竹前兄弟と紫雲寺潟干拓 Takemae brothers and Shiunji lagoon reclamation 新発田市


竹前権兵衛・小八郎兄弟の生涯と苦難 干拓計画の着想 工事の推移 周辺諸藩との対立 資金問題 干拓完成後の土地争い 後世への影響

竹前権兵衛・小八郎兄弟の生涯と苦難

竹前権兵衛 延宝7年(1679)〔生〕 - 寛延2年(1749)3月3日〔没〕 
竹前小八郎 不詳〔生〕 - 享保14年(1729)3月2日〔没〕

庄屋の家に生まれた兄弟

竹前権兵衛と小八郎は、信濃国高井郡米子村(現在の長野県須坂市米子)に生まれた兄弟である。竹前家は代々庄屋を務める家柄で、農村の指導者として地域社会に深く関わる一方、硫黄の採掘・販売にも携わっていた。父・次郎助の時代には四阿山中腹の硫黄鉱山を開発し、その採掘を家業の一つとしていた。
兄の権兵衛は1679年(延宝7)生まれで、父の跡を継いで硫黄採掘に携わった。良質な「鷹の目硫黄」を幕府に納めるなど、単なる地方の庄屋ではなく、採掘・商業・販売を結び付けた経営者でもあった。弟の小八郎も商才に富み、江戸に店を構えて硫黄の販売に携わったとされる。こうして竹前家は、信濃の一農村にありながら、江戸と越後を結ぶ商業活動を展開するようになった。
兄弟の性格については、権兵衛が堅実で現実的な人物であったのに対し、小八郎はより積極的で、大きな事業を成し遂げようとする志を持っていたと伝えられる。紫雲寺潟干拓は、こうした二人の性格の違いがむしろうまくかみ合った事業だったと考えられる。

紫雲寺潟との出会い

小八郎が越後の紫雲寺潟に関心を持つようになった背景には、商人としての活動があった。当時の越後には、信濃川や阿賀野川などが運ぶ土砂によって形成された広大な低湿地が広がっていた。その中でも紫雲寺潟、別名塩津潟は巨大な潟湖であり、周囲には水害に悩まされる村々が存在していた。
小八郎は、越後三日市を領地とする松平(柳沢)家と関係を持つ中で、潟周辺の領民がたびたび水害に苦しんでいることを知った。広大な水面を干拓すれば、洪水の危険を減らすだけでなく、莫大な面積の新田を生み出せる。そこに商人としての利益と、国家的な新田開発という大きな目的が結び付いた。
折しも徳川吉宗の享保改革では、人口増加と食糧不足への対策として新田開発が奨励され、資力のある民間人による開発も幕府が認める政策が進められていた。1722年(享保7)には新田開発を奨励する幕府の高札が立てられたとされ、小八郎はこれを思い出して紫雲寺潟開発を具体的な事業として考えるようになった。

巨大な潟に挑む

紫雲寺潟は、南北約8キロ、東西約4キロにも及ぶ巨大な潟であったとされる。単純に水を抜けば田になるというものではない。
周囲には河川が流れ込み、特に加治川からの水は潟の水位を大きく左右した。さらに潟そのものが洪水時の遊水地として機能していたため、潟を干拓すれば、その水が別の地域へ押し寄せる危険があった。
つまり、紫雲寺潟を干拓することは、一つの湖を埋め立てる工事ではなく、加治川・阿賀野川・福島潟・日本海に至る広大な水系全体の流れを組み替える事業であった。
実際、それ以前にも幕府と新発田藩によって排水路の開削が試みられていた。1721年(享保6)には砂丘を掘り割って日本海へ水を流す「長者堀」が造られたが、砂丘の土砂が崩れ、十分な排水機能を維持できなかった。後に竹前兄弟が取り組むことになる干拓事業は、この失敗した工事をさらに大規模な形でやり直すものでもあった。

幕府への願い出と最初の壁

小八郎は兄権兵衛らと相談したうえで現地を調査し、1726年(享保11)12月、幕府の勘定奉行所へ開発願書を提出した。計画は壮大だった。私費2,000両を投じ、約5,000町歩もの新田を開発しようとしたのである。しかし、幕府がすぐに許可を与えたわけではない。最大の問題の一つは、小八郎自身が江戸で借店を利用して商売をしており、開発事業の担保となる十分な不動産を所有していなかったことであった。巨大な潟を干拓するには、工事費だけでなく、長期間にわたって工事を継続する資金力が必要になる。幕府からすれば、「本当に最後まで事業をやり遂げられるのか」という問題があった。
そこで小八郎は江戸で旅籠を営んでいた成田佐左衛門の協力を得た。持ち家を担保とすることで信用を補い、ようやく1727年(享保12)10月7日、正式な開発許可を得ることになる。
この段階ですでに、竹前兄弟は自らの財産と信用を危険にさらしていた。紫雲寺潟干拓は、幕府から資金を十分に与えられて始まった公共工事ではなく、基本的には民間人が自ら資金を負担し、成功すれば土地を得るという「町人請負新田」の性格を持っていたからである。

干拓工事の開始

1728年(享保13)、雪解けを待って小八郎らは越後へ入り、本格的な工事を開始した。工事の技術面で大きな役割を果たしたのが、柏崎の宮川四郎兵衛であった。四郎兵衛は当時、新田開発や治水工事で名を知られた土木技術者であり、紀州流の技術を用いて各地の開発に携わっていた。
商人である小八郎には、大規模な治水・干拓工事の経験がない。そこで小八郎は四郎兵衛を訪ね、協力を求めた。四郎兵衛は資金の一部を出資するとともに、養子の儀右衛門を現地に派遣した。
工事は藤塚浜の不動院を事務所として進められ、潟周辺の測量から始まった。巨大な潟を目の前にして、事業の前途に不安を感じた小八郎が小舟で潟の中央まで出て、工事の成功を祈願したという逸話も残る。このエピソードは、単なる伝説として片付けることもできるが、当時の人々がこの工事をどれほど巨大なものとして受け止めていたかを象徴している。

最大の難関――水をどこへ逃がすか

干拓の第一歩は、潟にたまった水を海へ逃がすことである。そこで1728年、以前に失敗した長者堀を再び掘削した。今回は長さ約3キロ、幅約36メートル、深さ約15メートルという大規模な工事で、延べ2万8,000人余が動員されたとされる。短期間に大量の土砂を掘り出す大工事であった。
ところが、水を出す道を作っただけでは問題は解決しなかった。潟には周辺の河川から次々と水が流れ込む。特に加治川の分流である境川からの流入を止めなければ、せっかく排水しても潟は再び水で満たされてしまう。そこで境川を締め切る工事が計画された。ここで、竹前兄弟は最大の壁にぶつかる。

新発田藩との対立

新発田藩は境川締切工事に強く反対した。理由は明確であった。紫雲寺潟は単なる水たまりではなく、加治川が増水したときの遊水池として重要な役割を果たしていたからである。潟を干拓してしまえば、洪水時に水を受け止める場所がなくなり、新発田藩領など下流地域の水害が増える可能性があった。
竹前側からすれば、幕府の正式な許可を受けて進めている事業である。対して新発田藩からすれば、自領の村々の生命や農地に関わる重大問題である。両者の立場は簡単には折り合わなかった。
新発田藩は幕府に対して工事中止を訴えた。しかし幕府は最終的に工事を認め、境川の締切は実施された。ところが、これによって今度は周辺水系全体の排水問題が表面化した。紫雲寺潟を干拓するためには、潟だけを見るのではなく、周囲の川の水まで考えなければならない。これが竹前兄弟の事業を困難にした根本的な理由であった。

小八郎を襲った苦難

さらに問題は、周辺農民との関係にも及んだ。潟が干上がれば、新しい土地が生まれる。しかし、それまで潟周辺を利用してきた農民にとっては、水の流れや漁業、入会地など、それまでの生活基盤が変わることを意味する。新しい田が生まれることは、すべての人にとって単純な利益ではなかった。また、潟が干上がり始めると、その土地を誰が所有するのかという問題も発生した。三日市藩などから、干上がった土地について自領に属する土地であるとの主張も出された。
こうして小八郎は、工事そのものだけでなく、 * 幕府との調整 * 新発田藩との対立 * 周辺農民との紛争 * 他藩との土地をめぐる争い * 資金調達 * 技術上の問題 * 洪水への対応という幾重もの問題を一人で抱えることになった。
そして1729年(享保14)2月、紫雲寺潟は館林藩松平家から新発田藩へ預け替えとなった。その直後の3月2日、小八郎は故郷の米子村で亡くなった。30歳ほどの若さであったと伝えられる。工事が完全に成功した姿を見ることなく、その生涯を終えたのである。小八郎の死は、事業そのものの存続を危うくした。

兄・権兵衛、弟の遺志を継ぐ

小八郎の死後、関係者の間では事業を続けるか、中止するかが話し合われた。ここで撤退すれば、それまで投入した巨額の資金が無駄になる。一方、続けるなら、小八郎が解決できなかった問題を兄が引き受けなければならない。最終的に権兵衛が事業を引き継いだ。
権兵衛はすでに50歳を超えていた。家族を故郷の米子村に残し、自ら越後に赴いて干拓事業に取り組むことになった。これは単なる「弟の仕事を引き継いだ」という話ではない。弟が残した負債、対立、工事上の問題、幕府との交渉をすべて引き受けることであった。しかも、工事はまだ完成にはほど遠かった。
権兵衛は宮川四郎兵衛に増資を求め、資金関係を改めた。三日市藩との土地問題についても調整し、幕府との間で新しい土地の取り扱いを交渉した。一方、紫雲寺潟の水を止めたことで、加治川や阿賀野川、福島潟周辺の水害問題が深刻になる可能性が生じた。その解決策として大きな意味を持ったのが、阿賀野川を日本海へ直接流す松ヶ崎掘割であった。1730年(享保15)に工事が完成し、越後北部の水系そのものが大きく変わっていくことになる。

自然の力が工事を後押しする

1732年(享保17)の春、雪解けによって加治川が増水し、激しい洪水が起こった。境川の締切を破った水は紫雲寺潟へ流れ込んだが、皮肉なことに、その激流が長者堀の岸や底を大きく削った。それまで人工的な工事によって少しずつ水を抜こうとしていたところへ、自然の洪水が巨大な排水路を作り出したのである。拡幅された長者堀から水が日本海へ流れ出し、潟の水位も大きく低下した。その結果、約400町歩もの土地が干上がったとされる。
干拓工事にとって、洪水は本来なら最大の敵である。しかし、このときだけは、洪水による水の流れが結果的に干拓を進める力となった。この出来事は、紫雲寺潟干拓が人間の計画だけでは成し遂げられず、最後まで水と自然との闘いであったことを象徴している。

それでも完成しなかった干拓

しかし、これで干拓が完成したわけではない。潟には今泉川などから依然として水が流れ込んでいた。完全に乾田化するためには、今泉川の流路を変更し、加治川へ流す瀬替え工事が必要だった。ここでまた資金問題が立ちはだかった。権兵衛側はすでに多額の資金を投入しており、さらに工事費が必要になった。投入額は916両余に達したとされるが、それでも工事は終わらなかった。権兵衛は幕府に2,000両の借金を願い出た。しかし、幕府はこれを認めなかった。ここが竹前権兵衛にとって最大の危機の一つだった。
これまで自ら資金を調達し、弟の死後も工事を続けてきた。しかし、民間人の資力だけでは、巨大な水系を完全に改造することは難しかった。そこで幕府は方針を転換する。

幕府による収公と500町歩

幕府は竹前家を中心とした開発の継続に不安を持ち、紫雲寺潟の干拓地をいったん全面的に収公した。権兵衛にとっては、それまで自分たちが巨額の資金と労力を注ぎ込んできた土地を失うことになる。最終的に幕府は、権兵衛に500町歩を与えた。
ただし、これは投じた費用やこれまでの苦労を考えれば、決して十分なものではなかった。権兵衛はその土地から、共同出資者や協力者であった宮川四郎兵衛、成田佐左衛門らにも土地を分けた。
そして残りの土地については、新たな開発請負人を募り、信濃・越後・出羽などから17人が選ばれた。こうして竹前家だけの事業から、幕府が関与する大規模な新田開発へと姿を変えていった。

兄弟の夢が新田として結実する

幕府によって工事は引き継がれ、今泉川の新しい水路が掘られ、姫田川、加治川へと水を流す流路変更工事が進められた。こうして紫雲寺潟は次第に完全な干拓地へと姿を変えていった。
享保18年(1733)春には、干拓地で初めて田植えが行われたとされる。新潟県立歴史博物館の資料でも、享保18年に干拓が終了し、その後の検地によって1万6,858石余の紫雲寺潟新田が成立したことが確認されている。
巨大な湖だった場所が、水田へ変わった。しかし、ここに至るまでに小八郎は命を落とし、権兵衛は財産と人生の大部分をこの事業に注ぎ込んでいた。だからこそ、紫雲寺潟の干拓は単なる土木事業ではなく、竹前兄弟の人生そのものだったといえる。

干拓の成功が新たな争いを生む

干拓が成功すると、今度は新しい土地を誰が所有するのかという問題が起こった。1735年(享保20)には新田村が次々と成立し、最終的には42村に及ぶ大きな農村地域が形成された。検地によって総石高1万6,858石余、1,647町歩余の新田が成立したとする資料もある。
ところが、開発工事に参加した農民たちは、単なる労働力ではなく、自分たちも土地を開墾したという意識を持っていた。信濃や越後から入植して工事に従事した農民の中には、開発地主に対して耕地の所有権を主張し、江戸へ訴え出る者も現れた。
つまり、紫雲寺潟を干拓することで「土地が生まれた」だけでなく、「誰の土地なのか」という新たな社会問題も生まれたのである。
干拓によって水害を減らし、広大な農地を生み出した一方で、その土地の所有をめぐる争いは長く続いた。紫雲寺潟干拓が地域社会にもたらした影響は、工事完成だけでは終わらなかった。

権兵衛の晩年

権兵衛は弟の死後も越後に残り、事業の整理と新田経営に携わった。1742年(寛保2)には、小八郎をはじめ干拓工事の途中で亡くなった人々を弔うため、「紫雲寺」と名付けた寺を建立したと伝えられる。これは、兄権兵衛にとって小八郎の死が決して過去の出来事ではなかったことを示すエピソードである。
弟は30歳ほどで亡くなり、兄はその遺志を背負ってさらに20年近く生きた。干拓地に寺を建立したことは、弟と工事の犠牲者を弔うと同時に、自分たちが成し遂げた事業を後世に残す意味も持っていたと考えられる。
その後、権兵衛は家族を故郷の米子村から越後へ呼び寄せ、干拓地に定住した。そして1749年(寛延2)3月3日、71歳で生涯を閉じた。

「お上の援助を考えるな」

権兵衛が亡くなる直前、息子の小三郎に残した言葉として、「お上からの援助は考えるな。ただお国のためと思って奉公せよ」という逸話が伝えられている。
この言葉が史料によってどこまで確認できるかには慎重さが必要だが、竹前権兵衛という人物の生き方を象徴する言葉として後世に伝えられてきた。
権兵衛は、弟とともに巨大な潟を前にして事業を始めた。途中で弟を失い、諸藩との対立、農民との紛争、資金不足、工事の失敗、洪水、土地の収公など、何度も計画そのものが崩れかける局面に遭遇した。それでも事業を途中で放棄しなかった。
最終的に土地の大部分を幕府に収公され、当初思い描いた形のまま成功したわけでもなかった。それでも、その土地には巨大な新田が生まれ、多くの村が成立した。

竹前兄弟が残したもの

紫雲寺潟の干拓は、江戸時代の新田開発の中でも最大級の事業であり、町人資本による大規模開発の代表例として位置付けられている。竹前兄弟の功績は、単に「大きな湖を田に変えた」ということではない。彼らが直面した問題は、現代の公共事業にも通じる。
水害を防ぐために遊水地を残すのか、それとも農地に変えるのか。一つの地域を開発すると、別の地域の洪水が増える可能性をどうするのか。新しく生まれた土地を誰のものとするのか。開発費用を誰が負担し、利益を誰が受けるのか。紫雲寺潟干拓は、これらの問題を江戸時代の社会の中で突き付けた巨大な公共性を持つ事業だった。
権兵衛と小八郎は、そのすべてを十分に解決したわけではない。しかし、二人が始めた工事は、幕府や技術者、農民、出資者らに引き継がれ、最終的に巨大な新田地帯を生み出した。
現在、新発田市の旧紫雲寺町周辺に残る「米子」という地名も、竹前兄弟の故郷である信濃国米子村に由来するとされる。兄弟は信濃から越後へ移り住み、最後には自分たちが開いた土地に故郷の名を残したのである。
竹前小八郎は工事の途中で若くして亡くなった。兄権兵衛はその遺志を継いで最後まで事業に関わった。二人の墓は現在も旧紫雲寺町米子に残るとされる。





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米食悲願民族 紫雲寺潟と江戸時代

米食悲願民族 紫雲寺潟と江戸時代

  • 作者:星野 建士
  • 出版社:自然食通信社
  • 発売日: 2006年12月15日頃







































墓所 (紫雲寺) 決湖開田の碑 落堀川 拓魂継承の碑 不動院 米子