大河津分水 燕市
大河津分水 信濃川大河津資料館 🔗田沢与一郎・田沢実入 信濃川の下流域一帯は、ひどい低湿地で、かつて度重なる水害によって越後平野に壊滅的な被害を与えてきた。この被害をなくすために、内野新川の開削をはじめ、いろいろの方法が試みられたが、結局のところ、氾濫する水の出どころである信濃川を治めなければ根本的な解決にならない。 信濃川は、小千谷で山地を抜け、北流して大川津で海まで8キロほどに接近するが、ここでやや東に向きを変えて遠ざかり、蒲原の平野を貫流して新潟へ出る。しばしば破堤するのは主として大川津以北で、増水した水が越後平野に入る前に一部を日本海へ流す必要があった。 そのために計画されたのが大河津分水で、総延長約10kmの人工河川だ。信濃川と大河津分水の分岐点に開閉可能な堰を設け、洪水時には上流からの洪水を全て日本海に流し、平常時には新潟方面に生活用水やかんがい用水として必要な水量を流している。大河津分水路が完成したことにより、越後平野は水害が減少し、日本有数の穀倉地帯となった。 ≪新田開発のための大河津分水開削の請願≫幕府が貢租収入の増大を目的として、享保7年(1722)に民間の資本を主力とした大規模な新田開発を奨励した。越後においては享保年間に北蒲原郡の紫雲寺潟開発や新発田藩による阿賀野川の松ケ崎開発が行われ、それぞれ成果をあげていた。(☛ 紫雲寺潟干拓)享保年間(1716~1736)に寺泊(現在の長岡市寺泊)の本間屋数右衛門が、三島郡大川津村から海岸の須足村にかけて約2里の分水路を開削し、同川沿いの附洲・潟湖の干拓をして新田開発を行おうと計画し江戸幕府に大河津分水の工事を請願した。しかし、工事が大規模で成功が見通せなかったことから、幕府の許可を得ることはできなかった。 天明6年(1786)と寛政元年(1789)に二代目本間数右衛門は亡父の意志を継ぎ嘆願を行い、完成後の下流堤外地や潟の新田開発で、工事費は十分につぐないうると、具体的な工事見積書も差し出した。 これに対し幕府は役人を派遣し地元の調査を行ったが、寛政3年(1791)になって「村々が反対している」ことを理由に二代目数右衛門の嘆願を却下した。 ≪治水のための大河津分水開削の請願≫越後国信濃川流域の蒲原一帯は、長岡藩や新発田藩、村上藩の小藩が領地を持っていたほか、幕府領や会津藩領、桑名藩領が複雑に入り組んで存在していた。工事を進めるうえで、これらの藩の利害を調整することは、幕末になって財政的・政治的に統治力の落ちた幕府の力では極めて実現が難しい状況となっていた。 信濃川の下流地域では、信濃川は中ノ口川と2流に分かれ、洪水対策では新発田藩と長岡藩で利害が対立していた。また信濃川河口の新潟湊では、分流工事によって水位が下がるとして反対していた。 文政11年(1828)に三条地震が起こり、信濃川の地形が変動したことにより、信濃川の洪水は一層深刻になった。治水のため大河津分水の開削を求める声が大きくなった。(☛ 三条地震) 天保3年(1832)、福島村(現三条市)庄屋田中新之亟が、折から巡検中の幕府役人に大河津分水の開削を求めた。 天保4年(1833)には貝喰新田(現三条市)ほか43ヵ村が連名の嘆願書を提出する。 天保4年(1833)9月には下新村(現新潟市秋葉区)庄屋本間徳左衛門ほか三庄屋連名の嘆願書を提出した。 天保5年(1534)と13年(1842)に、分水路周辺を領地としていた桑名藩が、自領の村々の衰微を憂いて、自費での工事の着工を申請した。この時幕府は天保15年(1844)まで数年をかけ、役人派遣して測量を行わせ、精度の高い図面を作成したが、結局許可を与えなかった。 安政2年(1855)、文久元年(1861)と寺泊町肝煎五十嵐文六などが開削を嘆願した。 慶応元年(1865)、新発田藩は大河津分水を要望し、古川村(現新潟市南区)名主田沢与左衛門、梅ノ木村(現新潟市秋葉区)名主上田幸助の両名を領分惣代として江戸に上らせ、幕府に嘆願を行わせた。 慶応4年(1868)、信濃川は未曽有の大洪水を記録し、流域は数か月にわたって戊辰戦争の激戦場となったから、民衆は疲弊した。再び分水の議がおこり、有志は京都・東京に散って要路に働きかけた。小吉郷(現新潟市南区)の庄屋らは、新潟民政局や維新政府治河使に対し、大河津分水開削の訴えを行っていった。 明治元年(1868)から2年(1869)にかけて新発田藩をはじめとする関係諸藩は、大河津分水開削を建議した。 明治2年(1869)1月には水害常襲地帯である亀田郷(現新潟市江南区)の農民約1万人が蜂起し、信濃川分水路を関屋の地に独力で開削しようとする事件が発生する。(新潟関屋堀割騒動) 前年、戊辰戦争があった上に、大洪水に見舞われた人々は困窮の極みにあった。亀田郷の農民たちは、懸案であった関屋分水を自ら実行するため越後府に嘆願したが、政府は大河津分水案を楯に待てと回答していた。亀田郷の村々から農民約1万人が繰り出し、信濃川を関屋地点で分水するための水路を掘り始めた。騒動は兵に抑えられ、数十人が処罰を受けて終わった。 明治2年(1869)4月、越後府は、大河津分水開削を全額官費をもって行うことを布告した。 平岡兵部越後府権判事を総括に据え、工事の推進役たる用弁係には請願を行ってきた庄屋たち13名が任命されて工事体制がつくられた。維新政府の財政は苦しく、見積もられた工事費を支弁する力がなかったため、実質的工事の行われないまま、同年9月には政府は工事の延期を通達した。 🔳分水工事「第一次工事」政府は翌3年(1870)1月、政府の管轄下で分水工事を行うことを布達した。寺泊に工事事務所が設けられ、民部省土木司の青柳権少佑が工事総指揮者として着任した。青柳は寺泊の藤田屋を本拠に現地を見、新発田藩元締富樫万吉と協力して関係800余ヶ村の利害の調整に苦心する。明治3年(1870)7月7日国上村(現燕市分水町)石湊で起工式が行われ、工事が開始されることとなった。 しかし、総工費の内半分以上が地元負担金とされており、延べ750萬人と予想された人足役の殆ども地本農民に割り当てられ、これは窮乏した一般農民のよく耐えられるものではなかった。さらに掘れば崩れる渡部(現分水)のいわゆる化物丁場(ばけものちょうば)にかかり、村々への割り当てが多くなるにつれて不平の声も激しくなり、資金、人足は予定通りに調達されなかった。政府は、各藩や村々に負担を課し、強権的に工事を進めようとしたことから、民衆の反発が大きくなった。 🔳大河津分水一揆、「第一次工事」の廃止明治5年(1872)4月、蒲原平野一帯に分水工事反対の大一揆(大河津分水騒動)が巻き起ったのである。中之口村で旗揚げし9000人が、柏崎県へ向かった。また三条に集結した農民5000人が、旧会津藩士渡辺悌輔らに先導され新潟県へ向かった。途中で分水推進役を務めた者に打ち壊し攻撃をかけたり、県官を殺害するなど激しい行動をとったが、結局は武力で鎮圧されてしまった(悌輔騒動)。二つの騒動は、連携せず同時に発生している。この騒動によって分水工事「第一次工事」は中断を余儀なくされる。 また明治8年(1875)3月には、お雇外人のオランダ技師リンドーが分水を不可とし、水害の除去は護岸築堤の完備によるべきことを建言したことなどから正式に廃止に決まった。 明治政府は低水工法を採用し大河津分水の建設を諦め信濃川本川の堤防の嵩上げや拡幅工事を進めた。 🔳分水工事「第二次工事」ところが、改修工事進行中の明治29年(1896)「横田切れ」と呼ばれる大洪水が発生し、信濃川や中ノ口川、西川、阿賀野川などの至る所で堤防が切れ、越後平野のほぼ全域が浸水した。1ヶ月に及んだ浸水でチフスやコレラ、赤痢が蔓延。今に語り伝えられている「横田切れ」である。当時進められていた信濃川改修工事に対する反発が大きくなり、大河津分水の必要性はだれの目にも明らかであった。 新潟県議会も明治31年(1898)に「信濃川治水建議」を採択して内務大臣に提出し、毎年のように同様の建議を行った。 一方政府も、陸上交通の発達によって、舟運の必要性が減少したことや、主穀増産が大きな課題となったことにより、明治30年(1897)を転機にして河川政策を、それまでの低水工法から洪水対策を目的にした高水工法に切りかえを行った。 明治40年(1907)に帝国議会で大河津分水工事を官費で開始することが決定され、予備調査が行われた。 明治42年(1909)7月、寺泊白岩の地において起工式が行われた。(「第二次工事」一般的に分水工事というときは二次工事を指す) その後工事の方は大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦の影響による予算圧縮や、二度の地すべりによって工期、工費の変更を余儀なくされたが、16年目の大正11年(1922)8月25日、出水警報の中で、旧堤が爆破され、奔流となって新水路に入った水は、間もなく日本海に達した。分水は大正12年度(1923)にようやく完成したのである。 大河津分水は、長さ約10km、川幅180m~800mの分水路の開削と堰の建設のため、ドイツやイギリスなどから輸入した最新の掘削機械と延べ1000万人の従業者が導入され100名の犠牲者を出しながら、本間数右衛門が初めて幕府に請願してから、200年の長い年月を経てようやく完成したのである。 🔶大河津分水工事殉職之碑
大正12年(1923)10月23日に建立された。当初、夕暮の岡に置かれたが、昭和11年(1936)5月1日 記念公園へ移動された。 ≪碑文≫
大河津分水工事殉職之碑 分水工事は、当時、外国から取り寄せた最新鋭の機械を使った工事でした。それでも、一日平均千五百名もの人達が働き、十五年間の工事期間中に、その数は延べ一千万人に達しています。この大工事とその後の維持工事などにより、百名の尊い命が失われました。 当時の人達は、腰まで水につかる湿田が続く越後平野から、現在の越後平野の姿を想像することができたでしょうか。越後平野発展の礎を築いた分水工事にたずさわり、不幸にして殉職された方々を決して忘れることはできません。 この碑は、こうした故人の冥福を祈るため、当時、分水工事の起工式が行われた夕暮の岡に建立され、その後、昭和十一年に、この地に移されました。以来、こうした先人の偉業をしのんで、桜の花が咲く頃、毎年、慰霊祭が行われています。 大河津分水工事殉職之碑
筆者 渡辺六郎(内務省新潟土木出張所長) 建碑 大正十二年十月 建立者 田沢実入他有志(分水着工運動推進者) 低水工事 高水工事
低水工事とは舟運や灌漑用水の確保を目的に行う工事のことをいい、高水工事とは洪水防御を目的とした工事のことをいう。 明治時代当初の河川工事は、当時の国内の物資輸送は河川舟運に頼っていたため、舟運維持のための低水工事が中心であった。しかし明治18年(1885)から明治29年(1896)までに全国的に大水害が頻発、さらに鉄道の普及とともに、天候や水位に左右される舟運の輸送機関としての地位が低下し、河川工事の中心課題は洪水対策である高水工事へと急速に移っていった。 また、明治29年(1896)には河川法が成立し、低水工事だけが受けられていた国庫負担が、府県負担であった高水工事にも開放された。 🔙戻る
≪田沢与一郎・田沢実入≫田沢与一郎 1823(文政6)年~1883(明治16)年田沢実入 1852(嘉永5)年~1928(昭和3)年 (田沢与左衛門のち与一郎)幕末から明治期にかけ、白根郷で分水計画を推進した者に、古川村の田沢与一郎・実入父子がいる。田沢家は与一郎の父の代から新発田藩領蒲原郡古川村の名主を務める家で、与一郎は1823年(文政6)に生れる。明治に入り与一郎と改名した。 嘉永年間(1843~1854)に古川村の名主となり、明治に入るや戸長、副大区長などを歴任した。 与一郎は早くから信濃川の根本治水策は分水以外にないとして、1865年(慶応元)以降に他の同志と幕府、新政府に分水着工の請願を続けた。 結果、1869(明治2)年の治河使総督への誓願により念願の工事は開始され、与一郎は河川行政を担当する民部省土木司用弁掛となった。 しかし、工事はその後、経費捻出や周辺住民の反対に直面し難航し延期、再開と混乱し、1875年(明治8)、政府はついに工事廃止を布達した。 与一郎・実入ら同志19人は1881年(明治14)に「信濃川分水仮会社(のち治水会社)」を設立して工事再開を期したが、与一郎は翌年9月4日、60歳で没した。 与一郎は死に際して、枕もとの実入に、「大河津分水工事再興の志を受け継ぎ、達成に努力せよ」との言葉を残したという。実入との面会を果たした翌日、父与一郎は亡くなった。 (田沢実入)1852年(嘉永5)、名主与左衛門(のち与一郎と改名)の長男として生れる。1879年(明治12)、中蒲原郡書記となり、1881年(明治14)父与左衛門と共に信濃川治水会社を設立した。 1883年(明治16)、新潟県議会議員に初当選し、大河津分水実現や新潟港問題に奔走した。東京へ請願に赴くなど精力的に動いた。このような中、実入のもとに、父与一郎の病状が悪化し重体との電報が届き帰郷、与一郎は工事再開を託して亡くなった。 1886年(明治19)、私財を投じて活動したため生活のための資金にも困窮するようになり、県会議員を辞職し、県の土木職員となった。 1893年(明治26)、内務省に奉職し、岐阜県土木課長、東京市土木部長などを歴任した。中央官僚としてキャリアを積む傍ら、大河津分水工事の再開に向けて運動を行った。 1904年(明治40)、分水工事が決定され、1906年(明治42)から工事が始まると、内務省の地蔵堂工場や落水工場、弥彦砕石工場などの主任となり活躍した。 1922年(大正11)、親子2代に渡って宿願であった大河津分水はついに通水した。 1923年(大正12)、内務省を辞職。 大河津分水公園内には1924年(大正13)に、桜の植樹を記念して「桜の碑」が建てられ、田沢実入は次の歌を刻んでいる。 その後、実入は1928年(昭和3)に76歳で没した。1881(明治14)年、29歳のとき著した「信濃川治水論」著書がある。
いく千春 かはらでにほへ 桜花
植えにし人は よし散りぬとも 敷島の 日本こころの 佐久良花 堤とと裳に よ露つよもか那 田沢実入 🔙戻る
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洗堰 大河津分水可動堰 大河津資料館 旧洗堰 横田破堤記念碑