平維茂 Koremochi Taira 阿賀町



?〔生〕~?〔没〕

平維茂(たいら の これもち、生没年未詳)は平安時代中期に活躍した武将であり、鎮守府将軍・信濃守などを務めた人物である。桓武平氏の一族に属し、「余五将軍(よごしょうぐん)」の名で広く知られる。平将門の乱後に勢力を拡大した平氏の中で武勇をもって名声を築き、後世には鬼女伝説を題材とした『紅葉狩』の主人公として語り継がれた。また、その子孫は越後北部に勢力を築き、越後平氏の有力豪族・城氏へと発展し、会津から阿賀野川流域、越後平野へ及ぶ地域史に大きな足跡を残した。

桓武平氏の一族として生まれる

維茂は桓武天皇の流れをくむ桓武平氏の一族である。一般には平繁盛の子とされ、繁盛は平貞盛の弟にあたる。平貞盛は平将門の乱で藤原秀郷とともに将門を討ち、その功績によって陸奥守や鎮守府将軍となった人物である。
将門の乱後、坂東では武士団同士の土地争いが絶えなかった。平貞盛は一族の結束を強めるため、甥や親族を養子に迎える政策を進めた。維茂もその養子となり、十五番目の養子であったことから「余五(十五)」と呼ばれるようになった。この呼称は後に鎮守府将軍就任後、「余五将軍」という異名として広く知られることになる。
当時の鎮守府将軍は後世の征夷大将軍とは異なり、全国の武士を統率する権限を持つ役職ではなかった。しかし、東国武士の棟梁として大きな威信を持ち、朝廷から東北経営を任される重要な地位であった。

東国武士社会の対立

十世紀後半の東国では、平氏と藤原氏という二つの武士勢力が拮抗していた。両者は朝廷の官職を得ながら、それぞれ地方で勢力を拡大しようとしていた。
維茂が最も名を上げたのは、藤原秀郷の孫・藤原諸任との戦いである。この争いは土地をめぐる対立から始まったとされ、『今昔物語集』にその経緯が詳しく伝えられている。
長徳元年(995)秋、両軍は決戦を約束し、戦場を定めて対峙した。場所は史料には明記されていないが、現在の福島市周辺であったとする説が有力である。

藤原諸任との決戦

決戦では、諸任軍が奇策を用いて維茂軍を翻弄し、維茂は敗走を余儀なくされた。しかし維茂は完全には敗れなかった。撤退後、約百人ほどの手兵を集め直し、敵の油断を見抜いて反撃を決断する。諸任軍は勝利を確信し、武装を解いて酒宴を開いていた。維茂は夜陰に乗じて急襲し、敵陣を混乱へ陥れる。
敵兵は鎧を着けようとする者、武器を探す者、逃げ惑う者が入り乱れ、組織的な抵抗ができなくなった。その混乱の中、維茂は自ら諸任を討ち取り、その首を挙げたという。
この勝利は単なる戦術的成功ではなく、敗戦から立ち直って敵の隙を突いた大胆な逆転劇として語り継がれた。

敵将の妻を救った武将

維茂は諸任討伐後、その館へ攻め入り火を放った。しかし敵方である諸任の妻だけは救出するよう家臣へ命じた。この女性は当時の陸奥守・藤原実方の妹であったと伝えられる。維茂は彼女を実方の館まで送り届け、実方は大いに感謝したという。
この逸話は、『今昔物語集』において維茂の武勇だけでなく義理や情けを重んじる人物像を示す場面として描かれている。敵を討ちながら無益な殺生を避けた武士として、後世の評価にも影響を与えた。

鎮守府将軍への昇進

諸任討伐の功績によって、維茂は東国屈指の武将として名声を得た。朝廷はその武勇を評価し、陸奥守・鎮守府将軍に任じたと伝えられる。
東北では蝦夷との境界地域の統治や治安維持が重要課題となっており、維茂はその任を担う武将となった。「余五将軍」という名も、この鎮守府将軍就任以後に広く用いられるようになったとされる。

信濃の鬼女伝説と『紅葉狩』

維茂を最も有名にしたのは、信濃国戸隠山の鬼女退治伝説である。伝説では、信濃守として赴任した維茂が、美しい女性・紅葉と出会う。しかし紅葉は実は鬼女であり、人々を食らう恐ろしい存在だった。維茂は八幡神の加護を受け、鬼女を討ち果たしたという。
この伝説は室町時代になると能『紅葉狩』として芸能化され、さらに歌舞伎へも発展した。史実として鬼退治があった証拠はないが、地方豪族討伐や山岳信仰が伝説化したものとも考えられている。

越後・会津への勢力拡大

維茂の一族は、その後会津地方から阿賀野川流域へ勢力を広げたと考えられる。阿賀野川は会津と越後を結ぶ重要な交通路であり、その流域支配は経済・軍事の両面で大きな意味を持っていた。さらに白川荘(現在の阿賀野市水原周辺)にも一族の勢力が及んだとみられている。
この勢力拡大を裏付ける出来事として、長保三年(1003)の平維良事件がある。維茂の甥・平維良は下総国府を焼き討ちし官物を奪った後、越後へ逃亡した。越後へ逃れられたという事実は、維茂一族が当地に受け入れ基盤となる勢力を持っていたことを示唆している。

三男・平繁成と城氏の成立

維茂の三男とされる平繁成は、一族発展の鍵を握る人物である。永承六年(1051)、前九年の役直前、繁成は出羽国秋田城介に任じられ、安倍氏討伐の前線へ赴いた。これ以後、その子孫は「城氏」と呼ばれるようになったと伝えられる。
城氏は越後北部の奥山荘・白河荘などを本拠とし、越後平氏を代表する豪族へ成長する。平安時代末には、会津から越後北部まで広大な勢力圏を築き、源平争乱期にも重要な武士団として活動した。

阿賀町に残る維茂伝承

阿賀町周辺では、維茂一族が阿賀野川流域へ進出した伝承が各地に残る。阿賀野川流域は会津と越後を結ぶ要衝であり、中世には武士団や寺社勢力が拠点を築いた地域である。
維茂本人が当地に居住したことを示す確実な史料は多くないものの、一族の活動範囲として阿賀町が位置づけられることから、地域史の中で重要人物として扱われている。
こうした伝承は、中世豪族の成立過程や越後平氏の形成を考える上で貴重な文化遺産となっている。

史料と伝説が交差する人物

維茂については、『今昔物語集』などの説話集に多くの逸話が残る一方、官職や系譜については諸説があり、生没年も明らかではない。また、鎮守府将軍就任時期や信濃守在任期間についても確実な史料は限られる。
しかし、武勇に優れた東国武士として名声を得たこと、一族が越後・会津へ勢力を広げたこと、後に城氏へつながる系譜を形成したことは、地域史の中で大きな意味を持つ。
鬼女退治伝説の英雄として芸能史にも名を残し、越後平氏の祖として中世武士団形成にも深く関わる維茂は、史実と伝承が重なり合う平安時代を象徴する武将の一人といえる。

阿賀町に残る平維茂伝説

平維茂(余五将軍)は史実では平安時代中期の武将として知られるが、阿賀町には維茂をめぐる数多くの伝説が受け継がれている。その中心となるのが阿賀町三川地区岩谷の平等寺であり、この寺は維茂が晩年を過ごした地であり、自ら創建した寺院と伝えられる。また、夫人にまつわる悲恋伝説や御前ヶ淵、御前ヶ遊窟など、阿賀野川流域には維茂一族の物語を今に伝える史跡や地名が数多く残されている。これらは史実というよりも地域の信仰や口承によって育まれた伝説であり、阿賀町を代表する歴史文化の一つとなっている。

晩年を過ごしたと伝わる岩谷の地

阿賀町三川地区岩谷には、国の重要文化財に指定されている薬師堂を有する平等寺が建つ。この寺は古くから余五将軍平維茂ゆかりの寺として知られ、維茂が晩年をこの地で過ごした後、自ら建立したと伝えられている。
阿賀野川沿いの岩谷は険しい山々に囲まれた静かな土地であり、古くから山岳信仰や仏教文化が根付いた場所でもある。維茂ほどの武将が晩年にこの地へ移り住んだという伝承は、地域の人々にとって特別な意味を持ち、平等寺はその象徴として語り継がれてきた。

黄金に輝く薬師如来との出会い

平等寺創建の由来として最も有名なのが、阿賀野川で薬師如来像を授かったという伝説である。
ある日、余五将軍維茂が船で阿賀野川を下っていたところ、川面から神々しい光が放たれているのを見つけた。不思議に思って船を寄せると、水中には黄金色に輝く薬師如来像が沈んでいた。維茂はこれを偶然ではなく仏の導きであると悟る。
薬師如来は病を癒やし、人々を救済する仏として広く信仰されていた存在であり、その像が川から現れたことは神仏の加護を示す瑞兆と受け止められた。維茂は像を丁重に引き上げると、阿賀野川を見渡す高台に堂宇を建立し、この薬師如来像を本尊として祀った。これが平等寺の始まりと伝えられている。
阿賀野川は会津と越後を結ぶ重要な交通路であり、その川から現れた薬師如来像は、水運を守護する仏としても人々の信仰を集めたと考えられている。

国の重要文化財・薬師堂

平等寺の薬師堂は現在、国の重要文化財に指定されている。現在残る建物は維茂の時代そのものではないものの、中世以来の歴史を伝える貴重な建築として高く評価されている。
堂内には薬師信仰の歴史を物語る仏像や文化財が伝えられ、阿賀町を代表する歴史的建造物として知られている。
この薬師堂は、維茂創建伝説と結び付くことで、単なる寺院ではなく地域の伝承を支える精神的な拠点ともなっている。
(👉 薬師堂)

将軍杉と余五将軍の墓

平等寺境内には「将軍杉」と呼ばれる巨大な杉の木が立っている。この杉は天然記念物にも指定される大木であり、地域の象徴的存在となっている。伝承によれば、この杉は維茂の死後、その墓標として植えられたという。
杉の根元には江戸時代に建立された「余五将軍維茂墓碑」があり、古くから維茂の墓として崇敬を集めてきた。実際に維茂がここへ葬られたことを裏付ける史料は残されていないが、江戸時代にはすでに墓所として広く認識されていたことが墓碑からうかがえる。
天へ向かってそびえる将軍杉は、武将として名を馳せた維茂の威厳を象徴する存在として今も人々に親しまれている。
(👉 将軍杉

御前ヶ遊窟に残る夫人の伝説

阿賀町には維茂本人だけでなく、その夫人にまつわる切ない伝説も語り継がれている。上川地区安用には「御前ヶ遊窟(ごぜんがゆうくつ)」と呼ばれる岩窟がある。
この洞窟は維茂夫人が身を隠して暮らした場所と伝えられ、深い山中にひっそりと存在する。伝説では、夫人は何らかの事情でこの岩窟に住んでいた。
そこへ維茂の命が尽きようとしているとの知らせが届く。「三月十日の明け方までに来なければ最期に間に合わない。」そう伝えられた夫人は、一刻も早く夫のもとへ向かおうと険しい山道を急ぐ。
(👉 御前ケ遊窟

鶏の声が招いた悲劇

夜明け前、夫人は必死に阿賀野川沿いを急いでいた。ところが、道中で鶏の鳴き声が響く。その声を聞いた夫人は夜が明け、すでに維茂は息を引き取ってしまったと悟る。愛する夫の最期に間に合わなかった絶望から、夫人は阿賀野川へ身を投げた。その場所が現在の「御前ヶ淵」と呼ばれる淵になったという。
しかし物語はそこで終わらない。実は夫人が聞いた鶏の声は、本物の夜明けを告げるものではなく、天邪鬼(あまのじゃく)のいたずらだったのである。天邪鬼は昔話に登場する、人を惑わせる妖怪として知られる。
夫人は妖怪にだまされ、本当なら間に合ったかもしれない最期の別れを果たせぬまま命を絶ってしまったというのである。この結末は、日本各地に残る悲恋伝説の中でもひときわ切ない物語として語り継がれている。

鶏を食べない風習

この伝説には地域独特の風習も結び付いている。夫人を惑わせた鶏の鳴き声を忌み嫌ったため、この土地では長く鶏を食べない習わしがあったと伝えられる。
実際にどの程度まで生活習慣として守られていたかは定かではないが、伝説が人々の日常にまで影響を与えるほど深く根付いていたことを示している。
こうした禁忌や風習は、口承によって世代を超えて受け継がれ、阿賀町の民俗文化の一部となった。

阿賀野川流域に生き続ける余五将軍伝説

阿賀町に残る平維茂伝説は、史実だけでは説明できない地域の記憶そのものである。
薬師如来像を授かって平等寺を創建した英雄としての姿、将軍杉の下で眠る武将としての姿、そして夫人との悲しい別れを描く御前ヶ淵や御前ヶ遊窟の物語は、阿賀野川流域の自然や信仰と深く結び付いている。
これらの伝説は、中世武士の歴史と民間信仰が融合して生まれた阿賀町独自の文化遺産である。平等寺の薬師堂や将軍杉、御前ヶ淵、御前ヶ遊窟などの地名や史跡は、今なお余五将軍の面影を語り続け、阿賀町の歴史と伝説を象徴する存在となっている。

御前ヶ淵に残る平氏一門の悲話

阿賀町三川地区にある御前ヶ淵(ごぜんがふち)は、阿賀野川と白崎川が合流する場所にできた深い淵である。二つの川がぶつかり合うことで激しい渦を巻くこの場所は、古くから人々に畏れられる一方、平氏一門にまつわる悲しい伝説が語り継がれてきた。源平争乱の終焉と結び付けられたこの物語は、武家の滅亡を悼む民間伝承として阿賀野川流域に受け継がれ、地域の地名や風習の由来として今も知られている。

平氏一門の落人伝説

伝説によれば、源氏との戦いに敗れた平氏一門は都を離れ、越後を目指して落ち延びてきた。壇ノ浦の戦いによって平氏が滅亡した後、日本各地には落人伝説が数多く生まれたが、阿賀町にもその一つが残されている。
一行は会津方面から阿賀野川沿いを下り、白崎までたどり着いた。しかし、ここで追っ手に見つかり、一門の者たちはことごとく捕らえられてしまう。険しい山々と深い谷に囲まれた阿賀野川流域は逃避行の舞台として語られることが多いが、この伝説では白崎が平氏の運命を決めた場所となっている。
捕らえられた人々は翌朝、鶏の鳴き声を合図に処刑されることになったという。

奥方たちの最後の願い

捕らえられた一門の後を追っていた奥方や女房たちは、その知らせを聞いて愕然とする。夜が明ける前にたどり着けば、せめて最後に一目だけでも家族や夫と会えるかもしれない。
その一縷の望みにすがり、一行は暗い山道を懸命に急いだ。阿賀野川沿いの道は岩場や急斜面が続き、夜の移動は命懸けだった。それでも奥方たちは立ち止まることなく白崎へ向かったという。
しかし、白崎の手前までたどり着いたその時、静かな夜を破って鶏の鳴き声が響いた。その声は夜明けを告げる合図だった。処刑の時が来たことを悟った奥方たちは、愛する者との最後の別れすらかなわなかったことに絶望する。

御前ヶ淵へ身を投じる

希望を失った奥方たちは互いに手を取り合い、そのまま御前ヶ淵へ向かった。阿賀野川と白崎川がぶつかり合う淵には大きな渦が巻き、深く暗い水面が広がっていた。
一人ではなく、互いの手を離さぬまま身を投げたという描写は、この伝説の中でも最も印象的な場面となっている。
渦の中へ消えた奥方たちは二度と戻ることはなく、その場所は悲劇を記憶する淵として「御前ヶ淵」と呼ばれるようになったと伝えられる。
深い淵にまつわる伝説は各地に見られるが、御前ヶ淵では平氏滅亡の悲劇と結び付けられたことで、特別な意味を持つ場所となった。

鶏を飼わなくなった白崎の人々

この物語には、地域の風習を説明する伝承も残されている。奥方たちの望みを絶ったのが鶏の鳴き声だったことから、白崎の人々はその出来事を深く悼み、それ以後は鶏を飼わなくなったという。
実際にどこまで習慣として続いたかは定かではないが、この話は地域に語り継がれる禁忌の由来として知られている。
鶏は本来、夜明けを知らせる吉兆の鳥とされることが多い。しかし、この伝説では命を分ける残酷な合図となり、人々の記憶の中では悲劇を象徴する存在へと変わったのである。

阿賀野川流域に生きる悲恋伝説

御前ヶ淵の伝説は、史実として平氏一門がこの地で処刑されたことを示す確かな史料があるわけではない。しかし、源平合戦後に全国へ広まった落人伝説の一つとして、阿賀町の自然や地形と結び付きながら独自の物語として育まれてきた。
阿賀野川と白崎川が生み出す激しい渦は、人々に畏怖の念を抱かせる景観であり、その場所に悲劇の物語を重ね合わせることで、土地の記憶として受け継がれてきたのである。
今も御前ヶ淵は、阿賀野川流域に残る平氏伝説を語る象徴的な場所として知られ、川の渦を眺めるたびに、最後の別れを果たせなかった奥方たちの悲しみを静かに伝え続けている。

❏〔墓所〕

❏〔周辺の観光施設〕





















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