与茂七騒動・与茂七火事 Yomoshichi Fires 長岡市・新発田市
大竹 与茂七(おおたけ よもしち) 延宝4年(1676年)〔生〕 - 正徳3年6月2日(1713年7月23日)〔没〕 中之島村(現長岡市中之島)が、新発田藩領であった頃の話である。 与茂七は中之島村名主の家に生まれ、始め与助と称した。元禄7年(1694)18歳の時、長岡の石川掃部道場で直新影流剣道を学び、3年にして免許皆伝を受けて帰郷、父の引退後、名主役を継ぎ、与茂七と称した。 (刈谷田川決壊に行った藩林伐採に関する訴訟)宝永元年(1704)6月9日、信濃川・刈谷田川等が氾濫し、中之島組地方は破堤の危機に陥った。この時、中之島村大竹与茂七、脇川新田善助、中興野小助、池之島安左衛門、灰島新田喜平太の名主らが話し合い、中之島組大庄屋儀兵衛と茂左衛門を訪ね、対策を懇願したが、儀兵衛はなぜか三条へ出かけて不在であり、茂左衛門も病気のため出動できなかった。池之島村名主のせがれ安左衛門はそれを怒って儀兵衛の留守宅におしかけた。 一方与茂七は皆から推されて指図役となり、豪雨の中堤防決壊を防ぐため、緊急の処置として、やむをえず自己所有林、ついで大庄屋儀兵衛所有林、藩有林を伐採してそれにあてたのである。 緊急のこととはいえ、無断で自分の山の木を切られてしまった村の大庄屋星野儀兵衛は面白くない。 水害騒ぎが収まると、こうした処置などを藩有林盗伐の咎にあたると両大庄屋は、新発田藩郡奉行に与茂七を藩林盗伐、安左衛門を一揆徒党の名のもとに訴えた。藩では2人を捕らえて調べたが、中之島組の名主・組頭は連判状をもって、与茂七の行動を釈明した。この時は御用役番頭筆頭の高久助之進の裁定で、当時の状況下では与茂七の行動はやむをえないものであると認め、無罪となった。 悔しがった大庄屋は、いつか与茂七から仇をとってやろうと考え、その後も双方の確執が続き、紛争が絶えなかった。 🔹西照寺 山門
石段を登って寺域に入る入り口にある。 寺伝によると享保年間(1716~1735)に中之島村大庄屋星野儀兵衛の寄進によって建てられたとされ、欅材を主とし、四脚門の形式をとっている。流れ破風単層瓦葺で、吉祥の彫刻が見られる。 現在長岡市の文化財に指定されている。 寄進は与茂七騒動の数年後に行われているが、星野儀兵衛はどのような心つもりで寄進したのだろうか。 〔所在地〕長岡市上岩井3471 (国役金証文に関する訴訟)宝永3年(1706)、新発田藩は幕府からの国役金を村々に割り付けた。村では連年の水害の惨状を訴え、軽減してもらえるよう藩に嘆願することを大庄屋に依頼したが断られ、そればかりか年貢米の厳重取り立てすら行われた。与茂七等はやむを得ず、大庄屋儀兵衛から150両を借用してとりあえず上納した。ところが宝永5年(1708)借用金を返済したにもかかわらず儀兵衛は策略をめぐらし借用証文を返してくれず、再び大庄屋と名主の間に争いが生じた。 名主たちは借用証文の取戻しを求める訴訟を行ったが名主側の敗訴となった。 かくて村方の怒りが高まっている所に、庄屋方から増税、未納年貢の督促、庄屋役宅雑用賦課を通達してきたので、怒りは爆発した。乃ち村方ではまず減免猶予を庄屋方に願い出たが認可されず、席上の激論は喧嘩大立ち回りとなった。 (大庄屋非違を暴く訴訟)正徳2年(1712)11月26日夜、並木新田百姓新蔵方へ中之島町名主与茂七と小助など各村代表がひそかに集まった。大庄屋は沢山の金を取り立てるので百姓の生活が困窮していると、与茂七等村々の名主たちは連署して、郡奉行所へ訴えた。(第一回目の訴状)これに対して大庄屋側は、儀兵衛の悪だくみを糾弾しようと与茂七らが庄屋宅に押し掛けたことを、『農民らをそそのかし徒党を組んで、大庄屋宅を襲撃しようと企てた』と藩に訴えた。両方から藩への訴訟となった。両庄屋と百姓の間に生まれた不信感はエスカレートして後には戻れない段階となっていた。 藩では事の重大さに驚き、家老溝口内匠、仙石九郎右衛門など藩の要職をあてて取り調べを開始した。 翌3年(1713)1月27日、藩は名主らは訴訟の為徒党を結び組中騒動したことは御法度に背くが、御慈悲を以てお許し下される、一方で大庄屋側に百姓の困窮を斟酌するように命じた。藩は双方の顔が立つようよう穏便に済まそうとした。また百姓困窮の原因については今後吟味するとした。 しかし庄屋側に落ち度なしとの判決は、与茂七側にとっては納得のいくものではなかった。そこで同月、直ちに両庄屋の非違を重ねて述べる第二回目の訴状を提出した。 新発田藩では、世間の噂も高まったことから、藩主の親裁を仰ごうということになり郡奉行と御目付役の二人が江戸出府を命じられた。第五代藩主溝口重元の治世下であった。江戸藩邸から早く事件を落着させるようにとの催促がなされた。 4月8日、被告両方が出席して家老や郡奉行の前で対決したが、お互いが自分の意見を言い合うばかりで結論は出なかった。 5月に入ると与茂七等名主たちに同情的であった家老の高久将監が病気で死亡し、悪評の高い梶舎人が一人で訴訟を担当することとなった。 5月27日から3日間、また吟味が行われ、与茂七等は無実の罪であると承服しなかったが、奉行は有無を言わせず口書に爪印させて、与茂七等29人の敗訴が決した。正月の第一回目の訴状に対して、藩が原告・被告の両方共おかまいなしとして、事件を穏便に落着させようとしたのに対して、名主たちがなりふり構わず再訴訟したことは、藩と争う姿勢を見せたと解釈された。 新発田藩としても名主が大庄屋に楯突くのは藩内の秩序が揺らぐ原因になると危惧し、このような風潮が他へ広がることも警戒しなければならなかった。また幕府から藩政に疑いの眼を向けられ、難癖をつけられる恐れがあった。 (与茂七等の処刑)正徳3年(1713)6月2日、新発田城の白州に与茂七は縄で縛られ引き出された。この時、与茂七は自分の意見を述べようとするが、口を無理に開けられ釘抜きで生き歯をすべて抜かれる拷問を受けたという。藩は与茂七と脇川新田名主善助を城外中曽根村の刑場で処刑し、中之島町与板道で3日間獄門に晒すとした。他にも中興野村名主小助、池之島村名主三太兵衛倅安左衛門、灰島新田名主喜平太の3人がこれに加担した罪で斬首を言い渡された。そのほかの名主組頭23人は罪の軽重により「御領御構い」、「軽追放」、「百日の御咎め」などの処分を受けた。 与茂七は、白州で死罪の言い渡しを受けると、「無念!七生までたたって、関係者達をのろってやる」と叫んだという。その後与茂七らは縄で縛られ裸馬に乗せられ新発田郊外の刑場(新発田市中曽根にあった)に向かった。 そのとき「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負えど 清き心は 知る人ぞ知る」と辞世の句を詠んでいる。 与茂七の首は晒されてから3日目の夜に獄門台から何者かによって持ち去られたと言う。その跡地に地蔵尊が祀られ、地元の人々から与茂七地蔵として信仰された。 与茂七騒動(正徳の大獄ともいう)のように、名主と一般農民が手を結び、大庄屋と対立・抗争するという事件は、このころ 新潟平野のあちこちで起こっていた。 越後の大庄屋階層は、かつて上杉景勝が会津に移封された際、これに従わず、支配した土地に土着し帰農した者が多く、江戸時代になっても、苗字帯刀を許され、武家に次ぐ支配階層として地域を支配した。百姓に対しては、支配者としての意識が強く、百姓の利益よりも自分の利益を優先させ、対立することが多かった。 与茂七騒動は名主側の全面敗北に終わったが、組内の農民は与茂七らを一身を犠牲にして大庄屋の横暴と対決した義民として後世まで語り伝えていった。騒動は新発田藩主溝口氏の統治下においては最大の訴訟事件であった。
☆ 与茂七火事 ☆与茂七が、濡れ衣を着せられ悲憤の死を遂げてから、新発田の城下が大火にあい、ことごとく焼け落ち、焼土と化したことが三度あった。最初の大火は、与茂七が死んでから6年目の、享保4年(1719)4月8日、申の下刻(午後5時半)ごろ、長行寺(現託明寺)より出火、おりからの東南風にあおられて「御家中町千余戸、百姓家八軒」を類焼して、翌日9日午前6時頃にようやく鎮火した。この時与茂七を裁いた溝口氏の新発田城も焼け落ちた。 その大火のおり、町中を飛び回る青い火の玉があり、それが降りた処から火の手が上がるのを見たという人が大勢いた。人々は、これは与茂七の祟りであるに違いないと言い出し、この火事を「与茂七火事」と呼ぶようになった。 新発田藩では、与茂七が冤罪であったことを認め、新発田の諏訪神社境内にある「五十志(いそし)霊神社」に与茂七の霊を祀り、供養した。この神社は、本来新発田藩に功績のあった人物を祀るために建立されたものであったが、今では火伏せの神として信仰されている。新発田に大火事が起こると、与茂七の怨霊が起因すると考えられたため、その霊を祀ることによってかえって火伏せの神とされたのである。 二度目の大火は、明治28年(1895)6月2日、午後11時ごろ寺町の三光寺から出火、南東の烈風で目抜き通りを焼き払い、わずか周辺の小規模な町内のみを残して、翌3日午前8時頃鎮火する。この火事で焼失した町内は延べ19ヵ町、戸数は2410を数えたという。この火災では、明治天皇が火災の規模を心配し、東国侍従を新発田に派遣し、見舞金を下賜している。 三度目の大火は、昭和10年(1935)9月13日、午前3時50分ごろ上町(現中央町)野沢足袋店から出火、東南15mの強風にあおられ、火はたちまちにして四方に広がる。 繁華街だけでも780戸(およそ街の1/4)、損害も250万円(現在の価値で44億円)の巨額に達した。しかし久保某宅のみが付近でただ一軒焼け残った。その時なども、「久保家の先祖が与茂七入獄中の牢屋番であって、与茂七が刑場に引かれていくときにわらじをくれたからだ」という話が 、人々の間でまことしやかに語られるほどであった。 いっぽう、中之島にも獄門台の跡地に与茂七地蔵が建っており、義民与茂七の徳を今に語りついでいる。 平成29年(2017)1月26日放送NHKの『ファミリーヒストリー』で、『大竹様伝説』が取り上げられた。それによれば、女優の大竹しのぶは与茂七の子孫といわれる。 🔹与茂七地蔵
〔所在地〕長岡市中之島4116(中之島文化センター脇) 〔アクセス〕 〔見どころ〕獄門台跡地に建つ与茂七を祀る地蔵堂で、近くには墓碑とともに鎮魂の碑も建てられている。地蔵は、与茂七の怨霊を鎮めるため、新発田の方角を向いて建てられているという。年月を経てもまだ、地蔵の眼は、打ち捨てられた与茂七の躰を求めて、恨みをもってさ迷っているいるようでもある。 現地案内看板
🔹義民大竹与茂七首塚与茂七地蔵 宝永元年(一七〇四)から同二年に起きた一連の農民騒動で捕らわれ、無実のまま処刑された義民大竹与茂七の地蔵尊。 新発田藩「御記録」は与茂七騒動を次のように記している------事件は宝永元年(一七〇四)六月の大洪水に端を発した。この時中之島村名主与茂七は、名主が留守のため自己の検断で藩の木を切らせ堤防を守ったが、帰宅した名主はこれを訴えた。裁判の結果与茂七は免れたものの、二人の間には深い溝が残った。そして翌、宝永二年(一七〇五)の大凶作の際、借金の件がこじれ、与茂七側二十七ヵ村の百姓たちは名主宅におしかけたため、一揆徒党であるとして与茂七は再び囚われの身となった。 裁判は五年も続き、その間与茂七はすべての歯を抜かれるなどの拷問を受けたが身の潔白を主張し続けたという。しかし、ついには死罪を申し渡され「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負へど 清き心は 知るひとぞ知る」と辞世をよんで刑場の露と消えた。与茂七の首は中之島に運ばれ、与板街道に設けられた獄門台に三日間さらされたが、三日目の夜、首は何者かによって持ち去られたという。 長岡市 〔所在地〕長岡市中ノ島221-甲 光正寺 🔹与茂七処刑の地標柱 〔所在地〕 新発田市中曽根町3丁目 〔見どころ〕脇には身代わり地蔵(幼い子供が殿様とは知らずに前を横切ろうとした際、無礼打ちにされるところを、地蔵の影に隠れ、逃げて助かったという)が建っている 🔹なみだ橋跡 〔所在地〕新発田市中曽根町3丁目1−16 〔見どころ〕橋跡を示す標柱があるのみで、橋は残っていない。与茂七が刑場に引かれて行く際、領民とこの橋で別れた 🔹五十志霊神社 〔所在地〕新発田市諏訪町1丁目8-9 〔見どころ〕新発田市諏訪神社の境内にある。新発田藩が本来藩に功績のあった人を祀るため建てた神社であった。新発田藩は与茂七の冤罪を認め、与茂七を霊神とし供養するためここに祀った。現在では、火伏せの神様とされている。 現地案内看板
🔹石動神社五十志霊神社 六月二、三日例祭 はじめ宗源社といったが明治維新後天神地祗と五十志霊神(溝口氏ゆかりの霊)を合祀して五十志霊神社と称した。与茂七とも霊神の一人であるという。 与茂七は新発田藩中之嶋組の名主で宝永元年信濃川および支流の堤防が破堤したときその防御工事を名主義兵衛茂左衛門に要請したか受入れられなかったので藩の御用材を無断で伐採して堤防を修理した。その後凶作の救米金や年貢米取立のことなどで名主名主間の紛争となり、農民を代表した与茂七等によって新発田藩へ訴えられた。裁きの結果は「組中、党をくんで庄屋へ難題を申しかけた首謀者」の罪で、与茂七他四人の名主は斬罪に処せられた。 正徳三年(一、七一三)六月二日のことである。 一身を犠牲にして村民のために尽した与茂七の行動は後世までたたえられている。 新発田市観光協会 〔所在地〕新発田市中曽根町2丁目3-14 〔見どころ〕新発田藩主溝口重元の生母およつ(智光院)が創建。その後、中曽根村民の与茂七鎮魂の熱意によって、明治42年(1909年)に現在地(新発田市中曽根町)に建立された 🔹他の越後内の義民 |