北国街道関川関所「道の歴史館」 妙高市
五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)に次ぐ重要な交通路として発達した北国街道。 「道の歴史館」は、江戸時代、重要な関所だった関川の関所跡にてCGや等身大の人形を使い、当時を再現、道の歴史を解説します。 2階展示室では、当時の旅や大名行列の様子が分かる資料が展示され、大画面の街道シアターでは、3本のミニ映画が上映されています。 隣には、食事処「御宿せきがわ(電話0255-86-3285 4月末~11月中旬頃まで営業 水曜定休日)」があり、特産の手打ちそばがお勧めです。
関川関所跡関川に関所が設けられたのは天正年間上杉景勝が関山地方にあった「青柳の関」をここに移して「関門」を設けたことであるという。関川は、越後直江津から信濃追分に通ずる北国街道の信越国境で要害の地であった。 江戸時代になってから全国の宿駅制度の確立と共に関所も整備され、重要な23関の中の一つであった。 幕府の指示により高田藩が管轄していた。高田藩が管轄していた関所、関川・鉢崎・市振の三関所のうちでも最も重要な「重き関所」に位置づけられていた。 徳川家康の六男松平忠輝が高田城を築いて城主になった頃に隆盛を極め、関川宿も栄えた。 榊原時代は上番3人(熨斗目以上=士分)下番(足軽、物主)9人、外に郷足軽、小頭等10人の者が3年交代で原則として謹番し、幕末まで続く。 関所は毎朝明け六つに大戸が開き、暮れ六つに閉じられた。箱根・白河・碓氷と同様に「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。 女性が、尼、男や子供に偽装して通行する場合もあるので、少しでも不審な点があれば徹底的に調べられた。そのため「人見女」(女改人)に調べられることが、女性にとって旅行中一番いやなこととされていた。 関所通手形を所持しないで、不法に関所を通過し、または間道を抜け、関所を避けて通る関所破りは、江戸時代、主殺し、親殺しなどとともに重罪に処せられ、つかまれば磔による死罪となった。(☛ 北国街道) 🌌関川宿 本陣 大石家大石家は1739年(元文4)から加賀藩をはじめ、9つの大名の本陣として利用された。大石家は寺子屋も兼ねていました。建物は火災によって失われ、池を中心とした庭園が残されている。🌌上原宿 高田藩本陣 豊田家高田藩専用の本陣であった豊田家の建物は、昭和時代になって取り壊されたが、石積の塀や銀杏の大木は往時のものと言われる。 |
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