義民岡村権左衛門 Citizen of justice Gonzaemon Okamura 長岡市



宝暦5(1755)〔生〕 - 寛政4年8月25日(1792年9月22日)〔没〕

岡村権左衛門は宝暦5年(1755)に浦村(越路町)の名家に生まれ、天明6年(1786)に父治平兵衛のあとをついで組頭になり、人望があったという。

長岡藩主牧野氏は長岡に移封されて以来、隣接領主との間にあった渋海川(※地図)の水争いに苦慮していた。用水確保のため川上にある川西組(来迎寺など渋川海川南岸)の村々を自領地に組み入れるため、長年、領主である高田藩・幕府・稲葉氏に幾度も申し入れたが成功しなかった。
9代牧野忠精が幕府の要職寺社奉行につき、寛政元年(1789)ようやく領地替えに成功した。寛政元年(1789)12月、岩田・飯塚・朝日・来迎時・古新田・浦・道半・宮川新田・中沢新田の川西組9ヵ村の庄屋・組頭・百姓代ら46名が、長岡藩の川西蔵元代官役場に呼び出されて、大幅に増えた年貢を言い渡された。枡入や小物成の増加、民政の厳しさ等がこれまでとは雲泥の差であり農民生活は貧した。

寛政3年(1791)1月、農民の代表59名が岡村宅に集まり9か村は団結して、減免嘆願することとなった。三滝の地はその密議場所のひとつであったが、首謀者のわからない廻り連判状(からかさ連判状)を作成し、死を天神地祇に誓う地となる。しかし、藩の追及を恐れて誰一人その先頭に立つ者がなかった。
こうした中、越後三島郡浦村の組頭岡村権左衛門は村の農民を救おうと決心し、逃げ腰の村々の代表たちを説得して、嘆願書を作成し、割元役・代官所・蔵所などへ訴えたが、いずれもらちが明かなかった。そのため郡奉行に訴えた。
藩では嘆願がなされると首謀者として浦村組頭岡村権左衛門や岩田村組頭藤左衛門など9人らを捕らえる一方で、寛政3年(1791)5月から藩の表吟味が観光院南稽古所ではじまる。この間、朝日・道半・宮川・中沢の庄屋ら18名は処分を恐れて脱落してしまった。
吟味の結果、農民の願いは聞き入れられることとなり、手当て米や諸役免除を15年間続けた。農民はこれによって飢餓を免れることとなった。
しかし一方で、徒党および強訴は極刑である。そこで権左衛門は「全部の責任は自分一人にある」と罪を一身に負い、仲間に対する寛大な処置を請願した。
寛政4年(1792)8月25日、権左衛門(当時38歳)は、城下荒屋敷にあった牢屋敷内(※地図 ※ストリートビュー)で斬首された。その時、「翌日ありと跡見ぬ鴨の行衛かな」また「濁るともすえは海なりおとし水」という辞世を残している。その首は信濃川原(現長岡市草生津)で獄門台にさらされた。他の仲間72名の処罰は追放や過料などの刑罰で済んだ。

明治28年(1895)に建立された権左衛門の義民頌徳碑が浦地内行之塚にある。また昭和38年(1963)、幾回となく協議の場所となった山屋の三滝にから傘連判状碑が建立された。

🔶記念碑
🔶そのほかの越後国内の義民



















百姓一揆と義民の研究

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