静御前と源義経の伝説 The Legend of Shizukagozen and Yoshitsune Minamoto 長岡市
🔗源義経の伝承静御前不詳〔生〕 - 不詳〔没〕静御前(しずかごぜん)は平安時代末期を代表する白拍子であり、その悲劇的な生涯は『吾妻鏡』や『義経記』などによって広く知られている。母は白拍子の名手・磯禅師で、静も幼い頃から舞を学び、都でも屈指の舞姫として名声を得た。磯禅師は飢饉の際に朝廷の雨乞い神事で舞を奉じたと伝えられ、静もまた優れた舞と美貌によって都の人々を魅了した。 やがて静は源義経と出会い、その愛妾となる。しかし壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、義経は兄・源頼朝と対立し、追われる身となる。吉野山で義経と別れた静は逃亡を続けたが、頼朝の追っ手に捕らえられ鎌倉へ送られた。 頼朝と北条政子の前で舞を命じられた静は、義経への思いを秘めたまま白拍子の舞を舞い、
その頃、静は義経の子を身ごもっていた。鎌倉で男子を出産したものの、その子は頼朝の命によって由比ヶ浜で殺されたと『吾妻鏡』は記している。この出来事は静の悲劇を象徴する逸話として語り継がれている。 その後、静は母の磯禅師とともに京へ帰された。政子が静を憐れみ、多くの衣装や宝物を与えて送り返したとも伝えられるが、その後の生涯は史実では明らかになっていない。 静御前の最期については各地に伝説が残されており、吉野、京都、越後、信濃、奥州などには隠れ住んだ、尼となった、舞を奉納したなどの伝承が伝わる。史実と伝説が交錯する存在でありながら、義経への変わらぬ愛を貫いた白拍子として、日本人の心に深く刻まれた女性である。 静御前の墓(栃堀伝説)長岡市栃堀にある静御前の墓は、源義経を慕い続けた静御前が旅の途中で命を落としたという伝承に由来する。史実では静御前は鎌倉から京へ帰された後の消息が明らかではないが、その後の足跡を語る伝説は全国各地に残されており、栃堀もその一つとして知られている。伝承によれば、鎌倉を離れた静は、奥州平泉へ逃れた義経と再会するため、みちのくを目指して旅立った。しかし、源頼朝の兵が太平洋沿いの街道を厳しく警戒していたため、その道を進むことはできなかった。そこで静は京から越後へ入り、険しい山道を越えて会津へ抜け、さらに平泉へ向かう遠回りの道を選んだという。 その道中には、越後と会津を結ぶ難所として名高い八十里越が待ち受けていた。深い山々に囲まれた険しい道は当時の旅人にとって命がけの行程であり、静一行も過酷な旅を続けた。しかし、栃堀までたどり着いた頃には病に倒れ、その地に滞在することになった。 従者たちは懸命に看病を続けたものの、建久元年(1190)4月26日、静は二十歳前後の若さで息を引き取ったと伝えられる。義経との再会という願いを果たせぬまま旅を終えた静を悼み、従者たちは栃堀の里人の助けを借り、小高い丘の中腹にその遺骸を葬った。そして墓のふもとに庵を結び、静の霊を守り続けたという。この庵が後の高徳寺の始まりと伝えられている。 現在も栃堀には静御前の墓と伝わる塚が残り、高徳寺とともに静の悲恋を今に伝えている。義経を追い求め、険しい山々を越えようとして志半ばで倒れたという物語は、越後に残る数ある義経伝説の中でも特に哀切なものとして語り継がれてきた。また、この墓はかつてNHKの番組でも静御前ゆかりの地として紹介され、全国に知られる存在となった。史実と伝承が交錯する場所ではあるが、栃堀の人々は静御前を郷土の伝説として大切に守り続けている。 ≪現地案内看板より≫
栃尾 の源氏ゆかりの史跡 静御前の墓 栃尾区 京都の白拍子(しらびょうし・当時、歌や舞いを舞うことを職業にしていた女性)だった静御前(しずかごぜん)は源義経に見初められ、その愛妾になります。 やがて、義経は兄の頼朝の怒りをかって追われる身となり、東北の平泉へ藤原氏を頼って落ちて行きます。 静は吉野山で捕らえられ、鎌倉の頼朝の前で義経を思う舞いを舞います。その後、釈放された静は平泉にいる義経を追って、ここ栃堀の地へ辿り着きました。 栃堀から山脈を越えて会津へ出、はるかな平泉を目指す予定でした。ところが、長旅の疲れから静は床に伏せ、二人の従者の看病のかいもなく栃堀で果てたとされています。従者たちは里人の力を借りて静の遺骸をこの地に埋葬し、その麓に庵を立てて静の霊を守ったと伝えられています。 静の戒名は「源貞院殿松寿妙榮大姉」とされています。 長岡市栃尾 ❏〔所在地〕 長岡市栃堀406番地2 高徳寺坂
❏〔問い合わせ先〕 ☎0258-52-4153 ❏〔アクセス〕
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源義経の伝承文治元年(1185)11月、源義経は兄・源頼朝との対立により京を落ち、都を離れた。同月11日には後白河法皇が頼朝に義経追討の院宣を下し、義経は朝廷からも追われる立場となる。各地に張り巡らされた追捕の網をかいくぐりながら伊勢、美濃を経て奥州を目指し、長い逃避行を続けた。文治3年(1187)2月10日、正妻の郷御前や子らを伴って奥州平泉へたどり着き、奥州藤原氏の藤原秀衡に迎えられたと伝えられる。一行は山伏や稚児の姿に身をやつし、人目を避けながら険しい道を進んだという。この逃避行は各地に義経伝説を残し、越後を通ったとする伝承も各地に語り継がれている。≪源義経の伝承が残る場所≫🌌(上越市)観音寺 ※GOOGLE 画像観音寺は、現在高田にある真言宗華園寺が直江津にあった頃、豪族・直江氏によって華園寺の観音堂として創建されたと伝えられる。慶長年間に松平忠輝が高田城を築いた際、華園寺は高田へ移転し、その跡に残された観音堂が独立して観音寺となった。境内には「兜池」と呼ばれる池があり、源義経が奥州へ落ち延びる途中に立ち寄り、追っ手から逃れるため鎧兜を池へ投げ捨てたという伝説が残る。義経ゆかりの地として語り継がれるこの池は、寺を代表する史跡となっている。 観音寺の本堂は大火で焼失した後、昭和初期に再建された。再建にあたっては防火対策が重視され、寺院としては珍しい土蔵造りの建築が採用されており、歴史と実用性を兼ね備えた特色ある寺院となっている。。 ≪現地案内看板より≫
兜池の由来 文治三年(一一八七)、源義経が兄、頼朝よりいわれなき勘当を受け京洛(京都)を忍び出でて六人の家来(武蔵坊弁慶、亀井六郎、片倉七郎、伊勢三郎、駿河次郎、常陸坊)と共に奥州へ下る途中、国府であった直江津に立ち寄り、ここ観音寺に一夜の宿を借りた。 深夜の事、義経の夢枕に宝冠を載せ蓮華の花を手にした童子が現れ、「今や北陸道には鎌倉の追手が迫っている。その難を逃れる為に義経の証しの鎧兜をこの池に棄てよ」と告げて忽然と消えた。 驚いた義経は、兜の他、所持品のことごとくをこの池に棄てて旅たち、追ってきた代官、浦権守らの手から逃れて、無事、鉢崎の関所を越える事ができた。 🌌(南魚沼市)「君帰観音」 ※GOOGLE 画像君帰観音は、和銅年間(708~715年)に泰澄大師が阿弥陀如来像を安置し、大日堂を建立したことに始まると伝えられる。文治3年(1187)、源義経一行が修験者の姿となって京都から奥州平泉へ向かう途中、この大日堂に滞在したという。その際、義経は背負っていた聖観音立像と紺紙金泥経を寺へ納めて旅立ち、村人は義経の無事な帰還を願って、この地を「君帰」と呼ぶようになったと伝えられている。現在の本尊は、その時に義経が寄進したとされる聖観音立像で、高さ約1.49メートルの一本造りの仏像である。古くから地域の信仰を集め、12年に一度の御開帳でのみ拝観が許される秘仏として大切に受け継がれている。 🌌(柏崎市)「胞姫(よなひめ)神社」胞姫神社は、安産の神として古くから信仰を集める神社である。「胞」とは胞衣(えな)、すなわち胎児を包む膜や胎盤を意味し、近世には「胞衣姫大明神」とも呼ばれた。社殿には安産を願う絵馬や、無事に生まれた子どもの名前を書いた奉納紙が数多く納められ、人々の信仰の厚さを今に伝えている。神社の縁起によれば、文治2年(1186)、源義経一行が直江津から海路で奥州平泉へ向かう途中、この地で正室・北の方が産気づき、仮の産所で嫡男・亀若丸を出産したとされる。弁慶は無事な出産に感謝し、亀若丸の胞衣を当地の鎮守境内に納め、あわせて源氏の氏神である諏訪神と八幡神を祀ったことが胞姫神社の始まりになったという。 周辺には、産所跡と伝わる「亀割坂」や、弁慶が金剛杖を突いて湧き出させたと伝わる「弁慶の産清水」など、義経伝説にまつわる地名や史跡も残されている。こうした伝承は越後各地に伝わる義経伝説の一つとして語り継がれてきた。 現在も安産・子授けの神として多くの参拝者が訪れるほか、御祭神が万能の女神とされることから、芸事や習い事の上達、活躍を願う女性たちの信仰も集めている。
≪現地案内看板より≫
胞姫神社鎮座次第 縁起 文治年間 源義経が兄頼朝の追討を逃れ藤原秀衡を頼って奥州の地を目指す折、当地亀割坂にさしかかるや随従するその妾俄かに産気を催し甚だ苦しみはじめたので忠臣武蔵坊弁慶が当社社前に額きひたすら祈願した処さしもの苦痛も忽ちやわらぎめでたく安産を遂げたので主従手を取り合って大いに喜び境内に誕生した若君の胞(へその緒)を納め「霊験あらたかな安産守護神よ」と秦賽感謝して立ち去ったと伝えられている。以来全国的に安産守護の神として崇敬を集め四季を通じ各地から参詣者が跡を絶たない。古跡として若君誕生の屋敷、弁慶の金剛杖により湧出したという「産清水」等がある。 🌌(長岡市)弁慶の手掘井戸弁慶の手掘井戸は、源義経と武蔵坊弁慶が奥州へ落ち延びる途中、この地に滞在したという伝承に由来する史跡である。伝説によれば、一行は五十嵐氏の屋敷にしばらく身を寄せ、追っ手の目を避けるため屋敷の後庭にあった浴室へかくまわれたという。滞在中、弁慶は義経のために自ら井戸を掘り、その水を供したと伝えられ、この井戸は「弁慶の手掘井戸」と呼ばれるようになった。越後各地に残る義経・弁慶伝説の一つとして語り継がれている。 現在、五十嵐家の屋敷跡は長岡市指定文化財の史跡公園「聚感園(しゅうかんえん)」として整備されており、弁慶の手掘井戸とともに往時をしのぶ歴史の舞台として親しまれている。
🌌(燕市)国上寺の大黒天国上寺の大黒天は、源義経が奥州平泉へ落ち延びる途中に残したと伝わる義経伝説の一つである。伝承によれば、文治3年(1187)、頼朝に追われた義経一行は吉野山から平泉を目指す途中、国上寺の本堂に身を隠した。しかし、義経の居場所が頼朝方へ漏れたため、一行は寺を離れ、弥彦方面へ向かったという。その際、義経は自ら刻んだ大黒天木像を国上寺へ奉納したと伝えられる。この木像は国上寺に伝わる寺宝として知られ、大黒天が背負う福袋の背面には「治承庚子年正月朔日 源義経 華押」と刻まれているとされる。 史実として確認できるものではないが、越後各地に残る義経伝説の一つとして語り継がれ、国上寺の歴史と深く結び付いた伝承となっている。
🌌(弥彦村)「お部屋の滝」弥彦大通りの住吉神社から約1km、山ふところへ入った場所に、かつて「お部屋の滝」と呼ばれる滝があった。源義経にまつわる伝承が残る場所で、文治3年(1187)、兄・頼朝に追われ奥州平泉へ落ち延びる途中の義経が、弥彦神社へ参詣して無事を祈願し、数日間この地に滞在したと伝えられている。その折、義経はお部屋の滝に籠もって身を清め、弥彦の神の加護を願ったという。また、滝の前で神楽の笛を吹いたとも伝えられ、義経一行の逃避行を物語る伝説の地として語り継がれてきた。 しかし、現在のお部屋の滝は往時の姿をとどめていない。新潟地震によって周辺の岩が崩れ、滝の景観も大きく変化したとされる。現在では、かつて義経が神助を祈ったと伝わる場所として、弥彦に残る義経伝説の一つに数えられている。
🌌(弥彦村)「源義経公御陣扇」弥彦村の彌彦神社には、源義経にまつわる貴重な伝承が残されている。神社の宝物殿には「源義経公御陣扇」と呼ばれる軍扇が展示されており、源義経が弥彦神社に奉納したものと伝えられている。伝承によれば、文治3年(1187)、兄・源頼朝の追討を逃れて奥州平泉へ向かった義経は、越後を通って弥彦に立ち寄り、彌彦神社に参詣したという。義経は旅の安全と平泉への逃避行が無事に終わることを祈願し、その折に自らの軍扇を神前に奉納したと伝えられる。「源義経公御陣扇」は、この義経伝説を今に伝える宝物の一つである。 軍扇は武将が戦場で指揮を執る際などに用いたもので、武士の象徴ともいえる品である。真偽については伝承の域を出ないものの、弥彦神社に伝わる義経ゆかりの資料として、地域に残る歴史物語を伝える存在となっている。 🌌(弥彦村)「矢作の二本松」弥彦村大字矢作字釈迦堂の小高い丘に、「矢作の二本松」と呼ばれる二本の老松があった。古くからこの松は「弁慶腰掛の松」とも呼ばれ、源義経と武蔵坊弁慶にまつわる伝説の地として知られてきた。伝承によれば、兄・源頼朝に追われた義経が奥州平泉へ落ち延びる途中、弁慶ら主従とともにこの地を通りかかったという。一行は旅の途中で二本の松の根元に腰を下ろし、しばらく休息したと伝えられている。険しい山道や長い逃避行を続けていた義経と弁慶にとって、ひとときの休息の場となったことから、「弁慶腰掛の松」の名が生まれたとされる。 二本の老松は、単なる古木ではなく、越後を通ったと伝わる義経・弁慶の足跡を今に伝える象徴として、地域の人々に語り継がれてきた。矢作の二本松は、弥彦村に残る数々の義経伝説の一つとして、奥州落ちの物語を後世に伝える場所である。 🌌(新潟市)「判官舟かくし」 ※GOOGLE 画像新潟市に伝わる「判官舟かくし」は、源義経の奥州落ちにまつわる伝説の地である。文治3年(1187)3月、兄・源頼朝の追討を逃れて奥州平泉へ向かった義経一行が、海路を北上する途中、追手の目を避けるため舟とともに身を隠した洞穴と伝えられている。「判官」とは義経の官職名に由来する呼称であり、「判官舟かくし」の名も、この伝承から生まれたとされる。洞穴は大小二つあり、向かって右側の洞穴は奥行約28m、幅4~5m、天井の高さは海面から約6.6~2.5mある。左側は奥行約14m、幅約2m、天井の高さは海面から約4~5mとされる。海岸の岩壁に開いた洞穴は、義経一行が追手から身を隠したという物語を連想させる独特の景観を残している。 史実として義経がこの洞穴に隠れたことを裏付ける確かな記録はないが、新潟に残る義経の奥州落ち伝説の一つとして、現在まで語り継がれている。 🌌(新潟市)藤戸神社藤戸神社には、鎌倉時代初期の武将・佐々木盛綱にまつわる由緒と、源義経の奥州落ちに結びつく伝承が残されている。建仁元年(1201)、鎌倉幕府の命を受けて鳥坂城の城氏を討った佐々木盛綱が、戦勝を祝して凱旋の途中に社を建立したのが神社の始まりと伝えられる。一方、別の伝承では、源義経一行が奥州平泉へ逃れる途中、松崎付近で道を尋ねた際、村の娘が一行の素性に気づいたという。当時、義経は鎌倉方から追われる身で、その行方を知らせる触れが各地に回されていた。娘はそのことを知らず、義経一行であることを口にしてしまったため、素性を知られた義経側によって命を奪われたと伝えられる。 娘を哀れんだ村人たちは、その霊を慰めるために祠を建てて祀ったとされ、それが藤戸神社の由来になったという。佐々木盛綱の戦勝伝承と義経一行の逃避行伝説という二つの異なる物語が伝わる点に、この神社の特色がある。 🌌(新潟市)太夫浜諏訪神社 太夫黒の塔太夫浜諏訪神社は、地元では文治5年(1189)に創建されたと伝えられる神社で、源義経にまつわる伝説が残されている。義経一行が兄・頼朝の追討を逃れて奥州平泉へ落ち延びる途中、太夫浜に一泊し、翌朝この神社に参拝したという。その際、義経主従を捕らえようと追手が現れたが、義経らはこれを退け、再び平泉を目指して旅立ったと伝えられる。しかし、この逃避行の途中で義経の愛馬「太夫黒」が太夫浜で命を落としたという。太夫黒は義経が愛用した名馬として知られ、その死を悼んで建てられた墓とされるのが「太夫黒の塔」である。 太夫黒の塔は、もとは宮ノ前、現在の太夫浜小学校付近にあったが、戦前に太夫浜青年会によって現在地へ移された。神社と太夫黒の塔は、義経一行の奥州落ちと愛馬の悲話を今に伝える地域の伝承として受け継がれている。
≪現地案内看板より≫
太夫黒の塔 源義経の愛馬「太夫黒」の墓と伝わる塔です。義経は兄の頼朝とともに平氏討伐のために活躍しながら、その頼朝に追われ、平泉で討ちとられた歴史上の人物です。この地には、義経主従が平泉へ落ち延びる途中に、太夫浜に一泊したいという伝説が残っています。 諸説ありますが、義経たちは、この地の有力者安古左衛門に一夜の宿を頼んだものの、断られたので付近のお堂に一泊したそうです。そして翌朝、太夫浜の諏訪神社を参拝中の義経主従を捕らえようと追っ手がやってきましたが、義経たちは彼らを追い散らし、この地から去ったといわれています。 江戸時代に書かれた「越後野志」という本には、地元に伝わる話として「太夫黒は太夫浜の産まれで、“太夫”は村名で、“黒”は毛が黒色だったことから、この名がつけられた」と書いてあります。ほかに、太夫黒がこの浜で亡くなったので、この浜を「太夫浜」とよぶようになったという言い伝えもあります。 平成21年3月 新潟市北区役所(豊栄博物館) 🌌(五泉市)馬下という地名の由来五泉市にある「馬下(まおろし)」という地名には、越後から会津へ向かう山越えの道にまつわる伝承が残されている。古く、越後から会津へ抜けるには、険しい山道を越えなければならなかった。道は狭く急峻な場所が多く、馬に乗ったまま進むことが難しいため、旅人は途中で馬から降り、手綱を引きながら歩いて山道を進んだという。こうしたことから、馬を下りる場所を「馬下」と呼ぶようになったと伝えられている。 この地名には、山間部を行き来した昔の人々の苦労や、越後と会津を結んだ交通路の姿が反映されている。源義経が奥州平泉へ逃れた際にも、越後から会津へ抜ける道を通ったとする伝説があり、「馬下」という地名も義経一行の奥州落ちと結び付けて語られることがある。 ただし、地名の由来には諸説があり、義経伝説だけを根拠とするものではない。現在も「馬下」の地名は、阿賀野川沿いの交通と山越えの歴史を伝える地名として残されている。 🌌(阿賀町)岩屋の関所阿賀町の岩屋集落には、かつて「岩屋の関所」と呼ばれる関所が置かれていたと伝えられる。この地には平安時代の武将・余五将軍こと平維茂が暮らしたという伝承も残り、古くから越後と会津を結ぶ交通の要地であった。源頼朝に追われた源義経と武蔵坊弁慶ら一行は、奥州平泉を目指して津川街道を進み、会津へ抜けようと夜中に岩屋の関所へ差しかかったという。しかし、関所には「鶏が鳴くまでは門を開けない」という厳しい掟があり、夜明け前の一行は通行できず足止めされた。 そこで弁慶は一計を案じ、関所へ近づいて鶏の鳴き声を巧みにまねた。役人たちは本物の鶏が夜明けを告げたものと勘違いし、門を開いたため、義経一行は無事に関所を通り抜けることができたという。 この出来事から、岩屋の鶏は弁慶にだまされて時を告げたため、それ以後は時を告げなくなったというユーモラスな伝説も残されている。 🌌(村上市)多伎神社(多岐神社) ※GOOGLE 画像村上市岩ケ崎、三面川が日本海へ注ぐ河口近くの下渡山の麓に、多伎神社が鎮座している。周辺は岩石が幾重にも重なる険しい地形で、小さな不動滝の脇に社が建つ。ここには源義経と武蔵坊弁慶にまつわる伝説が残されている。伝承によれば、兄・源頼朝の追討を逃れて奥州平泉へ向かった義経一行が、この地を通った際、弁慶が神社前の岩の上に立って日本海を眺め、その美しい景色を賞賛したという。長い逃避行の途中で目にした日本海の景観に、弁慶もひととき心を奪われたと伝えられる。 さらに、神社から海岸へ向かう岩盤には、弁慶の足跡とされる皺(しわ)が十数個点在しているという。実際の足跡かどうかは定かではないが、自然の岩肌に残る凹凸を弁慶の足跡に見立てた伝承として、地域に語り継がれている。多伎神社周辺は、義経・弁慶の奥州落ち伝説と日本海の自然景観が結び付いた場所である。 🌌(村上市)馬下という地名の由来村上市の馬下は、JR羽越本線の越後早川駅と桑川駅の中間に位置する海沿いの集落で、源義経一行の奥州落ちにまつわる伝承が残されている。伝説によれば、兄・源頼朝に追われた義経と武蔵坊弁慶らは、奥州平泉を目指してこの地を通った。しかし、山道が険しく馬で進むことができなかったため、ここで馬を乗り捨て、徒歩で海岸へ出て、海路で鼠ヶ関を目指すことになったという。これが「馬下」という地名の由来と伝えられている。 乗り捨てられた馬の一部は海を泳いで対岸の粟島へ渡り、そこで野生化したという。粟島では野馬が繁殖し、大正時代頃までその姿が見られたと伝わる。さらに昭和10年(1935)、最後の一頭が死んだことで絶滅したとされる。 また、東京・皇居前の楠木正成像の愛馬は、粟島の野馬をモデルにしたという説も伝えられている。馬下には、義経一行の逃避行だけでなく、粟島の野馬に結び付く興味深い伝説も残されている。 🌌(村上市)笹川流れの奇岩村上市の笹川流れには、源義経の奥州落ちにまつわる奇岩の伝説が残されている。義経一行が奥州平泉を目指して海路を進んだ際、笹川流れ付近の海岸を小船で通ったと伝えられる。「舞子岩」は、荒れた海に船が揺れ、疲れ果てた義経を慰めるため、家臣たちが船上で舞を披露したことから名付けられたという。舞の背景となった岩山が、後に「舞子岩」※GOOGLE 画像と呼ばれるようになったとされる。また「ニタリ岩」※GOOGLE 画像 は、岩の姿を見た義経が思わず「ニタリ、ニタリ」と笑ったことが名前の由来と伝えられている。さらに「君戻し岩」※GOOGLE 画像には、義経一行がこの地の壮大な景観に気づかず通り過ぎた際、家臣がその美しい景色を見せようと義経を呼び戻したという伝説がある。 いずれも史実として確認されたものではないが、奇岩の特徴的な姿と義経伝説が結び付けられ、笹川流れの景観を彩る物語として語り継がれている。 🔙もどる
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