大竹邸記念館 The Otake's house Memorial 長岡市



大竹家は、中世以来土着して地域の耕地開発にあたり、代々新発田藩中之島組大庄屋を務めた。この地が、刈谷田川、信濃川、五十嵐川に囲まれた水難地のため、大竹家は代々、治水・利水に尽力した。
23代長右衛門の代には、嵐南(信濃川の支流五十嵐側の左岸地方をこう呼ぶ)の大水利組織である「刈谷田大堰」を創設し、以降、その運営と強化に努力した家でもある。
大竹貫一は万延元年(1860)、31代当主英治の六男として生まれた。明治13年(1880)に中之島村会議員となって以来、県議、国会議員として活躍。その間、刈谷田川改修や大河津分水工事実現などに尽力。
代議士として活躍した32代当主大竹貫一氏の記念品や愛蔵品などは、昭和54年に貫一の生家を『大竹邸記念館』として整備・開館された。旧中之島町指定文化財第1号で、現在は長岡市指定文化財となっている。
また、「新潟県景勝100選」に選ばれた庭園内には、平頼盛を祀った『池公社』も建立されている。 (案内図)




≪大竹邸記念館のパンフレットから≫ 小伝

大竹貫一翁は、安政7(1860)年3月12日、新潟県南蒲原郡中之島村大字中之島(現長岡市中之島)で父・大竹英治(鳳羽)の六男として生まれた。
少年時代に若月元輔などから漢学を学んだ後、新潟英語学校に進み、土木工学を専攻して治水に関する知識を学ぶ。
明治13(1880)年に中之島村会議員に当選。以来通算32年間在職。同19(1886)年以降は、新潟県会議員を4年9ヵ月、さらに同27(1894)年に第3回総選挙で衆議院議員初当選後、16回の当選を果たした。昭和13(1938)年、貴族院勅撰議員に任じられたが、翌年11月に辞退している。
こうした政治生活の間、国・県道の新設改良や、治水・利水に力を注いだ。刈谷田川を改修し、大堰を築いて用水としての利用を図る一方、信濃川の洪水から地域を守るためには大河津分水の建設が抜本的な解決策と考え、自ら資産を投じ、工事の進捗を図った。これにより、穀倉越後平野は水害の脅威から開放され、大きな恩恵を受けた。また、北海道に大農場を起こすなど殖産興業にも貢献した。これらの功績から、昭和15(1940)年に旭日重光賞を受けている。
名誉や利益を求めず、信念を曲げず、常に国と郷土の発展のために尽くした姿勢は人々の信頼を集め、今も郷土の誇りとして語り継がれている。
昭和19(1944)年9月22日、85歳で亡くなった。

大竹貫一

1860年4月2日(安政7年3月12日)〔生〕- 1944年(昭和19)9月22日)〔没〕

越後国蒲原郡中之島村(現:新潟県長岡市中之島)で、大庄屋大竹家31代の当主英治の六男として生まれる。刈谷田川の今町大橋をわたり、500m余り行ったところである。

幼いころから感受性の強い子どもだったらしく、8才のとき起こった丸山興野事件や、9才のとき遭遇した戊辰戦争のおもいでが後の人生に何かと影響を与えている。
丸山興野事件とは、文久3年(1863)の刈谷田川洪水の際、丸山興野破堤のため15名の死者を出した事件で、彼の父英治は中之島組61ヶ村の大庄屋の立場から被告代表のような形で召喚され、英治は、一説には5万数千両を費やしたと言われる。
貫一がのちに大河津分水工事の促進のためや、刈谷田川大堰工事完成のためにそそいだあの情熱は、こうした事件などをとおして幼心に焼き付いた治水への関心と郷民への愛情の表れだったとも考えられる。
若槻元輔、長善館(吉田町粟生津)の鈴木惕軒に漢学を学ぶ。明治6年(1873)、新潟学校に入り、明治7年(1874)に文部省直営の新潟英語学校に入学し、土木工学を専攻したが、明治9年(1876)8月に中退した後、上京、更に漢学を修めた。結婚して一男三女があったが、いずれも早世で、生き甲斐は家庭よりも議員生活。「国会議事堂こそ自分の本当の家のような心地がする」と、仲間に漏らしていた。
明治13年(1880)、20歳の若さで中之島村会議員に就任(大正元年(1912)まで在任)。南蒲原郡会議員、明治19年(1886)新潟県会議員も務め、刈谷田川改修工事、大河津分水工事の実現に尽力し、「大竹宗」と呼ばれた強い選挙基盤を確立した。
明治27年(1894)年3月、第3回衆議院議員総選挙に新潟県第四区から出馬して当選。衆議院議員を通算16期、34年10ヵ月務めた。永い間、常に野党的立場で、名利にとらわれない清潔な政治家として国民に親しまれた。革新党の仲間だった犬養毅が、筋を曲げて政友会総裁になった時、「大臣にならないか」と、大竹は言われた。「どんなに困っても政治節操は曲げられぬ。大臣がそんなに偉いのか」と、断ったという。衆院副議長に推された時も固辞した。
明治38年(1905)9月5日、河野広中らと日比谷公園で日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する集会を開催し、それが暴動の引き金となった。大会の後、街頭に流れ出た参加者が警官と激しくぶつかり合ったあげく、5日から6日夜にかけて電車・交番・協会・新聞社などを手あたり次第に焼き払った大騒動となった。国民大会の中心人物だった河野広中、頭山満等とともにこの騒動の首謀者という疑いで大竹は検挙され起訴されたが明治39年(1906)4月に証拠不十分で無罪となった。(日比谷焼打事件)
第一次世界大戦後には、普選運動に尽力し普通選挙法の実現に貢献した。絶対多数の政友会政府のもとで、警察力の暴圧に堪えながら、野党連合工作、院外大衆活動の指揮など少数野党としての苦しい戦いをすすめ、大正14年(1925)遂に普通選挙法を実現させた。
大日本協会、進歩党、同志倶楽部、憲政会、革新倶楽部、革新党などを経て昭和7年(1932)、国民同盟に転じる。
昭和13年(1938)2月14日、貴族院勅選議員に勅選されたが、近衛首相の日中戦争処理の外交政策が気に食わず、意見書を近衛に郵送、議員を辞めた。
昭和19年(1944)9月、太平洋戦争では東条首相を嫌い、「軍人であって政治家ではない」といい、戦争の敗色が濃くなる中、東京から中之島に戻った。
昭和19年(1944)9月22日、二、三日自宅で酒を口にしたが倒れ、84歳の生涯を閉じた。明治・大正・昭和の激しい渦の中で、終始国に身を捧げた人生だった。
当時の今町故民学校で、中之島郷葬儀が行われ、郷土の人達は貫一の偉業を後世に伝えるため、大竹邸保存会をつくりこの管理にあたっている。

丸山興野事件
刈谷田川上流域中之島組は新発田藩領、下流の二俣村は幕領(桑名藩預)であった。刈谷田川は大雨の度に、大洪水が発生し堤防は破堤した。
領主が異なることもあり、二俣村の村民は度重なる洪水で上流域の村々に反感を持ち、ケンカが絶えなかった。
文久3年(1863)5月の刈谷田川洪水の際、丸山興野破堤のため15名の死者を出した。しかし死亡原因について二俣村側が、中之島組の村民がなぐり殺したものであるとして江戸幕府評定所に訴え出た。貫一の父英治は中之島組61ヶ村大庄屋の立場から被告代表のような形で召喚された。訴えられた農民のうちに、獄中で病死した者3人、逃亡したもの20人余を出し、事件は6年の長きに及んだ。
二俣村の代表片桐省介が残した記録にも、大竹英治がこの事件のために払った犠牲の大きさを書き残しているが、一説には当時の金で5万数千両を費やしたと言われる。祖母と母が密語しているのを目撃して貫一は小児ながら父の一大事として心を痛めたという。

大河津分水
中之島郷は六十数か村が散在、信濃川、刈谷田川、猿橋川にかこまれた低湿地帯で、昔から水害に痛めつけられてきた。少年時代から川を治めなければ、と思い、新潟英語学校へ入学したのも土木工学を専攻しようと思ったからだ。村議、県議、代議士時代を通じ、私財をなげうって、遂に信濃川を途中で日本海へ分水させる大河津分水を完成させた。

日比谷焼打事件
1905年(明治38年)、9月5日、日露戦争の講和調印の日。その日朝、東京では日比谷公園に講和調印に反対する人達が押し掛けた。警視庁は9月5日朝に国民大会の開催を阻止するべく大会委員8名を検束しようとしていたが、大竹貫一(新潟)、河野広中(福島)、小川平吉(長野)らは拘束を免れ大会を強行した。集まった群衆は3万人。
大竹は、中之島村出身の代議士だった。日露戦争では戦死者8万5千人、うち新潟出身は3318柱。
「外国から借金までし、20億円近い巨費を注ぎ込んで戦い、その代償がサハリン南部と朝鮮半島の権利、沿海州の漁業権、関東州の租借権だけ。多くの犠牲を払い、勝ち戦なのに土地も賠償金を取れないとは何事だ。国論に応えて開戦したのだから、終る時も、賠償金と沿海州割譲を要求する国民の声を聞くべきだ」というものであった。
警視庁はこの大会を禁止し、日比谷公園の入り口を封鎖した。だが集まった群衆は、公園内に入り、午後1時半から大会が開かれ、大竹貫一が演説、河野広中が「戦勝の効果を没収する講和条約をして不成立に終わらしめんことを期す」との決議を朗読して解散した。
そのあと群衆は「ああ大屈辱」ののぼりを立てて市中へくりだし、行進した。興奮した群衆は、内務、外務大臣官邸や交番、警察署、新聞社などを襲った。内務大臣官邸を襲撃した5人組の暴徒は抜刀して襲ったという。
国民新聞社は「政府の御用新聞だ」として。平和論を唱えた平民社や教会もやられた。暴動は翌日も収まらず、政府は東京市および府下5郡に戒厳令を敷き、軍隊近衛師団を出動させてようやく鎮圧した。この間に市民の死者は17名、負傷者は500名以上、警察署2、交番219、教会3、民家53、電車15台が焼討ちされ、2千人が検挙された。
1906年(明治39)1月、首相の桂太郎は総辞職し、西園寺内閣が発足することで幕引きを図った。
大竹、河野、小川ら主催者8名は群衆を呼び集めた「兇徒聚衆罪」に問われ、11月11日、拘引されたが、翌年4月、証拠不十分で無罪判決を受けた。弁護人141人が弁護に立った空前の大裁判であった。裁いたのは東京地裁第一刑事部、今村恭太郎裁判長だった。控訴はなく無罪が確定した。
半年間、国事犯として市ヶ谷刑務所で鉄窓暮らしだった大竹は、青天白日の身となると一路故郷の越後へ向かった。1906年(明治39)5月30日、郷里の見附駅に下車。駅から今町を通って中之島までの沿道は地元民や小学生らが列をなして迎え、「バンザイ!」の連呼の中を3台の人力車で郷里入りした。途中で花火を打ち上げ、紅白の餅やこも樽の祝酒がふるまわれたという。

普選運動
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙以来、選挙人を満25歳以上の男子に限り、また直接国税納税額などにより選挙人の範囲を限るなどした上で衆議院議員を選出する制限選挙の下での立憲政治が行われていた。
日露戦争など命を懸けた国家への貢献を求められた国民の範囲と、政治参加が認められた国民の範囲のずれが顕在化する。
納税資格などがある有権者は国内人口のわずか1%に過ぎなかった。大正デモクラシーの中、普選への機運が高まった。
そして、1925年(大正14)になってようやく、納税資格による選挙権を撤廃した普通選挙法になったが、それは大竹らの執拗な普選運動があったからだ。
1919年(大正8)2月、両国国技館で開かれた普選獲得運動の集会には41団体が集まり、大竹が座長に選ばれた。
野党連合工作や院外大衆運動の指導など民衆の先頭になって、普選に反対していた政友会政府と闘い続けた。多くの普選団体は野党憲政会の傘下に組み込まれていった。1924年(大正13)5月10日、第15回衆議院議員総選挙では与党政友本党に対し野党三派が勝利した。
成立するまでの6年間に集会は数千回、毎年のようにデモが頻発した。その都度警官らと衝突した。逮捕された犠牲者は、のべ1800人に上った。








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