文政の大地震 Bunsei earthquake 三条市
…………………………………………………………………………………………… ☆ 文政の大地震 ☆ …………………………………………………………………………………………… 江戸時代に越後を襲った数多い地震の中で、寛文5年(1665)の高田大地震、寛延 4年(1751)の越後大地震、弘化4年(1847)の善光寺地震などとともに、大被害をもたらしたのが文政大地震(三条地震)である。 文政大地震は、文政11年(1827)11月12日(太陽暦の12月18日)の朝五 ツ時上刻(午前7時40分頃)に発生した。地震の規模はマグニチュード6.9、震源 地は南蒲原郡栄町小古瀬、善久寺付近とされる。 被害地域は震源地を中心に十里四方にも及んでいる。被害状況は、被害全体で倒壊家屋 2万1千軒余、焼失1千2百軒余、死者1千5百人余、けが人2千6百人余人にものぼ る大規模なものであった。地震は三条、燕、長岡など川沿いの町の被害が大きかった。 与板の町も信濃川沿いなので被害が大きかった。与板町の「長明寺過去帳」には、被害 の大きい順として一に三条、二に見附、三に今町、四に燕、五に与板であったと記され ている。 地震当日の三条は、二・七の市が三ノ町(現在の三条市本町5丁目。以下同)で開かれ ていて、早朝からかまどに鍋をかけて煮炊きをしている最中に揺れは襲い、大町(本町 2丁目)・三ノ町・四ノ町(本町5丁目)・五ノ町(本町6丁目)、隣の裏館村など13 ヶ所から火の手が上がった。その火は瓦礫と化した家屋に次々に燃え広がり、町全体を 覆った。 地理不案内で逃げ場を失い焼死する人が多かった。三条地震のニュースは、江戸まで伝 わり、瓦版が大事件として扱ったのである。 被災の惨状は瞽女口説に切々と唄われ、一時は「三条滅亡説」さえ流れた。 記念碑
🔹文政大地震供養塔 長岡藩領では、民家2,000軒以上が全壊し、死者は400人を超えた。城下でも全壊220軒、長岡城も損傷した。 〔所在地〕新潟県長岡市東神田3丁目5−6 栄凉寺 〔アクセス〕🚘JR長岡駅から車で10分 …………………………………………………………………………………………… ☆ 良寛と大地震 ☆ …………………………………………………………………………………………… 当時、71歳の良寛は島崎(和島村)の木村家に住んでいた。島崎も被害を受け、弟由 之から見舞い状も届けられたが、良寛はとりわけ三条の被害を心に掛け、親交のあった 宝塔院の隠居隆全、三浦屋幸助などの身を案ずる書簡をしたためている。さらに、良寛 は老体をおして自らの足で三条に出かけ、惨状をまのあたりにして、 かにかくに、止まらぬものは涙なり 人の見る目も忍ぶばかりに という歌をよんでいる。良寛は地震の翌月に与板の山田杜皐にあて「災難に逢う時節に は災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という書簡を書き送っている。 この文面に、良寛の強烈な諦観の心境がうかがえるが、このことは地震による衝撃がい かに大きかったかをよく物語っている。 記念碑🔹地震亡霊塔(三条市指定文化財)地震で不慮の死を遂げた無縁仏の骨を拾い、葬った 現地案内説明文
〔所在地〕新潟県三条市東裏館1丁目6 宝塔院三条市指定史跡 地震亡霊塔 文政11年(1828)11月12日午前8時ごろ起きた三条地震は、マグニチュード6.9の直下型地震でした。震源は栄町芹山付近とされています。信濃川に沿った南北25キロメートルの地域では、震度6以上の激震で、被害は越後11藩に及びました。 震源に近い三条では、六斎市でにぎわい、朝の煮炊きのさなかの大地震でした。倒れた町並みの13か所からいっせいに火の手が上がり、町は大混乱となりました。現在の三条市域の被害は、全半壊3,160余軒、焼失900余軒、死傷者1,040人に上りました。 この地震亡霊塔は宝塔院の11世隆観和尚らが願主となって、無縁の被災者を葬り、供養するため、地震の翌年に建立された五輪塔です。 三条市教育委員会 〔アクセス〕👬JR北三条駅より徒歩4分 《文政の大地震関連のマップ》
≪新潟県の主な地震発生≫
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