重なものとして大切に保管し、現在に至るまで一族の至高の家宝として伝えている。良寛は、文字を書くという行為を通じて、失敗した少年の職人としての心を生かし、ゴミになるはずだった鍋の蓋の物理的な命を生かし、さらにはその後、何代にもわたってその鍋の蓋を目にする人々の心をも豊かに生かしたのであった。 文化人たちとの交流と広まる名声山奥の五合庵で隠者のように暮らしていた良寛であったが、その類稀なる人格や卓越した詩歌の才能は、次第に遠方の知識人たちの間にも知れ渡るようになっていった。五合庵の良寛を慕って遠方から遥々訪ねてきた来訪者の中には、江戸の高名な儒学者である亀田鵬斎、京都の国学者である大村光枝、越後塩沢の医師である黒田玄鶴、新潟の画家である厳田州尾、そして新津の儒医である坂口文仲などが名を連ねていた。これらの第一流の知識人や文人たちとの深い交流を通じて、五合庵に隠棲する良寛という特異な人物の存在、およびその一切の世俗的欲望を脱ぎ捨てた行状の「奇偉(世に稀な、すぐれた偉大さ)」が、口コミや書簡を通じて全国へと次第に広く喧伝されていくこととなった。 乙子神社草庵時代:深まる芸術と『天上大風』の凧乙子神社への移転と貞心尼との邂逅長年住み親しんだ五合庵であったが、歳月の経過とともに建物の老朽化が進み、各所が腐朽して居住に耐えがたくなっていった。また、良寛自身も年齢が60歳を超え、険しい山中にある五合庵での暮らしの中で、日々の生活に不可欠な薪運びや水汲みといった肉体労働が、老いた身体に深くこたえるようになっていた。そこで文化13年(1816)、良寛は人里にほど近い国上山麓の乙子(おとご)神社境内にある庵室へと移り住むことを決意した。この移転の翌年にあたる文化14年(1817)、良寛は生涯の愛弟子であり、精神的な伴侶ともなる尼僧・貞心尼に初めて出会った。当時、良寛は60代の老境にあり、貞心尼は29歳という若さであった。 40歳という大きな年齢の差を完全に超越した二人は、互いを魂の底から敬愛し合う、極めて純粋な師弟の交わりを結んだ。この貞心尼との出会いと精神的な交流は、晩年を迎えた良寛の孤独な魂をますます高揚させ、その芸術と人格をさらに高い次元へと浄化させる決定的な契機となった。 美しい自然のご馳走乙子神社の草庵に住んでいた頃の良寛は、どのような人物が自分を訪ねてきても、常に温かく迎え入れた。山で採れた山菜や、近くの川辺に生えている野草など、その時に手に入るあり合わせのもので精一杯のもてなしをした。もし、庵の中に差し出せる食べ物や飲み物が完全に底を突いて何も無いときには、良寛は庵の窓を大きく開け放ち、「どうぞ、この美しい周囲の自然の景色を、心ゆくまでご馳走として味わってください」と言って、訪問者を煙に巻くと同時に深く感動させたという。 乙子神社境内で過ごしたこの10年間は、良寛の芸術(書、漢詩、和歌)が、手狭だった五合庵時代に比べてさらに精神的な深化を遂げ、表現の面でも多彩で自由奔放な変化を見せた、まさに円熟の時代であった。 『天上大風』の揮毫と高田屋の逸話良寛の遺した膨大な書の中でも、特に最高傑作として世界的に名高い『天上大風(てんじょうたいふう)』の四文字には、微笑ましい逸話が遺されている。良寛が乙子神社の小庵に移り住んで間もない頃のある年、端午の節句(5月5日)を迎えた。心地よい春風に誘われた良寛は、燕に住む詩の友人である神保杏村の自宅を訪ねようと思い立ち、仲町のあたりをのんびりと歩いていた。中ノ口川の堤防のあたりに差し掛かると、そこでは地元の子供たちが、五月に吹く風に乗せてさまざまな意匠の凧を大空高く揚げて、大騒ぎしながら楽しんでいた。無類の子供好きである良寛は、その場に脚を止めて、子供たちの遊ぶ様子をしばらくの間うっとりと眺めて楽しんでいた。 その時、近くの裏長屋から一人の貧しいおじいさんが出てきて、良寛の姿を見つけると次のように声をかけた。 「良寛さま、ここに一枚の白い紙があります。今から孫のために作る凧に貼ってやりたいと思いますので、どうか何か景気の良い字を書いてください」 子供のためと言われれば絶対に断らない良寛は、その願いを二つ返事で快諾した。しかし、場所は当時の中ノ口川の船着き場があった堤防の上であり、風が強いうえに人通りも多く、書を認める作業の邪魔になった。そこで良寛は、すぐ近くにあった料亭「八娯楼」の部屋を一時的に借り受けることとした。良寛はその部屋で、当時子供たちが凧揚げの際に好んで歌っていた童唄の歌詞から言葉を引用し、力強く『天上大風』と書いておじいさんに与えた。 おじいさんは大喜びでその書を自宅へと持ち帰った。しかし、あまりにも見事な書であったため、実際に凧に貼って空へ揚げるのがもったいなくなり、ひとまず茶の間の壁に貼って毎日大切に眺めていた。 ある日のこと、その長屋の大家(家主)であり、地元の有力者であった高田屋(東樹家)の主人が用事で長屋を訪れた。大家は茶の間の壁に貼られていた『天上大風』の文字を一目見るなり、その尋常ならざる筆致に驚愕し、「これは実に見事な書だ。ぜひ私に譲ってくれないか」と熱心に頼み込んできた。おじいさんは「これは良寛さまに孫の凧にするために書いてもらったものですから、他人に譲るわけにはいきません」と頑なに断った。 すると大家は、「それでは、お孫さんにこの書の代わりに、町で一番立派な絵凧をいくつでも買ってあげられるだけの、大金をあなたにあげよう。だからどうか譲ってくれ」と言い、おじいさんが断る間もなくその場に大金を置き去るようにして、書を自分の家へと持ち帰ってしまった。 このようにして、良寛が純粋に一人の子供の娯楽のために無欲で書いたはずの『天上大風』の書は、ついに実際の凧に貼られて大空を舞うという本来の目的を果たすことはなかった。しかし、その大家の執着のおかげで、破れて消え去ることなく後世へと大切に遺されることとなった。この書は良寛の書の最高傑作、最高峰の神品と称され、長く高田屋(東樹家)の家宝として厳重に保管された。その後、明治35年(1902)に至り、藤崎という人物の手によって17円という当時の大金で買い取られ、高田屋の手を離れた。現在は個人のコレクターによって大切に保管されている。 当時の世間において、良寛の書の価値を知る高官や文人たちが、どれほど大金を積んで懇願しても、良寛はへそを曲げて決して書を書いてくれなかった。そのため、人々は良寛の極端な子供好きという性格を逆手に取り、「子供の凧にするから」「子供の遊びに使うから」と嘘をついて、彼から見事な書を巧みにせしめていたとも伝えられている。 木村家庵室時代:終焉の地と自ずから成る精神島崎への移住と我執を拭い去った神品文政9年(1826)、良寛は69歳を迎えた。老いがさらに進む中で、山深い自然の中での独り暮らしに対する孤独への懸念が生じ、また周囲の親しい人々からの強い勧めもあった。そのため、良寛は長年暮らした国上山の周辺を離れ、三島郡和島村島崎(現在の長岡市和島地域)に居を構える能登屋・木村右衛門の屋敷内にある小さな小屋へと移り住むこととなった。富裕な木村家が良寛のために新しく立派な庵を新築したり、あるいは邸宅の綺麗な一室を提供したりすることは、良寛自身の「清貧」「無欲」という本意に全く反するものであった。そのため、良寛はあえて敷地内に既存の古い納屋として建っていた建物を、最低限の改造だけで済ませた粗末な小屋を自らの住処として指定した。 その小屋の内部は、床が板張りですらなく土間が剥き出しになっており、足元には薪などの焚き物が雑然と転がっているという、極めて手狭で劣悪な建物であった。そのため、良寛はその狭い庵室の内部で大きな紙を広げて書を書くことすら物理的に不可能であり、書を頼まれたり事があったりする際には、わざわざ木村家の母屋や他人の家へと出向いて筆を執る生活を送っていた。 この島崎の木村家庵室に住んだ期間は、良寛の長い生涯の全体から見れば比較的短期間であった。しかし、この時期に良寛が狭い土間で小さな紙切れや反故紙に書き散らしたとされる歌、詩、親しい人々へのメッセージ(消息)、あるいは日々の覚書のような細々とした直筆の遺墨が、現在に至るまで非常に多く遺されている。 それらの晩年の文字は、書道的な技巧や美意識といった人間の浅はかな「我執(エゴ)」が完全に拭い去られており、まるで天衣無縫の神の仕業であるかのような「神品」ばかりである。このことは、良寛の芸術的肉体と精神の輝きが、死の直前に至るまでいささかも衰えることなく、むしろ極限まで純化していったことを雄弁に示している。 死を待つ最後の歌の酬答良寛は島崎の地で穏やかな5年間の歳月を過ごしたが、73歳を迎えた夏の頃から、急速に体調を崩して寝込みがちとなった。病状の悪化に伴い、内臓の苦痛から、食事などの食べ物も一切喉を通らないという深刻な衰弱状態に陥ってしまった。この良寛の危機的な窮状を知った愛弟子の貞心尼は、居ても立ってもいられず良寛の枕元へと駆けつけた。衰弱していく師の姿を深く心配した貞心尼は、看病の傍ら、良寛の心境を推し量るために次のような問いかけの歌を詠んで良寛に差し出した。
この切実な貞心尼の問いかけに対し、息も絶え絶えであった良寛は、最後の力を振り絞って次のような返歌(アンサーソング)を詠み、彼女に手渡した。
この歌が、生涯において数え切れないほどの美しい言葉を紡ぎ出し続けた良寛にとって、文字通り「生涯最後の歌」となった。 74歳の示寂と千人の葬儀天保2年(1831)1月6日、申の刻(午後4時頃)、良寛はかねてからの患い大病であった「直腸癌」のため、帰らぬ人となった。享年74歳。その最期の瞬間は、実家の橘屋を継いでいた弟の由之、長年生活を支え続けた能登屋元右衛門の一家、そして誰よりも愛した弟子の貞心尼、日頃から親交の深かった僧侶の遍澄など、一握りの本当に親しい縁者や友人のみによって、静かに看取られた。 良寛が息を引き取ったその日は、越後の厳しい冬の真っ只中であり、周囲には激しい雪が深く降り積もっていた。しかし、一介の托鉢僧に過ぎなかった良寛の葬儀には、彼の至純な人柄と深い慈悲に救われ、彼を心から慕っていた近隣の農民や子供、文人など、実に千人を超える民衆が雪を割って参列し、その死を涙ながらに惜しんだ。良寛の遺骨は、島崎にある隆泉寺の裏手に位置する木村家墓地の中に埋葬された。その墓碑は、墓地正面の一等地において、人工的な加工を拒んだ自然石を用い、三段組に組まれた大きな形で厳かに据えられている。 辞世の句と「自ずから成る」妙法良寛がこの世を去るに際して遺したとされる、あまりにも有名な辞世の句は以下の通りである。
良寛の美意識や思想を象徴する言葉として、「良寛は、書家の書、歌人の歌、料理人の料理の三つを極端に嫌った」という事実が伝わっている。これは、専門家が名声や利益、技術の誇示のために作為的に作り出した表現や味付けには嘘があり、そこに人間の醜い我執が透けて見えるからである。良寛が求めたものは、どこまでも作為のない、自然のままの純粋さであった。 また、文政11年(1828)に越後地方を襲った「三条大地震」は、死傷者3千人、倒壊・焼失家屋1万4千2百戸を数える極めて凄惨な大災害であった。この時、良寛が与板の友人である山田朴皐に向けて送ったお見舞いの手紙(書簡)の一節には、次のような驚くべき言葉が記されている。 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 (災害に遭うような不運な時期には、ジタバタせずにあえてその災難に真っ直ぐ遭うのがよろしい。また、寿命が尽きて死ぬべき時には、ジタバタと生に執着せずに素直に死ぬのがよろしい。実は、この絶対的な諦観と自然への身の委ね方こそが、結果として災難の恐怖から人間の心を完全に解放する唯一の素晴らしい方法(妙法)なのである) この言葉に凝縮されているように、良寛の生涯にわたる過酷な禅の修行の根底には、人間側の浅はかな知恵や作為を一切排除し、あくまで大自然の運行にそのまま即して生きる「自ずから成る(おのずからなる)」という絶対的な自然法爾の信条が脈々と流れていた。 後世に遺された芸術的遺産良寛が歩んだ、永い年月にわたる地道な托鉢生活、徹底した清貧と孤独、そして大人のエゴを完全に排した子供好きで無欲脱俗な至純の人柄は、身分の上下を問わずあらゆる諸人から深い敬愛を受け続けた。その一方で、大村光枝や阿部定珍といった一流の文人や強力な庇護者たちとも対等に交わり、文学の面では『万葉集』の古調を完璧に消化した万葉調の優れた和歌や、格調高くも味わい深い漢詩を数多くこの世に遺した。特に、良寛がその晩年において、愛弟子である貞心尼との間で互いの魂をぶつけ合い、清らかな愛を交わしながら唱和し合った相聞歌集『蓮の露(はすのつゆ)』には、世俗の汚れや飾りが一切ない、人間の純粋な愛情の美しさと微笑ましさが現代に至るまで横溢している。 また、良寛の残した芸術的に極めて評価の高い「書」の数々は、中国や日本の過去のあらゆる名筆や古典を熱心に学び、その基礎の上に立ちながらも、最終的にはそれらのルールをすべて脱ぎ捨て、自由奔放かつ当意即妙、どこまでも独創的な境地に達している。現在、この世に現存が確認されている良寛の直筆の書や和歌は約1,400首、漢詩は約420首、そして親しい人々に宛てた味わい深い書翰(手紙)は250余通にのぼり、今なお全国に数多くの熱狂的な愛好者やコレクターが存在し、大切に愛蔵されている。 良寛の書は、他人に自慢して見せるためでもなく、名声を得るためでもなく、またそれによって金銭などの代償を得るために書かれたものでは決してなかった。それらは、彼の清らかな内面から、作為なく「自ずと成った」天心の書であった。それゆえに、良寛の文字には、時代を超えて読む者の心の奥底を捉えて決して離さない、不滅の魔力的な魅力が宿っている。なお、これらの中で阿部家に代々秘蔵されていた良寛の遺墨群は、その極めて高い芸術的・歴史的価値が認められ、現在は国の重要文化財に指定されている。 現在、良寛の生まれ故郷である出雲崎の橘屋山本家生家跡には、彼を記念した「良寛堂」が厳かに建てられており、さらにその近くの虎岸ヶ丘の上には、彼の生涯と芸術を顕彰する「良寛記念館」が建立されている。そこを訪れる多くの人々に対し、名利を捨てて激動の時代を清貧に駆け抜けた一人の偉大な禅僧の、愚直で温かい生き様を今なお静かに伝え続けている。 良寛の没後 年が経過しました。 🔶墓所 浄土真宗隆泉寺は木村家の菩提寺で、 近世初め、木村家とともに能登から移ってきた。 🔶著作 良寛全集〈上巻〉 (1959年) 定本良寛全集 (第1巻) 校注 良寛全歌集 校注 良寛全詩集 校注 良寛全句集 良寛歌集 (東洋文庫) 🔶記念碑
🔶銅像
🔶ゆかりの地
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