@じゃらん
大河津分水 信濃川大河津資料館
信濃川はかつて度重なる水害によって越後平野に壊滅的な被害を与えてきました。この被害をなくすためには、増水した水が越後平野に入る前に一部を日本海へ流す必要があります。そのために作られたのが大河津分水で、総延長約10kmの人工河川です。信濃川と大河津分水の分岐点に開閉可能な堰を設け、洪水時には上流からの洪水を全て日本海に流し、平常時には新潟方面に生活用水やかんがい用水として必要な水量を流しています。大河津分水路が完成したことにより、越後平野は水害が減少し、日本有数の穀倉地帯となりました。
信濃川大河津資料館 は、明治9年に開始された信濃川河川改修工事から100年を記念して、昭和53年に建てられました。 災害時には、地域住民の避難場所や緊急災害対策本部としても使用することができる。
日本一の大河、信濃川がもたらす恵みと災い(水害)を紹介し、大河津分水路の果たす役割を映像や写真・模型で紹介しています。
たとえば、洪水氾濫シミュレーション「もしも大河津分水がなかったら」。1982年9月に発生した大洪水のときに、もし大河津分水がなかったら越後平野はどうなってしまうのかを画像で疑似体験できる。
- ❏〔所在地〕 燕市五千石
- ❏〔アクセス〕
- ❏〔開館時間〕 午前9時から午後4時
- ❏〔入館料〕 無料
- ❏〔休館日〕 ・毎週月曜日 ・12月29日~1月3日 (月曜日が休日の時は開館し翌日が休館)
- ❏〔周辺の観光施設〕
- ❏〔交通情報〕
- ❏〔信濃川大河津資料館を紹介しているサイト〕
信濃川大河津資料館は、明治9年(1876)に開始された信濃川河身改修工事から100年を記念し、昭和53年(1978)10月28日に開館しました。より多くの人々に「大河津分水」を紹介し、親しんでいただける資料館をめざし、独特な外観の旧庁舎の建物をそのままに、エレベーターを設置して、誰にでも優しい施設として平成14年(2002)4月18日リニューアルオープンしました。
(信濃川大河津資料館のパンフレットより)
信濃川大河津分水の歴史
- 1723年(享保8)8月6日- 信濃川氾濫、熊森村「オミワケ」で破堤豪雨洪水にて熊森村の東「オミワケ」が破堤し、熊森、横田両村(燕市)の被害甚大となる。水位1丈4尺(4.23m、越路町浦付近)被害概況:破堤延長8710間(15678m)、家屋の流出64戸、潰れた家217戸、溺死7名。新発田領のみでなく越後平野全体に被害があった。(「信濃川大河津資料館」より引用)
- 1736年(元文元)6月27日- 信濃川洪水洪水となり水位1丈4尺(4.23m、越路町浦付近)となる。長岡領内:長岡城内に濁水が浸水し、農家の流出・破壊など約520戸余り、溺死は男女20名以上、その他破堤・抜木・橋の流出など若干有り、領内の被害高は60000石であった。新発田領内:被害高41150石、復旧の見込みたたず藩士の救米にも支障が出る。そのため諸事検約し召使いの数を減らすことを通達している。(「信濃川大河津資料館」より引用)
洪水となり水位1丈4尺(4.23m、越路町浦付近)となる。長岡領内:長岡城内に濁水が浸水し、農家の流出・破壊など約520戸余り、溺死は男女20名以上、その他破堤・抜木・橋の流出など若干有り、領内の被害高は60000石であった。新発田領内:被害高41150石、復旧の見込みたたず藩士の救米にも支障が出る。そのため諸事検約し召使いの数を減らすことを通達している。(「信濃川大河津資料館」より引用)
- 1842年(天保13)3月27日- 桑名藩,大河津分水路掘割着工の願書を幕府へ提出する。幕府,調査の結果,桑名藩に許可を与えず幕府は計画調査を実施したが、莫大な費用及び周辺集落の反対により起工には至らなかった。この時、寺泊町野積の星清五郎が幕府役人の大河津分水測量の際、案内役として活躍する。その後本人も大河津分水建設を幕府へ請願。
- 1868年(慶応4)5月8日- 信濃川大洪水で被害甚大加茂新田・尾崎・長呂・猪子場新田・田崎・井戸巻・田嶋・金巻・大河津・大野・山崎興野・下塩俵および上大郷の神社前が破堤し、上大郷の御神体は犬帰まで流れた。この破堤延長1057間。(信濃川大河津資料館より)
- 1869年(明治2)3月9日- 越後府,蒲原郡地蔵堂村に1県5藩2民政局の代表を集め,大河津分水工事についての実地調査を命じる
- 1869年(明治2)4月17日- 越後府,大河津分水工事を全額官費で着工することを布告する
- 1869年(明治2)9月17日- 水原県,大河津分水工事の延期を決める
- 1870年(明治3)1月10日- 民部省土木司,大河津分水工事の着工を決め,水原県はじめ関係2県8藩に対して資金調達などを命じる
- 1870年(明治3)7月7日- 蒲原郡国上村で,大河津分水工事の起工式が行われる
- 1870年(明治3)7月22日- 高崎藩領一ノ木戸陣屋(現三条市)管内42か村の農民約1000人、大河津工事負担金の免除を求め、寺泊分水役所に押し掛けようとし、藩役人に阻止される。
- 1872年(明治5)4月3日- この日から8日かけて,大河津分水工事負担金免除を求める騒動起こる。群衆,新潟県庁・柏崎県庁へ押し寄せる。4月8日新潟県,鎮台兵の出兵を乞いこれを鎮圧する新政府は大河津分水工事に着手、その費用、労務が大きく農民の肩にのしかかった。分水工事反対を掲げ集まった農民は1万数千。群集は二手に分かれて新潟県庁と柏崎県庁に大挙して押しかけた。
- 1872年(明治5)6月17日- 大河津分水工事に従事する数千人の雇い人足が乱闘する
- 1873年(明治6)10月22日- オランダ人工師リンドー、大河津分水の利害得失を調査、工事中止を政府官員へ勧告する江戸時代には、小さな藩が入り乱れるようにたくさんあり統一的な治水が行われなかった。明治に入ると近代統一国家の誕生によって信濃川水系全域を見わたした河川行政へのみちが開かれ、明治2年に大河津分水工事(第1次工事)が始まりました。
オランダ人技師リンドーは、明治政府から信濃川の調査を命じられる。正確な測量をもとに、水位や勾配、流量の計算などを行い、工費なども勘案して、最終的に現状の河道のまま堤防を修理することなど、大河津分水建設に反対する意見書を取りまとめ、政府に報告したことも廃業の理由となった。
- 1875年(明治8)3月30日- 県、大河津分水路工事の廃業を通達
- 1891年(明治24)11月15日 - 中越倶楽部,三島郡善高村で大河津分水実現のための集会を開く
- 1896年(明治29)12月21日- 県会、「信濃川治水方針ニ関スル建議」を採択、大河津分水を含む抜本的治水対策の樹立を政府に要求する
- 1902年(明治35)12月9日- 県会,大河津分水中止の建議を採択するも推進派の意見が勢いをます 明治17(1884)年に内務省は、古市公威が策定した信濃川治水計画案、国が河道改修を実施して新潟県が堤防の強化を施工する信濃川河身改修工事を発表。その工事を施工中の明治29(1896)年7月に「横田切れ」といわれる信濃川の大洪水が発生する。翌30年そして31年にも信濃川に大洪水があり、相次ぐ洪水に地元からは、堤防改修だけでは信濃川の洪水を防ぐことは不可能であり、大河津分水路は必要であるという意見が再燃し、多くの団体から政府に請願が続いていた。
- 1909年(明治42)7月5日- 大河津分水の工事の起工式が行われる
- 1922年(大正11)8月25日 - 大河津分水路が完成し、通水開始
- 1925年(大正14)2月18日 - 大河津分水路の完成で寺泊港の埋没深刻化、町民大会を開く
- 1927年(昭和2)6月24日 - 新潟県大河津分水の自在堰が決壊。信濃川本流の水が分水路に流れ込んだ結果、3か月間川汽船の運行が不能となる。新潟市など信濃川下流一帯が数年間にわたり水不足に陥る。
- 1931年(昭和6)6月20日 - 撤去された自在堰に変わる可動堰が完成した。延べ124万人が動員された。
- 2000年(平成12)5月29日 - 新洗堰が完成し通水する。1996年(平成8)に工事着手されていた。
- 2002年(平成14)2月14日 - 使用されなくなった旧洗堰が産業遺産として国の登録有形文化財に登録された。
- 2011年(平成23)11月23日 - 新可動堰が完成し通水する。2003年(平成15)に工事着手されていた。
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