竹前兄弟と紫雲寺潟干拓 Takemae brothers and Shiunji lagoon reclamation 新発田市


🔗紫雲寺潟百姓一揆

(紫雲寺潟)

大河信濃川と阿賀野川によって作られた越後平野には、川によって作られた湖沼も多くあった。この越後平野は南北100キロにわたる河岸砂丘が縁取り、内陸部の中小河川は信濃川や阿賀野川に接続し、砂丘の唯一の切れ目でもある新潟で日本海にそそいでいた。
そのためこの地方は、融雪期や梅雨期にはきまって河川や潟湖が氾濫し、水辺の植物「蒲(がま)」が生い繁るため、古くから「蒲原」地方と呼ばれてきた。
紫雲寺潟(別称塩津潟)は、かつてその範囲は、旧紫雲寺町、加治川村(現新発田市)中条町(現胎内市)に及び、長さ南北8キロ、横東西4キロ、広さ2000町歩(約2000ヘクタール)の広さであった。潟ではかつて漁業が営まれ、舟の往来も盛んであった。

紫雲寺潟一帯は砂丘の幅が数キロに及び、海へ注ぐ河川は、北の荒川から南の阿賀野川までの40キロある間ひとつもなく、塩津潟にそそぐとともに最終的には荒川と阿賀野川にそそいでいた。
潟の東縁には、今泉川、船戸川をはじめ多数の河川が流れ込んでおり、そのため東縁一帯は常に水害に悩まされ、周辺地域の水難防止を目的とした遊水地にされていた。
潟縁の地の開発が進むにつれ、水害をこうむる度合いを増し、連年の不作で潟周辺の百姓は苦しんでいた。

この湖を干拓し、水田造成をもくろみ、一身を賭して干拓事業を遂行したのが竹前権兵衛・小八郎の兄弟であった。
当時、全国各地域で人口が増え続け、食料が不足し生活に困窮する人が増え続けていたので、幕府は享保の改革の一環として、財を持っている人による「新田開発」を推奨していた。
享保6年(1721)には打ち続く水害のため、対策として幕府は新発田藩領砂丘を掘削し直接日本海に放流する「長者堀」の工事を行った。長さ3キロあまりで、従事した人員は延べ9万人に及んだ。費用の4分の3を新発田藩が負担して完成したが、砂丘が崩れて堀が埋まり失敗に終わった。幕府は享保9年(1724)、塩津潟周辺の幕領を上野館林松平家と三日市藩柳沢家の飛び領地とした。

(竹前家と干拓の着想)

竹前権兵衛・小八郎は信州(長野県)高井郡米子村で代々庄屋を努めた家柄で、父の6代次郎助の時、四阿山の中腹で硫黄鉱山(※地図 ※ストリートビュー)を発見、その採掘に従事していた。
次郎助の子供のうち、三男が権兵衛で八男が小八郎であった。権平は堅実な性格である一方小八郎は国のために大業をなしたいと考えていた。兄弟の仲はとても良好であったという。
権兵衛は父の跡を継いで硫黄採掘にあたり、1719年(享保4)鷹の目と称する良質の硫黄500貫を幕府に上納し、金1660余両を下付された。幕府などに硫黄を売り込むため、弟小八郎を江戸材木町に住まわせ硫黄販売に当たらせるなど地方出身の新興商人でもあった。
当時、硫黄は火を起こすのに用いられる硫黄付け木に利用されたり、鉄砲の火薬として使用されていた。
小八郎は甲府柳沢家の分家である松平(柳沢)家へ出入りを許されていた。越後三日市に領地を得た松平(柳沢)家から、塩津潟縁の領民の水難などの訴えを聞き、開発可能な情報を得たのが干拓事業の着想を得たきっかけであった。
享保7年(1722)、江戸日本橋にとつぜん幕府の高札が立った事を小八郎は思い出した。 当時幕府は享保の改革の一環として、財を持っている民間人による「新田開発」を推奨し、希望者を募るものであった。
さっそく国へ帰って権兵衛らと相談し、潟を検分したり地元の人々の話を聞いたりして、ついに決心をし、享保11(1726)年12月、願書を勘定奉行所に提出した。計画は、私費2千両で約5千町歩の新田を開こうとするものであった。
翌享保12年(1727)、願書は勘定奉行を経て、潟を直接管理している館林藩松平家へ移り吟味されたが、小八郎が江戸で借店で商売を行っており、担保になる資産を持っていないことが問題となった。小八郎は旅籠をしていた親友の成田佐左衛門の持ち家(借店200両相当)を担保とすることで、ようやく享保12年(1727)10月7日、幕府から正式に開発の許可がおりた。


(小八郎による干拓着手)

翌13年(1728)春、小八郎・佐左衛門一行は雪解けを待って現地に下り、館林藩海老江代官らの立ち合いで潟と本田の境に杭が打たれた。小八郎はもともと商人であって、干拓のノウハウがなかったことから、当時新田開発で有名であった宮川四郎兵衛を柏崎に訪ね、熱心に説得した。宮川四郎兵衛は紀州流の土木事業家として、加賀藩など各地の依頼によって新田開発を成功させ注目されていた。
四郎兵衛は資金の5分の1を出資し、開発地も5分の1を受け取るということで承諾し、現地で施工方法の打ち合わせを行い、養子の儀右衛門を自分の名代として現地に残した。
工事は、藤塚浜不動院を事務所とし、紫雲寺潟周囲の実測からはじめ、享保13年(1728)7月10日に着手された。
湖の周辺の土地は、ほとんどが幕府領で一部が新発田藩領であった。広大な湖を眺めるにつけ、事の成就に不安の去来する小八郎は、小舟を潟の真中に浮かべ、工事完成を一心に祈願したと伝えられている。
その後、信濃亀倉村の竹前久右衛門や信濃鴨原村の水沢新右衛門などの協力を得て工事はすすめられた。
主要な工事は、潟の水を直接海に落とす長者掘(現在の落堀川 ※ストリートビュー)掘削工事、加治川の水が潟に流入するのを防ぐ境川締め切り工事などであった。
享保13年(1728)7月、工事は長者堀の再掘から始まった。長さ3キロ余、幅36メートル、深さ15メートルで幅も深さも享保6年(1721)の2倍の規模で、延べ人員28000人余、費用は570両を要し8月中に完成をみた。
工事の幾多の障害のなかで、最大の悩みは、潟周辺農民の妨害や新発田藩の反対運動であった。
干拓事業の中で最大重要な工事は、加治川の水が潟に流入するのを防ぐ境川を締め切る工事であった。この工事に着手する寸前に、水害の恐れありという理由で新発田藩から工事中止を要請された。新発田藩では、加治川の遊水池として作用していた塩津潟が干拓されることにより、洪水の際の被害の増大をおそれたからであった。幕府から許可を受けた工事であると小八郎が断ると、新発田藩は幕府に対して直接陳情を行った。
幕府はこの訴えを却下し、境川の締切工事は享保13年(1728)に完成した。
一方、干上がり始めた土地に対し、三日市藩は「干上がり地ではない、潟縁の永荒地である」と引き渡しを要求してきた。
享保14年(1729)2月27日、突然紫雲寺潟は棚倉藩(前年9月館林藩から国替え)松平家より新発田藩へ預け替えとなった。

竹前小八郎は、こうした問題解決のための心労が重なり、享保14年(1729)3月2日、工事完遂のめども立たない中、故郷の米子村で突然亡くなった。30歳であった。

(権兵衛による継続と干拓の完成)

小八郎の死によって、工事を続行すべきか否か、関係者間で協議が行われた。続行するにも小八郎が直面した諸問題を解決しなければならない。一方、続行を断念した場合これまでにかけた莫大な資金が無駄になってしまう。結局、事業は兄の権兵衛が引き継ぐこととし、改めて潟を預かる新発田藩に願書を提出した。この時、権兵衛は51歳、家族を米子に残した単身赴任であった。資金は四郎兵衛に増資を要請、翌年竹前5分の3、宮川5分の2と改められる。
三日市藩との干潟の取り扱いについては、800石を引き渡すこととなった。また境川の締切工事にかかわる問題は、幕府が新発田藩に命じて、阿賀野川の松ケ崎を開削することで加治川の流水を松ケ崎経由で分流することとした。享保15年(1730)10月、加治川流末の切落しである松ヶ崎放水路工事が完成した。
享保17年(1732)春は、加治川が雪解けによって、増水した激流が境川の締切を打ち破って潟に流れ込んだ。幸運だったのは、流水は、長者堀の岸や底をえぐり、拡幅された堀から日本海に向けて流れ出し、この時潟の水も流れ出し、400町歩の干潟となったのだ。こうして、幾多の経過の後、享保17年(1732)干拓地にとうとう新しい田が生まれた。

この後完全干拓を実現するには塩津潟に流れ込んでいる今泉川の流れを締め切り、加治川に流す瀬替え工事が必要であった。
しかし、916両余の資金を投入しても工事はなお完成せず、資金不足で工事進捗は困難となった。権兵衛は幕府へ2000両の借用を願い出た。

すると幕府は竹前家中心の工事進捗を危ぶみ、塩津潟干拓地を全部没収し、以後は出資者を募り、幕府で開発することとした。干潟を検分の結果、全面積を1930町歩と定め、権兵衛には改めて500町歩のみを恩賞として与えた。権兵衛が得た土地は、これまでにかかった出費にとても見合うものではなかっが、そのなかから契約に従って宮川四郎兵衛に150町歩、成田佐左衛門に50町歩を分け与えた。
一方幕府は、入作者を信濃・越後・出羽より募集し17名が選ばれた。入作者から土地の代金として合計7000両の資金が集まった。幕府は今泉川の新水路を姫田川まで掘り、今泉川、姫田川、加治川へと流す工事を完了させ、こうして塩津潟(紫雲寺潟)の完全干拓化がなされた。またこれによって、潟周辺の付近の多くの村々が水害から救われた。
そして享保18年(1733)春、全干潟に初めて田植えが行われた。

徳川吉宗の享保改革により新田開発が奨励され、全国に無数の新田が開かれたが、ここ紫雲寺潟開発が最大であり、しかも町人普請として着目された。

(干拓完成後)

享保20年(1735)秋、,新田村42村が誕生し、紫雲寺郷農村の建設が開始された。高17,000石余が「紫雲寺潟新田」と総称され、その中に竹前兄弟の故郷「米子(よねご)村」(※地図)や宮川氏の「宮川村」(※地図)という名もあった。
この年の冬、信州や越後各地から入植し、竹前家など開発地主のもとで工事に従事した農民たちは、耕地の所有権を主張して江戸に越訴した。こうした地主と小作人との争いは、その後も解決されず問題は明治以降にまで持続したのであった。
権兵衛は寛保2年(1742)に小八郎をはじめ、途中で没した人を弔うため「紫雲寺」と名付ける寺院を建立した。このあと権兵衛は当地に家族を呼び寄せて定住することとした。権兵衛が工事を引き継いでから10年の月日が経過していた。
竹前権兵衛は寛延2年(1749)3月3日,71歳でその生涯を閉じた。竹前権兵衛・小八郎の墓 は紫雲寺町米子(紫雲寺墓所内)にある。
権兵衛は亡くなる直前に息子の小三郎(二代目権兵衛)を呼び「お上からの援助は考えるな。ただお国のためと思って奉公せよ。」と言い残したという。

紫雲寺潟干拓の中心的役割を果たした竹前権兵衛、小八郎兄弟、成田佐左衛門、宮川四郎兵衛らの功績をたたえるため、宮川家の子孫が文政13年(1830)に決湖開田の碑を建立した。
宮川四郎兵衛は元分3年(1738)幕府評定所において高4万石の治水・新田開発の技術を賞され、越後瑞軒と呼ばれ、名声は日本中に広がった。元文5年(1740)正月16日、88歳の高齢で亡くなっている。

現在でも紫雲寺町(現新発田市)米子には、竹前家の子孫が暮らしている。また地名の『米子』は、竹前家の故郷、信州高井郡米子村(現須坂市)に由来している。




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紫雲寺潟百姓一揆

越後各地や竹前兄弟の故郷信州から多くの入植者が干拓作業に従事した。水呑、小作人の地位から抜けだせるとの思いが、辛苦な労働にも耐え、犠牲者を出しながらも干拓作業を進める大きな力となっていた。こうした人たちの数は一説には6~7千人ともいわれている。
工事を始めてから9年、ようやく工事が完成し、元文元年(1736)6月幕府による検地が初めて行われた。
検地帳に名義人として名前が記載されたのは竹前権兵衛など開発地主たちであった。開拓(入植)農民たちは小作人の地位にとどめられた。
元文元年(1736)12月、新たに生まれた40か村に及ぶ紫雲寺潟開拓(入植)農民を代表して、塩津新田の助十郎等4名が干拓地での土地所有権を求めて江戸幕府に越訴した。
幕府の調べに対して、地主たちは干拓工事中も金銭を貸し、生活の面倒を見てきた開拓農民には、土地の所有権は認められないと主張した。結局幕府は地主の意見をとり、開拓農民の要求を退けた。
地主と、小作人の争いは、いろいろな面でその後も継続し、明治以降も続いた。この地域において、小作争議(農民運動)が激発した理由のルーツの一つであった。


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米食悲願民族 紫雲寺潟と江戸時代

米食悲願民族 紫雲寺潟と江戸時代

  • 作者:星野 建士
  • 出版社:自然食通信社
  • 発売日: 2006年12月15日頃







































墓所 (紫雲寺) 決湖開田の碑 落堀川 拓魂継承の碑 不動院 米子