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八十里越 Hachijurikoe 三条市



🔗八十里越の歴史 🔗吉ヶ平に残る源氏落人村伝説 🔗戊辰戦争 🔗田代平湿原

八十里越は吉ヶ平(標高400㍍)から御所平・鞍掛山の難所を越えて福島県南会津郡只見町入叶津(370㍍)まで約八里(約32㌔)の峠道。八十里越の名は険しい道で一里が十里にも感じられたことからという。吉ヶ平から木ノ芽峠(八十里峠)までは古道を歩き、木ノ芽峠から先の古道はほぼ廃道に近く、新しく作られた八十里越新道を利用することとなる。

八十里越縦走路の起点は吉ヶ平にある吉ケ平山荘である。吉ヶ平は明治末期まで八十里越の宿場町としてにぎわった所でもあり、源氏の落人集落として知られた所でもある。

吉ヶ平自然体感の郷前を出発し守門川にかかる樽井橋を渡り、坂道を登っていくと約10分で『馬頭跡』の石碑があり、ここで登山道が二股に分かれる。左は雨生が池・番屋山へ続く。右が鞍掛峠へと刻まれている。
右へ進み鞍掛峠まで13.4kmである。右前方に守門岳がその全貌を現すが、『詞場』を過ぎ、鬱蒼とした杉林を抜けると正面に番屋山が見えてくる。登山道は番屋山の裾野を巻くように付けられている。沢沿いに岩が重なる登りとなり『椿尾根』に着く。そこから先は巻き道もある。山の神を過ぎ、少し登ると『番屋乗越』である。
ここからは左側に谷をおいて、所々急峻な斜面を歩く。つづら折りの道には、時折ショートカットの登山道が付けられている。
ブナ沢の手前のブナの林は下草があまり生えておらず、古道と登山道が入り交じっているので、マーキングを見落とさないようにしたい。烏帽子山を巻くように登山道は付けられ鞍掛峠へと続く。多少道幅もあり、左に粟ヶ岳を見ながら進むと、『火薬跡』に着く。張り出した岩を火薬で砕き、道を作った場所である。そこからはブナ沢に向かい下りが始まる。ブナの原生林の中は静寂が漂う。
『ブナ沢』から10分、番屋山から50分で『高清水沢』。高清水沢を過ぎると鞍掛峠への登りが始まる。ここから約20分、『空堀小屋跡』から『空堀』と呼ばれ道も広くほどなく丸倉からの道と合流する。右に烏帽子山の岩峰も見えている。
この先で急に道も細くなり、いよいよ鞍掛峠へ60分ほどの登りにかかる。細いヤブ道に変わるが、粟ヶ岳、八木ヶ鼻が開けてよく見える。
『桜の窟』『殿様清水』を過ぎ、急斜面を登りきると『鞍掛峠』である。ここは八十里越街道で最高の標高地点(965m)であり、越後と会津の中間点でもある。
破間川の上流に守門の袴腰が見え、正面にドッシリした黒姫山(1361m)が姿を見せる。草付きの岩場を進み山の端を出ると、鞍掛峠から30分ほどで『小松横手』に着く、ここは八十里越の代表的な展望台である。正面に浅草岳が姿を表す。

30分ほどで田代平入り口に着く。『田代平』入り口の標識を右折すると木道が続き田代平湿原に着く。ブナの原生林に囲まれた静寂な湿原は、数多くの花々が咲き誇り、また、秋には紅葉が素晴らしい。ぜひ立ち寄ってほしいものである。

五味沢林道との合流点を過ぎ、木の根峠入口の標識から30分くらいで県境の『木の根峠(八十里峠)』である。
『八十里峠(木ノ根峠)標高845.4メートル:左叶津16.0キロメートル・右鞍掛峠4.4キロメートル』と刻まれている。

峠からは、ブナに囲まれた登山道の緩やかな下りが続く。所々ぬかるみもある。『松ケ崎』には2本の大きな松の木と小さな祠がある。

化物谷地、朴ノ木沢、ナコウ沢を過ぎ、ブナ林の中をつづら折りの道を下り、国道工事の車の音が聞こえると、あとひと頑張りで『史跡八十里越へ』の石塔のたつ国道289号へ出る。

🔶木の根峠

〔標高〕 845m
〔所在地〕 魚沼市大白川
〔所要時間〕 吉ヶ平から約6時間
〔見どころ〕 木ノ根茶屋と八十里峠の案内標石がある
〔問い合わせ先〕
  • 0256-34-5511 三条市経済部営業戦略室観光係
  • 0241-82-5240 只見町産業振興課

🔶吉ケ平 「自然体感の郷」 ※ストリートビュー

〔所在地〕新潟県三条市吉ケ平169
〔特徴〕2015年9月12日オープン 旧街道「八十里越」の玄関口としてかつて栄えた旧吉ケ平集落で、キャンプや釣りなどを楽しめる観光拠点施設
旧分校を利用した吉ケ平山荘を取り壊し、新たな施設として建設される。
〔アクセス〕
  • 🚘…北陸自動車道 三条燕ICから国道289号にて約70分
〔営業期間〕 6月1日~11月15日
〔駐車場〕 30台
〔問い合わせ先〕 090-3226-5912 吉ヶ平管理組合
〔ウェブサイト〕https://www.city.sanjo.niigata.jp/sanjonavi/see_do/・・・

🔶城ノ腰の清水

昔から水が豊富だった下田地区の中でも、多くの湧水が点在する吉ヶ平。その一つ「城ノ腰の清水」は「吉ヶ平自然体感の郷」キャンプ場脇に毎分23リットルとかなりの水量が湧き出している。水源は守門岳登山道ドンデ平の山峡にあり、無数の湧水や沢が流れ込む湿地になっている。
険しい峠を越えて人々の疲れを癒してきたという。「吉ヶ平自然体感の郷」でも利用され、吉ヶ平集落が集団離村するまで生活用水に利用されていたという。
平成30年度(2018年9月10日)新たに「新潟県の名水」に選定された。
豪雪地帯の為「吉ヶ平自然体感の郷」がオープンするのは6月から11月まで。

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(八十里越の歴史)

栃尾市柿ノ木田遺跡出土の土器が、福島県の常世式土器に類似していることから、すでに縄文人がカモシカ道として利用していたのではないかと『栃尾市史』にある。

古く以仁王の伝説があるが、街道として整備普請を行ったのは天保14年(1843)の村松藩であった。村松藩では、南会津・只見郷と特産品や生活用品の交易をすすめ、藩の殖産を図ろうとした。明治年間には、八十里峠に茶屋もあって背負子で荷物を運ぶ人で賑ったという。(※現在茶屋跡の碑が残る)


≪吉ヶ平集落の終焉≫
明治期には県道として整備され、その後、大正3年(1914)、岩越鉄道が開通すると、生活道路であった八十里越は急速にさびれていった。
昭和45年(1970)、最後に残った19戸が集団離村し、その歴史を閉じた。(※航空写真)
尚、廃村時、椿家の住宅は新潟市の北方文化博物館内に移築された。当時の姿を偲ぶことができる。

※国道289号は、1970年(昭和45)に国道として認定された新潟県新潟市を起点として福島県いわき市に至る総延長約302kmの道路で整備が進められている。 このうち新潟県三条市(旧下田村)から福島県只見町に至る県境部分が「八十里越」であり、現在でも県境部分19.1kmは一般車両が通行出来ない「通行不能区間」となっている。
1986年(昭和61)、14のトンネル、16の橋からなる約20kmの新道を建設する事業が始められた。
289号国道の只見-新潟・三条間不通解消へ向け、三条市で救命救急センターを併設した県央基幹病院が開院する予定の2023年度を目標として工事が進められている。
国交省によると、八十里越が開通すれば只見町-三条市間は約1時間20分で結ばれる。現在は磐越自動車道と北陸自動車道を経由して約3時間、只見町と新潟県魚沼市を結ぶ252号国道「六十里越」を経由して約2時間かかっている。

〔八十里越を紹介しているサイト〕 三条市 国道289号八十里越


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≪吉ヶ平に残る源氏落人村伝説≫

治承4年(1180)源頼政は後白河天皇の第三皇子、高倉宮以仁王を奉じ平家打倒に挙兵したが失敗し、以仁王は宇治の平等院で頼政の子伸綱ともども戦死したと『平家物語』には記されている。
しかし、異説があって、伸綱が以仁王を守って会津の大内に逃れたという話がある。これによると、会津の大内に仮住まいしたあと、八十里越を越えて越後の吉ヶ平に落ちてきた。鞍掛峠の下を「御所平」、又番屋山は山頂に番屋を設けて平家の追っ手を見張ったことからきているという。伸綱が死亡すると以仁王は、乙部右衛門尉(椿家の祖とされている)を残し、吉ヶ平を離れ、加茂から村松を経て現在の阿賀町上川の中山集落で隠れ住んで、亡くなったと伝えられる。
一説では、加茂から越後国小国郷(現長岡市)に辿り着き、そこで生活したという言い伝えもある。
吉ヶ平には伸綱の墓碑(※地図)が、又上川の中山集落には以仁王の墓石(※地図 ※ストリートビュー )がある。


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(戊辰戦争)

八十里越は、幕末、越後長岡藩を率い、新政府軍に伍して戦った河井継之助を司馬遼太郎が歴史小説『峠』で取り上げたことで、一躍脚光を浴びた。2020年(令和2)「八十里越」を舞台にした映画が相次いで公開される。

慶応4年(1868)5月19日、新政府軍の奇襲によって長岡城が落ちると、藩主牧野忠訓と忠恭親子が家族同行で森立峠を越えて栃尾から葎谷に至り、吉ヶ平の庄屋椿家で1泊した。一行総勢およそ80人ほどであった。女物の着物など荷物がかさんだので、希望する地元の人に下賜するとしたが皆遠慮し断ったので、椿家の庭で焼却して、荷物を減らしたうえで八十里越の山道にむかったという。

7月29日長岡城が再落城し、また新潟町が新政府軍に占領されると、新政府軍に腹背から攻撃を受けることとなり、長岡城の恢復も望めないことが明らかとなり、奥羽列藩同盟の盟主として参陣した米沢藩越後方面軍総督千坂高雅は、見附の同盟軍本営で、諸隊の責任者を集め、各隊に見附本営への撤退を命じた。
また千坂は藩境防衛に方針を転換し藩兵に対して本国への総退却を命令した。千坂はその夜の内に森立峠を越え会津へ逃れたので、その後の同盟軍は指揮系統もなく、各藩、各隊毎に行動を決定することとなった。
村松藩はその日の内に敗兵を見附に集結させ兵をまとめて全軍村松へ引き揚げた。

8月1日、3000人を超える米沢藩兵は三条から八十里越を通って国にむかった。上山藩・仙台藩の応援兵も米沢藩にならって撤退した。新政府軍による攻撃が追撃戦となり杤尾や見附が新政府軍に占領されたことから同盟軍は三条に集結、下田郷に向かい吉ヶ平から難路八十里越を通って会津方面へ逃れる道が唯一の退路となった。
長岡藩は、旧領地を新政府軍に占領され恢復も見込めないことから、藩主のもとに向かうとして、家族も従えて八十里越を越えて会津に向かった。長岡藩兵は葎谷と遅場に陣を置き吉ヶ平に3日間とどまり、敗走してくる兵たちが集まるのを待って出発したという。
下田郷の森町より吉ヶ平までの間の村村に、敗走する兵士約4000人が止宿したという。
またこの日、同盟軍として戦った新発田藩は、見附到着の新政府軍(御親兵ー大和十津川郷兵)に謝罪嘆願書を提出し帰順した。

8月2日、新政府軍が下田郷に入ったとの情報があり、森町滞在していた同盟軍約7~800人も会津を目指した為、葎谷、遅場、吉ヶ平村は大混雑を来たし、八十里越は昼夜の別なく、病人・荷物・女中・子供を運ぶ藩士抱えの中間や、村で雇い入れた人足でごった返した。
長岡藩は幼児も生き延びさせるようお触れを出し、恥を忍んでも生き抜いて再起を図るよう指示していた。大雨の中、多くの長岡藩家中の婦女子は、道中、初めは草鞋ばきであったが、その後裸足で老母を背負う者、子供を抱いている者もあり、その惨状は米沢藩の記録によると「目もあてられざる由」とある。折悪しくこの年は長雨が続き、道はぬかるんで滑り、歩くのに難渋したという。疲れ果てた人々が道にうずくまり、石を枕に寝た。草鞋が擦りかけて血を流して歩く者や体力の限界から我が子を谷底に投げた母もいたという。
与板で戦った村上藩兵は新発田藩が裏切ったことからそのまま北進できず、八十里越から米沢藩を目指し、米沢から帰藩しようとしたが、時期的に村上城が新政府軍に占領されたため、庄内藩に向かった。
この日、三条まで進撃した新政府軍は五十嵐川を挟んで会津藩・桑名藩を主力とする同盟軍と激戦となり多くの死傷者を出した。戦いは3日未明まで続き、同盟軍は加茂方面に撤退したので、三条周辺は新政府軍の占領下におかれた。(☛ 五十嵐川の戦い)

8月3日、五十嵐川で戦った庄内藩兵は、新政府軍の追撃を避けながら、隘路を通って八十里越を越えて帰藩した。
この日、左脚に重傷を負った河井継之助が戸板で運ばれ、庄屋椿家で泊まり、八十里越を越えていった。河井は、山中で「八十里 こし抜け武士の 越す峠」という「腰抜け」と越後を越える「越抜け」とを掛けた自嘲の句を詠んだという。
また新政府軍は3日から8日にかけて同盟軍の敗兵にそなえて下田郷の森町・葎谷・遅場・吉ヶ平・篭場・大江に宿陣した。長州藩の一隊が吉ヶ平から八十里越に追撃をかけている。

この混雑も8月6日には収まり、会津・米沢・長岡ほか同盟軍は負傷者・病人とも残らず吉ヶ平を引き払い、八十里越の木の芽峠を越え、会津方面へ撤退した。
この間、長岡藩士とその家族および同盟軍兵士およそ1万5千人とも2万5千人とも記録される人が八十里越を通って会津へ落ちのびたという。そのうち長岡藩士は1,200から1,300人で、さらにその家族が4,000人程度いたという。
長岡軍大隊長の山本帯刀は殿軍を務め、自ら精鋭の3小隊を率いてに鞍掛峠に陣を置き、8月11日から26日まで新政府軍の侵攻を防いだ。
会津側の只見の村々は長岡から逃れてきた人たちでごった返したという。当時の只見地方は田子倉村から塩沢村まで8ヵ村で、総戸数わずか292戸の寒村であった。宿は勿論、食糧にも事欠いた状態であった。会津藩からの救援米もすぐに届かなかった。極度の食糧難から飲まず食わずで逃れてきた避難者の中には餓死する者もいたという。会津藩の野尻代官・丹羽族は越後から殺到する避難者の救助と敗兵への食糧の補給を藩から命じられ、只見代官所に常駐して食料の確保に奔走した。しかし、僅かな量保管した自分たちの食料を供出しようとする者は少なく、万策尽きた8月6日、丹羽族は責任を取って自害した。これを聞いて心打たれた村民たちは、丹羽の死に報いようと、わずかに残した翌年分の種もみまで提供し飢餓をしのいだと伝わる。只見では越後人を救った村民の行動を『命の種もみ』として語り継がれているという。
(☛河井継之助山本帯刀長岡藩の戦い)

丹羽族の墓

〔所在地〕会津若松市慶山2-7-23 大龍寺 (墓地整理により無縁墓域)

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田代平湿原

魚沼市五味沢の林道入口ゲートから進み、高石橋を渡る。破間川に沿って対岸に黒姫(1367.8m)を巻くように平坦な道を進んでいく。山側の法面をエゾアジサイが目の覚めるようなあいいろで飾っている。
約3kmほど先のよしが沢の橋から先、勾配が少しきつくなり、高度を稼ぐと、展望が開けてくる。林道終点の広場に至り、ここから湿原に入る木道を進む。田代平中心部の湿原は、周囲をブナの原生林に囲まれる。
湿原の北は田代山が囲み、南に黒姫、西に烏帽子が景観を引き立てる
湿原の植物はヤチスゲモウセンゴケ、所々にイワカガミコバギボウシ。湿原の中央を流れる流れる堀に沿ってミズバショウミツガシワトキソウなども見られる。
田代平は紅葉のシーズンには、湿原は狐色に枯れてしまうが、周囲の紅葉は見事なものである。

〔標高〕 880m
〔所在地〕 魚沼市大白川
〔所要時間〕 林道ゲートから約1時間30分
〔見どころ〕木の芽峠まで30分

🌌田代平のブナ林

湿原の北~東側を縁取るようにブナ林が存在する。五味沢から約6kmの林道を歩いた終点部は二次林に、そして湿原周囲から鞍掛峠にかけては天然林となっている。高木に光をさえぎられるような林床にはユキツバキが、光が届く林床にはチシマザサが生え、夏にはササ原を好むクロジがその優しいさえずりを聞かせてくれる。古来より山に暮らす人々とかかわりを持って生きてきたブナ林でもある。


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河井継之助



















































吉ケ平「自然体感の郷」 八十里越「木の根峠」 鞍掛峠 馬場跡石碑 林道入口