静御前と源義経の伝説 The Legend of Shizukagozen and Yoshitsune Minamoto 長岡市
🔗源義経の伝承 …………………………………………………………………………………………… ☆ 静御前 ☆ …………………………………………………………………………………………… 平安時代の終り頃に始った舞・白拍子の創始者とも云われる磯禅師の娘で、飢饉の際に朝廷で「雨乞い神事」を行い、 静も京の都で舞を舞っていました。生来から際立った美貌の静は、源氏の若大将源義経の目にとまり、その愛妾となります。 義経は兄の頼朝の怒りをかって追われる身となり、静と別れます。静は頼朝の追っ手に捕らえられ、鎌倉の頼朝の前に引き出されます。頼朝と妻の政子は静に舞を所望し、静はやむなく、扇を手に舞い始めます。 『しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき』 生き別れた義経を慕い切々と歌い舞う静に、頼朝は烈火のごとく怒り刀に手をかけます。その頼朝を妻の政子が「主を思う女心は、女にしかわからないものです」といさめ、静は命を救われます。 この時、静は義経の子を妊娠していて、静は男子を産んだが、赤子は由比ヶ浜に沈められた。 静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は史実では不明である。各地に伝説が残されている。 …………………………………………………………………………………………… ☆ 静御前の墓 ☆ …………………………………………………………………………………………… 傷心の静は、みちのくの平泉に落ちのびた義経を追って平泉を目指すが、頼朝の兵たちが厳重に固める太平洋沿いの道は北上できなかった。そのため、静と従者たちは越後に出て、そこから山中を会津へ抜け、さらに平泉に向けて北上するという長い道のりを選んだ。道中には、世情名高い八十里越えの難所があった。ところが長旅の途中、栃堀までやって来た静は病を患い栃堀に逗留することになった。そして、建久元(1190)年4月26日、従者たちの看護のかいもなく静は若い身空で世を去った。従者たちは栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けることになった。この庵が、後の高徳寺であるとされている。かつて、NHKの放送で静御前の墓として紹介されたことがあります。 ≪現地案内看板より≫
栃尾 の源氏ゆかりの史跡 静御前の墓 栃尾区 京都の白拍子(しらびょうし・当時、歌や舞いを舞うことを職業にしていた女性)だった静御前(しずかごぜん)は源義経に見初められ、その愛妾になります。 やがて、義経は兄の頼朝の怒りをかって追われる身となり、東北の平泉へ藤原氏を頼って落ちて行きます。 静は吉野山で捕らえられ、鎌倉の頼朝の前で義経を思う舞いを舞います。その後、釈放された静は平泉にいる義経を追って、ここ栃堀の地へ辿り着きました。 栃堀から山脈を越えて会津へ出、はるかな平泉を目指す予定でした。ところが、長旅の疲れから静は床に伏せ、二人の従者の看病のかいもなく栃堀で果てたとされています。従者たちは里人の力を借りて静の遺骸をこの地に埋葬し、その麓に庵を立てて静の霊を守ったと伝えられています。 静の戒名は「源貞院殿松寿妙榮大姉」とされています。 長岡市栃尾 ❏〔所在地〕 長岡市栃堀406番地2 高徳寺
❏〔問い合わせ先〕 ☎0258-52-4153 ❏〔アクセス〕
🔙もどる
☆ 源義経の伝承 ☆文治元年(1185)11月3日、源義経は都を落ちをし、11月11日には、後白河法皇が、頼朝に対して『義経追討の院宣(天皇家の命令)』を下し、義経は正式に朝廷から追われる賊軍となった。追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、文治3年(1187)2月10日、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。≪源義経の伝承が残る場所≫🌌(上越市)観音寺現在高田にある真言宗華園寺が直江津にあったころ、豪族直江氏によって華園寺内に観音堂として創設されたといわれている。松平忠輝が高田城を築城した際、華園寺が高田に移り、残された観音堂が観音寺となり、現在に至っている。境内にある池は「兜池」と言われ、源義経が奥州へ落ちのびる際に立ち寄り、追手から逃げるために鎧兜を投げ捨てたという伝説がある。 観音寺本堂は大火で焼失し昭和初期に再建された。火災の対策のため、寺院としては珍しい土蔵造となっている。 ≪現地案内看板より≫
兜池の由来 文治三年(一一八七)、源義経が兄、頼朝よりいわれなき勘当を受け京洛(京都)を忍び出でて六人の家来(武蔵坊弁慶、亀井六郎、片倉七郎、伊勢三郎、駿河次郎、常陸坊)と共に奥州へ下る途中、国府であった直江津に立ち寄り、ここ観音寺に一夜の宿を借りた。 深夜の事、義経の夢枕に宝冠を載せ蓮華の花を手にした童子が現れ、「今や北陸道には鎌倉の追手が迫っている。その難を逃れる為に義経の証しの鎧兜をこの池に棄てよ」と告げて忽然と消えた。 驚いた義経は、兜の他、所持品のことごとくをこの池に棄てて旅たち、追ってきた代官、浦権守らの手から逃れて、無事、鉢崎の関所を越える事ができた。 🌌(南魚沼市)「君帰観音」観音堂は和銅年間に泰澄大師が阿弥陀如来像を安置し大日堂を建立したことが始まりであり、文治3年(1187)、修験者主従(源義経一行)が京都から追われ奥州平泉(岩手県平泉町)に下向する途中、大日堂に滞在し、背負ってきた観世音菩薩像と紺紙金泥の経巻を寺に納めて立ち去ったとされ、村人が義経の無事を願って「君帰」の名を村に付けたと伝わる。現在の本尊は、そのとき寄進された聖観音立像である。像高1.49m柱材の1本づくりで、12年に1度、御開帳を許される。 🌌(柏崎市)「胞姫(よなひめ)神社」安産の神として知られ、各地から大勢の参拝者が訪れている。昔、出産の際、「胞姫さん」から貰ったロウソクを点せば「産が軽い」とされていた。時代は移っても、安産を祈る切実な思いは胞姫神社への篤い信仰として今も受け継がれている。社殿の中には安産を祈願した絵馬や誕生した子供の名前を書いた紙が奉納されている。胞姫神社の「胞」とは、胞衣(えな:胎児を包む膜や胎盤のこと)を意味する。近世紀には「胞衣姫大明神」とも記されていた。縁起(天保3年、1832)には、その名の由来を源義経の嫡男出産との関連で説明されている。 文治2(1186)年、義経一行は直江津から海路奥州へ下向の折、急に北の方(正室)が産気づき、仮の産所を設けて嫡男亀若丸を出産した。同行の弁慶は無事出産の礼に当地鎮守境内に亀若丸の胞衣を納め、あわせて源氏の氏神である諏訪・八幡の両神を祀ったと云われてて、胞姫神社の起こりとされている。 付近には、産所跡の「亀割坂」や弁慶が金剛杖を突いて湧出させた「弁慶の産清水(うぶしみず)」などの地名・遺跡も残っている。 御祭神が万能の女神であることにあやかり、芸事、習い事上達の祈願者は多く、近年は、活躍を志す女性の参拝者が増えている。 胞姫神社では、安産・子授け祈願のお祓いを予約不要で行っている(毎月1日・15日:11時~12時 日曜・祝日:9時30分~15時 ※1~2月は休み)。
≪現地案内看板より≫
胞姫神社鎮座次第 縁起 文治年間 源義経が兄頼朝の追討を逃れ藤原秀衡を頼って奥州の地を目指す折、当地亀割坂にさしかかるや随従するその妾俄かに産気を催し甚だ苦しみはじめたので忠臣武蔵坊弁慶が当社社前に額きひたすら祈願した処さしもの苦痛も忽ちやわらぎめでたく安産を遂げたので主従手を取り合って大いに喜び境内に誕生した若君の胞(へその緒)を納め「霊験あらたかな安産守護神よ」と秦賽感謝して立ち去ったと伝えられている。以来全国的に安産守護の神として崇敬を集め四季を通じ各地から参詣者が跡を絶たない。古跡として若君誕生の屋敷、弁慶の金剛杖により湧出したという「産清水」等がある。 🌌(長岡市)弁慶の手掘井戸源義経、弁慶主従が、北国落ちのとき、ここ五十嵐邸にしばらく滞留したと伝えられ、五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室にかくまった。そのとき弁慶が自ら井戸を掘って義経に供したといわれている。現在はその五十嵐家邸宅跡が新潟県長岡市指定の文化財、史跡公園「聚感園」となっている。🌌(燕市)国上寺の大黒天頼朝に追われた義経公は、文治3年(1187)、奈良の吉野山から岩手県の平泉へ逃れる。その途中に国上寺本堂に隠れていたとのこと。やがて義経公が隠れていることを頼朝に密告する者がいて、一行は寺を去り、弥彦へ向かった。その折に義経公ご作の大黒天木像を奉納された。大黒天が背負っている福袋の背後には、「治承 庚子年 正月朔日 源義経 華押」と刻まれている。🌌(弥彦村)「お部屋の滝」弥彦大通り住吉神社から1キロメートルほど山ふところに入ったところに「お部屋の滝」があった。文治3年(1187)義経が奥州平泉に落ちてゆく道すがら、彌彦の社前に祈願を込め、数日滞在した折にこの滝に参篭して神助を祈願し、神楽の笛を吹いたといわれている。現在では、新潟地震によって岩が崩れ、姿が変わってしまった。
🌌(弥彦村)「源義経公御陣扇」「源義経公御陣扇」 彌彦神社宝物殿に源義経が奉納したと伝える「軍扇」が展示されている。🌌(弥彦村)「矢作の二本松」「矢作の二本松」 大字矢作字釈迦堂の小丘状にある 2本の老松は別名「弁慶腰掛の松」と言われ、義経・弁慶主従が奥州落ちの道すがら、この木の根方で休息したという伝説がある。🌌(新潟市)「判官舟かくし」文治3年3月(1187)、源判官義経が兄頼朝に追われ、奥州平泉に海路おちのがれる際、追手を避けて舟とともに身をかくした洞穴と伝えられている。 大小二つの洞穴があり、向かって右が奥行28m、幅4~5m、天井の高さは海面から6.6~2.5m。左側は奥行14m、幅2m、天井の高さは海面から4~5m。🌌(新潟市)藤戸神社1201年(建仁元)、 鎌倉幕府の命により鳥坂城の城氏を討伐した佐々木盛綱が凱旋途中に戦勝を祝して社を築いたと言われている。一説では、義経一行が、松崎の辺りで村の娘に道を尋ねると娘は彼らが鎌倉から触れが回っている義経一行であることに気づき、そのことをうっかりもらしてしまう。「素性を知られた以上は致し方ない」とその娘は切り捨てられてしまった。哀れに思った村人たちが、その霊を祀ったのが藤戸神社であると言われている。🌌(新潟市)太夫浜諏訪神社 太夫黒の塔太夫浜諏訪神社は、地元では1189(文治5)年に建立されたと伝えられている。この神社には、源義経にまつわる伝説がある。源義経が平泉へ落ち延びる途中、太夫浜で1泊し、翌朝神社に参拝していると、義経主従を捕らえようと追っ手があらわれた。義経らはこれを追い散らし、この地を後にしたと言われている。このとき、義経の愛馬太夫黒がこの浜で亡くなったという。太夫黒の塔はこの愛馬の墓といわれる。元々は宮ノ前(現在の太夫浜小学校の場所)にあったが、戦前に太夫浜青年会が現在地に移した。 ≪現地案内看板より≫
太夫黒の塔 源義経の愛馬「太夫黒」の墓と伝わる塔です。義経は兄の頼朝とともに平氏討伐のために活躍しながら、その頼朝に追われ、平泉で討ちとられた歴史上の人物です。この地には、義経主従が平泉へ落ち延びる途中に、太夫浜に一泊したいという伝説が残っています。 諸説ありますが、義経たちは、この地の有力者安古左衛門に一夜の宿を頼んだものの、断られたので付近のお堂に一泊したそうです。そして翌朝、太夫浜の諏訪神社を参拝中の義経主従を捕らえようと追っ手がやってきましたが、義経たちは彼らを追い散らし、この地から去ったといわれています。 江戸時代に書かれた「越後野志」という本には、地元に伝わる話として「太夫黒は太夫浜の産まれで、“太夫”は村名で、“黒”は毛が黒色だったことから、この名がつけられた」と書いてあります。ほかに、太夫黒がこの浜で亡くなったので、この浜を「太夫浜」とよぶようになったという言い伝えもあります。 平成21年3月 新潟市北区役所(豊栄博物館) 🌌(五泉市)馬下という地名の由来越後から会津に抜ける際に、道が険しくて馬から降りなければいけなかったことに由来する🌌(阿賀町)岩屋の関所余五将軍が暮らした岩屋集落にはかつて関所があった。源頼朝に追われた義経主従は津川街道から会津に出ようとして、夜中に岩屋の関まで来たが、関所には鶏が鳴くまで、門を開かないという掟があった。追手が迫っていたことから困った一行は、関所の役人をだまして通り抜けようと一計をめぐらし、弁慶がそっと関所に近づき鶏の声色を使って夜明けを告げた。すると役人たちは勘違いし扉を開けたので無事通過できた。この村の鶏は騙されて時を告げたことから、それ以降時をつくらなくなったという。🌌(村上市)多伎神社(多岐神社)岩ケ崎は三面川が海に注ぐ河口で、下渡山の麓、岩石重塁に小さな不動滝の脇に多伎神社がある。義経が奥州へ逃れる途中、供の弁慶が社の前の岩の上に立ち、日本海を眺めて「さても麗わしき景色かな」と嘆賞したという伝説がある。ここから海岸に出るまでの岩盤に弁慶の足跡と言われる皺が十数個点在する。🌌(村上市)馬下という地名の由来JR羽越線、越後早川駅と桑川駅との中間にある集落である。義経主従は、道が険しくてここで馬を捨てて海路鼠ヶ関を目指すこととなった。乗り捨てられた馬は、対岸の粟島に泳いで渡って野生の馬になった。その馬は大正ごろまで繁殖し、昭和10年最後の1頭が死んで絶滅した。皇居前の楠公銅像の馬は、粟島の野馬を模したものだという。🌌(村上市)笹川流れの奇岩源義経が奥州へ落ち延びていく際、笹川流れ付近の海岸を小船で通ったと言われている。①笹川流れ 舞子岩・ニタリ岩※ストリートビュー 小船に乗っていた義経公は、この辺りの海上の荒れの為、大変難儀をしたという。その疲れ切った義経公の労をねぎらう為、家来の者達が船内でこの岩山をバックに舞を舞った事から「舞子岩(まいこいわ)」と名付けられた。 またニタリ岩は、その岩を見て義経公がニタリニタリと笑ったことからついたといわれている。 ②君戻し岩 ※ストリートビュー 源義経が笹川流れの大きな景色に気がつかず、何気なく通り過ぎてしまった際に、義経の家来が景色を見せようと呼び戻したことが名前の由来となっている。 🔙もどる
|