大久保長安と相川町の繁栄 佐渡市
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 🔗 鎮目市左衛門惟明 🔗 相川町の繁栄 大久保長安〔生〕天文14年(1545)~〔没〕慶長18年(1613)4月25日能楽師大蔵太夫の二男として大和国で生まれる。通称藤十郎。甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったが、信玄は長安の才を見て、猿楽師ではなく家臣として取り立て、譜代家老土屋昌続の与力に任じる。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事した。 武田家滅亡後、徳川家康に仕え、抜擢され小田原城主大久保相模守忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この時名字を賜り、姓を大久保に改めた。 家康に、その才能を認められ、1600年(慶長5)石見、1603年(慶長8)佐渡、1606年(慶長11)伊豆、1608年(慶長13)南部等の金銀山を支配管理を行った。 また、甲斐、美濃、越後検地、道路、奈良宗門の奉行を兼務し、家康側近として活躍した。後に外様ながら江戸幕府勘定奉行、老中となった。 慶長9年(1604)、長安は着任すると、海にも近く物資の輸送に便利な相川町に、佐和田鶴子鉱山にあった陣屋を移した。 長安は、「直山制」をとって、山師(一山または一坑の支配者)を全部奉行の指揮のもとにおいて、鉱山経営の直轄化をはかった。 36カ所の官営の坑を定めて36人の山師を定めて担任させた。また金児や大工(金児に使われている坑夫)などにも優遇する制度となった。また、「御手大工」といって、直接大工を抱える制度もつくり、捨坑となった富坑の開発にも努めた。 佐渡金銀山では、特に資材供与と公費による水没坑道開発による荷分け法採用の直山制の確立と、町割と港の設定による流通管理と低物価帯で佐渡金銀山の大繁栄を実現した功績は大きい。 (大久保長安の業績)❶慶長8年(1603年)相川湾が見下ろせる河岸段丘の先端相川(現在の佐渡市相川広間町)に奉行所を設置した。❷上相川に鉱山町が形成されたが、台地上の上町に奉行所を中心とした計画的な町割り都市計画をおこなった。陣屋の麓から鉱山入口の相の山番所に至る往還道の両側に町割りを行い、金銀山初期の山師の名前や、職業別に町割をおこなう都市計画を実施した。 ❸高品位の鉱石がありながら湧水のため水没した坑道の採掘は佐渡奉行所(徳川幕府)直営によって行われ、坑道を単位として請山での採堀をおこなった。長安が官費でかかえている御手大工を動員して、水貫(排水坑道)を掘り、直山(直轄坑道)として再開発した。 ❹採掘方法として、排水が容易な横掘工法を採用した。従来の縦堀工法によって水没した坑道もこれによって復活した。 ❺筵・蝋燭・鍛冶炭・たがね・鉄・玄能・はさみ・銀包紙・帳紙・桐油・牛皮など、採掘に必要な物資を供与し、山師は1年間を単位として山を稼げるようにした。 ❻掘り出された鉱石の配分権は長安にあり、山師取り分は10日ごとに計算し談合(相談)で決定した。貸与された資材に対する見返りとして、奉行所管轄の床屋で「問吹き」した数量をもとに採掘した鏈石(鉱石)を「荷分け」と称して、奉行所分と山師分に分けた。 ❼炭屋町・紙屋町・板町など商人町を佐渡奉行所近くに配置し、紙・炭・板・材木などの資材取扱い商制をとって、流通過程の諸商品の公儀統制を強め、これによって物価の安定を図った。 ❽全国各地から生活物資などを搬入したり金銀を江戸へ搬送するための港湾整備(大間・小木・赤泊港など)を進めた。金・銀は小木港で御用船に載せ、代官所のあった出雲崎まで海路運び、そこから荷車で三国街道や北国街道を経由して江戸の金座・銀座に運び込んだ。 大久保長安は元来派手好きで、特に女好きは格別であり、側女が数十人いたという。慶長9年(1604)、はじめて佐渡へ渡った時などは、一行130人で、そのうち30人は女で、そのほか能楽師なども連れてきたという。 また佐渡から江戸や駿府に向かう道中、その様子は大名の参勤に比べても派手で、美女20人、猿楽30余人を引き連れていたという。また、代官所近くの相川山先町(現相川金津町)に遊郭を作っている。 長安は、佐渡赴任にあたり同行した、シテ方、囃子方、狂言方といった能役者を、佐渡各地の神社につかわし能を奉納し、武士だけではなく庶民にも広く能を開放した。これが佐渡各地に能舞台ができ、盛んに行われるようになった由来といわれている。 大久保長安は物資を公給することによって山主の生産に深くかかわりその出鉱高の2、3割を手中にした。その反面長安の家計と金銀山の経営が分離できず、家康への上納額は長安の胸三寸の所にあったことはいなめない。長安は、その手元に巨額の金銀を残すこととなった。 しかし、主要坑道の採掘現場に谷川の位置より低くなるにしたがって生産が低下し、投下資本を回収できなくなり、長安が死ぬ数年前から家康への未進が続いた。鉱山からの金銀採掘量の低下に伴って代官職を次々と罷免されていった。こうした中、慶長18年(1613)4月25日、中風のため駿府で死去した。 遺骸を金の棺に納め、郷里の甲斐の国に送り、一国の僧侶を集めて盛大な葬儀をするようにと遺言したが、家康から「石見の葬式を差し止めろ」という命令が出された。 家康は「長安は、代官所の勘定をしていないから、すぐに決算せよ」と厳重に命じた。長安の財貨は厳しく改められ、諸国よりの金銀は凡そ5,000貫目余に達し、その上茶道具を始めとする金製・銀製の各種道具も多数没収された。また、甲府長延寺の顕了が山門楼上に保存していた武田家伝来の甲冑・軍配・馬印・軍旗・幔幕などが、長安が謀叛を起こそうと画策した証拠の道具とみなされた。 長安の居室の石櫃の中に、二重にしてあった黒塗りの箱の中から諸大名の連判状が発見され、幕府を倒し松平忠輝を将軍とする謀叛の証拠であるとされた。この中に村上藩主村上周防義明の名があったという。 生前、長安は江戸参府の途中、家康に頼まれ、北国街道の道筋に当たる高田城の松平忠輝の様子を見ていたという。忠輝の家老花井吉成の娘を、自身の子右京に娶らせている。 慶長18年(1613)7月9日、長安の嫡男藤十郎、次男外記、三男青山成国、四男達十郎、五男内膳、六男右京、七男安寿、以上7人は切腹となった。その所領や財産はみな没収された。 徳川家康は長安の派手好きについて、その金遣いの荒さなど情報を得ていたが、長安の行政官としての資質能力を高く買っており、黙認していたといわれる。金山の収支決算の報告が家康に対してなされておらず、幕府への送付額は、長安の胸三寸であり、多くの金銀が長安のもとに残された。一方で、長安が管理した各地では、名代官として名前を後世に残している。 草創期の幕府内では、大久保忠隣と本多正信の権力闘争が激しさを増していた。不正蓄財などの噂の絶えない大久保長安が亡くなったことを利用し、本多正信が大久保忠隣を失脚させようと、家康に讒訴したことで引き起こされた騒動であったという向きもある。 家康の寵愛をほしいままにしていたが、一旦齟齬が生じたとき、権力者家康の憎しみが百倍にもなって帰ってくるという見本となった。徳川幕府の財政基盤を確実にするに余りある貢献をした人物に対して過酷な結末であった。 🔶大安寺 大久保長安逆修塔 ※GOOGLE 画像大安寺は慶長11年(1606)、初代佐渡奉行大久保長安が創建した寺で、境内には生前に死後の冥福を祈って長安が自ら建てた墓(逆修塔)がある。墓石には十字架が浮かび上がるデザインがあり、長安がキリシタンであったという説の根拠となっている。 〔所在地〕佐渡市相川江戸沢町 🔙戻る
永禄7年(1564)〔生〕- 寛永4年(1627)7月14日〔没〕 |