平等寺 Byodoji 阿賀町



🔗細越小田切氏館跡 🔗哀溺鑑戒

五十島駅の北約1キロにある曹洞宗の寺。もと天台宗で平安後期、将軍平維茂が、阿賀野川で拾った薬師如来像を祀ったのが起源という名刹。(☛ 平維茂)
室町時代中期の永正年間(1504-21)、住職の永源が苦心して再興。江戸時代に入って再び荒廃したが、万治3年(1670)骨岩和尚が曹洞宗の寺として再興した。

寺の薬師堂は、永承16年(1519)に永源が建てた時の遺構で、1923年(大正12)国の重要文化財に指定されている。
規模は桁行三間、梁間四間、カヤ葺き、一重屋根の寄棟造り、端正な小堂で、新潟県で2番目に古い木造建築物といわれている
釘を一本も使わずに建てられたもので、会津藩の保護を受けたことから、室町中期の唐様建築と会津建築の特長をあわせもつ。
昭和27年(1952)には15ヶ月をかけた解体修理が完成し、室町時代の姿を復元した。
境内に、小道を隔てて国指定天然記念物の将軍杉と維茂の墓碑があり、付近には哀溺鑑戒の碑などがある。(☛ 将軍杉)



≪現地案内看板≫
重要文化財
平等寺薬師堂
東蒲原郡阿賀町岩谷 平等寺

平等寺は、平安時代の末に、武勇で知られた陸奥鎮守府将軍平維茂が創立したとつたえている曹洞宗の名刹である。
現在の薬師堂は、住職栄源の発願によって、永正一六年(一五一九)に建てられたものである。けた行三間、はり間四間、一重屋根寄せ棟づくり、茅ぶきの端正な建物で、斗栱、大虹梁、繋虹梁、大瓶束、拳鼻などの組物や桟唐戸、隅木などに室町時代中期の禅宗様の特色がよくうかがわれ、虹梁の眉や袖切り、錫杖彫りなどに、するどくつよい、すぐれた手法がみられる。
堂内の柱や壁板の所々に、元亀、天正ー元和にわたる参詣者の落書きがあり、当時の世相や信仰をしのばせるが、なかでも天正六年(一五七八)「御館の乱」のときに越後へ進攻し、敗退してこの寺に逃げ込んだ会津芦名氏の将兵たちの連名の墨書は、当時の会津と越後の緊迫した動勢を知る上に貴重な史料である。

阿賀町教育委員会

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平等寺薬師堂の墨書

堂内には、元亀・天正(1570~92)から元和年間(1615~24)にいたる参詣者の落書きが残っており、貴重な資料となっている。
その中には、「御館の乱」に便乗して越後(菅名)へ侵攻し、敗退してこの堂に逃げ込んだ会津芦名家の将兵たちが残した墨書がある。
天正6年(1578)3月13日上杉謙信は春日山で49歳で亡くなった。謙信には実子がなく小田原の北条氏康の子三郎景虎と、謙信の姉と上田(六日町)の長尾政景との間に生まれた喜平次景勝の2人の養子の間で跡目を争うことになった(御館の乱)。
会津の芦名盛氏は、越後での内乱に乗じ、三郎景虎に味方するとして出兵した。芦名氏は旧三川村を支配した小田切治部少輔らを動かし、天正6年(1578)5月24日菅野へ、5月28日雷(村松)まで進出したが、景勝方の兵の反撃にあい、50人程の犠牲を出して、撤退。追撃を受け薬師堂まで逃げて来た小田切治部はここで自害した。この時の、越後出兵から撤退までのいきさつが墨書されている。

細越小田切氏館跡

応永18年(1411)小田桐駿河守が信濃から越後へ移住し蒲原郡石間城を居館とした。のち芦名氏に属した。旧三川村の、赤谷のほか、岩谷、石間、谷沢などにも館を持った。細越もその一つである。 1581年(天正9)に新発田重家が上杉景勝にそむいたとき、芦名氏家臣小田切盛昭が新発田氏を支え、会津からの物資輸送を確保するため、赤谷(新発田市)の要害山にあった城を移し赤谷城を築城した。 天正15年(1587)新発田重家討伐に苦戦した景勝はまず、芦名氏からの支援を絶つため三川(阿賀町)から赤谷城の攻略にかかり、新発田重家の背後を衝くこととした。この時細越館は破却された。 8月24日、赤谷城救援のため津川城主の金上盛備が景勝方の藤田信吉軍と交戦し、敗れ退却する。 9月に入って、景勝自ら1万騎の大軍を率いて、赤谷城の東に対面する丘に本陣を置き、布陣した。9月14日、城兵は赤谷城に立て籠ったがわずか一日で落城し、小田切盛昭以下800人の城兵は全滅した。これにより小田切氏は滅亡した。(☛ 赤谷城)
  • 〔所在地〕 東蒲原郡阿賀町細越

哀溺鑑戒 ( あいできかんかい )の碑

津川から新潟への水路は、阿賀野川を下り、新潟市秋葉区万願寺と江南区酒屋をつなぐ小阿賀野川によって信濃川へ出て新潟湊に向かった。
弘化4年(1848)12月16日、厳寒の旧津川町津川湊から新潟湊に向かう川舟が、旧三川村吉津の難所といわれた貝喰付近で強風によって転覆した。乗客60人近くが厳寒の川に投げ出され、44人が水死するという大惨事となった。
乗客は、出稼ぎ先の会津から新潟へ帰る職人や商人で、犠牲者の内21人は、旧巻町五ケ浜の人だった。
当時事故が発生した旧三川村は会津領だった。嘉永元年(1848)、会津藩8代藩主松平容敬が、溺れた人たちを哀れみ、後世への舟旅の戒めとして石碑を建てさせた。碑文の選者は、会津藩の漢学者淄川高津泰、書は会津藩右筆研堂星孚である。碑文は達筆な漢文で刻まれ、舟人の人命の尊さを説いている。
石碑は、昭和42年(1967)の8・28水害で流され、下流の土砂に埋没した。が、昭和44年(1969)に発見され、昭和45年(1970)12月、国道49号線の傍らの現在の場所に再建された。裏面は摩滅して一部判読できないくらいになったいる。
  • 〔所在地〕 東蒲原郡阿賀町岩谷


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