北方文化博物館 Northern culture Museum 新潟市



越後の蒲原平野には信濃川と阿賀野川の大河があり、阿賀野川沿いの新潟市江南区横越にある戸数三百余りの集落を「沢海」という。
ここ沢海の歴史は古く江戸時代の初期、慶長15年(1610)から77年間は沢海城という城があり、新発田藩の支藩で溝口氏11,000石のささやかな城下町として栄えていた。
沢海城の築城以前は囲いも堤もなく、洪水の際には一面が水に押し流され、水が引き落ちても窪地に水がたまり、沢のようになるので「沢海」と名付けられたと 言われている。
沢海は阿賀・小阿賀両川の分岐点で、大正期の阿賀野川河川改修前は、阿賀本流が東方焼山(現阿賀野川右岸地区)に迂回するので好固の舟着場でもあり、1700年以降六斎市も開設され在郷町となり、会津地方からの舟運はここを新潟商用の基地とした
その後、明治2年(1869)に藩籍奉還が行われるまで、沢海は天領となり、幕領小浜氏知行地で代官所が置かれた。

このような歴史の中、江戸時代中期、農から身を起こし、やがて豪農への道を歩み、代を重ねて巨万の富を築いていった一族が伊藤家です。
全盛期には、1市4郡60数ヶ町村に田畑1,370町歩を 所有し、越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていましたが、農地解放により広大な農地は伊藤家の所有を離れることになった。
この伊藤家の屋敷と住宅が、現在の北方文化博物館で、別名「豪農の館」と呼ばれている。
現在では、かつての城も代官所も、小浜時代の知行所も跡形もなく、ただ、かつて豪農の館、伊藤家だけが、昔の面影そのままに、数々の歴史を秘めて残 っている。

(伊藤家)

新潟県の千町歩を超える大地主は北蒲原の市島家、白勢家、斎藤家、中蒲原の伊藤家と南蒲原の田巻家5家あった。そのうち伊藤家は、明治期に千町歩地主の規模に達した、いわゆる「明治型千町歩地主」といわれる。
伊藤家は、初代文吉が宝暦6年(1756)、1町2反分余の耕地を譲られ、同村安ヱ門家から分家独立した百姓からはじまり、以降、代々文吉を襲名してきた。
1820年代から50年ほど質屋営業をする一方で、倉庫業を営み普通の蔵敷をとるとともに商品担保の金融も行っていた。伊藤家が阿賀野川と信濃川分岐する、小阿賀野川に隣接した位置にあり、新潟と会津間の海運の要衝という好立地点にあった。
領主層に対し資金を貸し付けるなど公の御用を務める地位となり、天領沢海の代官所用達となった。天保8年(1837)には苗字帯刀御免となった。幕末期まで地主というより、金貸業を主力として財を蓄積していったが、相当の蓄積を遂げ、これが明治以降の成長の原動力となった。
地主規模としては、慶応4年(1868)の土地所有は20町歩余りと記録するが、明治4年(1871)116町歩余、同8年(1872)頃に122町歩余であったものが、その後急速に蓄積を伸ばし、明治23年(1890)には747町歩、明治34年(1901)にはすでに4郡50ヶ村で1063町歩の千町歩地主に達した。明治41年(1908)1348町歩まで拡大。農地改革に近い昭和19年(1944)調査では1372町歩と、県下最大規模の地主となった。
伊藤家の土地集積は、貸付をし抵当流れによって農地を取得する金融によるもので、安田の斎藤家の例と共通している。その土地集積の対象地域も広く、中蒲原を中心として北蒲原、西蒲原、南蒲原など蒲原平野全体に及んでいる。
伊藤家は市島家の幕藩型千町歩地主ではなく、明治期急拡大した明治型千町歩地主といわれる所以である。
小作料は契約額より検見取立決定額が重んじられ、取立決定額からの減免は厳しく抑制され未納は貸し米として延納させるか、訴訟による取立が方針で、伊藤様の取り立ては厳しいとされた。
家訓に「土地は下田を買え」とあるように、下田地改良や開田の指導推進を行った。他面地方経済への投資も多く、着実な実業的側面への投資が多かったとされる。
土地集積については、大正8年(1919)以降は急速に停滞の傾向に向かった。かわりに土地投資に変えて有価証券投資による株式等の蓄積に向かっていったとされる。
太平洋戦争による農地解放で、伊藤家の決定的没落を救ったのは、大正期後半から土地投資に変えて行った有価証券投資による株式等の蓄積であったといわれる。その点、邸宅まで人手に渡った安田の斉藤家とは決定的に異なっている。

(伊藤文吉邸)

現在北方文化博物館として公開されている邸宅は、伊藤家五代文吉によって、明治15年(1822)から22年(1889)まで、8年の歳月をかけて明治22年(1889)に完成した。重厚な土蔵門、見上げるような大玄関は、見る者を圧倒するように迫る。江戸幕藩時代の趣を残す市島家の玄関とは、対照的ですらある。
大工の棟梁は、斉藤金蔵という人で、文吉は棟梁の8年間の労苦と見事な出来栄えへの感謝として、祝儀とは別に、田3反歩と山林3反歩を贈ったと伝えられている。
8,800坪の敷地に1,200坪の日本式建築の構成で、庭園は鎌倉時代の古式に沿って築造されている。邸内に散在する茶室は、幕末柏崎出身の茶人松村宗悦の建てた積翠庵や、はるか佐渡を望めるという佐渡看亭ほかがあり、すべて三角に設計された三楽亭は居宅続きにある。各種茶会も多く催されている。
(案内図)

(建築)

敷地面積29,000㎡に、延べ面積3,900㎡の建物群が並び立つ。総欅造り、唐破風の大玄関をつけた本座敷棟、主屋のの丸桁に長さ30mに及ぶ杉材を使うなど、明治20年頃に建築された豪農屋敷の威容を余すところなく伝えている。

(庭園)

銀閣寺の庭を手掛けたことでも知られる柏崎出身の名庭師田中泰阿弥が1954年から1958年まで5年かけ完成させた。庭園の四季折々の美しさは感動的だ。百畳敷きの大広間から臨む大庭は、モミジが色づく秋には、特に色鮮やかで風流だ。


(北方文化博物館)

戦後農地改革に際して、財産税物納農地815町歩、自作農創設臨時措置法による政府買収107町歩などで、昭和23年(1948)12月には、自作地1.5町歩、保有小作地1町歩の形となる。
おびただしい巨大地主が姿を消したのに対して、伊藤家は博物館として遺構を残す方針をとった。
昭和21年(1946)に七代当主の手によって逸早く財団法人史蹟文化振興会(昭和24年(1949)に「北方文化博物館」と名称変更)が設立され、財団法人としての寄附行為が認められて、今日その全貌を残すことができた。
博物館は沢海の本館のほかに、付属施設として新発田に清水園、新潟市中央区に新潟分館をもっている。それらの施設自体も伊藤家に属していたわけで、大地主の生活規模を示すものと言えよう。
所蔵資料は美術品・考古・民芸民具・文書資料など豊富である。博物館の一角にある民芸館では特に蒲原平野の農民生活の歩みを知ることが出来る。そこにはとうに失われた、かつての蒲原の農家の生活がそのまま息づいている。


☯平成12(2000)年4月28日、主屋をはじめとした主要建造物計26件について、国の登録有形文化財に登録された。
☯映画のロケ地として利用されている。最近では、平成19年(2007)公開の「椿三十郎」や、令和2年(2020)公開予定の「峠 最後のサムライ」で撮影が行われた。
☯2021年1月10日、大雪の影響で樹齢150年の藤棚の8割が倒壊する。この年、花の咲く時期までに奇跡的に復旧成される。
☯2021年2月12日、所さんのそこんトコロSP 『【開かずの金庫2連発&秘密の扉からお宝続々】』テレビ東京で良寛詩書屏風などが紹介される。


財団法人北方文化博物館
  • ❏〔所在地〕新潟県新潟市江南区沢海2丁目15-25
  • ❏〔問い合わせ先〕 025-385-2001
  • ❏〔アクセス〕
    • 🚅…JR新潟駅よりタクシーで約25分
    • 🚅…JR信越本線「新津駅」よりタクシーで10分
    • 🚘…日本海東北自動車道「新潟亀田IC」より車で15分
    • 🚘…磐越自動車道「新津IC」より車で6分
  • ❏〔営業時間〕 ・4月~11月 9:00~17:00 ・12月~3月 9:00~16:30 ※定休日なし
  • ❏〔入館料〕 有料
  • ❏〔駐車場〕 400台
  • ❏〔宿泊施設〕豪農の宿 大呂菴
  • ❏〔見どころ〕

    • 豪農の館の大藤
      樹齢約150年。幹周り1・6メートル以上の一本の木から紫の房を垂らす80畳ほどの藤棚の下で、甘い香りを楽しめる。夜には藤棚がライトアップされ、庭園を美しく彩る。
      〔見ごろ〕 5月中旬


    • 古代ハス
      千葉市の縄文遺跡発掘現場から発見された種子を、植物学者の大賀一郎博士が1951年に発芽、翌年開花に成功した大賀ハス。このハスを2009年から栽培しています。
      〔見ごろ〕7月上旬から咲き始め10日ころから

    • 🔹椿家住宅(吉ヶ平民家)
      江戸時代中期から後期にかけて建てられたもので、木造平屋建、寄棟、茅葺(曲り部分は板葺、石置き)、平入、建築面積97㎡。集落が廃村になった際、椿家から寄贈され敷地内に移築保存された。


    • 紅葉
      〔見ごろ〕 11月中旬 ※見頃に合わせてライトアップが行われる

  • ❏〔周辺の観光施設〕
  • ❏〔HP〕http://www.hoppou-bunka.com/top.html

  • 月期間 期間 藤→ 期間 古代ハス→
  • ❏〔交通情報〕
  • ❏〔北方文化博物館の関連施設〕












Northern culture Museum

It was built in 1889 over a period of eight years as the main residence of the Ito family,one of Niigata's leading landowners from the Meiji to Showa periods. It is a purely Japanese-style residence with 65 rooms,a storehouse-style gate,a grand entrance with a full-zelkova style karahafu,and a 30-meter-long cedar round girder. The residence and collected art works are open to the public as a museum. The garden is a masterpiece of Niigata-born gardener Tanaka Taiami.


















北方文化博物館 正門入口 常夜燈 三楽亭 集古館