与茂七火事(長岡市中之島・新発田市) 与茂七火事



……………………………………………………………………………………………
☆ 与茂七火事(長岡市中之島・新発田市) ☆
……………………………………………………………………………………………
大竹 与茂七(おおたけ よもしち、延宝4年(1676年)〔生〕 - 正徳3年6月2日(1713年7月23日)〔没〕

中之島村(現中之島町)が、新発田藩領であった頃の話である。
中之島村の名主大竹与茂七は、宝永元年(1704)刈谷田川の大洪水の時、村内の堤防決壊を防ぐため、緊急の処置として自分の山の木を切り出して堤防の補強を行った。そしてさらに足りない分を、付近の藩林の木を切って補った。
緊急のこととはいえ、無断で自分の山の木を切られてしまった村の大庄屋は面白くない。水害騒ぎが収まると、与茂七に切った木の金を払えと迫ったが、村人の田畑がそれで救われたのだから大庄屋も協力すべきだ、と逆にやり込められた。
逆恨みというのだろうか悔しがった大庄屋は、いつか与茂七から仇をとってやろうと腹の中で考えていた。
宝永7年(1710)から数年、中之島村では連続の大凶作に襲われた。与茂七は村人の窮状を見かねて、大庄屋から金150両を借り受け、救済に当てた。
幸い次の年が豊作となったため、借金はすっかり大庄屋に返すことができたのだが、その際与茂七は、うっかり受領の証文を受け取ることを忘れていた。
翌年になると、大庄屋から借金を返せと迫られた。与茂七は大庄屋の不信をなじったものの、証文が手元にないことからどうすることもできなかった。とうとう新発田の奉行所に訴えられてしまった。
与茂七はことの成り行きについて条理を尽くして説明したのだが、大庄屋に買収されていた奉行所の役人は、余り取り調べもせずに斬首の極刑を申し渡してしまった。白州に引き出された与茂七は、「無念!七生までたたって、関係者達をのろってやる」と言い残し、新発田郊外の刑場の露と消えてしまった。時に正徳3年(1713年)6月2日のことである。
そのとき「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負えど 清き心は 知る人ぞ知る」と辞世の句を詠んでいる。
与茂七騒動のように、名主(庄屋)と一般農民が手を結び、大庄屋と対立・抗争するという事件は、このころ新潟平野のあちこちで起こっていた。与茂七騒動は名主側の全面敗北に終わったが、組内の農民は与茂七らを一身を犠牲にして大庄屋の横暴と対決した義民として後世まで語り伝えていった。
与茂七の首は中之島に運ばれ、与板街道に設けられた獄門台に3日間さらされたが、3日目の夜に首は何者かによって持ち去られたと言う。
その跡地に地蔵尊が祭られ、地元の人々から与茂七地蔵として信仰された。

※大庄屋とは、組(数十か村)ごとに1,2名ほど任命された有力農民で、組内各村の名主(庄屋)を指揮して、年貢や各種租税の徴収などにあたった。藩や幕府から大きな権限を与えられていたが、権力にまかせて組内の農民に種種の重い負担を課し、私服を肥やすものも少なくなかった。

……………………………………………………………………………………………
☆ 与茂七のたたり ☆
……………………………………………………………………………………………

それからまもなく、大庄屋や奉行所のこの件に関した役人達は、次々と気がふれて狂い 死にし、続いて新発田の町の大半が焼けるという大火事に見舞われた。
ところでその大火のおり、町じゅうを飛び回る青い火の玉があり、それが降りたところ から火の手が上がるのを見たという人が大勢いた。人々は、これは与茂七のたたりであ るに違いないと言い出し、この火事を「与茂七火事」と呼ぶようになった。
それからといもの、新発田に大火事が起こると、すぐに与茂七火事が引き合いに出され るようになった。昭和10年9月13日の大火で、被災地域の中で1軒だけ焼け残った 家があったが、その時なども、
「与茂七が形場に連れて行かれるときに、わらじをくれてやった家である」という話が 、人々の間でまことしやかに語られるほどである。
その後、新発田藩では、与茂七がえん罪であったことを認め、新発田の諏訪神社境内に 「五十志(いそし)雷神社」という名の社を建てて、与茂七の霊を慰めた。今でも火伏 せの神として信仰されている。それは1719年(享保4),1895年(明治28)の大火が与 茂七火事と称され,与茂七の怨霊が起因すると考えられたためで,その霊を祀ることに よって,かえって火伏せの神とされたのである。

いっぽう、中之島町にも獄門台の跡地に与茂七地蔵が建っており、義民与茂七の徳を今に語りついでい る。


2017年1月26日NHKの『ファミリーヒストリー』で、『大竹様伝説』が取り上げられた。それによれば、女優の大竹しのぶは与茂七の子孫といわれる。


与茂七地蔵
〔所在地〕新潟県長岡市中之島4116(中之島文化センター脇) ⇒ストリートビュー
〔アクセス〕
〔特徴〕獄門台跡地に建つ与茂七を祀る地蔵堂で、近くには墓碑とともに鎮魂の碑も建てられている

義民大竹与茂七首塚
〔所在地〕長岡市中ノ島221-甲 光正寺

与茂七処刑の地標柱
〔所在地〕 新潟県新発田市中曽根町3丁目 ⇒ストリートビュー
〔特徴〕脇には身代わり地蔵(幼い子供が殿様とは知らずに前を横切ろうとした際、無礼打ちにされるところを、地蔵の影に隠れ、逃げて助かったという)が建っている

なみだ橋跡
〔所在地〕新潟県新発田市中曽根町3丁目1−16
〔特徴〕橋跡を示す標柱があるのみで、橋は残っていない。与茂七が刑場に引かれて行く際、領民とこの橋で別れた

五十志霊神社
〔所在地〕新潟県新発田市諏訪町1丁目8-9
〔特徴〕新発田市諏訪神社の境内にある。新発田藩が与茂七の冤罪を認め、供養するため建立した。火伏せの神様

石動神社
〔所在地〕新発田市中曽根町2丁目3-14
〔特徴〕新発田藩主溝口重元の生母およつ(智光院)が創建。その後、中曽根村民の与茂七鎮魂の熱意によって、明治42年(1909年)に現在地(新発田市中曽根町)に建立された
現地案内看板
与茂七地蔵

宝永元年(一七〇四)から同二年に起きた一連の農民騒動で捕らわれ、無実のまま処刑された義民大竹与茂七の地蔵尊。
新発田藩「御記録」は与茂七騒動を次のように記している------事件は宝永元年(一七〇四)六月の大洪水に端を発した。この時中之島村名主与茂七は、庄屋が留守のため自己の検断で藩の木を切らせ堤防を守ったが、帰宅した庄屋はこれを訴えた。裁判の結果与茂七は免れたものの、二人の間には深い溝が残った。そして翌、宝永二年(一七〇五)の大凶作の際、借金の件がこじれ、与茂七側二十七ヵ村の百姓たちは庄屋宅におしかけたため、一揆徒党であるとして与茂七は再び囚われの身となった。
裁判は五年も続き、その間与茂七はすべての歯を抜かれるなどの拷問を受けたが身の潔白を主張し続けたという。しかし、ついには死罪を申し渡され「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負へど 清き心は 知るひとぞ知る」と辞世をよんで刑場の露と消えた。与茂七の首は中之島に運ばれ、与板街道に設けられた獄門台に三日間さらされたが、三日目の夜、首は何者かによって持ち去られたという。

長岡市
現地案内看板
五十志霊神社 六月二、三日例祭

はじめ宗源社といったが明治維新後天神地祗と五十志霊神(溝口氏ゆかりの霊)を合祀して五十志霊神社と称した。与茂七とも霊神の一人であるという。
与茂七は新発田藩中之嶋組の名主で宝永元年信濃川および支流の堤防が破堤したときその防御工事を庄屋義兵衛茂左衛門に要請したか受入れられなかったので藩の御用材を無断で伐採して堤防を修理した。その後凶作の救米金や年貢米取立のことなどで庄屋名主間の紛争となり、農民を代表した与茂七等によって新発田藩へ訴えられた。裁きの結果は「組中、党をくんで庄屋へ難題を申しかけた首謀者」の罪で、与茂七他四人の名主は斬罪に処せられた。
正徳三年(一、七一三)六月二日のことである。
一身を犠牲にして村民のために尽した与茂七の行動は後世までたたえられている。

新発田市観光協会

  • ①与茂七処刑の地標柱
  • ②なみだ橋跡
  • ③五十志霊神社
  • ④石動神社
  • ⑤与茂七地蔵尊
  • ⑥義民大竹与茂七首塚 光正寺







近世義民年表


百姓一揆


新発田藩 (シリーズ藩物語)
領主と領民の間には程良い関係が保たれ、溝口氏の治世は安定、学を好む穏やかな藩風を育んだ。